第一二節

 人間にとって、文芸や絵画は独自の文明だ。

 動物達は生存競争の中で長い時間を掛けて進化をし、多くの天敵から身を守り、多くの土地に適応してきた。だが人間は、動物とは違い技術の面での進化が突飛しており、その為に短期間で生存競争の上位を勝ち取った。

 昨今、その技術をフレンズが使用する事が多くなってきた。彼女達は、狩ることの代償に人間の技術を取り入れることを覚えたという論文も出回っている。

 強ちその理論も間違いでは無いのだろうが、もしコクトがこの島に上陸しなければ、何者もこの島に来なければ、その変わった姿で生存競争を始めたのでは無いのだろうか?

 故に、対価を払って人間の技術を手に入れたと言うには、人間という第三者の介入により、フレンズ達は共存の道を見出したのだろうか?

 多くの見解が蔓延るジャパリパーク。

 ただ、その正解は未だ見つからないままだ。


「……、」

 ジャパリパーク保護区内大図書館。

 コクトは久方振りの休日を、いつも通りの白衣と共に書籍整理に明け暮れていた。朝方の図書館は静かで独特の空気を漂わせている。窓から射す日光によって、空気中の塵や埃がキラキラと輝き、夕陽とは違う純白性の強い光によって、室内は電灯の必要も無く明るくなる。

 そんな幻想的な空間の中で一人、積み重ねられた書籍や場所がズレている本などをテキパキと直していくのがコクトの仕事……と言うより、ボランティアだった。

「ま、こんな感じか」

 元々が其処まで雑多に扱われていない為に、小一時間もすれば作業が終わる。

 今日の彼は、休みの日を活かして日頃行けない場所に赴こうという考えだった。


(まあ、セントラルを離れる訳にも行かなかったし、こういう日はこうやって遠出してみるのも手か)

 そんな考えの元掃除用具を棚にしまい込んで、コクトは児童書コーナーへと赴く。小さな子供用であり、フレンズにとっては字を覚える初歩的な教材としてある本達。その中から、嘗ての『とりのおうさま』を手に取った。

 中を開く訳でも無く、その本だけをジッと見つめていた。


 商品化されて一年が経つ。

 本としての売れ行きは良くも無く悪くも無い。

 だが、その内容が所々に憂鬱とした物の為に、店頭に置かれることがあっても、売れるのは数冊。初版で刷った本の内の三分の一が残り、重版することは無かった。

「櫻、あんまり売れなかったけど、それでも、僕は良い本だと思うよ」

 本を眺めながら、小さく呟く。


 ――ガタッ!

 コクトの耳に入ったのは、棚に何か堅い物をぶつけたような音だった。

 ふと、振り向いてみれば、其処には久方振りなフレンズが、その場所で隠れて此方を見るようにして立っており、靴の踵を本棚にぶつけてしまい、焦っている状態だった。

「……タイリクオオカミか」

「……ああ、ごめん。勝手に覗いてしまって」

「構わないさ」

「……それは確か、去年からここに置いてある本よね?」

「よく知ってるな」

「私、偶にここに来るのよ」

「そうなのか」

「で、それに何か話しかけてたけど、重要な本なの?」

「あー、恥ずかしい所見られちゃったなぁ……」

 コクトは頭を掻きながら、明後日の方向に目線を移す。余り言葉に出来るような物でも無く、かといって黙るのはどうかとも思う。

 それでも、事情が事情なだけにはぐらかすしか無いのだ。

「まあ、色々というかな……、聞かなかったことにしてくれないか?」

「そうなのかい? まあ、そうなら良いけど」


 タイリクオオカミという少女は、どうやら内面まで足を踏み入れるようなタイプでは無かったらしい。その一線を置いてくれたことだけでも感謝すべきだろうか。


「そうだ、折角だから、その代わり一つだけ教えて欲しいんだ」

「……?」

 ただ、そう上手く行く訳もなかったのか、彼女は対価を要求してきた。


 ――それは。


「絵を教えて欲しい」

「……絵?」


 意外な要求だった。


   *


「何でまた絵を……」

「いやあ、最近人の作る本やマンガって言うのに興味を持ってね。一度体験してみようかなって」

「成る程」

「で、ふと手に取ったあの本を読んで、ああ言う可愛らしい絵を描いてみたいと思ったんだ。ただ、内容はかなりヘヴィーだけどね」

「まあ、そうだが……」

 机の上にスケッチブックを置き、鉛筆を手に取って描く練習をしようと準備するタイリクオオカミが此方に向かって話しかけている。彼女はどうやら半ば本気らしく、その本の絵柄の様な絵を描いてみたいとのことだった。

 試しに描かせてみると、矢張り一筋縄では行かないようで、線がグニャグニャッと曲がり、初心者にありがちな歪な絵画になってしまった。

「う~ん……どうすれば良くなるんだい?」

「まあ、まずはって事を慣れないといけないだろうな。取り敢えず、ペンはこう持つ」

 コクトは、タイリクオオカミの手を取り、正しい筆の握り方を教えてみる。そして、実際に自分もペンを握り、型と視認で確認出来るように彼女にその筋を示してみせる。

「成る程……こう、かな」

「まあ、持ち方は初歩だが、それでも足場を作るという意味では、その点も重要になってくる。ただ、どう握っていても孰れは人の癖に定着する。色々描いてみて、自分の持ちやすさを試してみると良いよ」

「要は、この基本から慣れろって事かい?」

「まあそうだな。それで少し描いてみると良い」

 タイリクオオカミは言われた通りに、スラスラッと絵を描き始める。だが、特に絵の進歩は無く、先程までと何も変わらない。タイリクオオカミは首をかしげて絵を見つめている。

「絵の上達が早くなる持ち方であって、絵が上手くなる持ち方では無いよ。其処から地道に進めるしか無いね」

「んー……、絵って言うのは奥深いんだね」

「まあ、絵という物は描き手によって味が変わる物だ。人の才能や手癖によってもその絵柄の本質は変わる。ある程度上手くても、その本来の才能に適した描き方をしないだけで凡庸にも成ったりする。絵を描くことの本質は、自分を見つけることと同じだ」

「自分を見つける?」

「そうだな。自分の手癖や才能に適した絵柄という物は、中々に見つけ難い。現に絵とは一瞬の天才の閃きと同じくして、かなり高度な技術を要する。事実上人間の文化でも、未だ受け継がれている手作業の職人技に違いないだろうから、習得するとしてもかなり苦労するよ」

「――、」

 タイリクオオカミは、フムフムッといったように耳をピクピクッと動かしながらにコクトの話を聞き入れ、口元に指を当てて考え込む。

「まあ、色々と描きながら考えてみると良いさ。私は美術に関しては余り得意分野では無いから、そこら辺は調べて貰う方が良い。何だったら、この図書館にも絵画の実用書籍は有ったはずだ。適当に調べてみると良いさ」

「うん、ありがとう」

 彼女は、本棚へと向かい、自分の目的の書籍を探しに行き始めた。未知への探求を、彼所まで味わってくれる者は人間社会でも早々にいない。コクトにとっても、彼女達の挑戦は眩く見え目を閉じてしまいたくなる物だった。


(しかし、まぁ……)

 コクトは、彼女が席から離れ資料探しに行くのを見送ると、ガラリッとその書物庫のような図書館を一望する。

(モノクロか……)

 彼の眼の内の世界。

 それは、かなり変わった状態になっていた。


 人間は、三色の光源から世界を見る。

 昨今までには、フレンズにもその機関が存在することは明白とされ、希少な四色の持ち手もフレンズの性質上持つ者も現れている。

 それが、現社会での当たり前であるが、この色彩に対して異常を持つ者を俗に『色覚異常』と呼ぶ。

『色覚異常』は、人間の見る色彩である一種に変化が生じ、例えるのであれば、紅葉を見に山奥に立ち寄ればその紅葉全てが緑に見えてしまい、赤く実ったトマトが未だ青く見えてしまう。色彩の光源の一種が取り除かれ、色彩世界での欠落によって判断に異常が起きてしまうのだ。

 コクトはこの中でも異例に近い状態で、『一色覚』と呼ばれ、またの名を『全色盲』と呼ばれている状態だ。『全色盲』はその名の通り全ての色に対しての認識が不可能であり、事実上コクトは色が見えない。

 たった一人、色の無い世界に取り残されるというのは、危険極まりないのだ。


 と言うのも、コクトの『全色盲』性質上恐ろしいのは、見分けが付かないこと。コクトにとってはキツネのフレンズ全般においても、その姿を見分けることは出来ず、それはオオカミやライオン、謂わば容姿が似ているだけで彼は判別出来ない。

 先程も、タイリクオオカミが来た瞬間はかなり素早い認識をしており、「コクトの関わりの深い者」「彼を隠れて見るような者」「オオカミのフレンズ」の、三条件下で当てはまるフレンズをいち早く演算していた。

(本当に焦った……。だが、まぁ……利点があるだけ良しとしよう)

 彼がその『全色盲』に有るという利点。それは、夜目に最も近い状態になれるという事だ。ただコレは、少々誤解があり、詳しく言えば「『全色盲』は光に弱いが、暗闇の中では微かな識別を可能とする」のだ。有る話には、月の光でトビウオを捕らえる漁師がいたと言われている。


 だが、それでも、コクトのその異常は言葉には出来ない苦しみには変わりないのだ。

 謂わば彼は、例えそれが嘗ての大切な人物であっても、最早彼には相手からの申告が無ければ判断出来ないのだから。


「……、」


   *


「コレだけ有れば十分かな……ん?」

 タイリクオオカミは数冊の資料を手に机に戻ってくる。

 だが其処には、もうコクトはいなかった。


「……帰ったのか?」


 辺りを見渡しても、誰もいない、静かな図書館だった。


   *


 彼は図書館を出て、次の目的地に向かう。

 とは言った物の、此れといって彼に目的がある訳では無い。自由奔放に外に出て何か出来ることが無いかと探すだけなのだ。

 全色盲を持つ彼は本来出歩くことさえ危険な状態なのだが、彼にとって病状は良い訳にしか成らない。況してや休日、その全てが自己責任な為に、職務上の致命性は無い。


「アレは」

 コクトは、遊園区内にある一つの喫茶店の近くまで来ていた。ジャパリパーク・セントラル内での女性に人気の喫茶店。此所はパティシエの腕によって多くのスイーツが味わえる現在人気急上昇中の店舗だった。

 外観はピンクで彩られ、中にはぬいぐるみやポップなデザインのパネルなどが設置されている。まさに女性優先の店と言うだけ有って、その威圧感だけで男性が近寄ることはまず難しい場所だ。色識別は出来なくても、その噂は大きく広まり、コクトの目からすればその女性で溢れる客と、可愛らしい形のポップや人形で一目で解ってしまうような場所になっているのだ。

(まさに女性向けの喫茶店。フレンズも愛用出来る為に二重の意味で鉄壁の城となっているな……。まあ、視察に来ただけで入るつもりは無いが……そもそも、この浮ついた甘ったるい空気の中に行くこと自体絶対に嫌だ)

 彼なりにも引け目を感じる部分は大いにある。

 というか、そもそも女性専用のファンシーショップに立ち寄る男性のその心情を考えたことはあるだろうか?

 まず第一に言えるのは、地獄だ。

 疎外感、周りの視線、会計中の店員の眼差し。

 死ねと行っているような物だ。


(まあ、深く関わらず、次の場所に――)

 彼は、喫茶店を後に次の場所へと赴こうと、視線を外した時だった。

 その喫茶店の対面に位置する建物の壁から、喫茶店を覗いている一匹のフレンズがいるのだ。

「……?」


 コクトは近づく。

 気がついても良い距離の筈なのに、そのフレンズが夢中な性か背後に近づくコクトに気がつかず、コクトはそのまま彼女の肩にポンッと手を置いて言葉を書けた。

「君」

「あびゃばばまはひゃはぁぁぁーー!!!!」

 口から出る物を全て叫んでしまったようなその驚きは、逆にコクトまで目を開かせ驚かせていた。

 驚驚しく彼女が振り向くと、其処には自分よりも長身の並外れた髪の長さを持つ何者かが立っていることに気がつく。

 そして。

「けふんっ」

 口から白い球のような物を吐き出した。

「あっ!! 待て! 此所で昇天するな!!」


   *


「取り乱して申し訳ありませんでした……私、アードウルフといいます」

(アードウルフ……確かハイエナ科で、本種のみで存在しているアードウルフ属か。別名は、ツチオオカミだったか)

 識別できないために、知識で補う。

 解ってやれないというのは、どうにも悔やまれる思いながらも、彼は自身も名乗ろうと話しかけるが。

「私は――」

「所長さん、ですよね? 有名人ですから」

「そうなのか?」

「ええ、でも……偉い人、しか」

「別に偉くは無いよ」

「そうなんですか?」

「ま、このジャパリパークに偉い人なんて私以上に巨万といるし、私は普通さ」

「そうなんですか」

「で、アードウルフは此所で何を?」

「あっ……えっと、あの喫茶店を見てて……」

「ああ、最近出来た店だったな」

「彼所に行ってみたいんですが、その、勇気が無くて……」

「勇気?」

「私、その、お恥ずかしながら、人が多い所は苦手で、一緒に行ってくれる友達もいなくて」

 話の中に、とんでもない爆弾を仕込まれる。

 コクトからしても、同僚はいても友達と呼べる存在は居なかった。少々ザクッと刺さる言葉に、内心痛みながらも耐えつつ返す。

「まあ、人気店だけ有って人もフレンズも多いからなぁ……」

「……、」

「……?」

 ジーッと見つめてくるアードウルフ。

 その眼に首をかしげるコクト。

「……、」

「……!」

 その眼で何かを訴えるアードウルフに、その意図を感じ取ったコクト。


「所長さん!」

「嫌だ!!」

「お願いします!」

「ダメ!」

「其処を何とか!!」

「無理です!!」


「壁になって下さい!!」

「一緒に行ってとか可愛い事じゃなくて、とんでもない事を言ったね君!?」


   *


 一人の男性が入店した。

 彼の背中の白衣はこんもりと盛り上がり、白衣の先から尻尾が見え隠れしている。

(余計目立ってるじゃねーか!!)

 何だ何だと周りは彼を見つめ、コクトはその羞恥心と背後への怒りの念で最早グチャグチャに入り交じる。

「い、いらっしゃいませ……えっと」

「二名でお願いします。テーブル席で」

「あ……はい」

 有無を言わせない為に、コクトは最早真顔中の真顔でウエイトレスに要所と圧を掛ける。

 渋々押されたウエイトレスは彼等を席へと案内するとそそくさと立ち去ってしまった。


「……もういいぞ」

 その言葉が言い終わる前に、彼女はピュンッと足早に席に着く。

 頭を抱えながらもコクトも対面に座り、メニューを見開いた。


「……、」

「わぁぁ……、ど、どれも美味しそうですね!」

(余り思いたくない事だが、最早メニュー名で判断しなければならない日が来るとは……)

 全色盲の性で、メニューの全てが白黒になっている。その性か、メニュー欄の下にあるカロリーや含まれる食材などの詳細説明でそれが何かを判断しなければならない。


(……というか、そもそも私も同じく洋菓子を頼む必要は無いか)

「決まったか?」

「えっと……、じゃあ、此れで!!」

 手を上げてウエイトレスを呼び出す。

 先程の震えていたウエイトレスでは無く別のウエイトレスが、メニューを聞きに電子伝票を持って駆けてくる。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「私はこの珈琲を」

「わ、私は……、この期間限定ジェラートイチゴチョコMIXパフェを!」

「畏まりました。珈琲はホット、アイス、どちらが宜しかったでしょうか?」

「ホットで」

「畏まりました。では注文を繰り返させて頂きます」

 ウエイトレスは注文を確認した後に、コクトとアードウルフの頷きをみて下がる。


「甘い物、苦手でしたか?」

「まあ、な」

 少しはぐらかす様に返すコクト。数分もすれば、彼等が頼んだ注文品が運ばれてきた。

「お待たせしました~」


 ホットのブレンドコーヒーがコクトの前に置かれ、そしてアードウルフの前にはパフェが置かれる。

 パフェは文字通りジェラート、イタリア出産の苺ジェラートを使用されており、中々に甘酸っぱい匂いが鼻を刺激するのだろう。ジェラートは普通のアイスとは空気密度が違い、その極めて少ない空気密度の為に味のコクが引き出される。更には上からたっぷりと掛けられたチョコシロップは潤沢があり艶やかに光を反射し、その一品を見るだけで目移りしそうだ。透明な器から見えるフレークとチョコソース、更にアイスの三段の組み合わせは、まさに喉の奥に唾を飲み込んでしまいたくなるほど、食欲をかき立てられる。

(ま、と言っても……私にはそのような感覚が微塵も感じられないのだがな)

 その言葉は、まさしく彼女の今の姿を表現した様な物だった。

 目をキラキラと輝かせ、何処からスプーンを付けて良いか迷い、あたふたとする姿を珈琲を啜りながらに見つめる。こうなると、先程までの怒りもどっかへ行ってしまい、和やかな気分になれるのは人間の風情に近い何かなのだろう。

「は、は、はむっ……ん~~~~っっ!」

 頬を押さえてその味を堪能するアードウルフ。どうやら舌には合った様で、ちょっとずつだが堪能しながら飲み込んで行く。


(ジェラートは低脂肪でコクがあるが、寿命が短い。新鮮な素材を活かす為にその賞味期限は少なく、更には保存も一定の温度下で保存しなければならず、それより上回っても下回ってもいけない。日本で言うアイスとシャーベットの中間の存在だが、それでも今の日本では浸透しつつある……成る程、こういう新しくも人気の有る物を取り入れていくのも商売戦略の一つか……)

 珈琲を啜りながら、その職業病故の考えを頭の中で巡らせる。

 その為に、いつの間にかその視線がジェラートに集中しており、そしてその視線をアードウルフも気がつかない訳がなかった。


「あ、あの……」

「ん?」

「ひ、一口。食べますか?」

「ん? 大丈夫だよ」

「でも、すっごい見てましたし」

「んぐっ」

(あー……、何というか、人間性が大分落ちてきた気がするな)

 配慮と言うべきか、何処かに集中すると何処かが疎かになってしまう。ただ、商売戦略の話をしていたと長々と一から説明するのも、気分を害す。


「ちょっと興味があっただけだよ! まあ、次来る時に食べようかな~って」

「次って、お一人でですか?」

「ぐっっ」

 言い訳に為るには、場所が悪かった。

 彼だって望むのならこんな男性に対し禁制を張る様な場所に二度とくるかと言いたい。


「あー……まぁ、き、気にしないでさ、ね?」

(前までは上手く誤魔化せてた筈なんだけどな……)

 時代を置くも、思考の破損に寄るも、如何にせよ、今の彼は何処かおかしい。ただ、それは彼をよく知っている者が居ればそう気がつけたのだろう。


「……だったら」

「?」

 彼女は、スプーンにジェラートを一口分掬い取る。

 そして、コクトの前へと持って行くと。

「あ、あの……一口、どうぞ……」

「……へ?」


 コクトの口がポカンッと開いた。

 クエスチョンマークが幾つも飛び出し、挙げ句の果てには互いに硬直してしまう。

 アードウルフも、そのまま伸ばし固まっている状態でどんどん顔を赤く染め上げていき、仕舞には恥ずかしさが達してしまったのかコクトの口に突っ込んだ。


「んぐっ?!」

 反射的にコクトは口を閉じ、ジェラートを口の中に残してスプーンは抜き出される。


「え、えっと……どう、ですか?」


「――、」

 口の中で、モグモグと噛み締める。

 数秒経って、ゴクンッと飲み込むと、彼は微笑んで彼女に語った。

「成る程、確かに美味しいね」

「――!! ですよね! ですよね!!」


「あはは、わ、解ったから!」

「はうっ?! と、取り乱して済みません……」

「いいよ。でも、美味しかったかい?」

「はい!!」

「そっか、なら良かった。済まないけど、私はこれから用があるんだ。支払いはここに置いていくから、ゆっくり食べていくと良いよ」

「えっ! 悪いですよ。そんなお支払いまで!!」

「いいのいいの。お裾分けを貰ったお礼にさ。それじゃっ」

「え、ちょっと……行っちゃった」

 コクトは手をヒラヒラとさせながら、ササッと店内を出てしまう。

 一人残されたアードウルフは、再びジェラートを食し始めながら、その味に堪能して、そして、数秒の間が空いて気が付く。


「……あっ!? 置いてかれた!!!?」


   *


「ガハッ!! ゲホッゲホッッ!!」

 お手洗いの洗手台で、コクトは吐き出す。

 嗚咽を漏らすその声は、昼下がりの光景には似つかわしくない物だった。


 セントラルから離れた、保護区内の公衆便所。

 誰も近寄らない場所で、唯々嗚咽を漏らし続けていた。


「……くそっ!!」

(真逆……もう、進行が早い!)


 病気の侵食とは、常に何処かの点を超えると速さを増す。

 彼とて覚悟は決めていたが、それでも予想を上回るその進行の速さに、彼も待っては居られない。

 否、もう時間が無い。


 全色盲、味覚の故障、聴覚の損傷、触覚の断片的な遮断、嗅覚の低下。

 今日一日で、その全ての進行が早まっていたこのに気が付いてしまった。

 そうとも成れば、成ってしまえば、もう待っては居られない。


「……ッッ!? ぐ、がぁぁっ!!」

 突如、顔の右半分に壮絶な痛みが襲う。

 片手で押さえ、痛みを堪えながら、鏡を見る。


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ」

 絶句だ。


 もう、言葉が出ない。


 顔面の左上。

 眼帯当てが当たる様な部分を含めた全域の肌が割れ落ち、中の黒い靄が見えだしていた。


 黒い靄の中で、何かが見つめている。

 自分の目なのに、自分の目が合った場所の筈なのに、自分の目では無い様な何かが、自分を見つめているのだ。

 黒い闇の中でヒッソリと、眼球だけが浮かんでいる。


「――ぐっ!!」

 再び痛みが走り、割れた部分が燃える様に熱くなる。


 その痛みをまたも堪えながら、再度見た鏡の先の顔は、……元に戻っていた。


「――行くしかない」


 吐き捨てた。

 覚悟を、決死を込めて。


「あの場所に、行くしかない!!」


 痛みが残る顔面を無視して、彼は其処を出た。


   *


 銀蓮黒斗。

 彼は、ジャパリパークの最高責任者代理にして、ジャパリパークの全知に最も近い存在と言われた。


 だからこそ、そんな彼がそのジャパリパークを長い期間出るという事は先ず無かった。


 だが、その日。

 コクトは一ヶ月の休暇申請を出し、申請書類には「遠くに行く」とだけ書き残されていた。


 前代未聞だった。


 彼とその期間連絡がつく者は、一人としていなかった。


 事実上、コクトは、その一ヶ月、行方を眩ませた。

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