二ノ二、ロック

「や、やあやあ仁ちゃん。久しぶりじゃねー」


 長い白髪はやや疎らではあったが、まだ十分に精力を感じさせる張りがある。えへへ、といった笑顔のままブイサインを振りつつ、桜風親方は鬼天たちの向かいに座る前に、畳に膝を下ろすと、深々と頭を下げた。慌てて鬼天も座布団を外し、返礼する。ひゃ、と宗太が声を出しながら、跳び退るように鬼天に倣い、あとから入ってきた桜大海も同じく師匠と同じ姿勢をとった。


「こんたびゃあ、ウチの若いもんが世話んなったね。ありがとうさん」

「いえ、とんでもございません親方。覚えていていただけただけで、光栄です」


 いつになく畏まった鬼天の返事に、頭を上げた桜風は、苦笑交じりに応じた。


「ババア扱いすんじゃないよ、まったく。まだボケてないよ、あたしゃあ」


 声の方向から親方が顔を上げたことを知って、鬼天も姿勢を戻す。仕草で客に座布団をすすめて、桜風は自らも一度立って向かいの座布団に尻を落ち着けた。横目で鬼天を伺っていた宗太も、それを見ておずおずと頭を上げて、自分も座布団に戻っていいものかとキョロキョロと師匠たちの顔色をうかがう。鬼天が弟子の座布団を叩いて報せてやると、わたわたと座りなおした。けれど、その間もずっと桜大海は畳に伏したままである。


「夕」


 桜風が呼んで片手を出すと、桜大海は頭を下げたまま、袂からバンダナとサングラスを出して師匠の手に渡す。橙色に桜風の文字が散らばったバンダナを頭に巻き、レンズがハート型になったピンク色フレームのサングラスを額にセットして桜風は、ニッと歯の見える笑顔を作る。礼をするためにわざわざ外したのだろう。鬼天は感服の思いを込めて浅く一礼を返した。


「こんは、今日はこんままよ」

「いやあ、いいですよ、そんな。頭を上げさせてやってください」


 当代最強の夜虚綱を指して桜風がこともなげに言うので、さすがに鬼天も気が引けたが、いいのいいのと顔の前でパタパタ手を振って大師匠はいなした。それから宗太を見て、


「そこんぼんは? 仁ちゃんの隠し子かね」

「違いますよ。――挨拶しな」

「あ、あのっ、は、初めまして。えっと、事象予報士鬼天仁太郎の弟子、伊藤宗太です」


 ひょこっと一礼する宗太と、その師匠である鬼天を交互に見比べて、桜風は可笑しげに感想を述べる。


「へえ、あの仁ちゃんが弟子ねえ、へえ。可愛いぼんねえ。いくつだい?」

「今年でとおです」


 宗太が答えると、なるほどなるほど、などと呟きながら桜風は訳知り顔に何度か頷く。


「よし、あとでこれをやろう」


 自らのTシャツ前面を見せびらかすように張り伸ばして言う。そこには橙色の行書体で大きく桜風の文字が記されていた。


「俺の弟子ですよ、親方」


 部屋の理器士たちは、親方や兄姉弟子の名前が入った着物を身につけることが多い。たいていは和服なので、Tシャツというのは極めて珍しいうえに、鬼天の弟子でありながら桜風の文字を負うのは慣習からすれば違和感がある。


「部屋のたちゃあ、だあれも着ちゃあくれんでな。みんなして和服がいいだとか、ババアかって、なあ」


 同意を求められても鬼天にも宗太にも苦笑を返すことしかできなかった。理器士が和服を好むのは、土俵に入って肉体変化が起きたとしても、洋服より許容されやすいという理由がある。桜風の好みには合わないようだが、弟子たちが渋るのもやむをえないことではあった。


「あ、あの」


 悩みを打ち明けるような遠慮がちの声で、話の切れ目をみて宗太が切り出す。どしたね、と優しげに応じる桜風と、少し意外そうな顔をした鬼天の間で、少年は思い切って尋ねてみた。


「桜風親方、その、夜虚綱を百年やったって、ほ、本当ですか?」


 じっと見据えた宗太の目は、畏敬と興味が混ざってきらきらと大師匠を直視している。少年の疑問もむべなるかな、桜風の風体からは二百を越える年齢がもたらすはずの衰えや円熟といった様子はうかがえなかった。だが、問いを受けた方はあまりにも意外だったらしい。桜風も鬼天も大爆笑となった。伏したままの桜大海さえも、その背が震えているところを見ると笑いを堪えている様子だった。

 ひとしきり笑い終えてから桜風は、すまんすまんと宗太に言い、


「よかろ、礼のついでじゃ。あたしん相撲、見せたろじゃないか」

「いや、親方、さすがにそれは」


 畏れ多さから遠慮しようとする鬼天を置いて、桜風は伏したままの弟子に、支度しなと命じる。だが桜大海も、鬼天とは別の理由から師を諌めようとした。


「でも師匠オフクロ、身体に障るんじゃありませんか」

「あんたらは、まったくもう。ババア扱いするんじゃあないって。あたしゃあね、あんたらが寝小便も洟も糞も垂らしっぱなしで、おぎゃあおぎゃあと喚くしかできなかった頃にゃあ、とうに親方やってんだよ」

「そりゃあババアってことですよ師匠オフクロ


 親しみと苦笑を込めて桜大海が切り込むと、ひょいと腕組みをした桜風は思案げな面持ちになった。ふうむ、と弟子の意見を検討するように考え込む。


「たしかになあ、ずいぶん長いこと経ったもんよ……って、なに言ってんだい、いいから支度しな。あんたは心配しすぎなんだよ」


 重ねて命じられて、桜大海にはそれ以上の抵抗はできず、わかりましたと言って退室する。一連のやりとりを困惑混じりに眺めていた宗太が、申し訳なさそうに謝った。


「あの、すみません」

「いいやいいや、いいんだよ。あのこはどうも、あたしんことをババア扱いしすぎるきらいがあって良くないよ。いいこなんだけどねえ」

「そう仰るなら、じゃあ、お願いします」


 鬼天から頼む形にすると、桜風は大きく二度頷いて、よしよしと満足げに呟く。それから細めた目を鬼天に向けて、ゆっくりと教え込むように問いかけた。


「で、何の予言が欲しいね。武坊たけぼうのことかね」


 勇王山武雄を昔どおりに呼んで、桜風は返答を待つ。理器士が相撲を見せるとなれば、当然ながら土俵に入る。されば、きちんと断ち相を行いさえすれば、所与の事柄について予言が得られることになる。それを鬼天に選ばせてくれるというわけだ。


「いえ、勇王山とはいずれ、決着をつけることになると思います。それよりも、市間内郎が何をしようとしているのか、教えていただければ」

「誰だい?」


 桜風も桜大海や谷村といった弟子たちから、事の顛末は聞いているだろう。だが最後のときに鬼天が見たことは、円根宗からの帰り道に妹弟子たちを担ぎながら大まかに桜大海に話したのみだった。そのとき、市間のことは黙っていたから、桜風が知るはずもない。鬼天は時を遡り、市間が王鬼師匠の主治医として王鬼部屋に入り込んでいたことや、勇王山とも繋がりがあることを順に説明していった。


「……そうかい。そんな奴がいたとはねえ。いやたかも、強かあなかったけど、弟子を教えるのが上手な立派な子だったがねえ。あんな死に方するとはね」


 鬼天の師である王鬼おうき孝之たかゆきをも、子か孫を呼ぶように懐かしんで、桜風は吐息をつく。


「親方。親方は師匠オヤジの死に際を知ってるんですか。遺体がどうなったかも」


 今まで何度も協会の親方衆に問いかけてきた言葉を、鬼天は桜風へと投げかけた。これが初めてではない。師の葬儀の前後にも誰彼構わず問うた中に大師匠も含まれていた。その後も機を見ては同じ問いをし、同じようにはぐらかされてきた。だが、今日の桜風は異なっていた。問い返してくる。


「孝は、独り身だったっけね」

「はい。少なくとも俺の知ってる限りでは」


 市間の薬の件も、結局死ぬまで師匠は明かさなかった。同じ薬を用いていた勇王山と、たまたま覗き見てしまった鬼天以外は、誰も知らないはずだ。他に隠し事があっても、悲しくはあるが鬼天にとって意外とも思えなかった。


「なあに仁ちゃん、そう疑ってやるもんでもないよ。しかし、そうだねえ。独り身だったってんなら、あんたら弟子たちが弔ってやらにゃあならんだろうに。ねえ」


 鬼天にではなく、半端に放り出された桜風の同意を求める声は、座卓の半ばに墜落してそのまま消えた。もしかしたら今なら教えてもらえるのではと、鬼天はやや身を乗り出し気味に、大師匠を促す。


「それで、あの」

「いや、そのうち協会にも話しておくよ。それまでは、あたしも協会に所属する身だ。理器士の信条としても、すまないが決まり事はきちんと通す。すまないがね」


 重ねて謝る桜風に、それ以上の暴露を求めることは鬼天にはできなかった。これまで大勢に問いかけてきたことから分かっている。王鬼の死について詳しく知っているのは親方衆の中でもごく一部であり、その面々も一人残らず協会に口止めされていることを。


「分かりました。言えるようになるまで、また何度でもお尋ねします」

「いい根性だよ、仁ちゃん」


 諦めのため息とともに鬼天が言うと、慈しむような微笑で桜風は応えてくれた。そのときを狙っていたかのごとく、襖が開いて桜大海が準備の完了を告げる。さて、と呟いて桜風は立ち上がると、桜大海の後ろから入ってきた谷村靖実を連れて、自身の支度に向かう。師弟の間に言葉は無くとも、役割は決まっているらしい。こっちへ、と桜大海にいざなわれて、鬼天と宗太は従っていった。


  ■


 通された部屋は狭く、薄暗かった。出入口は屈んでやっと通れるような小窓ほどの大きさで、中は三畳ほどの黒々とした土の地面だった。茶室のような、というには明かり取りも少なかったが、概ねそのような印象を鬼天は抱いた。

 短い廊下を歩く間に、さしもの夜虚綱も師匠の前だと形無しだな、などと桜大海をからかって愉快な笑い声を上げていた一行は、部屋の沈んだ空気にすっかり気分を落ち着かせられていた。そのおかげか、鬼天は桜大海に訊ねなければならないことがあったのを思い出す。


「夕、おまえのところにも来たか。土俵ブローカーの女が」

「おや、兄さんのところにも行ってたのね」


 どうやら、かなり仕事熱心な人物らしい。なにか、と問う二人の声が衝突し、桜大海の方がどうぞと先を譲る。それに従って鬼天は途切れた言葉を言い直した。


「ああ。なにか言われたかと思ってな」

「あたしもそれが聞きたかったところよ」


 そうか、と応じて鬼天は壁に背を預けると、つまらなそうに吐き捨てる。


「商売の邪魔はするな、とさ。警告なんだとか」

「あたしも似たようなこと言われたね。協会に居られなくしてやるとか、ってのもね」

「そうか。ただの小物チンピラだとは思うんだが」

「だろうね。あんまり偉そうにしてるから、あたしは逆に名前を聞いてやったのよ」

「なんていうんだって?」


 桜大海が言うのを聞いてはじめて、鬼天はあの土俵ブローカーの女の名前を知らないままだったことに気がついた。覚えておく必要があるとも思われなかったが、気紛れに訊ねてみると、夜虚綱は袂を探って一枚の小さな紙切れを差し出してくる。


「ほら、これ。名刺だってさ」


 受け取って鬼天はしげしげとそれを眺めた。電話番号などの連絡先は一切書かれていない。その代わりとでもいうように、でかでかと松井まつい江利えりと記された名前と、小さく添えられた土俵販売業の肩書きが、よく分からない潔さのようなものを感じさせる。


「松井っていうのか」

「いるならあげるわよ」

「いらねえよ」


 可哀そうなほど雑に扱われて松井江利という名は、また桜大海の袂に戻されていった。そこで師匠たちの話が途切れたのを、大人しく待っていたらしく、すかさず宗太が質問を差し込んでくる。


「あの、稽古場ってここなんですか」

「いいえ、違うわよ。ここは師匠オフクロとか、あたしや役付きやくづきの理器士たちが、ひとりで死霊を練るための稽古場で、ふつうのみんなのは、別よ」


 役付きとは幕内の中で平幕以外の者を言う。つまり、小産巣日、関和気、大関の三役と、夜虚綱の階級を持つ理器士の総称である。死霊を練る修行はあまり広く行われてはいないが、ひとりで自分の死霊回路や、そこに呼び出した根の国の死霊たちと向き合って時間を過ごすことが主な内容とされていた。役付きともなればこそ、正式な土俵を用いずとも相撲を取ることができるがゆえに可能な修行ともいえた。

 宗太の疑問に、答えた桜大海の方が今度は、それがどうかしたかという不可思議に囚われたらしき表情なのを見て、鬼天は少し反省した。普通の稽古場というのがどういうものか、話して聞かせたことはあっても、宗太にちゃんと見学させたりしたことはない。いずれどこかの相撲部屋の稽古にでも参加させてやらないとな、と期日の曖昧な予定を立て、それはそうとして思いついた問いを投げかける。


「そういえば計管に土俵を接収されたって言ってたが、みんな稽古はどうしてるんだ」

「まあ土俵を使わずに済む基礎訓練あたりを中心にね。筋トレとか精神修養とか。ああそうだ、計管といえば、兄さん、覚えてるかな。餓蝶がちょうって奴」


 協会の中にある計算資源管理委員会、通称計管のメンバーの一部が先走って、禁土俵法ではグレーゾーンであるはずの、相撲部屋の稽古用土俵までも接収しているという話だ。


「餓蝶? 小産巣日あたりだったか」

「そう、餓蝶がちょう麻子あさこ。あいつ現役引退して親方になって、気付いたら計管の委員だって言って、この前ウチに接収に来たってわけさ」

「おまえにさんざん土俵の上でボコられたから、仕返しに来たんじゃないか。土俵の借りを土俵で返しにさ」

「意味が違うだろ」


 土俵上の負けに対して、土俵上の再戦における勝利を期する理器士の常套句を持ち出して皮肉げに笑う鬼天に対して、呆れたように桜大海が正当な返事をする。


「それに、取組みの数なら兄さんの方が多いでしょうよ」


 言われても鬼天にはあまり印象深い理器士ではなく、そうか? とだけ返して問題を棚上げにした。松井という土俵ブローカーにしても、餓蝶という計管委員にしても、ずいぶんと務めに励むものだな。そんなことを思いながら鬼天は壁から背を離す。高揚した死霊回路が近付いてきている感覚がある。桜風親方が、もうすぐそこまで来ているのだ。


「できれば、お近付きにならずに済ませたいね」


 松井と餓蝶を念頭において呟いた鬼天の声は、小さく地面にくすんで消えた。その代わりとでもいうように、やけにビートを掻き立てた騒がしい曲が聞こえてくる。


「なんだ、ありゃ」

「最近お気に入りの、なんとかってバンドの曲らしいわよ」


 唖然として問う鬼天に、桜大海が答えてくれる。だがそういうことが聞きたかったわけではない。さっと出入口の障子戸が開き、廻し姿に桜風の文字を散らした着物一枚を肩にかけて桜風親方が入ってくる。その後ろから靖実がポータブルプレーヤーとスピーカーを部屋に入れ、自身も中に身を移してから、また障子戸を閉じた。


「いよぉよお諸君、ロックしてるかねー!」


 ノリノリで猛る桜風をよそに、靖実は桜大海の隣へきて何事もなかったかのように静かに控える。夜虚綱も慣れた様子で、それを見た鬼天と宗太は苦笑するしかなかった。

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