四ノ三、夜虚綱の危機

 松井が桜風部屋に来た日から、一晩が明けた。昨日すぐに市間のところへ行かなかったのは、桜大海が寝不足で万全ではなかったためであり、また、桜風親方へひと言も無しに桜大海を伴うことを鬼天が拒否したからでもある。


「姉さん、お茶でも淹れましょうか」


 昨夜、桜大海は松井を送り出したものの、桜風部屋の目の前に停めた車の中で過ごしてまた、松井は朝早くから夜虚綱の傍に付きまとっている。このあと鬼天が来て、ともに市間の住所まで行くことになっているが、と桜大海は思案していた。それまでに、どうやって松井を撒こうか。

 手振りで松井の提案を断ったところで、廊下から声がかかる。


「姉さん、ちょっといいですか」


 妹弟子の誰かが来たらしい。自室に呼び込むべく、いいよ、と応じる桜大海の返事に、松井のドスの効いた声が重なった。


「うるさいよ。桜大海姉さんは、今忙しいんだ。あとにしな」


 少し間があってから、戸惑いを示すようにゆっくりと襖が開いて、あの、と妹弟子が室内を覗き込んできた。


「いいよ。何だい」

「あ、はい。あの、夕姉さん。靖実のことなんですけど」

「はぁあ? 夕姉さんだってぇ? このアタイですら、桜大海姉さんだよ? ずうずうしいんじゃないの? 馴れ馴れしくするんじゃあないよ」


 桜大海の手招きに応じて、その娘は部屋に入ってきて夜虚綱の正面にちょこんと座る。その二人の間に上体を無理やり捻じ込むようにして、松井が妹弟子を脅すのを、見えない振りをして桜大海は続きを促した。


「靖実がどうしたって?」

「あ、はい。あのう、この人は……」

「この部屋には、あたししか居ないよ」

「あ、え、あ、はい。分かりました。えっと、それで靖実なんですけど、昨日から帰ってなくて」


 不可解なものを無理に飲み込んで、妹弟子が訴えるのを聞いて、桜大海は眉間に皺を寄せた。なんだってあの娘はこの時期にそんなことするんだろう。たびたびの外出が増えていたのも、男でもできたかと思っていたが、それでも今までは無断で外泊したりはしなかった。これじゃあ嫌でも、なにか市間と関わりがあるのかと疑ってしまうじゃないか。


「それで、師匠オフクロも留守だったので、夕姉さんに」

「だぁかぁらあ。アタイのことナメてんのか、おうコラ」


 桜風親方は今日も協会に出かけている。早朝に桜大海が、市間のところに行ってくると伝えると、十五円を渡してくれて、バナナはおやつに入るからね、という厳しい言葉をいただいた。この額ではバナナの一本も買えないが、その五円玉三枚は神社にて清められた浄銭であった。もしものときに桜大海の身代わりになってくれることだろう。もちろん駄菓子を買ったりはせずに、今は大事に桜大海の懐に収めてある。


「分かったよ。ちょっと靖実の荷物を見てみるから、ロッカーの場所を教えてちょうだい」

「はい、夕姉さん」

「おいまたか。ケンカ売ってんのかよ小娘よう」


 姉妹弟子のふたりして松井のことを無視しつつ、立ち上がって大部屋に向かう。桜風部屋のほとんどの弟子が生活しているそこには、ロッカーなどが設置されていて、各人の荷物がしまえるようになっている。靖実が使っている場所を妹弟子に案内してもらった桜大海は、松井がこれ以上彼女に絡むのが面倒だったので、稽古に戻りな、と言って妹弟子を立ち去らせた。


「ね、姉さん。アタイも。アタイも夕姉さんって呼んでもいい?」

「ダメ」


 松井の懇願を切り捨てながら、ロッカーを開ける。中には普通の女の子が使うような生活雑貨が、所狭しと詰まっていた。理器士であるから派手な化粧やネイルなどはしないし、貴金属の類も身に着けるのは少数派だ。靖実の荷物にもそうしたものは見当たらず、桜大海は自分の取り越し苦労だったかと安心しかけた。そこに。


「おや、姉さん。あの封筒はなんだろう」


 断られて落ち込んでいた松井が、ロッカー内の違和感を見つけて指摘してくれる。書類封筒の半分ほどの大きさで、一センチくらいの厚みがある。確かに、この場には不釣合いであった。茶色のそれを手にとって、桜大海は無言のまま中を覗き込む。封はされておらず、そこには紙が詰まっていた。


「これは……」


 思い当たって桜大海は一枚、取り出してみる。やはり紙の片面には、円根宗の紙土俵と同じく黒々とした円が描かれていた。裏返すと、手書きの文字で円根宗へ勧誘する文句が書いてあった。円根宗に入れば強くなれる、だとか、円根宗に入れば新しい自分の相撲が見つかる、だとか。靖実の、字だ。

 封筒をひっくり返して、中の紙を床にぶちまける。百枚を超えるであろうそれらに、一枚一枚全て、手書きで文字が書いてある。執念とでも言うべきだろう。靖実はこれを配って、円根宗への勧誘活動をしていたのか。


「なんだ、円根宗の。普通はこんなんじゃあ土俵にはならないんだけどねえ。不思議なもんだねえ」


 松井が一枚を取り上げて、表と裏とを返す返す眺めながら感想を述べる。


「まあ、この墨がなんか特別なものだったりとかすれば、こんな丸描いただけのでも有効なのかもしれないけど」


 それを聞いて桜大海は松井の手から、その紙を奪い取った。紙土俵の墨書された円、その黒さに見覚えがある。墨よりもなお黒い。墨よりもなお粘りのある曲線。墨よりも滲んでいないし、それに、よく見れば書いた道具も筆とは少し違って、より細くコシのある毛質であるような気がする。そう、まるで――。

 ズン、という音が響いて、桜風部屋の建物全体が激しく揺れた。


「まるで、半霊半人が崩れ去ったときの黒い泥を、魔解につけて書いたような……」


 桜大海の呟きが終わるよりも早く、大部屋の扉が開け放たれた。


「夕姉さん! ここでしたか。餓蝶親方が、叫びながらいきなり、暴れてて」


 妹弟子の慌てふためく声に呼ばれて、桜大海は松井に紙を返しながら、全部焼いておいて、と床に広がった全てを示して頼んだ。そのまま向かおうとする夜虚綱の袖を掴んで、松井はスーツのポケットから小片を掴み出して、手渡す。


「これは」


 小さな驚きとともに桜大海は松井の顔を見る。渡されたのは、土を固めて焼き締めたようなもの、素焼きの陶器の欠片らしきものだった。平らな円盤状のものの一部分だろう。それが何かを、桜大海は知っている。知ってはいるが、実物は見たことがなかった。


「アタイの取っておきです。夕姉さん、お気をつけて」

「任せな」


 松井に言われて、小片を握り込んだ拳を掲げて桜大海は猛々しく応じる。大部屋を出るとき、またひとつ大きな揺れが建物を襲う。呼びに来た妹弟子が案内に立とうとするのを制して、逃げるように指示し、桜大海自らは稽古場に向かった。

 廊下をいく間に、何人もの妹弟子たちとすれ違う。ある娘は我先にと駆けて行き、ある娘は部屋頭を認めて、逃げてくださいと言ってくれた。そのたびに桜大海は手振りで断って、早歩き気味に進んでいく。高まっていく集中力に伴って、体内の死霊回路が活性化してくるのが分かる。鼓動が大きくなり、早くも反応した髪が魔解を形成し始めようとするかのごとく、ゆらりと舞い上がっている。

 到着した稽古場は、既に無人であった。ぐるりと見渡して、妹弟子が全員避難を終えていることを確認すると、桜大海は中央の地面を見据えて歩み寄る。そこには土に突き立てられた木の棒である幣串があり、その先からは御幣が垂らされている。左右対称に段をつけられた白い紙は、ふたつの紙垂を組み合わせたようでもある。祀られたそこは、接収されてしまった桜風部屋の稽古用土俵があった、その中心点であることを示していた。

 桜大海は幣串を掴んで引き抜き、跡にできた穴へと松井から渡された小片をそっと埋める。周囲の土を手でかき入れて完全に封じると、その上に脇に置いておいた御幣を横倒しのままのせて数歩下がった。着物の裾を分けて蹲踞の姿勢をとる。目を閉じ、土を感じて、ゆっくりと呼吸をする。根の国の御魂みたまである死霊と自らの魂を、地面の土を越えて同調させるような気持ちになる。

 そうこうするうちにも、餓蝶の攻撃を受けて何度も建物が揺れている。しかし、つま先でしか地面に接していない桜大海の蹲踞が揺らぐことはなかった。ほどなく、御幣を中心に金色の円が地面から描き出されて、その内側の端に桜大海をも囲み込む。さらに円を中心に地面が正方形にせり上がる。その四方は紛うことなく東西南北に向いていた。

 土俵である。正式なものではない。ただし伝統的な稽古用の土俵の作られ方ではある。正式な土俵が黄泉出しによって作られるものであるのに対して、桜大海が埋めたのは土鏡どきょうと呼ばれるものの欠片だった。土鏡は人を映す鏡ではない。焼き締めた土の円盤は、死霊を映す鏡と言われる、神器のひとつである。

 厳かに姿を現した土俵の上で、桜大海の死霊回路は、彼女の姿を夜虚綱の計算力を余すところなく表すものへと変化させている。大畏弔も、桜大海の頭上に美しく広がった。久しぶりのまともな土俵だ。ゆっくりと吸った空気を、満足げに長く吐き出し、それを終えてから桜大海は柏手を打つ。ひとつで土俵上の空間を浄化し、ふたつで稽古場の壁をビリビリと震わせた。みっつめの柏手が、餓蝶に自らの存在を教える。

 桜大海は立つと、土俵を反対側まで歩いて渡った。出入口から入ってくる餓蝶を迎えるためだ。振り向いて腰を落とし、死呼のために片脚を高く掲げたところで、扉と周辺の壁をぶち抜いて餓蝶が姿を現した。どういうわけか、既に肉体変化が済んでいながら、常魔解でしかない。その代わりに、餓蝶の両脇からは副腕が生えており、四本腕の理器士となっていた。夜虚綱はそれに構わず、死呼の脚を土俵へと下ろす。地が震えた。

 不意を突かれた形になった餓蝶が、少したたらを踏むようになりながらも、真っ直ぐに土俵へと向かってくる。そこに桜大海の、もう片脚での死呼。天から地へと下ろし、土俵にぴったりと接した足裏から、根の国を感じる。根の国の死霊たちが、土俵に導かれて体内に満ちてくるのを感じる。膝を経て腿を通り、腰と腹とを満たして肩までせり上がってくる。死霊力は計算力であり相撲力である。自らの鼓動の音と呼吸の音の他に、死霊たちのさざめきが筋肉や骨格を伝って内耳に響く。


「ガァアアア!」


 雄叫びを伴って餓蝶が、死呼も死切りも、断ち相すらなく真っ直ぐに桜大海へと突っ込んできた。土俵外からの全体重をのせた全速力のぶちかましは、音速の巨岩のごとく稽古場の地面に余波の溝をつけながら、待ち構える夜虚綱の胸へと突き立つ。


「応!」


 気合ひとつで受け止めた桜大海は、しかし予想を超える衝撃に踏みしめたまま後退させられ、その両足は土俵の表面を削って踝のあたりまで埋まり込む。危うく押し出されかけた土俵の縁で踏み止まった桜大海は、そのときには餓蝶の廻しを左右とも、四本の腕をかいくぐって掴んでいる。右は副腕の下から、左は主腕と副腕の間を通して、餓蝶の腰を腕ずくで引きつけることによって、相手が押してくる力を殺す。それでようやく、土俵から出ずに済んでいた。


「ギジジジ、ジジ。アガガガギギギィ」


 人間の声帯から出たとは思えないような不愉快な呻り声を上げて、餓蝶は桜大海の抵抗を破砕すべく、夜虚綱の腕を圧迫して廻しから放させようとする。桜大海の右腕は、餓蝶の腕二本分の重さと筋力で上から何度も叩き切るように押され、左腕は上下から鋏で切られるように潰される。ぶつかったときには桜大海の胸に突き立った餓蝶の頭は、直後に肩から突き起こされ、廻しを取られた今や、夜虚綱と同じ高さにまで引き上げられていた。互いが互いの肩の上に顎をのせ、胸を合わせた体勢になっている。こうなれば体格で勝る桜大海がいつでも餓蝶を投げ飛ばすことができたはずだった。だが、夜虚綱の左腕を上下から挟んでいる餓蝶の二本の腕は、どちらも桜大海の帯に達して、がっちりと掴み取っていた。夜虚綱といえど、動かせない左腕からは投げが打てない。かといって右からならば餓蝶を揺さぶって体勢を崩せるかというと、桜大海が廻しを掴む指は、上から叩きつけてくる餓蝶の二本の腕によって、ややもすると外れそうになっており、力を伝えることはできそうにない。

 桜大海としては、なんとか左右のどちらかに回り込んで土俵際から抜け出し、投げでも突きでもいいから技を繰り出せる間合いを取りたいところだ。だが土俵に埋まった踵と、隙無く迫る餓蝶によって動きが著しく制限されていて、餓蝶の体勢を崩さないままに、へたに左右へ踏み出そうものなら、そのまま突き倒されそうだった。ゆえに、このままでチャンスを待たねばならない。それには、桜大海の右指先がいつまで耐え続けられるかが勝負の分かれ目といえた。

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