ジネディーヌ! 恋のマルセイユルーレット
FZ100
第一幕――放蕩者とアルトゥール
1. 囚われのジネディーヌ
はい、その夢はいつも故郷アフランシのイメージだったそうです。咲き誇る可憐な花々を思わせる乙女たちが古びた庭園の一角でこちらを見て微笑んでいる。それでも決して彼女らには目もくれません。
――レオノーレ、どこだ? レオノーレ。
花壇では甘い香りに誘われた蜂が蜜を吸うのに夢中になっている。華やいだ娘たちがくすくす笑い合いながらこちらにいらっしゃいと囁いている。それでもジネディーヌ様の視線は星が惑う様にさ迷い続けるのです。
と、栗色の髪をした幼い女の子が笑いかけながらジネディーヌ様にまとわりついてきました。
――小さなジョセフィン、お前じゃないんだ――
ジネディーヌ様はそうつぶやきますが、ジョセフィンと呼ばれたその女の子はなおも彼の脚を抱き無邪気な表情でじゃれつきます。
レオノーレ、レオノーレ、呼べども呼べども応えは決して返ってこない、それでも夢の中を探し続け、やがて目覚めてしまうのでした。
※
鉄格子越しに月明かりが夜を照らしています。床は打ちっぱなしのコンクリートで見るからに寒々とした部屋、そこはレンガ造りの牢獄です。その片隅で眠るジネディーヌ様の姿は嵐の後の倒木さながらでした。
端正な顔立ちも今は頬がこけ無精ひげが濃く囚人服に身をやつしたその姿は、見るからにやつれた有様でした。
――起きろ、ジネディーヌ。
その声でジネディーヌ様は夢うつつから引き戻されました。
いつもだ、いつもレオノーレだけいない……いつまでも夢に浸っていたいのにどうして眠りを妨げる? 誰に言うでもなくそうつぶやきながらジネディーヌ様は重いまぶたを開けたのです。
ぼんやりとした目の前の人影はやがて焦点を結び、次第にはっきりとした像――えんじ色のジャケットを羽織った華奢で優男風の青年を映しだしました。ええ、それがアルトゥール様です。
「……どうやってここに?」
「静かに。看守を眠らせた。逃げるなら今だ」
アルトゥール様は声を潜め、辺りの気配を探りました。
壁のあちこちに魔よけの札が貼られているのに気づくと、アルトゥール様はジネディーヌ様をちらと見て笑いました。
「これしきで逃げられないあんたじゃないだろ。反省でもしてたのか?」
ジネディーヌ様は何か想いにふけっていたのか、黙りこくったまま何も答えなかったそうです。
林の中。眠らせた看守から鍵を奪い牢獄を抜け出したアルトゥール様とジネディーヌ様は一刻も早く冷え冷えとした牢獄を去ろう追っ手から逃れようと月明かりを頼りに駆けていきました。
「どうやって看守を眠らせた?」
「従者に貰った種だ。花粉が眠気を誘うのさ」
やがて潮の香りが漂いはじめました。と、視界が急に開け、遮るものの無くなった空に満月が浮かびました。そこは磯の一角で小さな入り江に下りる道がつづら折りとなっています。ええ、牢獄は絶海の孤島にあったのです。
アルトゥール様は高い処が苦手でいらっしゃるので腰が引け、恐る恐る探るようにして下っていきます。ジネディーヌ様はというと、後ろを気にするでもなく独り先へ先へと進んでしまうのです。
暗い海の水面に波しぶきだけが白く打ち寄せます。ようやく浜辺に出ました。そこは周囲を巨岩で囲まれていて、先ほど通った道だけが陸とつながっているのです。
柔らかい砂地を踏みしめたアルトゥール様はホッと一息つくと右手を指しました。
「岩場にボートを隠した。早く」
下りてきた道筋を見上げていたジネディーヌ様が踵を返そうとしたそのときです、人の気配にアルトゥール様は身を固くしました。もしや、追っ手は先手を打っていた?
人影は明らかにアルトゥール様たちの行く手を塞いでいます。
「誰だ? そこをどけ! どかないか!」
アルトゥール様は声を荒げましたが、
「青年、お前に用はない、そこをどけ」
「我等、ジネディーヌに天の裁きを下さん」
三人組の男たちでした。恨みの満ち満ちた罵声にアルトゥール様はまたか、やれやれといった調子で肩をすくめました。牢獄からの追っ手ではなく、ジネディーヌ様に復讐せんと固く誓った刺客たちだったからです。
「天罰ならもう下ってる。永遠に満たされないのだから」
ジネディーヌ様は平然と返しました。
「黙れ! 貴様は俺の妻を奪った!」
「俺は婚約者を!」
「俺が狙ってた未亡人、横取りしやがって!」
それは違うだろ、三人目の言い分には流石のアルトゥール様もつぶやきました。
そういうときのアルトゥール様は決まってすがめでジネディーヌ様を見やるのです。
いつものことと呆れ顔のアルトゥール様ですが、彼を他所にジネディーヌ様は刺客たちに向け冷ややかに言い放ちました。
「案ずるな。記憶は消した」
それがまた刺客たちの怒りに油を注ぐのです。
「それが余計だというんだ!」
「捨てられた女は訳も分からず泣きじゃくる。それもこれもお前が弄ぶからだ」
刺客たちは腰の剣を抜くと切っ先をジネディーヌ様の喉元に向けました。
本気です。殺す気です。
ところが丸腰のはずのジネディーヌ様は特に構えるでもなく平然と突っ立っているのです。
「本来なら決闘を申し込むところだが、名誉の死を与えてなるものか」
「稀代の悪党にふさわしい死を」
「去勢してくれる!」
刺客たちはじりじりとにじり寄ると、一斉に斬りかかりました。
「でええい!」
ところがジネディーヌ様は背を向けるとひらりと刺客の一撃、ニの撃をかわしました。刺客の剣はむなしく空を斬っただけです。
「うっ? 中々やるな」
はい、その一連の動きはマルセイユルーレットと呼ばれ、円舞に喩えられています。
予想外の動きに認識を改めた刺客たちはジネディーヌ様を取り囲むと一斉に斬りかかりました。ところが、またもや円舞さながらの動きでジネディーヌ様はくるり、さらりとかわしてしまうのです。
ええ、それからは同じことの繰り返しでした。
一方、アルトゥール様はといえば、少し離れたところから復讐劇の模様をじっと見守っています。
どうして傷一つ負わせられない? それはですね、ジネディーヌ様は特別な眼をお持ちで、コンマ数秒先の世界を見通してしまうのです。だから剣の達人ですらジネディーヌ様に傷を負わせることは至難の技なのです。
散々弄ばれた挙句、疲れ果てた刺客たちは荒く肩で息をしています。
そのとき崖の上で何やら物音がしました。はい、犬が吠えているのがはっきり聞き取れたそうです。
「小手調べはここまでだ」
そろそろ磯を去る頃合と判断したのでしょう、ジネディーヌ様の眼がかっと見開かれました。
すると両の瞳の幻像が宙に浮かび、焦点を結ぶように重なり合っていきました。重なり合ったその瞬間、激しい衝撃が稲光のようにほとばしりました。はい、ジネディーヌ様はですね、<邪視>の使い手なのです。
ぐはっ! 電撃にも似た激しい衝撃に撃たれた刺客たちは全身の力を奪われ、砂地に前のめりに倒れこみました。
と、
「私まで殺す気か!」
巻き添えになったアルトゥール様が叫びました。懐からこぼれ落ちた魔よけの札が風に吹かれて塵のように消し飛んでしまいました。
なおも痺れて倒れ伏したままのアルトゥール様をジネディーヌ様はしれっとした表情で一瞥しました。
「さらばだ」
そういい残すと、ジネディーヌ様は停めてあったボートに乗り込みました。それはアルトゥール様が用意したものでしたけれど、全くお構いなしです。
手早くエンジンを始動させると、ジネディーヌ様は暗い海の彼方に去っていきました。
「ま、待て!」
未だ身動きのとれないアルトゥール様の叫びはむなしく響くだけでした。やがて磯の上から犬の吠え声と懐中電灯の明かりが入江を照らし始めました。
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