ユートピアのマシュマロ

まっちゃ大福

第1話 開演するロマンス

 大きな湖の湖面には、太陽の光が反射している。

鳥達の声が耳に届き、私とあの人は船の上で見つめ合っている。

誰もいない昼下がり。

あの人は丸い瞳をこちらに向けて、一言。

「村瀬さん」

そう、私の名前を呼ぶ。

暖かくて少し低いその声で。

「はい……」

私は緊張して、両手でスカートの裾を掴みながら少し俯く。

「好きだよ」

臆面もなく繰り出される甘い言葉に、私は顔を真っ赤にする。

「わ、私……も」

なんとか口から出した言葉は、そのまま湖の底に沈んでしまいそうで。

「村瀬さん」

もう一度、あの人が私の名前を呼ぶ。

「村瀬さん……」

陽炎のように、景色が歪んで……。



「村瀬さん、村瀬紗綾むらせさあやさん!」

私は無粋に響くヒステリックな声で目を覚ました。

耳が痛くなるようなその声で、誰かが何度も私の名前を呼び続ける。

「……え」

机に顔を押し付けるようにして突っ伏していた私は、なんとか顔を上げる。

「村瀬さん、聞いてました?」

「……聞いてないです」

ここは正直に言うしかない。

気付けば私は大学の講義室にいた。

いや、正しく言うならば私は講義室に授業を受けに来て、そして寝ていたのだ。

確か教育史の授業だったか。

「聞いていなかった村瀬さんのためにもう一度言いますが、来週は前期のレポート提出期限日です。それより前にレポートを出しに来る生徒は、私が学内にいるかどうか、スケジュールを確認して教官室に届けに来るように……」

それから先の言葉は、よく覚えていない。

私は嫌味な先生の言葉など聞こえないかのように、再び夢の世界へと旅立って行った。



 授業が終わったのはそれから十数分後のことだった。

授業終了を知らせるチャイムの音で私は二回目の覚醒を味わうこととなった。

「眠い……」

昨日はあまり眠れなかった。

その反動で本日の教育史の時間はもれなく仮眠時間へと変更になった。

「紗綾、ご飯食べに行こ」

「……麻紀」

雨宮麻紀あまみやまきが人工的な金色の髪を揺らしながら私の肩を叩く。

「どうしたのよ、今日メチャクチャ寝てるけど」

「眠いのよ」

「そりゃそうだろうけどさ」

とりあえず食堂行こう、ともう一度私の肩を叩く麻紀。

その問答で目が冴えた私は、麻紀を伴って学食へと向かうことにした。



 教育史は三時限目の授業で、既に時刻は午後三時を過ぎていた。

ピークを過ぎた食堂にはぽつりぽつりとしか人は居ない。

「いやぁ、お腹空いたわ。私今日おにぎり一個しか食べてないもの」

麻紀がへこんだ腹を叩きながら溜息をこぼす。

そういえば私も朝食以来何も食べていない。

そう自覚すると、食堂に匂いも相まって腹が減ってきた。

端の二人掛けの席に腰を下ろすとカウンターへ向かい、カツ丼を伴って席に戻った。

「で、どうして今日は眠れなかったのよ」

麻紀が頼んだハヤシライスを口に運びながら私に訊く。

「……それは」

「それは?」

「…………」

言えるわけない。

「あ、分かった。男絡みでしょ」

麻紀が人差し指に金髪を巻き付けながらこちらを見る。

カラーコンタクトで着色された瞳が、私を見つめる。

「へぇ、そっかぁ。今度はどんな感じの人なわけ?」

返答を待たずに、麻紀は話を進める。

いや、実際麻紀の言う通りなのだけれど。

「……バイト先の人」

「歳は?」

「二つ上」

「っていうとフリーター? それとも大学院生?」

「いや……多分大学院生じゃないかな、バイト先が近いとか言ってたし」

私は少し俯く。

麻紀とは中学生の頃からの付き合いだ。

今まで何度となく恋愛指南という名の雑談を繰り広げてきた。

麻紀は私の男性のタイプを知っている。

つまりは……、その

「で、今回もやっぱりアレなわけ?」

「アレって……」

まぁ、そうよ。

今回も例に漏れずアレよ。

あんまり口には出したくないけれど。

「そっかそっか。相変わらずアンタも好きだねぇ」

麻紀は少し声を潜めてはは、と笑う。

嫌味な感じでは無いため不快にはならないが、少し恥ずかしかった。

気が付くと麻紀はハヤシライスを平らげていた。

「今日ってこの後空いてる?」

スマートフォンを器用にいじりながら、こちらを窺う。

「今日はこの後からバイトよ」

「あら、噂のバイトね」

「噂の、って何よ」

それではまるでいかがわしいバイトのようではないか。

「確か喫茶店だっけ、新宿の……」

「そうだけど」

「あ、もしかして今日その人と一緒だったりするの?」

相変わらず勘が鋭い女だな。

「そ、そうだけど……それが何よ」

何とか強気を保つけれど、それを見て麻紀はニヤニヤと口角を上げる。

「分かった。アンタ今日のバイトのこと考えて、昨日眠れなかったんでしょ。その反動で今日の教育史はあんなザマに……」

名探偵か、この女は。

「そ、そうよ、それが何か悪い?」

わざとらしく強気を装って無い胸を張ってみせる。

そうよ。

昨日から今日のバイトのこと妄想してそのせいで気付いたら朝の五時になっててろくに眠れなかったから授業時間を利用して仮眠してたんですけどそれが何か。

といった雰囲気で私は開き直る。

「じゃあ、私今日アンタのバイト先遊びに行こうかな……どうせ暇だし」

「いや、来なくていいから」

「視察よ、視察」

コイツ、完全に楽しんでるな。

こうなったら麻紀はもう止まらない。

「まぁ……勝手にすれば」

「でも新宿かぁ。ちょっと遠いわよね」

そもそも来いとは頼んでないのだけれど。

私達の学校は世田谷区に位置しているため、少し距離があるのだ。

それでも新宿までは乗り換えなしで一本なのだけれど。

「琢磨に車出してもらおうかな……」

「え、アイツも来るの」

御堂琢磨みどうたくまは私と麻紀と同じ中学時代からの友人である。

三人集まって今まで色々な馬鹿をしてきた仲で、私のもそれなりに知っている。

甘い外面マスクで女子からの人気はそれなりにあるらしいけど、私の範疇タイプじゃない。

どこが良いんだろう、あの馬鹿の。

あとついでに言うと麻紀の彼氏でもある。

「だって、電車混むし……」

私はこれからその電車でバイト先に向かう訳なんですが。

というか、どうせだったら私も琢磨にバイト先まで送ってもらいたいんだけど。

「まぁ……勝手にすれば。でも店の中で奇声発さないでね」

「そんなキャラじゃないからね、私」

麻紀はパステルピンクに塗られた爪を撫でつけると、ふふ、と笑う。

「とりあえず、そういう訳だから私はバイト行くわよ」

「うん。いってらー」

私は手を振る麻紀を尻目にカツ丼が乗った盆を返却口に返して、食堂を去った。

そろそろ梅雨だからか、少し外は蒸し暑かった。




 喫茶店「スプリング」に着いたのは勤務開始十五分前のことだった。

「おはようございます」

私がそう言うと、厨房の奥から主人の春川詩織はるかわしおりが顔だけをこちらに出して微笑んだ。

「おはよう」

クッションのように柔らかい声で返す詩織。

確か今年で三十三らしいけど、美人だと思う。

私は厨房の横にある更衣室に入ってエプロンを付ける。

更衣とはいえエプロンを身に付けるだけなので、男女の区分は無い。

「おはようございます」

私が胸元に名札を付けていると、あの人は颯爽と現れた。

扉を力強く開いて、張った白いシャツを輝かせながら。

「お、おはようございます」

なんとか平静を装うようにして、私はスマホをいじるフリをする。

狭い更衣室に二人。

しかもあの人と、あの人と二人きりだぞ私。

予想していたとはいえやはりテンションは否応なしにあがる。

いや、ここはなんとか普通を装え。

鼻息でも荒くしてみろ、すぐに幻滅されて唾棄だきされるのがオチだぞ。

頑張れ村瀬紗綾、頑張れ私。

「最近蒸し暑くて困るね。僕汗っかきだからさぁ」

志藤征士郎しどうせいしろうは持っていたタオルで額を吹きながら人懐っこく笑う。

「あ、ごめんね。嫌だよね……。先出てて良いから。ごめんね」

大型犬のように大きな身体を少し屈めて申し訳なさそうに謝罪を繰り返す。

いや、可愛すぎかよ。

「そんなことありませんよ、全然気にしないでください」

むしろもう少し近くに寄ってもいいでしょうか。

と進言したかったけれど、やめた。

これでは変態だと思われて幻滅されてしまう。

とはいえ着替え終わったのにいつまでも更衣室に居残るわけにはいかない。

私は先に行ってます、と名残惜し気に呟くと更衣室を出て行った。

本当はもう少し見ていたかったんだけど。

というか写真撮影したかったんだけど。

そんな乙女の本心は胸の奥に沈めて、私は厨房の詩織の元へ向かうことにした。



 志藤はそれから五分後くらいに厨房へ駆け出して来た。

「そんな急がなくてもいいよ、志藤くん」

詩織は時計を指差して志藤に微笑みかける。

まだ勤務開始時間の五分前だ。

「というかさ……」

値踏みするように志藤を見つめながら、詩織が呟いた。

「今度志藤くん用に大きめのサイズ用意しておこうか? エプロン……」

私はその言葉に触発されて志藤のエプロン姿を見つめた。

ここに用意してあるエプロンは一律同じサイズだ。

私や詩織はおろか、成人男性の平均体格より一回りは大きい志藤が私達と同じエプロンを身に付けると、まるで今にもはち切れんばかりにエプロンが張り詰める。

まるでエプロンを拷問しているようだ。

「い、良いですよ……。わざわざ買ってもらうなんて」

「動きづらいでしょ、それ」

「大丈夫ですから」

へへ、と照れるようにして頭を掻く志藤。

一重のつぶらな瞳が更に細くなって、優しく口角が上がる。

やっぱり、可愛すぎかよ。

「そう。まぁ、辛くなったら言って。さて、今日の勤務内容はもいつもと特に変わりは無しよ。何かあったら私に訊きに来なさい。以上、解散!」

そう言い終えると、詩織は私と志藤の肩を軽く押した。

これはいつもの詩織のクセだ。

この喫茶店は新宿の職安通り沿いにあるのだが、会員制のように客が押し寄せない。

基本的には詩織が厨房で料理を担当し、他の人員は主に接客や注文、店内の掃除を行い、手が空いたら皿洗いやちょっとした料理の手伝いを行う。

私はここの長閑のどかな風景が好きだ。

来るお客さんも常連のお客さんばかりで、どの人も気が良くて好きだ。

そして何より、あの人と一緒にいれるこの時間が……。

からん、からん。

来店を示すベルの音が鳴り、私はそちらへ向かった。




 「………………」

黙る私を目の前に、二本指を立てる麻紀。

「二名様よー。タバコはどっちでも良いけれど」

「どうぞ」

私は少し頬を膨らませながら、麻紀と琢磨を奥の席に座らせる。

本当に来るとは思ってなかった。

「ねぇ、アンタが好きなの、あの人でしょ」

麻紀が笑いながら奥で接客をしている志藤を軽く指差す。

「そうですけど」

思わず早口になってしまう。

多分聞こえてないと思うが、それでもやはり顔が赤くなる。

「アンタのタイプまっしぐらね。まぁ、優しそうではあるけど」

「つうか、お前まだデブ専やってるのな」

琢磨が明け透けな言葉を私にぶつける。

「バカ、そんなこと言わないの」

麻紀が一つ睨んで琢磨の頭を叩く。

いてぇ、と両手で頭を抑える琢磨。

「ごめんごめん、分かってると思うけど悪気は無いから。コイツただのバカだから」

麻紀が両手を擦りつけるようにして、私に謝る。

まぁ、無礼なんて今に始まったことではないので気にはしていないのだが。

デブ専。

私の男性の嗜好はそういう言葉でまとめられることが多い。

傍目から見ればそうなのかもしれないけど、別に私はデブが好きなわけじゃない。

逆に言うと男性らしさを強調するような堅い、筋肉質な身体が怖いだけ。

だから対照的なぷにぷにした……柔らかい身体や人柄に惹かれるだけ。

デブ専っていう言葉は、まるでマニアックな変態みたいな言い方で好きじゃない。

だって、ただ人のことが好きなだけなのに。

ただみんなと同じで、誰かと恋したいだけなのに。

「分かってるから、別に……」

「あ、俺チョコレートパフェ一つ」

相変わらず空気読めないな、この男は。

それが琢磨の長所であり短所であるのだけれど。

「あぁ……。じゃあ私はイチゴパフェ。それとメロンソーダちょうだい」

麻紀もそれに並んで注文を繰り出す。

私は手元にあるメモにそれをメモして、厨房へと駆けて行く。

また顔が赤かった。


 「チョコパフェ、イチゴパフェ、メロンソーダ一つずつ……」

私が厨房へ注文を告げに行くと、厨房には志藤もいた。

志藤は私の姿を認めると、こちらへ大きな身体を揺らしてこちらへやって来る。

身体が大きいからか、一歩も私よりずっと大きい。

「大丈夫? 村瀬さん」

「へ……?」

言っている意味が良く分からなかった。

「顔、赤いよ」

「顔……赤いですか?」

目の前に志藤がいるという状況からか、馬鹿のようにオウム返ししてしまう。

「ほら」

志藤が手の平を横にして、私の額に当てる。

「え」

「うーん、熱はないみたいだけど、少し休んだら? あんまりお客さんもいないから」

「…………」

そんなことをされては更に頬が紅潮あかくなってしてしまう。

「そうね。ちょっとそこで座って休んでて良いよー」

詩織もパフェを作りながらこちらに向けて微笑む。

「村瀬さん、大丈夫?」

もう一度志藤が訊く。

本当に、優しそうな顔つきで。

「大丈夫です、少し休めば治ると思いますから……。すいません」

「あまり無理しないようにね。女の子が倒れでもしたら大変だから」

そう、丸い輪郭の顔を綻ばせる志藤の姿は、まるで木漏れ日のように暖かくて。

私は厨房の隅に腰かけながら、契機きっかけをくれた琢磨に少し感謝した。









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