♪38 Rosy Brown
車を降りる時に勢いで繋いでしまった手を、このまま繋いでおくべきか、はたまたどうにか自然な流れで離すべきなのかを。
幸い
しばし、手を繋いだまま賑やかな駅前通りを無言かつ俯き加減で歩くという奇妙な事態に陥った。
アキは絶対こういう経験ないんだから、俺がリードしなくちゃなんだよなぁ。っつっても、俺、こんなにも『初めて』の女を連れまわしたことなんてないぞ。
そんなことを考えながら。
そもそも目的は、まず晶の化粧を見て、おかしくないかチェックし、その状態で顔を上げることに慣れる、なのだ。それに、もしおかしいところがあれば適当な店に入って直してもらう必要もある。
確か、前の彼女はデパートの化粧品売り場で直してもらっていたはずだ。あの時は何か買ったんだったか……?
とりあえず、デパートに入るか。ここでうろうろしてても始まらないだろう。
そう思ってぐるりと見回し、目星をつけると、そこに向かってずんずんと歩く。端から見れば完全に『引っ張って連れ回している状態』である。
無我夢中の章灯がそれに気付いたのは、繋いだ手が軽く引っ張られた時であった。
「――うん?」
立ち止まって振り向くと、下を向いてぐったりしている晶の姿がある。
どうした、と声をかけようとして晶の足が目に入り、しまった! と頭を抱えた。
普段の晶も決して早足というわけではないものの、いつもはスニーカーや踵の低い男物のブーツである。しかし、今日は一目で女物とわかるヒールが細めのブーツを履いている。慣れない靴で歩きづらかったのだろう。
「すみません……、ちょっとだけ……休憩……させてください……」
途切れ途切れに言う晶を、通行人の邪魔にならないよう、建物と建物の間へと誘導する。
「ごめん……。アキのペース無視しちまって……」
すまなそうに言うと、晶は慌てて顔を上げた。
「――いえ! 章灯さんは悪くな……」
そうしてそこまでしゃべってから、章灯が自分を凝視していることに気付くと、再び顔を伏せた。
「……ないです」
「あっ、おい、下向くな。ちゃんと見せろ」
章灯は晶の頬を両手で挟んで顔を上げさせた。晶の顔は既にゆでダコのように真っ赤になっている。
「うーん、変ではないけど……。あんまり変わんねぇっつーか……。ていうか、化粧って、何したんだ?」
様々な角度から顔を眺めた後でそう述べ、手を離すと、晶はまたすぐに下を向いた。
「ファンデーションを塗って……、リップを……少々……」
「成る程。俺もそんな詳しい訳じゃねぇけど、あの、ほら、目の回りに塗るやつとか、そういうのはやってないんだな?」
そう尋ねると、晶は下を向いたまま小さく頷いた。
「たぶん、あの2人のことだから……気付かないんじゃねぇかなぁ……。せっかくだし、バシッとやってもらおうぜ」
そう言って背中を軽く叩くと、その衝撃で晶は軽くよろめき、顔を上げた。
「やってもらうって……、どこでですか?」
その不安そうな表情を見て、章灯はニヤリと笑った。
「行くぞ」
自然と左手が伸びる。晶もまた自然にその手を取った。そして今度は晶の歩調に合わせてゆっくりと目当てのデパートへと歩いた。
晶にはなかなか縁のない華やかなフロアである。
そこは輸入化粧品の店が多く入っており、店の前を通る度に営業スマイルを貼り付けた美容部員が近寄ってくる。正直なところ、章灯もどこのブランドが良いなどはわからない。あー、これこないだの特集で見たなぁ、なんて思いながら、ただただ、晶のイメージに合う美容部員をひたすら探し回った。「迷ったら、自分のイメージに合う美容部員さんを探すの」と昔付き合った彼女がそう言っていたのだ。章灯からしてみれば『メイクのプロ』に見えた当時の彼女も、自分の方向性に関しては日々模索中だったらしい。
あまりカラフルじゃなくて、落ち着いた感じで、そんでもってアキの顔を引き立ててくれるような……。
速度に気を付けながら、ぐるぐるとフロア内を歩き回ると、自己主張の強い店々が乱立する中にしっとりとした雰囲気を漂わせている美容部員を発見した。晶ほどではないものの、すらりとした長身で、すっきりとまとめられた黒髪が美しい。店も黒やブラウンを基調にしており、落ち着いた雰囲気である。
――ここだ。
章灯は『
「いらっしゃいませ」
例の店員が、その雰囲気そのままに落ち着いた声で話しかけてくる。若い男が単身で乗り込んで来ても、特に動じる素振りもない。
「あの、すみません。あそこに立ってる……連れなんですけど、化粧品一式プレゼントしたくて」
出来るだけ声を落としてそう伝えると、
「化粧とかまったくしたことないやつなんで、ここでちょっとやり方とか教えてやってもらえないですか? 使ったやつ全部買うんで」
「かしこまりました。スキンケアの方はどうなさいますか?」
「スキンケア……。良くわかんないっすけど、店員さんが必要だと思ったらそれもつけてください。あと、買うとかは連れには内緒で!」
人差し指を口に当て、内緒、というポーズをすると、三木も同じポーズをしながら「内緒ですね。かしこまりました」と言った。
話がまとまったところで、不安そうな顔をしてこちらの様子を気にしている晶を手招きする。晶は店内をキョロキョロと不安げに見回しながら歩いてきた。
「全部伝えてあるから、お前は黙って座ってろ」
「……はい」
「出来上がりのイメージとか、ございますか?」
三木はカウンターの前に座った晶の首にケープを掛けながら尋ねたが、指示通りに黙ったままだ。そんな晶を見かねて章灯が口を出す。
「こいつに似合えば何でも良いです。元は良いと思うんで、それを活かしていただけると」
そこまで言って鏡越しに晶を見たが、目があった瞬間に逸らされてしまう。
「アキ、終わったら連絡しろ。変身の過程は男が見るもんじゃねぇしさ。じゃ、すみませんがよろしくお願いします」
そう言って、依然として不安そうな目を向ける晶にやや後ろ髪を引かれながらも店を出る。三木は丁寧に頭を下げていた。
さて、どれだけ化けるかな。
晶からの着信があったのはそれから30分後だった。これは女の化粧として果たして長いのか短いのか、章灯にはわからない。ただ、前の彼女と比較すれば短いかもしれない。
ドキドキしながら男性向けのセレクトショップを出て、『Rosy Brown』へと向かう。
コガさんもオッさんもびっくりするだろうな……。
目を真ん丸にして晶を取り囲む2人の姿を想像してほくそ笑む。そしてもちろん、その中心で顔を赤らめ俯いてしまうであろう晶の姿も容易に想像出来た。
「どうも――……」
そう言いながら店に入ると、カウンターに座ったまま背を向けている晶と、背筋を伸ばしてこちらを見て微笑んでいる三木の姿がある。この表情からして、出来は良いのだろう。
三木は優しく晶の肩を叩き、章灯が迎えに来たことを伝えている。晶の肩がぴくりと動き、背中を向けたまま椅子から降りる。章灯はそれをその場から動かずに見守った。
くるりとこちらを向いた晶は、相変わらず俯いており、出来上がりはいまいちわからない。
晶の背中が自分に向いたことを確認して、三木はあらかじめ準備しておいた紙袋に、使用した化粧品の新品の箱を手早く詰める。どうやら代金の計算はしてあったようで、ちらりと章灯に視線を合わせ会釈した。ひとまず晶はこのまま放置しておくとして、商品の受け取りと支払いを済ませてしまうことにする。
「アキ、ちょっと店の外で待ってろ。俺ちょっとこの人と話あるから」
そう言うと、晶は下を向いたままおとなしく店を出た。それを見届けてからカウンターへ向かうと、すっかり準備が出来た様子の三木が電卓を差し出す。
「どんなもんですか? 何かちゃんと見てないんすけど」
ごそごそと財布を取り出しながら尋ねる。
「先ほどお客様も仰っておりましたけど、元々整ったお顔立ちでしたので、特別なことはしておりません。でも、ぐっと大人の女性らしくなられたと思いますよ」
「大人の……女性ですか……」
まだ見てもいないのに、その言葉にどきりとする。
代金を支払うと、三木はわざわざカウンターを出て、紙袋を店の外まで運ぼうとする。それを丁重に辞退して受け取ると、それは大きさの割に軽かった。
「スキンケアの方は、いろいろお持ちだと伺いましたので、試供品を入れてあります。もし、お肌に合うようでしたら、ご検討をお願い致しますとお伝えください」
そう言って、三木は丁寧に頭を下げた。
「お待たせ」
背中を向けて立っている晶の肩を軽く叩く。晶は会釈するのみで一向に顔を上げようとはしない。
とりあえず、紙袋を右手で持つと空いた左手で晶の手を取り、人気の少ない非常階段まで誘導する。
階段の踊り場で、章灯はこういう事態を想定して準備してあった『とっておきの一言』を放った。
「――アキ、近くにな、結構でかい『楽器店』があるんだけど……どうする?」
あれだけギターを愛する晶だ。きっと喜ぶだろうと、場所は確認済みだ。
「楽器!」
案の定、目を輝かせて晶は顔を上げた。
「……やーっと顔上げたな。――おっと」
ニィっと笑って、再度俯くのを阻止するために両手で頬を挟む。せっかくの化粧が崩れないように、優しく。
三木の言う通り、特別なことはしていないのだろう。形よく整えられたまゆ毛に、隙間を埋める程度に入れられた細めのアイライン。漆黒の羽を広げたような長い睫毛。品良くグラデーションされたブラウンのアイシャドウは、ラメが入っていないためか自然な仕上がりで、チークもおそらくしているのだろうが、頬が真っ赤になっているため、判断が出来なかった。いつもとそう変わらない晶の顔なのに、なんだかぐっと『女』に見える。
全体的にマットな仕上がりの中でひときわ艶のあるベージュの唇がゆっくりと開く。
「あの……。恥ずかしいんですけど……」
顔を上げた状態で目を伏せ、ささやくように晶が言う。その表情も妙に色っぽく、唇を奪いたい衝動に駆られる。たぶん、実行に移してしまえば、それだけでは済まない。歯止めが効かなくなることは明白である。沸きあがるその衝動をぐっとこらえ、手を離す前に「ぜんっぜん変じゃねぇから、絶ッ対に下向くな。もったいねぇから」と絞り出すような声で言った。晶は、何やら苦しげな声で言う章灯を心配そうな目で見つめた。
「どうしたんですか、章灯さん?」
どうもこうもない。お前が色っぽすぎるんだとは言えない。今度は章灯が顔を背け、左手で目を覆った。耳が熱い。
赤くなった顔を隠すため、右手に持っていた紙袋を晶の顔の前に突きつける。
「――これ!」
「これ……さっきのお店の……ですか?」
「誕生日のプレゼント。毎日とは言わねぇけど、プライベートで外に出る時くらいは化粧しろ!」
そう言ってぐいぐいと晶の手に押し付け、無理矢理受け取らせた。
「でも、プレゼントはこないだケーキを……」
「そ、それは、誕生日って知らない状態で買ったから無効なんだよ、無効! 良いから、たまには女に金使わせろって」
ぶっきらぼうにそう言うと、晶は驚いたような顔で固まっていたが、すぐににこりと笑った。
「わかりました。ありがとうございます」
章灯の顔の赤みも落ち着き、2人はゆっくりと楽器店に向かって歩く。晶の速度は完全に把握したから、と自分に言い聞かせ、手は繋がなかった。本当は歯止めが効かなくなることを恐れて、だ。自分自身をかなりきつく律さなければ、簡単に理性のたがを外してしまいそうだったのである。それほどに、女になった晶は魅力的だったのだ。
「そういえば、章灯さんの誕生日はいつなんですか?」
そんな章灯とは対照的に、晶は幾分か会話を楽しむ余裕が出てきたらしい。
「俺、どの季節生まれだと思う? アキは何となく冬生まれって納得なんだよなぁ」
なるべく視線を外してそう言うと、晶は口を固く結んで拳を顎に当て『考え中』のポーズだ。
「章灯さんは……どちらかというと暖かい季節な気がします」
「おお、良いね」
「春か、夏か……」
「さて、どっちだろうねぇ」
「……夏、ですかね」
晶は、横目で章灯の反応を伺いながら言った。
わざと少し間を持たせて、焦らしてみる。
「正解。俺、7月10日なんだよなぁ……」
「……納豆の日」
「そう、それ言われるから、あんまり好きじゃないんだよなぁ、誕生日」
苦笑しながら言うと、「プレゼントに納豆のパターンもありましたか?」と晶もつられて笑う。
「当たり前だろ。いまだに局の人からはそればっかりなんだからな。俺へのプレゼントは絶対に納豆禁止だぞ」
人差し指を立てて、念を押す。晶はクツクツと喉を鳴らして「わかりました」と言った。
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