第三部 二十一
「パトリシオ」
バルタサールはトルティーヤ・スープを飲み干すと、小さな声で言った。カルメラ・モリーナは片手で支えることに疲れたのか、両手で銃を構え直した。
「カルテルは大きくなった。だが、お前は勘違いしている」
「なにを」
「俺たちはロンゴリア・カルテルを潰すために結成された、カルテルを潰すカルテルだ。目的を達した俺には、カルテルを続ける理由はなかった」
パトリシオはボスの話を黙って訊いていた。
「指名されたお前は、他者を襲い、力を求めた。コカインも金も、俺たちとの時代とは比べものにならんほど手に入れたろう。だが、それは俺たちの考えとは違う。バルタサール・カルテルは、消えるべき組織なんだ。お前に勝手に店じまいさせようとした、俺の責任だ」
「バルタサール・カルテルはメキシコの治安維持にも貢献しているんです。ロンゴリアの奴みたいなのを生まないためにも、
「それは軍隊と警察に役目だ。
自分が尊敬していたバルタサールはいない。パトリシオは思った。
二代目になることが決まったとき、パトリシオの願いはただひとつだった。バルタサールというカリスマとは不釣り合いな、この組織の規模を拡充する。あらゆる勢力を飲み込み、その頂点に自分が立つ。
「いつから、そんな弱気なことを言うようになったんですか。かつて組織を率いていた頃のあなたは力を信じていた。その姿勢を、俺はいまも貫いているんです」
「ロンゴリアが死んだ後、この組織は早めに解体させるべきだった。みなが人生をやり直せるよう、あらゆる手を尽くそうと思った」
パトリシオは右脚で思い切りテーブルを蹴った。手の付けていない彼の分のトルティーヤ・スープがこぼれ、カーペットにぼたぼたと落ちた。怒りのあまり、息が切れていた。
「俺は弱かった」
スプーンを置いたバルタサールは、
「お前たちと離れ離れになると思うと、嫌だったんだ。いつか解散しよう、そう思っているあいだに、気づけば十年以上経っちまった。決断できていれば、カルロスは死なずに済んだろうし、お前たちもいまとは違う自分を手に入れただろう。結局、俺は、家族が欲しかっただけなのかもしれない」
パトリシオはカルメラから拳銃を奪い、バルタサールの額に突きつけた。
「あんたは、俺の知っているバルタサールじゃない。腰抜けに用はねえ」
◆◆
迫撃砲による攻撃が、戦場となった敷地に降り注ぐ。セフェリノは、ベルナルドとともに地面の窪みに体を隠していた。薄暗い周囲に、赤と青の光が交互に映し出される。その色合いは、メキシコ連邦警察の到着を意味していた。顔を出しても、敷地のなかではパトカーの位置はわからなかった。塀の外に集結しているのだろう。
「やばいな」
ベルナルドが言った。
「砲撃が止んだら、館のなかに仲間を引き込んで外の敵を迎撃するぞ」
セフェリノとベルナルドは、砲撃が止んだと同時に体を窪みからのり出すと、M16を撃ちながら走った。仲間たちも続く。塀が爆破され、武装した警察官が流れ込んできた。銃撃が右から降り注ぎ、ひとり、またひとりと倒れていく。夕暮れに覆われた前庭では、カメラのフラッシュのように発火炎が断続的に光っている。銃声のなかには投降への呼びかけも混ざっていた。
玄関手前には土嚢が幾重にも積まれていた。隙間から敵が手当たり次第に撃ちまくっている。セフェリノが手榴弾をふたつ投げ込むと、轟音とともに静かになった。土嚢の背後を確認すると、四人の敵が手榴弾の破片で体をズタズタに切り裂かれていた。
玄関を開け、館に味方を誘導していると、仲間の車が正門から走ってきた。六輌の車は警察側に対して壁になるよう、縦に並んだ。運転手たちは武器を詰め込んだバッグを持つと、戦場の仲間たちとともに車を遮蔽物にして進んでいく。死体が野ざらしとなっている前庭を尻目に、セフェリノは扉を閉めた。
館にたどり着いたのは三百人に満たなかった。残りは死んだか、警察に拘束されているだろう。セサルとホセはうまく逃げおおせただろうか。
敵の銃撃を当たらぬよう、セフェリノは窓際を避けながら仲間に指示を出した。バルタサールがパトリシオに落とし前をつけるまでのあいだ、ここを死守する。エントランスの左右に伸びる階段には運んできた本棚を配置し、各階の窓際には軽機関銃を取り付けた。
仲間の呼吸のほうが大きく訊こえるほどの不気味な静けさが、辺りを取り巻いていた。二階の窓際から外を監視していたベラスコ・アラニスが叫んだ。
「すごい数だ、見えるだけで六百人は下らないぞ!」
ベラスコのもとへ向かったセフェリノは、双眼鏡で外を見た。破壊された塀から少し前にバリケードが構築されていて、そこから顔と銃だけを出している警察官が見える。正門は警察の装甲車が占領しており、さらにその手前には多くのパトカーが並び、一様に銃をこちらに向けている。どこにも逃げ場はない。
物量で相手に劣る戦闘が、どれほど悲惨な結果に終わるかを、セフェリノは大学の戦史研究で散々学んでいる。小国や少数の部隊が大国に勝つときは、その傍らには必ず、奇襲という存在があった。現状、奇襲は終わっても勝敗はつかず、敵の攻撃に対する備えを余儀なくされている。
戦いの激しさを憂い、セフェリノは口を固く結んだ。
※
敵の攻撃は十分と経たずに始まった。館は窓際が多く、仲間はつねに移動しつつ戦うことで被弾を免れていた。が、重機関銃の音が響き始めると状況は一辺した。五十口径の弾はコンクリートの壁でも易々と貫く。遮蔽物もろとも破壊する弾幕を浴びせられると、仲間の多くが細切れになって死んでいった。
セフェリノは二階のエントランスに近い客室から、軽機関銃を撃ち続けた。銃身が焼けないよう間隔を開けていたが、それでも一丁目はダメになった。
即席でつくり上げた防御線は、崩壊寸前のところで保たれていた。ベルナルドが館の地下に武器庫を発見したことが大きかった。アメリカからの密輸が多いためか、アメリカ軍採用の武器が目立つ。だが、いつまでも連邦警察とパトリシオの部下たちを足止めしていられるとは思えない。
仲間から渡された弾を装填していると、ドアが勢いよく開かれた。ベルナルドは息を荒げながら、
「そっちは大丈夫か」
「ああ。被害状況を調べてきてくれ!」
ベルナルドがうなづきながら部屋を出ていくのを見送った。
組織で経理を担当していたセフェリノは、武闘派のベルナルドとは対極の存在だった。このような危機に直面したことはほとんどない。
だからこそ、彼はバルタサールに恩を返す日が来たのだと確信した。あの背中を見守るだけでなく、ともに並んで戦えるのだ。この館から飛び出して以来、体の震えは止まっている。
かつて志したエリートへの道は、警察官だった父の汚職と自殺によって絶たれ、高い金を払って学んだ勉強はすべて無駄になった。三十になったばかりの頃、酒場で泥酔していたセフェリノに声をかけたのがバルタサールだった。戦いを望まないセフェリノの計算高さを見抜き、バルタサールは彼に組織の勘定を任せた。それが
ベルナルドは、セフェリノが組織に入った時点で、すでに中堅の存在だった。頭は悪いが、人当たりがよく、人情味が溢れており信頼も篤い。それが、十年以上に渡るベルナルドとの付き合いで彼が導き出した人物像だった。理論的に考えるセフェリノは、感情的なベルナルドと衝突することも多かったが、いまではお互いが欠点を認め合っている。
「ものすごい攻撃ですね、セフェリノさん」
遮蔽物に身を隠しながらベラスコが言った。銃撃はほかの場所へ加えられているが、窓はほとんど割れており、銃声がそのまま訊こえる。投降を呼びかける声も相変わらずだった。
「なんとしても耐えるぞ。ボスがパトリシオを殺せば、すべて終わるはずだ」
「弾持ってきます」
ベラスコはそう言って、茶色い長髪をなびかせながら部屋を出た。セフェリノは客室にひとりとなった。窓際に視線をやると、埃が舞う室内に、カーテンのように青白い月光が差し込んでいた。
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