第85話 急転直下

 しかし、その二日後の二月十二日。

 リューシスの予想した最悪の事態が現実のものとなった。



 その日の早朝、六時頃であった。


 ハルバン勢総指揮官、七龍将チーロンジャンのサイフォン・ラドゥーロフは、幕舎ばくしゃの外で一部の兵士らが騒いでいる声を聞いて目を覚ました。

 当初は喧嘩か? と、うるさく思いながらも、まだ朝のまどろみの中に沈んでいたが、やがてその騒々しさが何かの異変によるものだと感じ、


 ――まさか、敵軍の朝駆あさがけか?


 と、床の上から跳ね起きた。

 急いで紅い甲冑を着込み、隅の水甕みずがめから水をすくって一気に飲むと、愛用のげきを掴んで外に出た。


 しかし、どこにも敵兵の姿はなく、陣中にも特に乱れは無かった。

 幕舎の外の護衛兵二人もいつも通りで、「将軍、おはようございます」と挨拶して来た。


「何か騒々そうぞうしいようだが、どうしたんだ?」


 サイフォンが護衛兵二人に訊ねたちょうどその時だった。


 今回ハルバン城より同行して来た十四紅将軍シースーホンサージュンの一人であり、サイフォンの参謀役を兼ねるシュエリー・ユーが駆けつけて来た。


「サイフォン様~」


 慌てているようだが、その口調はどこかのんびりとした音を帯びている。


「シュエリー、やけに騒がしいようだが、上級武官たちで喧嘩でも起きたか?」


 シュエリー・ユーはハンウェイ人女性。十四紅将軍シースーホンサージュンの中で最も若い二十五歳にして、この時代ではまだ少ない女性武将である。

 艶やかに光る黒髪と、ローヤン人よりも白い新雪しんせつのような肌、睫毛深く、濃い黒い瞳が印象的な美貌の持ち主としても有名であった。


 しかし今のシュエリーは、その秀麗で白い顔を、更に血の気が引いたように白くしていた。

 彼女は滅多なことでは動じない上、常に明るくけらけら笑っているような性格なので、このような表情を見せるのは珍しい。それを見て、サイフォンがすぐに悪い予感を感じ取ったのは当然であった。


「大変です。夜の見張りの兵、巡回の兵たちが皆、何者かによって殺されているのが発見されました」

「うん? 殿下らの刺客が? それにしても見張りを殺しておいて奇襲も無いとは妙じゃないか」

「それが、大変なのはそれだけではないのです。いつの間にか、マンジュのバティどのらが皆いなくなっているのです」

「何だと? どういうことだ」


 サイフォンは、急いでバティらマンジュ軍の野営地へ向かった。


 今回、共に連合してルード・シェン山に攻め寄せて来ているが、マンジュが全軍騎兵なのもあって、当然陣は同じくしていない。

 マンジュ軍の野営地は、サイフォンらの野営地よりやや離れた草地にある。


 だが、そのマンジュ軍野営地には、シュエリーが言った通り、誰もいなかった。

 幕舎や、彼らの移動式テントであるゲルはそのままにしてあるが、中にいるはずの兵士らは誰もおらず、兵糧や武具などの軍需物資もそっくり消えている。


「これは一体どういうことだ?」


 サイフォンはわけがわからない。

 そこへ、すでに落ち着きを取り戻しつつあるシュエリーが言った。


「恐らくです。あのバティどのにまんまとたばかられたのですよ」

「あ、しまった、そうか……!」


 サイフォンも七龍将チーロンジャンの一人である。聞いた瞬間、自身でも悟った。

 シュエリーは、早朝の青白さに沈む、空っぽの野営地を見回しながら言葉を続けた。


「バティどのは裏切ったのです。彼の狙いは、今我らが出張でばって来ていて手薄になったハルバン城でしょう。首都カラドラスに援軍を求めたのはルード・シェン山攻略の為ではなく、恐らく手薄になったハルバン城を攻撃させる為。そして、バティどのらもそれに加勢するべく、真夜中にこっそりと出立したのです。それを気付かれぬ為、見張りや巡回の兵士らを密かに殺し、ゲルすら畳まずに出て行ったのでしょう」

「そういうことか、おのれ、あの男!」


 サイフォンは悔しげに怒った。


「カラドラスへ援軍を求める、と聞いた時、何か怪しいなあ、と思ったんですよねえ」


 シュエリーは急に口調が変わり、どこか他人事ひとごとのように呑気に言った。


「おい、そう思ったんなら何で言ってくれなかったんだよ?」


 サイフォンが責めると、


「だって私、先週はお腹が痛かったんですもの。あはは」


 シュエリーはおかしそうに笑った。


 彼女は、こちらに到着した夜、バティたちからもらったマンジュ族の馬乳酒とチーズを食したが、それがどうやら身体に合わなかったらしく、つい一昨日おとといまで酷い吐き気と腹痛、頭痛に悩まされてせっていた。


「あはははは、げーげー吐いてましたからね~。紅将軍ホンサージュンの威厳も何もあったものじゃない。今思い出すとおかしくて」


 シュエリーは少女のように無邪気に笑った。この笑い方を聴くと、ついつい怒る気も失せてしまう。


「はあ~、全くお前は……」


 サイフォンは力が抜けたように苦笑した。

 この二人、共に純粋ローヤン人と純粋ハンウェイ人であるので、直接の血の繋がりこそ無いが、親戚同士である。サイフォンは、このシュエリーを子供の頃から妹のように可愛がっていた。


「まあまあ。こうなってしまったものは仕方ありませんよ。それよりサイフォン様、ここからどうするかです」


 するとサイフォンは、また急に厳しい顔に戻った。


「当然、全軍で急ぎハルバン城に戻る」

「マンジュ騎馬軍団の速さには追いつけるとは思えませんが」

「それでも急がねばならん! ハルバン城を奪われればローヤン全体の危機につながる。急ぐぞ!」


 こうして、サイフォン、シュエリーらの軍勢は急いでハルバン城へと駆け戻った。


 しかし、全速力で駆けてハルバン城まであと十五コーリーほどとなった夜八時過ぎ――

 彼らは、斥候からの報告と、ハルバン城から逃げて来たローヤン兵らの無惨な姿を見て、ハルバン城がすでにマンジュ軍に奪取されてしまったことを知った。


 マンジュの首都、カラドラスから進発した軍勢は、カラドラスに常駐している一万人のうち、約八千人であった。率いるのは、マンジュ全軍を統括する最高指揮官、大将軍コルティエル。


 対して、ハルバン城に残しているローヤン駐屯軍は約一万人。

 いかにマンジュがバティの言葉通りに攻城兵器を開発しているとは言え、元々マンジュ族と言うのは攻城戦は得意ではない。また、数の上でもローヤン軍と互角である。

 そう簡単にハルバン城を攻め取られるとは信じがたい。


 しかし、斥候と、逃げて来た兵士らからの報告によれば――


 大将軍コルティエル率いるマンジュ軍八千騎は、夕刻になってハルバン城近くに達した。

 少し遅れて、陰謀を胸に秘めたバティ率いる二千騎もハルバン城にまで到着。


 バティは、ハルバン城に使者を送り、


 「ルード・シェン山を長期包囲することが決まった故に、我々はカラドラスより更なる援軍を呼び寄せた。また、我々はサイフォンどのより軍需物資を運んで来てもらうよう頼まれた上、サイフォンどのからの伝言もある。これは極秘ゆえ、私が直接お話しなければならん。城に入れてもらいたい」


 と、申し入れた。


 これに対して、サイフォンらが留守の間、ハルバン城の守備を任されていた十四紅将軍シースーホンサージュンのジンレイ・スン。彼は十四紅将軍シースーホンサージュンの一人だけあって、軽率ではない。


 いくらマンジュ族と同盟交渉中であり、今回もリューシス討伐に兵を出してくれているとは言え、マンジュ軍に完全に気を許しているわけではなかった。


「バティ王子とその供回りの者たち、それと軍需物資を運ぶ兵士だけならば入城を許可する。但し、皆騎乗せず、その総数は五十人以下であること」


 と、バティらに伝えた。

 バティはそれを承諾。早速五十人を選んでハルバン城の城門前まで行った。

 しかし、その五十人は全マンジュ軍の中でも最精鋭の五十人であった。


 城門が開かれると、バティは形相を一変させ、猛獣の如く吼えた。


「かかれっ!」


 マンジュ語での命令が響き渡ると、五十人のマンジュ精鋭兵たちが一斉に牙を剥いた。

 あっと言う間に城門の護衛兵を突き殺して城内に突入する。

 しかし、ジンレイ・スンもそのような事態に備え、城門前に五百人の兵士を待機させていた。


「まさかとは思ったが本当に裏切るとは……押し返せ! 敵は小勢ぞ!」


 ジンレイは物見塔の上から叫び、合図の鐘を鳴らさせた。

 待機していた五百人のローヤン兵士らがバティらに反撃する。


「万が一の為に準備しておいて良かったわ」


 ジンレイは安堵していた。五百人対五十人、しかも歩兵同士ならばすぐに殲滅できるであろう。


 しかし――


 バティが連れて来た五十人は全マンジュ軍の中での最精鋭たちである。

 驚嘆すべき膂力りょりょくで暴れ回り、ローヤン兵士らを次々と屠って行く。


 加えて、バティ本人が凄まじかった。


 彼は猛虎の如き武勇を持っており、自ら先頭に立ってはがねの豪槍を振り回す。

 嵐のような槍さばきの前に、ローヤン兵士らはまとめて突き伏せられ、吹っ飛ばされる。その勢いに牽引されて、五十人のマンジュ精鋭たちもまたますます勢いを増す。

 ローヤン兵士らは、溶けるが如くに見る見るうちにその数を減らし、恐怖に駆られて逃げ出す者が出始めた。


「何と言うことだ。これは計算違いであったわ」


 物見塔のジンレイ・スンは顔色を変えて、


「これはいかん、他の全軍をすぐに動かせ!」


 と、側の部下に命令しながら、自ら指揮を執るべく物見塔の階段を駆け下りて行った。


 しかし、マンジュ側にもまだ策があった。


 ついにバティらがローヤン兵士ら五百人を追い散らした頃、付近の森に潜んでいたマンジュ一角馬イージューバ部隊二千騎が飛び出し、疾風となって城門に殺到、一気に城内へと雪崩なだれ込んだ。

 また、大将軍コルティエル率いる残りの全軍も続いて出現、ハルバン城内へと突入した。


 こうなると、城門を突破されてしまったローヤン軍側が圧倒的に不利となる。


 動揺と混乱が波の如く全軍に広がって行き、ジンレイ・スンの必死の応戦指揮も虚しく、マンジュ軍の獣性を剥き出しにした猛攻の前に成すすべなく崩れ立った。

 ジンレイ・スン自身も、彼は一人で三人を相手にする奮戦を見せたのだが、やがて力尽きてマンジュ兵の槍先に散った。


 こうして、ハルバン城はわずか一日でマンジュ軍に占拠されてしまったのであった。


 ハルバン城占拠成功後、城門の上で、マンジュの大将軍コルティエルがバティに言った。


「流石はバティ様です。このような戦略を考えておられたとは」

「はは……違う違う。俺は純粋にローヤン人どもに協力するつもりだったさ。だが、カラドラスに援軍を求めようとした時に、咄嗟にひらめいたのよ。今ならハルバン城は手薄。カラドラスから援軍を呼ぶのなら、その軍勢でもってハルバン城を奪ってしまう方がいい、とな。ローヤンと同盟を結ぶよりも、ハルバン城このしろを奪取し、ここを足掛かりにしてローヤン全土を征服する方が遥かに利があるからな。」


 マンジュ族の王子は、南方の彼方に広がるローヤン領土を見回しながら高笑いを上げた。

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