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「椿さんは、早く元の生活に戻りたいとか思わない?」

 なんだかんだで日が暮れるまでを一緒に過ごし、今も隣で楽しそうに夕食の用意をする椿を見ている内に、そんな疑問が自然と口から出た。

「……やっぱり、私はお邪魔ですよね」

「いやいや、そういうつもりで言ったんじゃないんだけど」

 鼻歌が止まり、一気にテンションの下がった様子の椿を見て、不用意な発言を後悔する。

 生活と行動の多くを俺に依存せざるを得ない今の椿にとって、俺からの拒絶は精神的にというよりも現実的に厳しい。人一倍敏感に発言の裏を読んでしまうのは仕方ない事であり、俺もそれを被害妄想と言い切れるほど強くはない。

「俺はこれで結構楽しいけど、椿さんは色々と不安じゃないのかな、って」

 フォローを添えながらの補足にも、椿の表情は元に戻るとまではいかない。

「私は……私も、実は少し今の状況が楽しいんです。それに、私は何も覚えていないので。もちろん早く記憶が戻って元の生活に戻れた方がいいのはわかってるんですけど、会いたい人や、したい事なんかも、何一つ思い出せないんです」

 俺に対するそれとも少し違った椿の不安の表情に、そもそも記憶喪失というものへの認識が間違っていた事に気付く。

 人が何かを失った時、それを取り戻したいと思うのは当然だと思っていた。

 失ったものが大きければ大きいほど、そのものへの未練は強く残る。取り戻せる可能性があるのであれば、恥も外聞も捨ててそれにしがみ付くのが普通だと。

 だが、失ったものの記憶が無いのなら、そこに残る感情とはいかなるものなのか。記憶そのものを失っている椿は、それがどれだけ大切だったかすらわからないはずだ。

「……ごめん、こんなよくわからない事に巻き込んで」

 俺はまだ、椿ほど今の状況を受け入れられているわけではない。

 謳歌がわざわざ無関係な椿を巻き込んだ理由には察しがつかないでもないが、それが許される行為でない事は理解しているつもりだった。

「そんな、謝らないでください! 宗耶さんは何も悪くないじゃないですか。それどころか私なんかを家に置いてくれて、頭を下げるなら私の方です」

 そう、直接的には俺が悪いわけではない。

 しかし、椿の立場でそう言い切る事のできる者がどれだけいるだろうか。

そうなったのは、そうさせてしまったのは、椿が俺に抱いている信頼と好意。そんな椿の感情すら、『ゲーム』を円滑に進めるため、記憶を奪うのと同時に謳歌が植え付けたものなのではないか。そう考えるのが自然なくらい、椿は俺へ理由もわからない好意を注いでくれているから。

「なんか変な話になっちゃったね。まぁ、椿さんの方が俺と一緒にいるのがそれほど嫌じゃないなら、俺としてはそれでいいかな」

「それはもうっ、全然嫌なんかじゃないですっ!」

 ただ笑いかけるだけで、この場を誤魔化せるとわかってしまっていた。

「宗耶さんは、本当に迷惑じゃないんですか?」

「ああ、もちろん」

 暗い空気が消えても、椿の遠慮まで消えるわけでもない。できるだけ間をおかず、簡潔に返す事で嘘だと思わせない努力をする。

「でも、そうだとしても白樺さんはやっぱりあんまりいい気持ちはしないですよね……」

「いや、だから由実と俺は付き合ってないんだって」

「じゃあ、佐久間さんと付き合ってるんですか?」

 幾度目かの焼き直しのような問答。どうしても俺を誰かと付き合わせたいのだろうか。

「今、傍から見れば、俺は椿さん以外とは付き合ってるようには見えないと思うよ」

「……っ、私と宗耶さんが、付き合ってるように見えますか?」

「そう見られたくなかったら、あんまり浮気を疑うみたいな事を言わない方がいいかもね」

 顔を赤くした椿の前、鍋から料理を食器によそい、食卓へと運ぶ。

 あまり余計な事を言わない方がいいのは、どうやら俺も同じらしい。

 これからしばらく生活を共にする以上、理性を保ち続けるためにあまり椿の女の部分を引き出さないようにしようと、火照った顔を隠しながら密かに心に決めた。

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