急報        同日 一四〇〇時

 それからおおよそ二時間のあいだ、NA一七船団の航海は概ね順調に進展していった。荒れ狂う波や強風、そして寒さを相手にしながら、目的地までの距離を少しずつ着実に縮めていく。

 幸いなことに、敵艦との遭遇は今のところ皆無である。悪天候との戦いは依然として続いているが、それでも襲撃によりフネが沈むような事態に陥るよりは百倍マシというものだ。船員たちは生き残れた喜びを噛みしめつつ、各々の配置でその職務を果たしている。無論それは船団本隊の商船だけでなく、その周囲を取り囲む第一〇一護衛戦隊の面々も同様であった。

「船団指揮船より発光信号。『船団第二列、中央部の列整理が完了せり。戦隊の協力に感謝す』以上です」

 信号員からの報告を耳にすると、リチャードは言った。

「ご苦労、指揮船に応答の旨を伝えてくれ」

「分かりました」

 信号員は副長の指示にそう答えると、固定式の信号灯をカチカチと点滅させて船団指揮船へ返答を送り始めた。今度は右舷見張員からも知らせがはいる。

「〈ゲール〉、船団中央から離れます。船団右翼の配置に戻りつつあり」

「了解した」

 リチャードは見張員の知らせに頷くと、白い息を吐きだしながら溜息をついた。

 飛行艇が遠方での哨戒を受け持ってくれたことで、第一〇一戦隊の負担は確かに軽減された。しかし、だからといってリチャードたちが仕事を怠けていい訳ではない。敵潜水艦が上空から注がれる監視の目を逃れて接近してくる可能性があり、まだまだ気を抜くことは許されない。そして、今のように船団の運航支援に駆り出されることもある。つまりやるべき仕事はいくらでも存在するのだ。

 また、最初の報告の後にもたらされた本国からの知らせを、リチャードは気にかけていた。別働隊に所属する空母から発艦した偵察機によれば、追撃している帝国軍艦隊の陣容が当初のものから僅かに変わっているとのことである。少なくとも重巡一隻、そして数隻の駆逐艦が姿を消しており、現状ではその位置を確認できていないと通信文には記されてた。

「ハッ、クション!」

 突然、誰かがクシャミをした。それまで静かだった艦橋に響いた大きな音に、その場にいる将兵たちは驚いて周囲を見回しはじめる。声の主は、当直士官を勤めているパークス大尉であった。

「大尉、だいじょうぶか?」

「大丈夫です、すいません」

 リチャードが心配して尋ねると、パークス大尉は恥ずかしげな表情で鼻をズルズルいわせながらそう答える。艦橋中央部にあるラッタルから、足音が聞こえてきたのはその時であった。

「失礼します、艦長はいらっしゃいますか?」

「艦長なら、部屋でお休みになられているぞ」

 リチャードがそう言って相手を確認すると、顔を出したのは〈リヴィングストン〉の通信長であった。

「どうかしたのか?」

 通信長の姿を見たリチャードは、片方の眉を吊り上げて怪訝そうな顔をした。おそらく通信文を届けに来たのだろうが、わざわざ彼女が来るのは珍しい。普段は通信室付きの伝令兵を使うし、なおかつ余程のことがない限りは、艦内電話でのやりとりで済ませることが多いからだ。

「通信を一件受信したので、艦長にご確認いただきたかったのですが……」

「見せてみろ」

 リチャードはそう言うと、通信長が手にしている紙を受け取った。不安そうな顔をしている彼女の様子を不思議に思いながら、その内容に目を通す。

「……これは、俺が艦長室に持っていこう。通信長は部署に戻ってくれ」

 通信長が分かりましたと答えると、リチャードはパークス大尉に艦橋を離れると伝えてラッタルのほうへ歩いていった。


 艦長室を目指すリチャードの足並みは、かなりゆっくりとしたものであった。表情も穏やかで、途中で部下とすれ違うと笑顔で敬礼して通り過ぎる。しかし、それは目的地につくまでのことであった。

 艦長室の前に辿り着くと、リチャードは扉をノックした。少し間をおいてホレイシアがどうぞと答えた途端、彼は慌ただしく部屋に入る。その顔は眉間に皺が寄り、通信長ほどではないが不安感が強く出ていた。

「艦長、お休み中に申し訳ありません」

 リチャードはそう言うと、上官へ手にしていた通信文を差し出した。衣服を整えてベッドに腰かけていたホレイシアは、不審そうな表情でそれ受け取って読み始める。目を通していく間に、彼女の表情はみるみるうちに驚きに満たされていった。

 通信文を読み終えて顔を上げたとき、ホレイシアの両目は大きく見開かれていた。

「副長、海図と航海記録をここに持ってきてちょうだい。一〇分後、幹部士官たちをここに集めて話をするわ」

「分かりました、すぐお持ちします」

 リチャードは頷くと、資料を用意すべく部屋を後にした。それを見送ったホレイシアは、再び通信文へと目を向ける。発信したのは偵察任務を帯びて北方海域に展開した潜水艦、その一隻であり、内容は以下の通りであった。


 一三四八時発信、緊急電

 発 潜水艦S-七五

 宛 NA一七船団

 一、本艦は哨戒任務中、一三三〇時に重巡一、駆逐二よりなる帝国軍水上艦隊を発見せり。(以下、発見地点の位置情報)

 一、当該艦隊は北北西方向に針路をとりつつあり。貴船団に対する襲撃行動を企図している公算大と判断す。警戒の要あり。

 一、敵艦隊発見の報は本国艦隊へ既に通報済み。同艦隊司令部および海軍本部からの指示を待たれたし。幸運を祈る。

                                    以上


 それから一〇分後。艦長室に集まった〈リヴィングストン〉の幹部士官たちを、ホレイシアはふたつあるソファに分かれて腰かけさせた。彼女は執務机に備えられた椅子に座ると、通信文を手にしてその内容を読み上げはじめる。ホレイシアが通信文を読み終わったとき、彼女とリチャードを除いた全員がしばらくのあいだ呆然としていた。

 僅かな間をおいて、航海長のジェシカ・シモンズ大尉が口を開いた。

「つまり敵艦隊の一部が、こちらに向かいつつあるということですか?」

「その通りよ」

 ホレイシアが簡潔に答えると、部下たちはみな一様に絶句した。彼女は話を続けた。

「この敵が発見された場所は、船団の現在地からみて南東約七〇海里に位置しているわ。レーダーや友軍機の監視も考慮すれば、こちらの探知範囲内まで三〇海里ほどしか離れていないことになるわね」

 上官が発した言葉の意味を、幹部士官の面々はすぐさま理解した。敵艦隊はNA一七船団の間近に迫っており、いつ見つかってもおかしくないのである。ソファの前のテーブルには紅茶を注いだマグカップが置かれているが、彼女たちはそれをほとんど口にすることなく放置するままにしていた。

 ホレイシアが黙りこくると、今度はリチャードが言葉をつないだ。「針路や速力にもよるが、我々は本日中にこの艦隊と遭遇することになるだろう。早ければ日没前後、つまり一六〇〇時から一七〇〇時ごろに会敵する可能性もある。各員は戦闘にそなえ、それぞれの部署で準備を進めておいてくれ」

「ということは、まさか……」

 シモンズ大尉がそう言いかけると、ホレイシアは右手でそれを制して強い口調で断言した。

「そのまさかよ。敵艦隊を確認し次第、第一〇一護衛戦隊はこれを迎え撃つわ」


「……あとは、待つだけね」

 ホレイシアはそれまで咥えていた葉巻を口から離して、小さくそう呟いた。状況説明と打ち合わせは既に終わり、幹部士官たちは退出したため、ここにいるのはソファに腰かけている彼女だけだ。時刻は、一五〇〇時を少し過ぎたところである。

 そのまましばらく葉巻をくゆらせていると、不意に扉をノックする音が聞こえてくる。入ってきたのはリチャードであった。

 リチャードは姿勢をただして上官に報告した。

「船団指揮船への連絡、終わりました。あちらでも通信を受信できていたようで、既に状況は把握しているとのことです」

「ご苦労さま。戦隊各艦のほうはどうかしら」

「レスリー、ローレンスの両艦を介して、左右に展開している各艦へ順次伝達させているところです。全艦に行き渡るには、まだ時間がかかるでしょう。しばらくお待ちください」

「まあ、それはしょうがないわね」

 申し訳なさそうに言うリチャードに、ホレイシアは溜息をついて応じた。戦闘状態にない現在、船団は電波使用を制限しているため船舶間の通信は発光信号や旗旈でやりとりされている。手間を要するのはやむを得ないことであった。

「副長、よければ一服しない?」

 ホレイシアはそう言って、懐からシガレットケースを取り出した。反対側のソファにすわったリチャードがそこから葉巻を一本ぬき出すと、彼女はライター差し出してそれに火をつけてやる。葉巻に特有の、癖の強いツンとした香りが室内に充満していった。

「ところで、乗組員たちの様子はどうかしら」

「現状では、特に問題はありません」

 心配そうに尋ねてきたホレイシアに対し、リチャードは葉巻を手にしたまま答えて続けた。

「少なくとも、艦橋要員たちは意外に平静さを保っているようでした。実戦を経験したことで、肝が据わってきたのでしょう」

「そう、ならよかったわ」

 ホレイシアは副長の言葉にそう言って応じると、葉巻を口にしたままフーッと大きく息をついた。はき出された紫煙の間から見える、背中を丸めてうつむいた彼女の表情はまだ固いままだ。


 そんな彼女に、リチャードは何も言うことが出来ないでいた。急転した事態を目前にして弱気になっている彼女に、どういう言葉をかけるべきか分からない。上官のサポートを任務とする副長として、まだまだ自分は経験不足であることを彼は痛感した。

 リチャードは、意を決するとホレイシアに尋ねた。

「……やはり、先のことが不安ですか?」

「不安というより、怖いといったほうがいいかもしれないわね」

 部下の発した質問に、ホレイシアは顔をひきつらせながら答えた。

「前にも――いえ、つい昨日のことだったわね――貴方に話した通り、これだけの大人数を指揮するのは私にとって初めてのことよ。前線勤務の経験も皆無だし、それ以前に戦闘指揮官としての教育も、副長のような職業軍人と比べたら付け焼刃みたいなレベルのものしか受けていないわ」

 ホレイシアは葉巻を咥えた口から、大量の煙を吹き出しつつ溜息をつく。

「その結果が、昨日おきた戦いの顛末よ。船団は所属するフネの四分の一を失い、護衛も一隻が被雷。幸いなことに〈レスリー〉の戦死者は皆無だったけど、沈んだ商船の乗組員が大勢亡くなっているわ。そのうえ、今度は敵の水上艦隊と戦うことになるかもしれないなんて……。自分の能力や、部下たちのことで何も感じないほうがどうかしているわよ」

 自分の思いをすべて吐き出せたのだろう。ホレイシアはそこまで言うと、今にも泣きだしそうな顔をして押し黙る。その表情からは恐怖や不安、そして悔しさといった負の感情が露わになっていた。艦長室は静寂に包まれる。

 それからしばらくの間、ホレイシアは右手に持った葉巻から伸びる煙をじっと眺めていた。そのうち落ち着きを取り戻したのか、少しずつ穏やかな顔つきになっていく。彼女は苦笑しながらリチャードに向けて呟いた。

「みっともない所を見せちゃったわね。取り乱してしまったわ、ごめんなさい」

「いえ、大丈夫です……」

 リチャードはそう答えたが、それ以上言葉を続けることが出来なかった。またしても、室内が静かになる。リチャードが再び口を開くまでに、幾ばくかの時間が過ぎた。

「別に、宜しいのではないでしょうか」

「えっ?」

 ホレイシアが呆気にとられた表情でそう言うと、リチャードはそれまで被っていた制帽を脱ぎ、頭をかきながら話を続けた。

「確かに、指揮官は人前で気弱な姿を見せてはいけません。部下の士気に、悪影響を与えてしまいますから。ただそれにも限界はある訳でして、鬱屈した感情を溜め込み続ければ精神を病んでしまう可能性があります。時と場所を選ぶ必要は無論ありますが、心の中にある膿を、たまには吐き出したほうがいいですよ」

「言いたいことは分かるけれど、矛盾しているわよ、それ」ホレイシアは怪訝な表情をした。「部下に愚痴なんてこぼせないし、例えばこの部屋で大声を出してストレスを発散する、なんて訳にもいかないわ。部下たちに聞かれちゃうし、何より『艦長がおかしくなった』とかいう話になってそれこそみんなの士気が下がってしまう。少なくとも、航海中に中々そういうことは出来ないわ」

「そのために、副長という役職があるのですよ」

 リチャードは強い口調でそう断言すると、葉巻をひと吸いして深く溜息をつく。白い煙が目の前で広がっていくのを気にも留めずに、彼は話した。

「艦長もご存知の通り、副長やそれに相当する地位にある者は指揮官のサポートをその任務としております。ですので、何か不安なことがあれば遠慮なく自分に申し出て欲しいのです。……自分もまだ副長としては半人前ですので、恥ずかしながら聞き役にしかなれないかもしれませんが、ね」

 恥ずかしそうに語ったリチャードの顔を、ホレイシアはしばらく凝視した。そのうち彼女は堰を切ったようにコロコロと笑いだし、それが終わると再び副長のほうに視線を向ける。その表情は明るくなっていた。

「まあ、半人前同士仲良くやっていきたいものね。今更こう言うのもどうかとは思うけれど、これからもよろしく頼むわ」

「はい、艦長」

 ホレイシアはそこでいったん口を閉じ、壁に掛けられた時計に目をやった。「副長、いつ敵が現れてもおかしくないから、早めに夕食を済ませてちょうだい。それが済んだら、艦橋のほうをお願いするわ」

「了解です」リチャードはそう言うと、灰皿に葉巻を押し付けた。既に全乗組員に対しても、同様の指示が出されている。「艦長はどうされますか?」

「部下たちの様子を見に、いちど艦内をまわってみるわ。それから食事をとって、私も艦橋に向かいます」

「了解いたしました。では、失礼いたします」

 リチャードは立ち上がると敬礼し、艦長室から退出すべく扉のほうへと向かっていった。

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