センス
@serai
第1話:偽善
雨が降っていた。6月の中旬頃で梅雨時と言え……よく雨が降る。これから蒸し暑くなっていく前触れの儀式のようである。通学の帰り道の途中で僕は、足を止めた。傘を差したまま、道の端に転がっている猫の死体を眺める。どうやら、雌猫のようである。死体になった雌猫の直ぐ横で生まれて間もない一匹の仔猫が「ニャー、ニャー」と鳴いていた。雨にうたれその小さな身体を震わせている。この仔猫には、心はあるのだろうか。それとも、猫と言う動物は、本能だけで生きているのか。痛み、悲しみは、理解できるのだろうか。動かなくなった母猫の横で鳴き続ける仔猫の姿は、母親の死を嘆いている様にも見えた。
「何してるの?」
突然後ろから声を掛けられた。振り返ると僕と同じ学校の制服を着た女生徒が立っていた。見た事がある同級生だった。たしか同じクラスの工藤麻美と言ったか……。工藤麻美は、クラスではとても人当たりの良い気さくな性格の女生徒だ。誰とかまわず気軽に声を掛ける性格は、八方美人だと噂されている。どんな時にでも絶やさない彼女の笑顔は、僕には眩しすぎた。何時もどうてあんなに心の底から笑顔を浮かべる事ができるか不思議でならない。
「うわぁー!! 酷い……ね」
工藤麻美は、雌猫の死体を見てそう言った。
「誰かに苛められたんだね」
工藤麻美は、死体の状況を見てそう判断したようだ。雌猫の死体は、車に轢かれたとするには、きれい過ぎた。内臓もはみ出る事もなく、ただ外傷と思えるのは……頭部の裂傷と骨折によるものだ。推測すれば、誰か……この場合、近所の子供が追い詰めた雌猫を蹴り飛ばしたのだろう。その時の衝撃で地面に頭部を激しく打ち付けたのかもしれない。雌猫は、近くに自分の仔猫が居た為に逃げなかった。と、言った感じなのだろう。
「ねぇ、手伝ってくれるよね?」
工藤がそう言って親猫の横で鳴き続ける仔猫を拾いあげた。そして、その仔猫を僕に手渡して、今度は、親猫の死体を拾いあげる。
「ついて来て」
工藤のその言葉に僕は、素直に従う事にした。
工藤麻美に連れて来られたのは、お寺の近くにある雑木林だった。軽く猫が一匹埋まるスペースの穴を掘って僕と工藤は、猫の墓を作った。少し大きめの石を墓標にして、一見なんの目印か解らないが僕達だけがそれを認識するのであれば十分である。
「こう言うの偽善だと思う?」
工藤は、猫の墓に手をあわせたまま、突然そんな事を聞いてきた。
「……偽善? 自己満足って事?」
「うん……」
「わからない」
そう僕には、わからない。
そんな事は、理解できない。
「でも……」
「でも?」
「でも、猫の墓を作ると言う行為が……この社会に与える影響が無いに等しいとしても……その行為で君の心が安定するのなら、それは……有益ではないのかな」
僕のその回答に工藤は、少し驚いた表情を浮かべて直ぐに可笑しそうに笑い始めた。
「あはは、貴方……変わってるね。とても変だよ。そう言う事、言う人は、初めて」
「僕が……変?」
工藤の変だと言われて僕は、ある事に気がついた。何時の間にか、工藤の会話で受け答えたしてたのは、仮面の自分ではなく……感情のもたない素の自分だった。こんな事は、初めてだ。 素の自分を佐倉曜子以外の人間に晒す事は、今までありえなかった。猫の死体を見てしまったからだろうか。それとも雨がそのんな気分にしてしまったのか。
「僕、そろそろ帰らないと」
僕は、そう言ってから、工藤に背を向けた。
「あっ、一寸待って!」
工藤が呼び止めたので、僕は、振り向いた。
工藤は、僕の胸を指差して
「その仔猫、どうするの?」
と聞いてきた。さっきから、僕の胸に抱きかかえたれた仔猫は、鳴き疲れたのか大人しく眠っていた。
「えっと、どうしよう?」
「いいわ。預かるよ」
僕は、笑顔で言った工藤に仔猫を手渡した。
僕は、本家の道場で正座をしていた。目の前で繰り広げられる剣術の練習生徒を眺めながら、ふと、ある人物の動きを目で追っていた。その人物の動きだけは、異様に映る。あれは、人の動きではない。 獣の動きである。佐倉曜子の剣術の腕前は、すでに目録以上の伝位に達している。だが、古いしきたりにより女性である佐倉曜子には、伝位は、与えられない。この道場で教えている剣術は、『天真正伝香取神道流』の流れを組む朝倉流剣術。元々、佐倉家は、この朝倉家から分家した家である。昔ならがらの風習で分家をする家は、家名を変えなければならなかった。朝倉家は、昔から男児が生まれにくい家系であり、家督を継ぐ者は、養子に迎えた男子が多かった朝倉家8代当主・朝倉阿鞍アクラとその妻の間には、子供に恵まれなかった。親戚の子供を養子に迎えたが、その後間もなくして朝倉阿鞍とその妻の間に奇跡的に子供が生まれた。朝倉阿鞍は、養子に迎えた男子を分家させ、佐倉阿斗アトと名を与えたと言う。ゆえに朝倉家と佐倉家は、血が繋がっていないもののその付き合いは古く、古くから剣術道場を営んできた朝倉家の剣術の秘伝……陰形を佐倉家に与えたほどである。
朝倉家道場で教えている剣術は、表之太刀と呼ばれる正道剣術であるが佐倉家が受け継いだ陰形之太刀は、邪道の剣術だと言われている。どちらかと言えば、陰形之太刀の方が実戦向きだと言う。そして、その陰形之太刀を継承したのが佐倉曜子。その獣の動きさえ、陰形之太刀の基本だと言うのだから……佐倉曜子の潜在的戦闘能力は、とても高い位置にあるのではないかと思う。
道場の角で練習を行っていた佐倉曜子が練習用の木刀を腰に収めて僕の目の前にやってきた。
「賢治、今日は、少し私の相手をしなさい」
佐倉曜子は、そう命令口調で言うと自分の腰に提げた木刀を僕に手渡した。今日は、見物だけのつもりだったのだが、佐倉曜子にそう言われて断る理由もないので僕は、木刀を受け取った。皆の練習に邪魔にらなない様に空いているスペースに移動する。
「賢治、本気だすからね」
佐倉曜子は、そう一方的に言うと八方剣の構えをとる。抜刀した剣を水平に自身の前方に構える形である。僕は、無動作に木刀を下段に構え、相手の出方を見る。
「っ……」
息を吐く音を共に佐倉曜子の木刀が僕の頭目掛けて走る。普通の人間なら、対応できないほどのスピードだが、時々佐倉曜子の相手をしている僕には、辛うじて反応する事ができた。木刀を素早く下段の構えから頭を守るように上段に移動させる。
ガツン
と音を鳴らせて佐倉曜子の木刀を弾く。そして、息つく間もなく、佐倉曜子の木刀は、信じられない軌道を描いて僕の心臓を狙うように突き出される。 僕は、それを冷静に身体を半身にしてかわした。しかし、佐倉曜子の木刀は、それすら軌道を変えて、僕の首を狙う。これは、間にあわないと思った時、
「それまで!!!」
と、とてつもなく大きな声が道場に響き渡った。
その声に反応した様子で佐倉曜子の木刀が僕の首を貫く寸前でピタリとその動きを止めた。
ドシドシ
と先程大声を出した大男……この道場の師範代である朝倉圭吾が僕と佐倉曜子の前にやってきた。 朝倉圭吾は、今年42歳になる大男。朝倉家の跡継ぎであり、道場の師範をこなしている。仕事は、警察官と言う少し融通の利かない硬い男である。
「曜子! お前……俺が声を掛けねば……その木刀で貫いて居たか?」
「ええ、当たり前です。私は、本気で行くと……言いました。ならば、私の剣を止められる者が悪い」
佐倉曜子は、そう言ってのけると朝倉圭吾は、苦虫を噛み潰した表情を浮かべるとボリボリと右手で頭をかく。
「まったく、恐ろしい奴だな。曜子、お前には、……和を尊ぶ朝倉流剣術は、似合わんな」
朝倉圭吾は、そう佐倉曜子に言い放つと再び背を向けて、他の練習生達の指導に戻っていった。佐倉曜子は、あの時本気だった。本気で僕の喉を貫こうとしていた。朝倉圭吾が止めなければ、今ごろ僕は、殺されていたかもしれなかった。
やはり、佐倉曜子は……気が抜けない相手だ。
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