第一節 王国に立つLiar.

   一


 ――グレートブリテン北アイルランド連合王国〔United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland〕。

 通称、イギリス。


 ヨーロッパ大陸の北西岸に位置する、グレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他の多くの島嶼から成る主権国家だ。このイギリスは、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドの四つの国で構成されている。

 連邦や連合と云った、寄せ集め一つの国家として存在する国は、今では珍しくもあるが、嘗ての世界ではあり得なくも無い、寧ろそれが当たり前の国だった。

 嘗てのイギリスという国は、議会民主制〔現代で云う、選挙や国会〕の元祖であり、立憲君主制〔権力が君主を制約している事。俗に言う天皇の様な象徴〕の下、王が君臨する連合王国だった。

 その歴史において、日本の本州よりも小さなこの島は、人類史上最も大きな帝国の首府として世界に君臨していた。その歴史の名残もあってか、今でもこの国は前記の通りの連合として存在している〔因みに現在でも立憲君主制は続き、王室が存在している〕。


 更に、イギリスは日本の北海道よりも北に位置するが、その気候は北だからと云って寒い訳では無い。寧ろ、冬の時期になっても、日本の冬ほど寒くは無いのだ。更に降水量としては、日本の梅雨の三分の一が年間を通して続き、晴れたと思えばいきなり土砂降りなど、一日数時間は雨が降る気候となっている。その目まぐるしい気候故に、街行く人々は常に雨具を身につけている事が当たり前になっていたりもするのだ。更に、夏だからといって暑くなる訳でも無く、カーディガンやトレーナーは常に常備している事も当たり前なのだ。


 更に、マナーの面でも『紳士の国』と言われているだけあって、その厳格性はかなり強い。何せ、人と話す際にアメリカ人であれば気兼ねなく話しかけるだろうが、イギリスの人々は理由を作ってから話す。謂わば慎重居士でもある。


 そのイギリスが首都、ロンドン。


 ――ロンドン・ヒースロー空港。


 日本からアジア、ヨーロッパの陸を超え、約一二時間を掛けて到達出来る、ロンドン最大の空港だ。

 その場所に、一二時間を掛けて銀蓮黒斗は降り立った。


 黒いスリムスーツの上に、ロングコートを着た彼は、空港内のロビーでFXレートを眺める。

(日に日に下がってるのか?)

 そんな何の変哲も無い感情の思いを巡らせながら、彼は空港を出た。


 何も持たずに。


   *


 フェリックストー。

 イギリス東部に存在する貿易港を繋ぐ街であり、ヨーロッパでは主要貿易港として知られている。

 常日頃貨物船が行き来する様なこの港の、港町の中にある喫茶店前。

 そこで黒斗は、乗ってきたタクシーに料金とチップを支払い下車する。

「……、」

 潮風は吹くが、日本とは違いその乾いた空気故にか強く臭うほどでは無い。微かに鼻に付く様な感覚は、料理の香りが街路地を漂うかの様だった。


 黒斗は目の前の喫茶店に入店し、辺りを見渡す。

 店員は入店した彼を見て一礼をしている。

 だが、黒斗はそれに構わず、あるテーブル席を見つけて其処に歩み出した。

 テーブル席の正面に立つと、席の脇に大きめのキャリーケースが置かれ、まるで旅行客かと思わせる。だが、黒斗はその正面に立って、その席の片方に座っている一人の男を見て吐き捨てた。

「一大貿易業の大社長が、こんな場所で優雅に紅茶とスコーンか。中々良いご身分だな」

「何、私の休日を無下にしたのは貴様だろう。黒斗」

「其れは俺も同じだ。古都」


 月伽耶古都。

 現在でも黒斗とは旧知の仲であり、ジャパリパークの貿易の一端を担う会社の社長だ。黒斗がジャパリパークに降り立つよりも前に彼は企業を立ち上げ、数年で急速な拡大を遂げた。

 ジャパリパークとの貿易の本権を掌握している事もあって、その拡大は今でも留まる事を知らない。


 月伽耶古都と云う人間もまた、その様相は奇妙な物だった。

 紫を主体としたスーツに、それに同調する様な紫色の髪。更には額上に一塊の金色のメッシュが施されている。

 彼は黒斗を待ちながら優雅に紅茶とスコーンを食していた様だが、スコーンには手を付けていなかった。


「貴様も、立っていないで何か注文したらどうだ?」

「そうだな。I'm ready to order. I'll have iced coffee.」

「結局珈琲か。貴様はいつも同じような物を頼むな」

「別に良いだろ。こっちは半日飛行機の中に縛られてたんだ。眠気も取れないし、そういうのが良いのさ」

 黒斗は注文を終わらせて対面の席に腰掛ける。

「まあいい。どうだ、スコーンでも食べるか?」

「要らない。……と言うより、何故食わないなら注文した」

「直ぐに解る」


 数分してから、黒斗の下にアイスコーヒーが置かれ、更には何故かスコーンの小皿まで置かれた。

『……此れは?』

『サービスです!』

「な?」

「……ああ」


 イギリスの文化上、食文化に対しての興味が極端に少ない。

 その為、スコーンを筆頭に、基本的にイギリスの料理は、「不味い」では無く「味が無い」と言う表現がされやすい。事によっては極端に甘すぎたりもする。


 彼等が渋々口の中にスコーンを運び込んで、一つだけ食した。

「……何故こうも極端性が強いのだ」

「まあ、この国は分量とかも手癖なんだろうな」

「私は此処まで苦いのは初めてだ」

「俺は……うん」


 折角のティータイムが、何故か目の前にあるスコーンを処理する時間となり、彼等は黙々と食し終える。

 そして、やっとの思いで癒やしの時間が戻ると、古都は黒斗に本題を問うてきた。


「で、貴様の言っていたアレはいつ行うのだ?」

「まあ、明日には行うさ。ちゃんと持ってきたのか?」

「まあな。ソレに入れてある」

 古都は視線でキャリーケースを示した。


「なら、取り敢えず日中は……少し出向いてみるか」

「そうだな」


 彼等はその二言だけを交えて、席を立った。


   二


 大英図書館British Library

 セント・パンクラスに本館を構えるこの図書館は、世界のあらゆる言語の書籍を収集する他、雑誌、新聞、パンフレット、録音、特許、データベース、地図、切手、版画、絵画……。その他も多くの資料を保存しており、これらの二五〇〇万冊以上の網羅的なコレクションは、世界のどの図書館を見ても、これらを上回るのは今やワシントンD.C.のアメリカ議会図書館のみである。


「大英博物館や国立図書館との併合の歴史を持つせいか、その機能は図書館と言うより歴史館に近いな」

 黒斗と古都は大英図書館内でその目まぐるしい資料が並ぶ図書館のロビーにて、パンフレットを片手に辺りを見渡していた。


「なるほど。確かに、図書館と言うには一風変わったコレクションが多いな。メジャーとは言えないが、マイナー的な存在も多い」

「展示が違うだけだ。そもそも稀覯書や重宝版画は展示はせずに保存してある。図書館によってだが、その稀覯書などが保存出来るセキュリティや存在によって、その知名度も上がる」

「有名所で言えば、マグナ・カルタの手記も在ったか」

「更にはビートルズの歌詞の原紙もあるな。同じ所も含め、此所では直筆の本や原稿、手紙も展示されているな」

 ロビーを抜けて行くと、開放感溢れる広間に繋がっていた。中では多くの英国人が席に腰掛け読書を親しんだり、新聞を広げてニュースを読み漁ってる者も居る。

「此所で新聞か……」

「よく見ろ古都、アレは二〇年前の新聞だ」

「……流石に圧巻だな」

 その歴史に対する重宝的な姿勢ながらも、貸し出しを容認する寛容性は、現代日本よりも緩くも感じる。だが、その英国紳士という人柄か、遺伝子による繋ぎ目の御蔭か、乱暴な者など居ない。


「……?」

「どうした古都?」

「いや、アレを見てみろ」

「ん? 電子書籍じゃないかどうした?」

「そうじゃない。其処じゃない」

「ん? ……ああ、最近じゃ電子書籍の読み上げの機能も付いて、その為にイヤホン付けてるんじゃないのか?」

「機械じゃない」

「は?」

 黒斗は首を傾げ、その電子書籍ではなくそれを持つ人物に眼を当てる。それは、現代的なジーンズとTシャツを着た女性で、年代は二〇代後半に近しい人物だった。容姿もそれなりに洗礼されており、整った穏やかな表情は、一般的な女性の中では中々に美人級の一角だろう。肉体も細身がありつつも肉々しく、健康的な女性に見える。

 ただ、黒斗はその女性を見て嫌な寒気を感じた。

 それは女性に対してではない、古都に対してだ。


「……おい」

「んー……」

「なあ、古都」

「あー……」

「……、」

 黒斗の言葉も耳に入らない程に、古都はその女性を見つめると一呼吸の後に、彼はこう口走った。

「イケるな」

「黙れ人妻マニア」


 黒斗の冷静沈着以上に、その呆れとゴミを見る様な目が古都に突き刺さる。だが彼は諸共せずに、黒斗に目線を移し溜息交じりに吐き捨てたのだ。


「ハァ……、何度言ったら解るんだ、黒斗。私は人妻が好きなのでは無い」

「……じゃあ何だよ」

「私が好きなのはNTR寝取られだ。人妻じゃないんだ」

「どっちも大差変わりないだろ……」

「良いか、そもそもが違うんだ。人妻は既婚者で在り、何だったら男と性交だって済ませている」

「生々しいわ」

「だが、NTRはその人妻という範囲から逸脱する。そもそもNTRは年齢には順応せず、付き合い始めたカップルから性交を済ませ出産まで済ませた女性という……付き合っている女性というレッテルを持つ者達に対して奪いたいと言う男性の貪欲的な欲求なのだ。学生、社会人、熟年夫婦……美人なのに恋人や家計持ち……そんな男達の欲望を形にした言葉である! だから、人妻とは違うのだ!!」

「話が生々しいんだよ! 今その話しなきゃ駄目か! 駄目なのか!!」


 話が脱線に脱線を繰り返す。

 黒斗も図書館という事を忘れて声を荒げていた。


「……時に黒斗」

「あ? 何だ」

「五月蠅いぞ、貴様」

「誰のせいだ……ッッッ」

 それを最も指摘されたくない男に指摘されれば、その怒りを何とか抑えつつも、内に溜まった感情が暴れ出す。

 情緒不安定ながらに必死に押さえ込んだ感情の後に、黒斗は彼に窶れながらに吐き捨てた。

「……もう、こっからは別行動にしよう。俺ももう疲れた」

「何だ、未だその歳でもう弱音を吐いてるのか?」

「一回ぶん殴らねぇと気が済まないが……まあ、そういう事だ」

「ご苦労なことだな。なら、そっちの所要が終わったら連絡をくれ」

 古都はそう言って、軽く後ろ姿のまま手を振って何処かに行ってしまった。

 頭を抑え内心呆れながらも、黒斗は静かに館内を歩く事にした。


   三


 大英図書館の凄さは、その書物類やコレクションの多さだけではない。

 時折行われる展示会等も有名所ではあるが、図書館には似つかわしい開放感が観光客の心を擽る。日本では大英図書館ほどの大きな図書館は無いために、日本よりも小さな領土でありながら、日本よりも大きな図書館を持っているのは、人の目を引くには十分な理由になり得る。

「……、」

 そんな巨大で開放的なエントランスを抜けて行けば、博物展示の様に多くの歴史的遺産が多く並ぶ展示室までたどり着く。

 その一品一品の全てが世界に名を連ねる美術品であり、多くの人目を集めている。

 黒斗はその部屋一帯を見渡して、展示物に目をやる。

 一目一目して見つめると、次の展示物へと脚を進める。


 彼の挙動は、展示物に歴史的価値を見出して眺める様な素振りでは無かった。どちらかと言えば、何かを個人的な名目で探している様な素振りだ。


 彼は一通り展示物を見終えると、次の階へと向かう。

 どの階でも、どの場所でも、何かを探す様に部屋や展示物を少し見つめて、それだけで終わった。


 ……ただ一つを覗いて。


   *


 古都も古都で一通り図書館内を歩き回ってきた。

 そんな彼が最後にたどり着いたのは、博物館の名残ある絵画展示室の壁際だった。


 其処に居たのは、一つの絵画を呆然と見つめる黒斗だった。

 彼はただそれだけを、ジッと、動くこと無く見つめていた。

「……?」

 その横顔を見た古都は、彼の違和感に気が付いた。


 いつも通りの顔の何処かに、悲しくも険しくも、その眼は純粋な子供の様に輝いて見える。

 そんな黒斗に近づき、古都は彼に声を掛けた。


「……何してるんだ?」

「ん? ああ、すまない」

 古都に声を掛けられ、黒斗は古都の方へ振り向く。

 彼の目元には、一筋の涙が零れている様に見えた。


「……らしくないな。何の絵を見てたんだ?」

 古都はぶっきらぼうに返しながら、彼の見ていた絵画に目を向ける。

「『アレクサンドル・カバネル作、アダムとイヴの楽園追放』……一九世紀のフランスの画家の作品さ。……まぁ、本物では無いがな」

「失楽園……旧約聖書のアダムとイヴの話だったか。心打たれる様な絵にも見えないがな」

「相変わらずお前は興味が薄いなぁ……」

 黒斗は呆れる様に溜息を吐き出し、頬に流れた雫を拭う。


「……行こうか。これ以上居る意味は無いだろう」

「そうだな。ふむ、何か食したいな」

「この国の食べ物は信用しない方が良いと思うけどな」

「何、パブならソコソコ旨い店もあるだろう。イギリスと言えばパブだろうしな」

「よりによってパブか……余り行きたくはないけどな」


 彼等は、大英図書館を離れる事にした。


   四


 パブというのは、イギリスで俗に言う『酒場』を意味し、正式には「Public House」という。

 日本や海外のいう「BARバー」を意味し、そもそもバーと殆ど変わらない。


 酒をメインに、つまみを食らう場所には変わりないが、酒と合う品を産出しているだけ在って、イギリス料理よりも旨かったりする。

 その為に、

「……、古都。大丈夫か?」

「ああ、いや、旨さに涙出るな、これは……」

「あ、うん……」

 古都は、料理の旨さに半ば感銘を受けながら食している。人のことを言えない黒斗だが、それでも彼の感性は何処か外れた線を歩いている様にしか見えない。


 因みにこの場所は古都の行きつけらしく、彼も彼で此所の常連と化しているらしい。店員の女性とは最早顔なじみだそうで、頭に水をぶっ掛けられることも常連らしい(口説き出して)。


「……お前は食べないのか?」

「栄養が取れるなら問題ないさ」

「あぁ、味覚無かったんだったな」

「其処まで簡単に話されるとなぁ……」

「で、味覚と色彩の無い世界ってのはどうなんだ?」

「どうって言われても……まあ、不自由ではあるが、特筆する問題は無いよ」

「まあお前は逆算が得意だからな。大体は何処かの補助を使って判別してるんだろ」

「まあな」

 目の前の古都は、淡々と無駄に綺麗に食しながらビールをジョッキでグイッと飲み干す。黒斗もパブに来たからにはそれなりに呑むことが礼儀だと踏まえて、赤ワインを親しむが、味の無い水の様に感じてしまい、チマチマと口を付けるだけに留まる。


「……ごちそうさま」

「良く喰うなぁ」

「此方に来て余り良い物は食べてないからな。まあ、よりは食べてもいないだろう」

「余り奴を引き合いに出さないでくれ」

「あー、貴様苦手だったな」

 黒斗は顰めっ面で頭を抱え出す。


 全てを食した古都は、片手にビールを持って立ち上がった。

「じゃあ俺は店員のお嬢ちゃんと話してくるわ」

「お前……」

「まあまあ、貴様も、今のうちに聞いておくことが有るんじゃ無いのか?」

「……解った」

 渋々と、黒斗は承諾すると、古都は糸が吹っ切れたかの様に既婚者店員に紳士的に語りかけに行った。

(一回馬に蹴られて死んでくれねぇかなぁ……)


 溜息が止まらず、赤ワインを飲み干すと、彼も席を立ち、そして。


「……じゃあ、やるか」

 小さく吐き捨てた。


   *


 パブでは、定時を越えれば退勤した社会人がゾロゾロと押し寄せる。このパブに立ち寄る客も中々に多く、満員ほどでは無いがそれでも席が一つ二つしか空きが無いほどには居る。

 黒斗はその中を片手に上等酒瓶、もう片方の手にグラス四つを携えて、一つの席に目星を付けた。


 その場所では、どうやら何処かの従業員らしき男性三人が、愚痴を零しながら円テーブルを囲んでいた。

『あ~……疲れたぁ~』

『警備も上がったりだなぁ~』

『別に何か大事が起こる訳でも無いのに、変に厳重さが強いからなぁ~』

『まあでも、割と月給も高めだし、そこそこ良いんだけどな』

『立って周りを注意してるだけってのも中々に疲れるんだよな』

『そうそう、もうちょっと休みくれねぇかなぁ~』

 気苦労の多いその言葉の節々から滲み出る、疲労感。


 そんな彼等を見かねて、黒斗は席に近づいて声を掛けた。

『おや、皆様方お疲れの様で』

『ん? アンタは?』

『私も同じく仕事疲れを癒やすために来たのですが、張り切りすぎてつい手を出してしまったのです。なので、私のこの一品の付き合いにご一緒して頂けないでしょうか?』

 黒斗は、手元にある上等酒瓶を彼等にチラつかせる。それは、イギリスでは一八〇年の歴史を持つ酒であり、度数四七の『ナンバーテン』スピリッツ・ジンだ。穀物を起源に作られる洋酒ジンで、フレッシュなフルーツから厳選されたボタニカルを使用しており、二〇〇〇年のサンフランシスコ世界スピリッツ大会で三年連続でベストスピリッツに選ばれた酒である。

 それ故に値はそこそこに張り、軽く一杯などで手が出せる代物では無い。原産地がイギリスでありながらも、中々に上等階級に選ばれた一品は、この場に来る者ならこの上なく一度は試したくなる一品なのだ。


『へ、へぇ~。良い酒盛ってるじゃないか! いいぜ、一緒にやろうぜ!!』

『お、俺も一盃くれよ!』

『もちろん俺もな!!』

『ええ、どうぞどうぞ』

 黒斗は気前よさそうな完璧な作り笑顔で、彼等にグラスを渡しそこに適量のジンを流し込む。彼等が持っていたトニックウォーターで割り、彼等に渡すと、黒斗はグラスを持ち上げて彼等に目線を移した。

 こうなってしまえば、その気前の良い顔にやられて、彼等も吊られグラスを上げる。

 そしてリッチ気分を味わうが如く、コロンッと優しくグラスをノックして「Let's make a toast to our bright future!我々の明るい未来に乾杯!」と、高らかに声を上げる。

 そして男達はグイッと酒に口を付けた。


 喉にドシッとくる重みに、吐く息にアルコールが混じる。口の中ではその芳醇なフルーツの甘さと酸っぱさが順応して癖になりどうだ。彼等はまるで生き返ったかの様に、風呂上がりの一杯を飲み干したかの様に、上機嫌に喋り出した。

『いやー、最っ高だねぇ!! ありがとう君!!』

『このフルーティーな感覚が溜まらないよ!! ある意味アルコール中毒になっても良いかもね!』

『ハッハッハッ!! 僕は元から中毒者さ! 病院じゃ毎回先生が怪物の様に怒るんだ』

 彼等の気分が上機嫌になり、ブラックユーモアなジョークを次から次へと口走る。アメリカのジョークとは違い、イギリスはブラックジョークを好む傾向にあるが、此所まで上機嫌になるとそれも面白くなってしまうのだろう。


『でよ、そこでよ! 言ってやったんだよ!! 「ソイツは俺の子じゃねぇ!! 俺の下の子だ」ってな!!』

『ギャハハハハハハッ!!!!』

『で、で、嫁さんとはどうなったの?』

『そっしたらもうグーでドーンッよ!』

『そ、そんなことがあったんですか……ッッ』

 数時間が経てば笑い浄土になるのは、酒の力の性だろうか、彼等の話は最早大暴露大会と化している。黒斗も敬語口調ながらも笑いを抑えながらプルプルと震えていた。

『はぁ、はぁ……わ、笑いすぎてもうお腹が』

『俺も俺も』

『あー、だから前に滅茶苦茶デカい痣付けて出勤してきたんだな』

『イヤもうアレはスゲーよ、嫁を舐めちゃいかんなって、思い知らされたね』

『はー……、痣付けて出勤って、職場の人には笑われなかったんですか?』

『あー、普通にその日だけ場所変わってたな』

『そうそう、地下倉庫でしょ?』

『へぇ、余り顔をお見せしない仕事で?』

『ああ、彼所の大英図書館だよ』

 一人の男が口火を切った。

 周りの男達も同調するかの様に、軽々しく口を開く。


『俺ら彼所で警備員やってるんだよ』

『へぇ~、凄いじゃないですか』

『そうかい? でも、最近はずっと立ってるだけだし、後は巡回してることが多いよ』

『大きな図書館ですから、かなり巡回は大変そうですね』

『いやぁ~、本当に大変だよ。彼所は地上も広い上に地下も続いていて、地下は隠しもあって三階まであるんだよ。地下三階は最も重要とされる稀覯書類などが置かれていて、厳重に警備室で監視してるんだけど、それでも見回りに行ってこいっていうもんでさ……警備上エレベーター付いてないし、毎回上り下りで足腰が……』

『この前ジョーンが悲鳴上げてたもんなぁ~』

『別に隠れやすい場所じゃないからサボれないしな~疲れるよなぁ~~』

『ははは、中々に階段が長い様で』

『そうなんだよ。一階から地下二階までは同じ階段なんだけど、その後ぐるっと館を回って反対側の非常口までいってから降りるから、本当に長くて辛いんだ』

『あぁ~、良い職場なんだけどなぁ~』

『なぁ~』

 酔いが此所まで来ると、何でも話す様だ。

 だが、そんな楽しい時間も終りは来る。


『ああ、済みません。私は時間なので』

『あれ、そうなの?』

『あー、仲良くなれたのに寂しいねぇ~』

『いえいえ。ではお酒はここに置いていきますので、それでは』

『うん、じゃあね~……ふぁぁぁ~~、眠くなってきた』

『俺も~……』

『う~ん……』


 黒斗が席を離れると、途端に三人は眠気が襲ってきたのか、大きな欠伸と共に、突っ伏してしまう。スヤスヤと寝落ちる者や、それでも尚酒を飲む者、ボーッと何処かを見つめ出す者も現れた。


「……、」

 黒斗は、そんな彼等を振り向かずに店を後にした。


   *


「……、」

 外に出れば、古都が店前で待っていた。

 彼は黒斗が出てきたのに気が付くと、目配せをして其方の方向に二人は歩き出す。

 町の街灯が煌びやかに輝き、彩り鮮やかなビルは夜の街の新鮮さを醸し出している。

「で、情報は聞き出せたのか?」

「まあな」

「こっちも、色々と聞けた」

「そうか」

「しかし、お前も手癖が悪いな」

「なんだ、見てたのか?」

「ああ、酒をチラつかせ、自分の分は少なく、そして一口付けただけで後は呑まない。他の奴等のグラスの底に遅延性の睡眠薬も混ぜ込んで、巧みな視線誘導と話術ですり抜ける。昔からその巧妙さは恐ろしい物だよ」

「褒められてると思えないなぁ」

「悪人稼業としては褒めているだろう」

「……まぁな」


 彼等は静かな空の下の、静寂をかき消す様な車と人の騒音の中、ある一つのホテルにたどり着いた。古都がチェックインを済ませ、黒斗共に預けていたキャリーケースを持って指定の部屋に案内される。

 案内された部屋はかなり豪勢な部屋で、マンションの一室並みの広さと設備を取りそろえていた。

 案内人が部屋を出れば、古都は持ってきたキャリーケースを自室のベッドの近くに持って行き、リビングに戻ってくる。そこでは黒斗が新聞を机に広げて、何面かを読みふけっていた。

「全く、男二人が同じ部屋なんてな……ベッドがある部屋まで同じでは無くて良かった」

「コッチのセリフだ」

 古都が軽口調で吐き捨てた言葉に、黒斗が度を強くして吐き返す。

「俺は目立たず、人に感知されにくい場所を嘆願したはずだが?」

「貴様はそもそも貧困思考が未だ抜けていないのだろう。時代は浸透性だ」

「……まあいい」

 黒斗は頭を抱えて、大きく溜息を吐き捨てる。

 そんな彼を見て、そして同じく溜息が移ったのか、吐き出した古都は、彼に次の様に言い放った。


「で、我々の――主に貴様の目的を忘れた訳ではあるまい?」

「……ああ、わかってる」

 古都はキャリーケースの中から取りだしてきた、一つの丸められた大型用紙を持ち出すと、机の上に広げだした。黒斗も同調し、ソファーから立ち上がり、広げられたその用紙に顔を覗かせる。

 そこには、まるで何処かの見取り図のようにして書かれた何かがある。

 そしてそれは、彼等の記憶の中では未だ新しい場所だった。


「さて、始めようか……大英図書館潜入作戦を」


   五


「――俺達の目的は、ある一冊の稀覯書を盗み出す事だ」

 黒斗が開口一番に放った言葉は、彼にあるまじき言葉だった。


 見取り図をテーブルに広げ、彼等は其の作戦概要について語らい始める。

「其の盗み出す本と言うのは、貴様が知っている物なのだろうな」

「知らなかったら盗みにも行けないだろ」

「そうだな」

「ま、其れこそその本があるという情報も裏からの入手だが、信憑性はある」

「そこには口出しはしないで置こう」


「それで、私と貴様はどう動く」

「まず決行は明日の深夜。俺達は一階の入り口から侵入する」

「無謀すぎないか?」

 泥棒が閉館した深夜の図書館に、入り口から堂々と潜入するなど、あり得ない話だろう。だが、黒斗としても其の提案には彼なりの考えがあった。

「無謀さ。だから、お前には警備員室専用の裏口から入って貰い、システムのハッキングを頼みたい」

「成る程。端から合流するつもりは無しか」

「ああ、お前はシステムをハッキングした後、警備室である程度の警戒を行って欲しい。詳細は……言わなくて良いか」

「まあな。私もそこは確認した。……で、貴様は?」

「俺はお前がハッキングしてから、玄関口を通って侵入する。彼所には外からも中からも外観からでは見えない非常通路用の入り口がある。死角としては此処が一番だ」

「そこからはどうする?」

「侵入したら非常階段口を伝って地下へ。三階まで行って書物庫を探る」

「成る程、私は貴様が脱出したのを見届けて、ハッキングを解除し出る。大体は解った」

「まあ、後の事は独自判断で良い。其の方が互いに楽だろう」

「だな」


 彼等の、何処か慣れを感じさせる緊張感のない淡々とした会話。

 もしかしたら其れが日常的な彼等の行いだったのか、違う意味合いでの形なのか、ともあれ、彼等は明日の夜に向けての下準備を行いだした。


「取り敢えず、コイツは渡しておくか」

「……ローブか」

 古都が黒斗に手渡したのは、黒のローブだった。

 着込めば頭から脚の首元まで隠れるような長丈のローブは、厚みを帯びて、北方の地で活躍する様な防寒性を秘めている。そういった厚手のローブの特徴としては、温度探知に寄る輪郭の推測がされにくいのも利点の一つだ。


「重みがあるのは苦手なんだがな」

「間違っても現場で脱ぐなよ? 素性を隠しておきたいのは貴様も私も同じなのだからな」

「解ってるよ……じゃあ、俺は先にシャワーを浴びるか」

「ああ」

 黒斗はシャワールームへと歩み、古都は何やら機械弄りを始めていた。

 幼馴染みであるはずなのに、やはりこの二人は何処かサッパリとしているのか、余り互いに干渉しなかった。


   *


 翌日朝、黒斗はベッドの上で目覚める。

 否、目覚めるというよりは、実際には横になって体力の温存に努めていただけで、意識はあった。

 彼は現状として、その身に宿る者のせいで安眠は既に不可能だったのだ。

(まぁ、肉体が動くのであれば十分か)

 自身の手を握り、広げ、其れを繰り返して身体の状況を再度確認する。

 自分の身体の状態を確認し終えれば、次は寝間着を着替えいつものスーツに黒のロングコートを着込んで、部屋を出た。


「……、」

 唖然とした。

 リビングのベッドの上で、グッダリと呆けて寝ている男が一人。


「……zzZ」

 頬周りや首元に大量のキスマーク。

 はだけた紫スーツにグシャグシャの頭。

 夜遊びをしてきたサラリーマンにしか見えないその様相に、黒斗は眠気が一気に吹き飛び、表情の変わらない苛つきを覚え、片足を上げて、其の莫迦の腹部をガンッと蹴った。

「ごふっ?!」

「……おはよう」

「あ~~……朝か」

「朝か、じゃねぇよ」

 眠たげな表情で身を起こし、此方に目線を向けず遠くを見つめる古都。黒斗からしてみれば、自分の苦悩を別けてやりたいと思ってしまう程だ。

 それもその筈。

「また女遊びか?」

「其れは私の仕事じゃない。私はNTR遊びだ」

「タチが悪いな……」


 夜遊び。

 コイツは黒斗が寝た後に夜の街に繰り出していたらしい。

 其の証拠にしては十分な程に体中に後を残しており、何処か酒臭い。そもそも本人自体隠す気がない。


「まあ良い。決行は夜だ。今のうちに寝ておけ」

「そうさせて貰うわ。シャワーシャワー……」


 ゾンビの様に立ち上がり、ノロノロと洗面台まで歩み出す古都。呆れた物を見る目で黒斗も見送っていたが、姿が見えなくなるとテーブルの上に散らばった機材群を確認する。


「……ったく」

 適当に拾い上げて、機材達を確認する。どれもが軍事利用されている様な機材類で、ホテルの一角で簡単に見れる様な代物ではない。ガスマスクや新式暗視ゴーグル。中にはかなりマイナーでありながらも強力な物まである。何だったら、ハンドガンやサーチスナイパーまで取りそろえてある。

「……、」

 それらの中からハンドガンを手に取り、黒斗は慣れた手つきで分解し、再構築し、マガジンをセット。そしてクルクルと回して銃口を前に向ける。

 其の手順が余りにも慣れた手つきで、まるで記憶にあるかの様に彼は其の拳銃を扱った。

 そして其の手順を終えてから、彼は無表情のまま、小さく吐き捨てていた。


「――手に付いた染みは、取れない物だ」


「……其れは結局、貴様が変わらないという事ではないのか?」

 不意に背後から、語りかけられたその声。

 其処に居たのは、腰にタオルを一枚巻いただけの古都が居た。

「そう思うか?」

「ああ、ジャパリパークという場所程、貴様に似合わない場所は無い」

「酷いなぁ」

「当たり前だ。お前は、大切な物を持たなければ、もっとマシな生き方を出来た物を」

「……それでも、諦めたくないと思ったんだ」


 彼の格好など気にしない。

 黒斗は、ただ彼とは逆方向に向き直り、またも吐き捨てた。


「欲張りかもな。だけど、誰にでも届く手が欲しかった。其れは、あの時から変わらないさ」

「強欲だな。欲張りだ」

「それで良い。俺は意外と欲張りなんだ」

「そうか……」


 古都は飽きたのか、自室に入っていく。

「俺は夜まで寝る。決行はその時だ」

「解った」

 バタンッ! と、扉は閉められる。

 大きく溜息を吐き捨てて、窓から見える外を凝視すると、黒斗は頭を掻きながら立ち上がった。


 外を見つめて、彼は思い耽る。

 今はもう、その白と黒しかない其の世界の空を観て、嗚呼と零した。


「――嫌な空だ」

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