4-6

 魔王事件。勇奈の消え去ったあの日の記憶は、今も鮮明に残っている。

 あれは、魔王の、謳歌の力が発現した日。その力が暴走したのか、それともあの事件自体が謳歌を魔王へと変貌させる行程だったのか、あるいはそれ以外の何かなのか。事実は俺の知る余地のあるものではなかったが、結果を説明する理由にはなる。

 あの日、消え去った病院の中で謳歌が無事だったのは、彼女がそれを引き起こした張本人だからだ。

 だが、だとしたら、俺は?

「っ――謳、歌」

 そして、由実はなぜ今、消失した空間の中で謳歌の傍らに立っているのか。

「お前はまた、こんな事をっ!」

 怒声、そして由実の指が鉄矢を引き絞る。至近距離からの一撃は、しかし謳歌の頬を掠めるだけで背後に抜けていった。

「私はお前を……それでも、お前を!」

 感情の整理が付かないのだろう。言葉になっていない声で叫びながら、鉄矢を手から取り落とし、由実はそれでも光の矢を謳歌に向けて乱射する。

 光の矢は、あるものは謳歌の展開した障壁に阻まれ、あるものは明後日の方向へと吹き飛び、そして僅かに謳歌の身体へ届いたものもすぐに掻き消えていく。

「宗耶は怒ってないの? 悲しくないの? 私を殺したくないの?」

 由実を見つめたまま、謳歌の言葉は俺へと向けられていた。

「殺してほしいなら由実にしてもらえばいいだろ、俺は嫌だね」

「どうして? 私は勇奈を、宗耶の友達のみんなを消しちゃったのに」

 それは、嘘だった。あの日、あの場所にいなかった由実では気付けない、謳歌すらも俺に見破られるとは思っていないはずの嘘。

「だとしても、俺がお前を殺したいなんて思うわけないだろうに」

 だが、今はそれを指摘しない。

「……そっか、宗耶って結構冷たいんだ」

 一向に怒る気配を見せない俺に痺れを切らしたのか、謳歌は言葉を切りこちらへと一気に距離を詰めてくる。

「っ!」

 しかし、その狙いは俺ではなく椿だった。椿も即座に構えを取るが、空間自体の消失を喰い止める手立てはない。

「じゃあ、勇者ちゃんも――」

 椿の目の前、何かを告げようとした謳歌はその途中で地面に膝を付いて突っ伏した。同時に、消失しようとしていた空間が色を取り戻す。

「……っ!? ――死ね」

 絶対的な隙、それを切り裂こうと、由実は矢の掛かった弦を強く弾く。

「そこまでだ」

「宗耶!?」

 しかし、矢が謳歌の背へと届く事はなかった。未来視で絞り込んだ矢の軌道、それを黒棒で弾き飛ばす事ができたのは幸運によるものだろう。

「……やっぱりお前は私より、他の何よりも謳歌を選ぶんだな」

 戸惑いと敵意の混じった目。由実の目は俺も知らない強い目だった。

「俺は、今の俺は、謳歌と由実さえいてくれるならそれでいいんだよ」

 射るような由実の眼差しを真正面から受け止める。それがどういう意味を持つのか十分理解しているはずなのに、まるで恋人のように由実は俺の目を見つめ続ける。

「そんな、それは、そんな事がっ!」

「残念だけど、それは無理かな」

 激しく動揺した由実が催眠に落ちるよりも先、呟くような謳歌の声が聞こえた。

 そして、世界は無色に包まれる。色を失った世界は形すら失い、やがて絶対の無へと向かっていく。

「そうや、さん……」

 傍らの椿が最後に呼んだのが俺の名前だった事は、はたして喜ぶべきなのかどうか。そう考えるだけの余裕が、頭が、体が俺には残っていた。

「なん、で?」

 目の前には驚愕に目を見開いた謳歌。

 消え去った空間の中で、俺は依然として謳歌の目の前に居た。

「ひどいな、俺を消すつもりだったなんて」

 理由は薄々勘付いている。それが、謳歌の反応で一つに絞り込まれていた。

「……でも、これならこれで」

 呟いた声は俺には聞こえない。だが、謳歌が何を言ったのかはわかる。

「どう、宗耶? 勇者ちゃんも消えちゃったよ。今度こそ私を殺したくなった?」

「なぁ、謳歌」

 挑発する謳歌の言葉に重ねて、俺は言葉を返す。

「俺はお前の事が好きだよ」

「っ……」

 由実がすぐそこにいる事を今だけは忘れて。紛れもない本心を武器にして。

「そんなの……そんなの、許されるわけ無いじゃない!」

 ゆっくりと歩み寄る俺に、謳歌の返事は拒絶。しかし俺から距離を取るのではなく、むしろ一気に前進して距離を詰めて来る。

「どうして? 俺が謳歌を好きだなんて当たり前だろ」

「っ! なんで!?」

 謳歌の前進を、俺の頭を掴もうとしたその手を、棒切れ一つで受け止める。

「覚えてないのか? まだ俺が勇者だった頃、この棒が勇者の剣だった事」

 この『ゲーム』は全て謳歌の定めたルールの上で行われているに過ぎない。ならば、謳歌の記憶の隅にその事実があるだけで、この棒切れは謳歌にとっても勇者の剣になる。

 無論、武器がどうであれ身体能力が飛躍的に上がるわけでもない。俺が謳歌を受け止められたのは、今の謳歌が万全の魔王からは程遠く力を失っているからだった。

「そうじゃないっ! なんで、宗耶は、まだ私の事が好きだなんて!」

 だが、いかに消耗していようと、魔王に比べて俺は無力に過ぎる。読み合いの余地など無い力勝負、由実も誤射を恐れて手を出せない状況での純粋な押し合いにそう長い間耐えられる自信は無い。

「だって、謳歌は何も悪くないじゃないか」

 だから、今の内に伝える。

 幼い日の俺の目から見た、あの日の事実。あの時、どうにかして倒れる前にそれを謳歌に伝えられなかった事を、俺は今の今まで悔やんでいた。

「そんな事無い! 私が、私さえいなければ、勇奈は死なずに済んだのに!」

 手の中の棒から感じる、謳歌の圧力が弱まる。

 代わりに、謳歌の悲鳴にも似た叫びが俺の精神を抉ってくる。

「だから、俺達に殺してほしかったのか?」

「「なっ……」」

 息を呑んだのは、謳歌と由実。

 由実は初めて知った謳歌の意図に、そして謳歌はそれを見抜かれた事に。理由こそ違えど、二人の驚愕の声は綺麗に重なって聞こえた。

「……どうして、そう思ったの?」

 問い掛けは、もはや肯定に等しかった。

 思えば、最初から謳歌は目的を口にしていたのだ。

『ゲーム』に勝った時、謳歌は世界を征服する。だが、謳歌が本当にそんな事を望んでいるわけがない。だとしたら、本当の目的は『ゲーム』に負けた場合にある。

 謳歌の敗北条件であり、俺達の勝利条件。それは他ならぬ謳歌の死。そして謳歌は、それが俺達の、俺と由実の手によって成される事を望んだ。

 だが、それらは言わば答え合わせに過ぎない。

「そうじゃなきゃ、わざわざ俺達に力を分け与えたりする必要がないだろ」

 俺がその結論に達したのは、謳歌の力と由実や副会長、藍沢に白岡の力に共通点を見出したからだ。

 そもそも、超常の力の持ち主が偶然にも一学校の生徒会に集まるなんて、前提からしてあり得ない話だ。藍沢の魔法、由実や副会長の光、そして白岡の治癒。それら全てを謳歌自身が披露してみせた事で、全てが謳歌の自作自演だったという結論が導き出された。

「やっぱり、宗耶には敵わないなぁ……」

 深く、長い息。

「でも、だとしても、由実は私を殺してくれるよね?」

 どこか縋るような声で、謳歌は由実へと振り返った。

「私は、お前を許す事はできない」

 謳歌の抱いていた思いが、現実を変えるわけではない。勇奈は生き返らないし、由実の謳歌への憎悪が消えるわけでもないだろう。由実が謳歌を殺す事を断念するとしたら、それは謳歌の望みを叶えさせない為という皮肉でしかない。

「……死にたいなど、それは幻想だ。本当に死を目前にすれば、必ず後悔する」

 ゆっくりと、下げていた弓を構え直す。

 やはり、由実は結論を変えなかった。

 あるいは、それは謳歌への最大限の手向けだったのかもしれない。互いの望みが同じものであるのなら、それを叶える事は単純な利害の一致でしかない。

「謳歌が死ぬなら、俺も死んでやる」

「宗耶!?」

 だから、これは俺だけのエゴだ。誰のためでもなく、ただ俺のため。謳歌と由実、そして俺が共に過ごす日々を、今望み得る最善をどうしても諦める事はできなかった。

「そこを退け、宗耶」

「退かせてみろ、とはできれば言いたくないな」

 由実がその気になれば、光矢を数回放つだけで俺を薙ぎ払う事は可能だろう。俺が謳歌の前に立つ事には、物理的なものではなく精神的な壁の意味しかない。

 そして、由実は右手を大きく引いた。

「――っ」

 瞬間、一閃。

 由実の放った矢は俺と謳歌とは真逆、明後日の方向に飛び去り、そして――

「由……実?」

 俺達へと向かって跳んだ由実の身体の真中を、一本の剣が貫いていた。

「勇者っ、こんな……」

 血塗れの剣、握る手を辿ればそこには見慣れた顔。

 そこにいた少女、消え去ったはずの勇者、椿優奈の表情は俺の見た事のない冷たいものだった。

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