#ねがいごと

ねがいごと

「却下。繁華街に近すぎる」


 夕食を共にした後、私はリビングの小さなテーブルに物件情報の雑誌やチラシを広げる。

 ここしばらく数日おきに開いている賃貸物件の品評会だ。

 この件においては敵とも言える立場の上司にわざわざ意見を聞く理由はひとつ。賃貸契約の保証人になってくれる人間が他にいなかったからだ。

 父親には頼れず、母親個人には収入がない。一番頼れそうだった兄には『しばらく住所は聞かないほうがいい』と断られた。前回のように宮原の所長に頼むのは今さら不自然で、保証人会社を使うには手持ちが心許ないうえ、最悪実家に連絡が行く可能性もある。

 八方ふさがりで渋々頭を下げた私を、上司は快く受け入れてくれた。彼が納得する物件を見つけてくるという条件で。


「じゃあ、こっち」

「一階とか絶対駄目」

「…………じゃあ、これは?」

 期待を込めて彼の表情を観察すると、彼もまたちらりとこちらの表情を確認する。これが今日の本命だと、察しが付いたらしい。

 条件的には申し分ないはずだ。事務所からは若干遠いが、駅からは近く、暗い夜道を歩く必要もない。高級住宅街近くの落ち着いた地域で、フロアは五階。セキュリティは万全とまでは言えないが、オートロックくらいは付いている。家賃はさっきまでの物件に比べれば少し高めだが、相場からすれば格段に安く、私の給料でもなんとかやっていける程度。

 さぁどうだ! という気分で、言葉を待つ。

 けれど。

「却下」

 彼はまた、同じ言葉を繰り返す。

 短く切り捨てる返答に、思わず不服が顔に出た。

「なんでですか?」

「……あかりちゃん、気にしないタイプ?」

「は?」

 生暖かい目で質問され、思わず聞き返す。

「事故物件だよ。半年前、旦那の浮気でノイローゼになった奥さんが旦那刺し殺して自殺してる」

「…………」

「知らなかった? それ以来、誰も住んでないはずだけどね」

 思わず黙り込んだ私の顔を伺いながら、彼は追い打ちをかける。一瞬の葛藤も見抜かれただろう。

 了承済みだと嘘をつけたらそれでよかった。それで、私はここから離れられた。

 問い返してしまったのは私のミス。今さらいいわけなんて通用しない。

 別に事故物件でもいいじゃないですか――そう口にしないのは、既に問題がそこにないことを悟ったから。

『気にしないタイプ?』

 彼は敢えて、ちゃんと知らされていなければ意味がわかりにくい聞き方をしたのだ。

「事故物件を初めて借りる人には説明義務があるのは知ってるよね。今日行ってきたのが義務を果たさないようなろくでもない不動産屋なら、これ以上見る必要ないね」

「……うぅ」

 うなだれる私の手から物件情報の束を奪い取り、彼はバサリと傍らのゴミ箱へ放り込む。


「ったく、なんでそんなに出て行きたいかね」

 うつむいたままの頭をいつものように撫でられる。

 悔し紛れに無言でその手を振り払った私に、上司はただ、わがままな子供に向けるような困ったような顔で笑っていた。


     *


「お待たせしました……って、なんですか。なんかついてます?」

 一月一日午前零時十五分。部屋から出てきた私をじっと見る上司の微妙な顔に、思わずコートの裾や背中をチェックする。コートの下から見えるスカート、足を覆う黒タイツまで確認していると、

「あぁ、いや。着物じゃないんだなーと思って」

 そんなことを言って上司はどことなく残念そうに笑った。

「そんなもの持ってきてるわけないでしょ。例え持ってても着ませんよ。クリーニング代いくら掛かると思ってんですか」

「まぁそうだろうけどさ。晴れ着姿の女の子と一緒に初詣とか、なんか理想っぽいじゃん」

「……変な理想と重ねないでくださいよ。その言葉、ただでさえトラウマなんですから」

 彼はこちらの白けた顔に、ごめんごめん、と苦笑を返す。

「でも、似合いそうなのに」

「んー、まぁ、和服は嫌いじゃないですけどね。着ると背筋が伸びる気がしますし」

「あかりちゃん、もしかして着付とか出来る?」

「どうでしょうね。昔、お茶とかお華のついでに教わりましたけど、もう長いこと着てませんし。成人式はプロの人に着せてもらいましたから」

「……へぇ、お茶にお華か。さすがお嬢様」

 揶揄するような言葉で素直に感心されてしまって、慌てて付け加える。

「と言っても、どっちも先生は母ですけどね。真面目にやってたの、中一くらいまでですし」

「いや、納得した。なんとなく立ち居振る舞いが綺麗だなーと思ってたから」

 テーブルに置いたままの年越し蕎麦の出汁を名残惜しげにすすりつつ、上司はいつもの柔らかい笑顔でさらりと私を褒めた。

「はぁ……そうなんですかね?」

 誰かからこうやって手放しで褒められるのは慣れていなくて、正直反応に困る。やっと口から出たのは他人事のようなセリフだった。

 上司はくすりと息を漏らすと、傍らのコートを羽織った。

「じゃあ、そろそろ行こっか」

 準備は整った。行き先はもちろん、近所の神社だ。

 初詣に行きたいと言った私に、上司は夜の間に自分と一緒ならと条件付きで許可をくれた。

「はい。よろしくお願いします」

 立ち上がった上司を見上げて頷くと、はい、と外出用の伊達眼鏡を渡された。

「……するんですか、やっぱり」

「当然」

「……今日くらい大丈夫じゃないですか? 暗いんですし、お参りしたらすぐ帰るんですから」

「甘いよ、あかりちゃん」

「そうですか? 暗い中そんな短時間で見つかるなんて思えませんけど」

 警戒しているのは、未だに私の部屋を張っているという記者数人。既に話題に登らなくなった元婚約者についてはどうでもよくなっているはずだが、「お嬢様の波乱の人生!」のほうを嗅ぎつけたらしく、実家の圧力も効果が薄い。どうも難儀なことになってきていた。

 とはいえ、写真で私の顔を知っているとはいっても実際に会ったこともない人に、この暗い中、そう簡単に判別がつくのだろうか。一人一人の顔を覗き込んでいる怪しげな人間がいるなんていう情報でもあれば別だけれど、そんな情報があるなら彼が許可を出すわけはないのだし。

 面倒に思いながらも、仕方なく渡されたそれを装着する。

「ま、いいや。ささっと行きましょ?」

「……やっぱりわかってない」

「はい?」

「……ま、いいや。行けばわかるよ」

 げんなりとため息を吐く彼に首をかしげながら、雪降る街へ足を向けた。


     *


 カウントダウンが終わって三十分を過ぎても賑やかさの残る駅前を通り過ぎると、昔ながらの一軒家が建ち並んでいる。建物自体も眠っているかのように静かなその地区を抜けると、目的地はそれほど遠くない。この坂を上がりきれば、もうそこに見えるはずだ。

「西園って神道系なんだっけ」

「あぁ、まぁ、一応。昔は神職に就く人も多かったらしいですね、今となってはあんまり関係ないですけど。あぁ、でも親戚には信心深い人もいましたよ」

 上司との同居が始まった直後、ご挨拶程度に参拝したのは、道案内に神社の名前を見て、なんとなくその親戚を思い出したからだ。参拝に付き合ってくれた上司からすれば、私も信心深く見えたのかもしれない。実際はと言うと、神様を信じるというよりは敬意を払っている程度で、件の親戚のご機嫌取り用で祭事関係に同席することはあったものの、信心深いと言うほどでは決してない。

「可愛がられたでしょ、その親戚には」

「まぁ、そうですね。宗教系の場に小さい子が居て、大人しく話聞いてれば、老人は大抵褒めますから」

 苦笑しながら答える。まぁ、退屈を隠せなかった兄より私が褒められることが多くなってからは、そんな場にも連れて行かれることはなくなったのだけれど。

 あの親戚は元気にしているだろうか。

 少し懐かしく思いながら坂の上にたどり着いたとき、上司が目の前の空気と自分の眼鏡を曇らせながら、小さく息を吐いた。


「……え」

 それが目に入った瞬間、足を止めて言葉を詰まらせた私に、携帯を眺めながら、上司が言った。

「三十分待ちだってさ、本殿の参拝」

「……ごめんなさい。確かに、わかってませんでした」

 というか、なめていた。道理で嫌そうだったわけだ。

 住宅街の片隅。参拝している人なんて見たこともないようなこの神社がこんな状態になるなんて完全に想定外だ。みんな、なんでこう突然神道に熱心になるんだろう。正月というものの恐ろしさを実感する。

 鳥居の外まで伸びた参拝者の行列。気後れしていると、温かい手のひらに背中を押され、誘導される。

「俺も並ぶのは好きじゃないけど、ここまで来て帰るっていうのはなしね」

「……言いませんよ、そんなこと」

 いや、ほんのちょっとは思ったけれど。

「大丈夫? 寒くない?」

「寒いです、って言ったらコートでも貸してくれるんですか?」

「残念ながら、それはさすがに貸せないなぁ」

 コートの重ね着ってのは斬新で見てみたい気もするけど、なんて。私の冗談に、彼が困ったような顔で笑う。

 列の最後につくと、すぐに私たちの後ろにも数人が並んだ。その人たちに聞こえないようにか少し身を寄せて、彼がくすりと笑う。

「あっためてほしければ善処するけど?」

「結構ですからいかがわしい発言しないでください。このくらい大丈夫ですよ、城ノ内さんよりは若いんですから」

「それは残念」

 小さく肩をすくめながら、上司は前に向き直る。少しだけ詰められた距離はそのままに。

 コートの裾が触れあうその距離はさっきよりほんの少し温かくて、「離れてください」とは敢えて言わなかった。彼がこの現金な考えに気づいているかどうかはわからなかったけれど。

 なんとなく、その横顔を見上げる。気づかれないように、そっと。

 自分より頭ひとつ分高いところにある、その顔。

――この人と暮らしてるんだよなぁ。

 あれから一週間と少し。「危機感」を忘れさせないためか、さっきみたいな冗談は若干増えたものの、特に何事もなく日々を過ごしている。なんの支障もなく。

 問題と言えばただ、いち早くあの家を出て行きたい私が住宅情報誌を手に、上司に一蹴されるのを繰り返していることだけだ。未だ、許可は下りない。

 成り行きで引き込まれて生活の一部をともにするようになったものの、正直未だに、この人が何を考えているのかはさっぱりわからない。

――早く。

 早くしないといけない。そんな焦りが、頭を占める。

 だから今日ここへ来たのは、初詣にかこつけた神頼みだった。


     *


「あかりちゃん、さっき、どんな願いごとしてた?」

 あの大勢の人たちは一体どこへ消えたのかと不思議に思うほど、静かな帰り道。並んで歩いていると、隣の男が問いかけてきた。

「城ノ内さんには内緒です」

「そう。じゃあ、当ててみようか」

 数少ない街灯がぽつりぽつりと照らすだけの道は薄暗く、彼の表情はわかりづらい。けれど、その声が、笑いを含んでいることはよくわかった。

「確証のない推測は、口に出さないんじゃありませんでしたっけ?」

「確証に近いものがあるからね」

 穏やかに笑いながら、そんなことを言う。『君はわかりやすいから』。そう言われた気がして少しムッとする。ちらりと視線をやると、こちらの不機嫌な顔に、上司が笑みを深めたように見えた。

「『早く、うちから出ていけますように』。……違う?」

「……正解です」

「はは、やっぱり」

 あっさり当てられて、少し悔しい思いに駆られながらもそれを認める。返ってきたのは、困ったような声だった。

「城ノ内さんは、何をお願いしたんですか?」

「なんだと思う?」

 自分の願いごとだけ知られているのは不公平な気がして言ってみたどうでもいい質問は、そのままこちらに返ってきた。

「今年一年健康でいられますように、とか?」

 私の適当な答えを聞いて、彼が吹き出す。

「なんでまた」

 流れで聞いてはみたものの、正直興味がなかったというのが半分。それは彼もお見通しだろう。そしてあとの半分は――ただ、そんなことだといいなぁ、という私の希望だった。

「城ノ内さんが神頼みするようなこと、それくらいしか思いつきませんから」

 彼に神頼みは必要ない。自分の願いはきっとどんなことでも自分で叶えてしまうだろうから。神様に頼るとしたらそれは。

「本当に、そう思ってる?」

 笑みが薄れた、ほんの少し真面目な視線。やっぱり敵わない。私が、おそらく正解であろう答えを知っていて、敢えて口にしなかったことすらも、お見通し。

 ため息が口をつく。

「……『私が出て行かないように』、ですか?」

 思い通りにならないとしたら、頑固な部下の心の中くらいだ。

「相反するふたつの願いごとをされた場合、神様はどっちを叶えるんだろうね」

「……信心深いほうじゃないですかね」

 思わず、目を逸らす。

「ここが縁結びの神社でも?」

「……」

「信心深ければ縁切りも担当してくれるんだ。よかったね、信心深くて」

 嫌みくさいセリフに、頬が引きつる。私がさほど信心深くないと知ってるくせに。というか、なんて罰当たりな言い回しをするんだ、この人は。

「良い縁が強くなれば、悪い縁は弱くなるんですっ」

「……ほう?」

 トーンを一段落とした彼の声に、ハッとする。


「つまり君は、俺との縁を悪い縁だと思ってるわけだ?」


「……っ」

 言葉に詰まる。

 音の低さに反して、怒るでも拗ねるでもなく、面白がっているような声。

 えぇそうですよ、と。思いっきり生意気な口調で言ってやりたい気分に駆られる。


――あぁもう、まったく腹立たしい。


「あかりちゃん?」


 答えを求める声に、諦めのため息をひとつ零して。

「……そんなわけないでしょう」


 どれだけ腹立たしくても、

 どれだけ悔しくても、

 これだけは、否定してはいけない。


「あなたは、園田あかりの居場所なんですから」


 ぶっきらぼうにそう言った私に、上司が満足そうに笑う。


「寒かったけど来てよかったな。神様も俺の願い事のほう聞き入れてくれたらしいしね」

「ちょっ、私諦めてませんよ! それとこれとは話が別ですから!」

「はは、往生際が悪いなぁ」

 彼は心底楽しそうにそう言って歩を進め、

「でもま、とりあえず」

 振り返ってこちらへ手を伸ばした。


「帰るとしますか――我が家へ」


「……はい」

 すっかり慣れてしまった手のひらの重みの下で、短く返事をする。



 彼の肩越しに見る空に、月はない。

 街灯の少ないこの帰り道と同じように、自分の行く先は未だよく見えないけれど、

 どんなに振り回されても、きっと間違ってはいないのだと、なんとなくそう思った。


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