memories:ルドベキア
図書室の本に囲まれたこの独特の匂い。そして放課後の時間のこの特に静かなこの感じ。遠くに聞こえる部活の声も決して邪魔にはならない。だからこの時間に本を読むのが好きだ。本を読んで知識が増えるのは世界が広がっていくようでなんだか楽しい。
キリが良いところまで読み進め、ふうっと、息を吐く。そうして読みかけの本にカンパニュラが描かれた栞を挟んだ。それはいつぞやあの美術教師に貰ったもの。
「なんで律義に使っちゃってるんだろう」
そっとその栞に触れてみる。鐘のような形をした綺麗なその花はいつ見ても私の心を優しく包む。だからだ。貰ったものを使わずにいるのも忍びないし、誰がこれを作っただろうが素敵なものは素敵だし、使わないと勿体ない。だから使ってるんだ。そう、自分に言い聞かせるように息を吐く。
本をそっと閉じれば、不意に背後から声を掛けられた。
「それ、使ってくれているんですね」
その声に振り返れば件の先生が朗らかな笑みをたたえそこに立っていた。
え、なんで。どうしてここにいるんですか。
そう言葉にしようにも動揺のあまり声が出ずにいると先生は見透かしたように「見回りです」と答えた。
「勉強熱心なのはいいですが、大分日も落ちてきましたからもうそろそろ帰った方がいいですよ」
外を見れば確かにもう大分日が落ちてきている。
「気づきませんでした。すみませんもう帰ります」
矢継ぎ早にそう答え、鞄に荷物を詰め込み帰る準備を手早く済ます。
なんでこのタイミングでこの人に会うのだろう。よりによって、栞を使っているところを見られるなんて。恥ずかしさで少し涙目になりながら、私は顔を上げられないまま
「先生さようなら」
と、先生の傍を横切り帰ろうとすれば、間の抜けた柔らかな声が降ってきた。
「あ。私も途中までご一緒していいですか」
───なんでこの人はこういう空気は読まないんだ。
見回りが終わり、職員室に帰るのだという先生の隣を仕方なしに歩く。ここ2階の図書室から1階の職員室までは1度玄関を通り過ぎることになる。
つまり玄関まで送るということか。
気づかれないように息を吐き、私は姿勢を正した。
十中八九、植田先生が私とノートのやり取りをしていた人物であることはもう確信できていた。自分の信念を、正義を曲げて始めた誰ともわからない人との交換日記。様々な悩みを、弱みをさらしてきた。その相手が誰であろうとあの言葉に、あの絵に救われてきたのは確かな事実。まだ気持ちの整理は出来ていないけど、それを今更、先生かもしれないからと恥ずかしいだのなんだのと嫌だ嫌だと逃げていても仕方ない。
あのやり取りのことを先生は何か言うでもなく、隠そうとするわけでもないみたいだし、なら私もそれに倣うしかない。〝語らない〟それがきっと正しい選択だ。
キュッキュと2人分の足音が夕焼けがかった廊下に響く。
特に何か会話するわけでもなくただ隣を静かに歩く。そうやって階段を降り切ったところで「あ」と先生が声を漏らした。
「少しだけ付き合ってもらってもいいですか」
そういうと私の返答も待たず、私を置いて進み始めた。そのまま帰るわけにもいかず仕方なくその後を追う。
何処に行くのかと思えば、着いたのは美術準備室だった。
「他の先生からのお土産でお菓子を頂いたんですけど実は苦手なものでして。お断りするのも申し訳なくてつい頂いてしまったんですが良かったらこっそり貰ってくれませんか」
そういいながら、ごそごそと仕事机の上や引き出しの中を漁っている。
「それは別に構いませんが」
少しだけ躊躇して部屋にゆっくりと足を踏み入れながら視線を移した先は何処も見事に書類や画材道具で溢れ返っている。
「……植田先生。ここ、ちょっと整理した方がいいんじゃないですか」
「ははは、すみません」
そう苦笑しながらガサゴソと書類の山を崩す勢いの先生を横目に、私は部屋の大半を占めている作業机に手を伸ばす。そうして散乱している筆をいくつか手に取りまとめていく。散らばった絵の具をケースに入れなおし、配布用の資料を束にして揃え、提出されたノートをクラスごとにまとめ───そうして、埋もれていた1枚のキャンバスを見つけた。
花芯が濃い茶色をして、黄色の花びらが目いっぱい手を広げている。まるで小さな向日葵とでもいうような花がキャンバス一杯に咲き誇っていた。
あぁ、と思う。
やっぱり先生の絵が好きだ。柔らかいタッチなのに、決して線が細いわけでも薄いわけでもない。さり気なくそこに存在している。ただ、誰かに寄り添うように。優しく包み込むように。愛しむように。それが私の胸の奥を、目頭を酷く締め付ける。
作った作品は、その人となりを表すというし。ならきっとそれが先生という人物の本質なのだろうと思う。
「先生、この花」
そう問いかければ、顔だけこちらに向け「それはルドベキアですよ」と答えると、思い出したように柔らかく微笑んだ。
「あぁ、なんだか貴女みたいな花ですね」
と。
「私、みたい、ですか」
「力強く、真っ直ぐに。ただ前を見つめている感じがとても素敵だと思います」
そういう先生が真っ直ぐ、怖いくらいに、こちらを見据えている。何故だかそこにいるのは植田先生ではなく、あの彼な気がした。
その姿から目を逸らせないでいると「見つけました、これですこれです」と先程までとは打って変わって和やかな笑みを浮かべた先生が軽い足取りでこちらにやってきて「はい、どうぞ」とお菓子を差し出した。
おずおずと受け取ると、作業机に目を向けていた先生が
「あぁ、お菓子を頂いてもらうだけのつもりが、掃除までしてもらうとはなんだか申し訳ないですね。何か私にできることはありますか」
勉強を見るといっても私じゃお役に立てるかどうかわからないですね、なんて苦笑している。
……先生にして欲しいこと───。
ふと頭に浮かんだ映像に、小さく開いた唇から言葉が漏れる。
「私、嘘とか、隠し事とか嫌いです」
先生は一瞬僅かに目を見開いた後、何事もなかったかのように「はい」と答えた。
「……ノート、先生ですか?」
確信はある。でも確証が欲しい。言葉を多くしなくても、もし先生が彼ならそれだけで伝わる気がした。
私は、ただ、真っ直ぐに。先生の姿を見つめた。
「私は───」
僅かに開いた先生の唇が、音を飲むようにきつく結ばれた。そうして、漸く開かれた口から
「はい、僕です」
とただそれだけ紡がれた。
あれだけどんな顔をしたらいいのだろうとか、色んなものをさらけ出し過ぎて恥ずかしいとか、悔しいとか腹が立つとか色々思っていたくせに、今は不思議と心は穏やかだ。
バツが悪そうに、先生は俯いたままこちらを見ようとしない。
別にそんな顔をさせたかったわけではないのだけど。
私は頭を掻くと自分の鞄の中を漁る。そうして、数歩前に歩みを進めると、それをそっと差し出した。
「また、花の絵、描いてください」
ずっと渡せずにいたあのノート。
差し出されたノートと私の顔を交互に見比べ、何処か躊躇する先生に業を煮やしてなんだかノートを押し付けるように私は再度先生の胸元に差し出した。
「私先生の絵が好きなんです」
ただ一言、ぶっきら棒に呟いて。
無言のまま、それをそっと受け取ると、ノートを抱えながら先生は少しだけ泣きそうな顔をしてくしゃりと笑った。
「はい、───喜んで」
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