魂の底

 桜緋の状態は芳しくない。この状態で人の子の魂に潜り込むなど、やっていいわけがない。桜緋への負担が大きすぎる。下手をすれば、桜緋を構成する霊体が崩壊して、その間ま消滅しかねない。

 梅妃はそう思ったが、ここで無理に引き剥がすと桜緋と城ヶ崎双方の魂が損傷する。千尋の傍について大人しく、この事態を見守るしかなかった。


「全く、無茶をする……戻ってきたら、説教じゃぞ。桜緋や」


 ***


 魂の記憶というものは、本人の自覚をも超える。一族の血脈、時を超えた前世の記憶までもが魂には刻まれている。

 それを覗くには自らを霊体化し、魂の深部まで侵入する必要があった。

 青白い光の回廊を進み、奥の扉を押し開く。重厚なそれを開けば、魂の底に刻まれた記憶が現れる。


「これは……」


 桜緋の霊体は大きな湖のような記憶の中へと沈んでいく。桜緋の呼吸によって生まれる大小の泡に、見たことのない情景が浮かんでいる。桜緋は魂の底に秘められてきた記憶を身をもって体験し始めた。


 ***


 日当たりのよい野原に、一人の娘が座り込んでいる。ぬばたまの黒髪は腰まであり、飾り紐で括られていた。緻密な細工のあしらわれた装飾具を身に付けている娘は、身分ある家柄の出だろうと思われる。実際、野に咲いた花々で遊ぶ娘の背後には護衛と思しき男が一人、娘の遊びを邪魔しないよう静かに控えていた。


「ねぇ、見て!」


 ぱっと娘が男を振り返って、手の中にある花冠を見せた。年の頃は十を過ぎたくらいだろうか。まだまだ声音も言動も幼さが目立つ。


「初めて上手くできたの」

「それは良かったですね、姫。屋敷に戻られてから、是非奥方様にお見せ致しましょう。きっと、お喜びになられますよ」

「もぅ、なんでそんな堅い言い方しかしてくれないの。私が赤子の頃からずっと一緒なのに」

「私は姫を護るため遣わされた者。姫と対等に話して良い立場ではないのです」

「難しいことはよくわかんない。でも、ずっと一緒なのに仲良くしちゃいけないなんて、絶対おかしいわ」

「姫、どうかお聞き入れを」


 恐らくこれは普段から日常的に行っているやり取りなのだろう。男は娘の懸命な言葉をあっさりとあしらってしまう。しかし、男は微かに笑っていた表情をサッと引き締めた。


「どうしたの……?」

「姫、私の後ろに」


 野原の向こうに森がある。とても、深い森だ。木々の影から二人の様子を窺う影がいる。


「また現れたか!」

「きゃっ」


 男が腰に差した刀を抜き、森から影が躍り出る。


「破ッ!」

「っ……!」

「姫、暫しのご辛抱を」

「う、うん……っ」


 黒い影。その気配は桜緋もよく知っている。しかし、この影は知っている奴らよりも、より濃厚な……

 桜緋は記憶の波に否応なく流されていく。


 ***


 今度は闇だった。といっても、この闇は悪しきものではない。温もりのある、安らげる闇だ。思わず微睡んでしまいそうな心地良さがあった。


「……ねぇ」


 くぐもった女の声がする。


「私、やっぱり怖いの」

「どうした?」


 近くに男もいるのだろう。聞き取りにくいが、男特有の低い声が耳朶を叩く。


「この子が私の血を濃く継いでしまったら、きっととても大変な思いをするわ」

「大丈夫。僕が君の傍にいる時は何も起こらない。だから、大丈夫だ」

「あなた……」


 視界が切り替わる。女の魂が揺らめく炎となって、桜緋の前に現れた。その色は、先程見た娘のものとよく似ている。そして、その色は城ヶ崎とかいう千尋の知己のものにも、よく似ていた。


 ***


「桜緋、大丈夫かな……」


 桜緋と城ヶ崎が倒れて数分が経つ。桜緋は城ヶ崎の上に重なるようにして倒れ込んでいた。

 千尋は梅妃の後ろに庇われた状態のまま、事態を見守ることしかできない。それは梅妃とて同じだ。


「大丈夫と言うたのは桜緋自身。その言をわっちら信じるしかないじゃろうて」

「そうだけど……」

「千尋や」


 不安そうな千尋を梅妃が苦笑混じりに振り返る。


「ぬしだけは、あれを信じてやりんす。でなければ、あれは報われん」

ひめ……」


 城ヶ崎の上に重なった桜緋の身体がビクリと震えた。に戻ってきたのかと思ったが、少し様子がおかしい。桜緋の身体が小刻みに震えているものの、起き上がる様子は全くないのだ。痙攣するだけの肉体は不自然で、尋常とは思えない。千尋は背筋にゾクゾクと嫌な予感が這い上がってきて青ざめた。


「妃、これまずくない……!?」

「ああ、そうじゃな。静観しておる場合ではなくなったようじゃ!」


 梅妃が手に持っていた扇を一振する。すると、一瞬でそれに武装が施され、優雅な小物であった扇は戦闘向けの鉄扇へと姿を変えた。日常使いも可能な梅妃愛用の武器である。


「千尋よ。其方、自らの得物は持ってきておるか」

「えっと……」


 今朝方、水黎に大慌てで連行されて組合に来た。確か、水黎の焦り方を見て千尋も焦って、とりあえず寝巻きから着替えることにしか頭は回らず……


「ごめん、家に置いてきた……」

「……仕方あるまい。このような事態は想定外じゃ。得物なしで自衛せい。良いな?」

「得物なし……って、えぇ!?」

「何を驚いておる。異空間内にいる私らを見つけ出せたじゃろう。霊気の扱いは以前よりも格段に上がっておる。案ずるな、ぬしの手に余りそうなものは私が防ぐ」

「わ、わかった」

「気張れよ、若造」


 まるで桜緋と話しているようだった。激励の仕方も、スパルタなところも、前に立って守ってくれるところも。何もかもが、桜緋に似ていた。


「妃って、桜緋とどのくらいの付き合いなの」

「今そんなことを聞くかえ?」


 思わず聞いてしまった。案の定、梅妃は呆れ顔で、こちらを振り返った。

 しかし、呆れつつも案外素直に答えてくれる。そんなところも、桜緋と同じだ。


「そうじゃな……ざっと八百年といったところかの」


 梅妃は前を向き直し、桜緋の肌が急速に灰色に変色していく様を至って冷静に見ながら付け加えた。


「ただの、腐れ縁じゃよ」

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