第48話 大ゲンカ

 ある日、活と夏が喧嘩をした。

 珍しいことだ。

 なにが原因なのか、よくわからない。

 その日から、二匹はちょくちょく喧嘩をするようになった。

 普段は仲がいいのだが、活が舐めたりしていると、突然夏が叫び声を上げて、活に襲いかかったりする。

 いまのところ、どちらも噛んだり引っ掻いたりと、お互いが傷つくようなことはやらないが、これからもそうだとは限らない。

 自分が会社へ行っている間に、血を見ることはないだろうか。

 善次郎は、それが心配だった。

 美千代も洋平も心配している。

 善次郎が会社へ行っている間、時間があれば洋平が様子を見てくれることになった。

 善次郎が家にいる時は、二匹の様子をよく観察するようにした。

 そうして見ていると、どうやら夏の気が立っているのが原因らしいとわかってきた。

 もともと気の強い夏だったが、ここ最近ふとしたはずみで、異常に興奮するようになっている。

 活も、最近はあまり夏に近づこうとはしなくなった。

 そうなると、今度は夏がちょっかいを出してくる。

 そんなとき活は、無視したり逃げたりしてかわしていたのだが、ある晩あまりのしつこさにキレたのか、とうとう夏に襲い掛かった。

 二匹とも凄まじい叫びをあげながら取っ組み合いを演じる。

 その声は、隣近所にも響いた。

 驚いた美千代と洋平が善次郎の部屋に飛び込んできた時、善次郎の顔と腕には無数の傷が刻まれており、見るも無残に血にまみれていた。

 その姿を見て、二人とも立ち竦んだ。

 さすがにこれはやばいと思って、善次郎が二匹を引き離した結果だった。

 そのお蔭で、活と夏はまだ興奮しているものの、お互い離れて睨み合っているだけだ。

 美千代と洋平が、恐る恐る二匹を宥める。

 暫く睨み合っていた二匹が、プイと横を向いて、それぞれ部屋の隅に行き、何事もなかったように蹲って眼を閉じた。

「大丈夫?」

 二匹の様子を見届けた美千代は、タオルをぬるま湯に浸して搾り、善次郎に渡した。

 その顔は、とても心配そうだ。

 洋平も凄く心配そうな顔をして、善次郎を見ている。

「あまり大丈夫とは言えないけどね、とにかく、二匹に怪我がなくてよかった」

 顔と腕の血を、美千代から手渡されたタオルで拭いながら、ホッとした様子で善次郎が答える。

「あなたったら、自分が傷だらけなのに、猫の怪我を心配するなんて」

 呆れたように言う美千代だったが、その眼には慈しみがこもっていた。

「俺は大丈夫だ。噛まれ慣れてるからな」

 善次郎が顔をしかめて笑う。

 そんな善次郎を見て、洋平の心配そうな眼差しが、尊敬の眼差しに変わった。

 洋平の脳裏に、この間善次郎に聞かされた話が蘇った。

 あれは嘘ではなかった。

 お父さんは、自分のことより、猫のことを考えて行動している。

 そういえば、ここに来てからのお父さんは、僕とお母さんにも気遣ってくれている。

 洋平は、善次郎が猫だけを気遣っているのではないことに気付いた。

 以前だったら、自分のしたいようにしかしなかったお父さんが、今は、いつも僕とお母さんのことを尊重してくれている。

 そう気付くと、これまでの善次郎の何気ない言動に、二人を気遣う気持ちが溢れていたことが、いろいろと思い出された。

 これまで洋平は、二匹と一緒にいたいがために、二人が縒りを戻せばいいと思っていたが、今は、心からお父さんと一緒に暮らしたいと思った。

 しかし、それを口に出すほど、洋平も子供ではなかった。

 洋平には、凍りついた美千代の心が、徐々に解けていっているのが感じられていた。

 いつか、時が解決してくれるだろう。

 そう思って、二人のことは二人に任せることにした。

 美千代は、かいがいしく善次郎の傷の手当をしている。

「あなたも、無茶をするわね。暫く目立つわよ」

 笑いながら言う美千代に、

「大丈夫さ、俺が猫を飼っているのは会社の連中は知っているから」

 と、善次郎がこれも笑って答える。

「どうして、あんなに仲が良かったのに、近頃喧嘩するようになったのかしら」

「盛りだよ」

 美千代の疑問に、善次郎があっさりと答えた。

 そう、夏は盛りがついてイライラしていたのだ。

 それに今日、善次郎は気付いた。

 活は去勢しているが、夏はまだだ。

 そろそろと考えていた時期だったが、美千代と洋平が毎日二匹を見に来るので、善次郎は言い出せないまま、ずるずると引き伸ばしていたのだった。

 それを、美千代と洋平に説明する。

 手術と聞いて美千代は心配したが、善次郎は大丈夫だからと言って美千代を安心させ、夏の去勢を行うことに決めた。

 しかし、善次郎にも不安がないわけではなかった。

 それは、夏が雌だったからである。

 雄も雌も一緒だとは思うのだが、経験のない善次郎には、やはり不安があった。

 善次郎の不安は的中した。

 去勢手術そのものはなんてことなかったが、手術後から、夏はとんでもないことになってゆく。


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