夕映え V10

001 邂逅

 広葉樹が生い茂る森の中。老いた男が、オーダーメイドの革のブーツを、腐葉土に沈めながら。緩やかな傾斜を歩み進める。

 息が切れる。腿に強張りと熱を感じる。余り早いとは言えないペースであるのに。


 「ここまで衰えたか」


 そう老人は漏らす。周りに、その声を聞くものはなく。けれど老人の身は、適度な興奮と疲労に包まれていて。頭を駆け抜ける思考は、そのまま言葉となって口を出て行く。


 ーーもう、十年は野山を歩くことは無かった。自分の身を高める努力に至っては、もう三十年もしていないだろう。ただでさえアチラコチラに綻びが出る歳である。すっかり錆びついた肉体を引き摺るのは、至って当然のことで。この、えも知れぬ後悔と悲しみの念も、全く受け入れるしか無いことなのだ。


 「昔ならば、どうと云うことはなかったろうに」


 老人はかつて、山に生きる男であった。此の国で最も名高いサクソン大学、そこで過ごした六年の月日は、山岳クラブで過ごした六年だった。


 サクソン大学山岳クラブ。


 バスク大陸にもたらされた近代化の波は、即ち人々に新しい娯楽の機会を与えた。その一つ、近代的登山を、最も早くから実践した者達が、このサクソン大学の学生達。最初は、地理学派に所属する者たちの知的好奇心と冒険の寄る辺であった。

 ーーだが、その内。ただただ山を求める男達の住処に変わって。大陸に《そび》聳える、未踏の頂の多くは陥落し。ならばと未踏ルートを、未踏壁を征く鉄の男達の中。若かりし日の老人はいた。


 彼もまた、かつては鉄の男の一人でーー




 ――けれど。学士となり、クラブも出て。鉄道会社で頭角を表した彼は、山で過ごす日々を失った。この国の最高峰、エル・グランの東壁を初登した三人のうちの一人も、いつの間にか我が国ドルテの主要な線路を、手中に収める豪商の一人となっていた。

 そんな歳老いた富豪が、なぜ山中を独りでに歩くのか。その原因は、会社を後継者に任せ、久しぶりにと母校を訪ねた折にある。


 開けた場所に出る。川沿いの河原。此処を遡ればやがては彼の愛した山々が在る山脈に辿り着くだろう。だが、今の瞬間に於いて、そんなことは構うべき問題ではなかった。


 「――ッ!」


 そう。この衝撃は、あの母校での邂逅と同じ。否、其れ以上の重さを持って突き抜ける。あの時に見た彼は・・手製であろう、奇怪な壁の前にいた。

 しかし、今は違う。目の前の岩。平凡な人間の感性ならば、巨岩と呼ぶべき大きさであるが、しかしこの鉄の男からすれば、直径5メートル程の其れはさした大きさには感じない。だが、だが。

 ちょうど手前側の、前傾するフェイス氾濫はんらんを繰り返し、やがてて美しく磨かれた岩肌を。


 ――青年が、登っていた。

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