第16話 帰宅

 翌日、善次郎は朝一番に、活を引き取りに行った。

 病院が開くのを待ちきれず、一時間前から病院の前を行ったり来たりしていた。

 今日は、仕事は休みだ。たまたま休みで良かったと、善次郎は感謝している。

 活は善次郎の顔を見て、ひと声鳴いた。

 善次郎の顔を見て歓喜の声を漏らしたのか、自分をこんな目に合わせた恨みの声なのか、善次郎には判断できなかった。

 とにかく、活は自分を覚えていてくれた。

 一晩くらいで飼い主を忘れるわけはないのだが、猫は忘れっぽいという先入観を持っている善次郎は、活が自分を忘れていなかったことに安堵した。

 それにしても、どことなく元気がない。

 手術後のためか、それとも、見知らぬ場所に一晩置いておかれたせいかはわからない。

 それでも、活の無事な姿を見て、善次郎の眼が自然に潤む。

「よく頑張ったな。寂しかったろう」

 そう声をかけながら、活を抱き上げた。

 活が、またニャアと鳴いた。

 そんな活がたまらなく愛おしくなり、善次郎は人目も憚らず頬ずりをした。

 一人と一匹は家に帰ってきた。

 活を離してやると、懐かしそうに辺りを見回している。

 たった一晩なのに、随分離れていたような気がする。

 活も、同じ思いなのだろうか?

 ゆっくりと確かめるように、部屋の中を徘徊する活を見ながら、善次郎は思った。

 活は、ところどころに身体を擦り付けている。一通り部屋を回ると、ベッドの上に飛び乗り、疲れたように体を丸めた。

 まだ、本調子ではないようだ。

 活が帰ってきた部屋は、もう広くも見えないし、殺伐ともしていない。

 夕方まで眠っていた活が起きた時、善次郎は活の大好物の鮭ほぐしを与えた。

 このところ、活は生魚を食べなくなっていた。

 イカで懲りてやらなくなったわけではない。その後も、何度かマグロなどは与えていた。

 暫くは食べていたが、そのうち食べないようになった。

 なぜかはわからない。

 もしかしたら、生臭い匂いが嫌なのかもしれない。

 その証拠に、煮魚も食べないが、焼き魚は喜んで食べる。そして今は、瓶に入った鮭のほぐしに嵌っている。

 きっかけは、貰いものだった。

 ただし、安いものは食べない。

 一度安物を買ったが見向きもしなかったので、善次郎がご飯に振りかけたりして食べた。

 猫も食わないものを、俺が食うのか。

 その時の善次郎の心境は、少し情けない気持ちだった。

 安いと言っても、二百円はする代物である。

 今、活が食べているのは、その倍はする高級品だ。

 いつも飢えていた野良猫が、贅沢になったものだ。

 猫も人間と変わりはない。一度贅沢を覚えてしまうと、元には戻れないようだ。

 そんな高級品なので、ふんだんにはやれなかったが、今日は特別だ。

 いつもより多く入れてやった。

 しかし、活は食べようとしない。食欲がない時でも、いつもそれだけは食べるのに。

 それに、帰ってから水も飲んでいない。

 心配になった善次郎は先生に電話した。

 「簡単な手術といっても、身体の一部を切っているのだ。動物とはいえ、暫くは痛いのが当たり前だ。二、三日もすれば元に戻るだろうから、心配することはない。なにかあったら、いつでも連れてくるように」

 善次郎の心配を吹き払うように、先生は優しいが、確固とした口ぶりで答えてくれた。

 それを聞いて善次郎は安心したものの、元気のない活を見ると、やはり心が痛んだ。

「活よ、早く元気になってくれ。おまえが走り回らないと心配だ」

 優しく活の身体を撫でながら、善次郎が語りかける。

 普段はあまりしつこく撫でていると腕を噛んだりするのだが、活はそのまま眠ってしまった。

 その夜、活は大人しかった。起きていても、ベッドの上に寝そべったままである。

 そんな活が心配で、この夜も善次郎は眠れなかった。

 じっと、横に寝ている活の様子を窺い、活の息遣いに耳を澄ましていた。

  明け方、善次郎が疲れ果ててようやくうとうととしだした時、いきなり猫パンチに見舞われた。

 いい気持ちに引きずり込まれていた善次郎が、何事かと飛び起きる。

 眼の前に活の顔があった。

 眼が合った瞬間、活が首を傾けてニャアと鳴いた。

 この鳴き方は、餌をくれと言っている鳴き方だ。

 活の顔に生気が戻っている。

 餌の容器を見ると、まったく減っていない。

 善次郎はピンときた。活は、鮭ほぐしを要求しているのだ。

 ゆうべ食べなかったものは、腐るといけないと思い捨ててしまっていた。

 固形の餌を食べるまでには回復していないのか、それとも、ただ甘えているだけなのかはわからないが、そんなことは善次郎にはどうでもよかった。

 善次郎は急いで起き上がり、冷蔵庫から鮭ほぐしを取り出して容器に入れてやった。

 よほど腹が減っていたものとみえる。容器に入れるやいなや、善次郎の手を押しのけるようにして、容器に顔を突っ込みがつがつと食べ始めた。

 やれやれ。

 善次郎は安心した。

 もう、眠気なんかどこかへ飛んでしまっていた。

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