10

 屋根の上の攻防は、既に1時間近くにも及んでいた。

 ――強い。

 アリーシャは、老紳士を前にそう思った。何度も死角を狙って攻撃をし、どれもが確かな手応えを感じる一撃だったと自負している。

 しかし、老紳士はそれらの全てをものの見事に避け、時には防ぎ、今もまだ平然と穏やかな笑みを浮かべていた。

 彼自身が幻術の可能性も疑ったが、彼の剣を受けた時の感覚から、その可能性は薄いように思う。だとすれば、完全に実力の差だ。悔しいが、アリーシャは、その事実を認めざるを得なかった。

「いやはや、お見事です」

 老紳士が、感心したように手を打った。

 アリーシャは思わず下唇を噛む。今この状況で褒められても、喜ぶどころか惨めさが増すだけだ。

 一刻も早くレイアの元へと戻らなくてはならないのに、これでは埒が明かない。

 ふぅ、とアリーシャは構えを解いた。ここまで戦ってきて、一つだけわかったことがある。目の前の老紳士は、自分を倒すつもりは毛頭なく、おそらくただの時間稼ぎだ。つまり、突破をしようとしない限りは、攻撃して来るつもりもない。

 その様子を見て、老紳士はにっこりと満足気に微笑んだ。

「物分りの良い方です」

 彼は、周囲に浮かぶ3つの黒球を順に確認しながら、ふと思い出したように尋ねた。

「お名前、アリーシャ=ラインハルト、とおっしゃましたね。ラインハルト家というのは、やはり騎士のお家柄で?」

 アリーシャが、困った顔でしばらく黙った。この手の質問は今に始まったことではない。しかしながら、毎回どう答えていいものかと頭を悩ます質問なのである。

「……我がラインハルト家は、代々このアースウォリアの騎士団長を努めております。今は、兄が」

「左様でしたか。しかし、なぜ貴女のように腕のある方がメイドなど」

「面倒なお家事情というものがありまして」

 そこまで言うと、さすがの老紳士も聞くのを躊躇ったらしく、ひとつ頷いてから、

「そうでしたか。おかげで合点がいきました。……槍の腕はさることながら、警戒心も勘も素晴らしいですね。無理に踏み込んでくるようであれば、灰にしているところでした」

 と平然と述べた。その穏やかな口調とは想像もつかないような苛烈な内容に、アリーシャはゾッとする。判断を誤っていれば、今頃自分はこの世にいないかもしれない。

「おや、これは」

 ふと、紳士が何かに気づいたように、声を上げた。

 彼の周りの黒球が赤く明滅している。

「アリーシャ殿、今宵はそろそろ去らねばならぬようです」

 モノクルを涼しげに直し、静かに告げると、彼は韻律を紡ぎ始める。その間数秒。アリーシャが防御の構えをとった瞬間、凄まじい勢いで黒い火球がアリーシャの横を通り抜けた。

 ゴーン…

 通り抜けた火球がレヴィアントの鐘を打ち鳴らす。

「大変楽しい夜を過ごさせて頂きました。また、お会いしましょう」

「お待ちを!」

 別れの挨拶を告げる紳士をアリーシャが引き止める。

「もう一度、お名前を」

 問いに、夕陽色の老紳士はかぶっていた帽子を胸にあてると、

「ロジン=ヘーメラウでございます」

 深々とお辞儀をして闇へと消えていった。

 それを呆然と見送った後、アリーシャは主君の無事を確認すべく、即座に月夜を駆けていった。

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