*僕ができること

 ──ベリルのことが気掛かりで数年は情報を監視していたマークだが、妻のためもあって辞職を決意した。

 襲撃した連中の正体は結局、解らずじまいで気にはなったけれど、このままでは何の関係もない妻を巻き込んでしまう気がした。

 精神がすさめば妻に八つ当たりしかねない。それに一番、心を痛めるのはベリルだ。

 辞めるときに、今よりも高いポストを提示された。マークはそれに躊躇うこともなく、「施設でのことが精神的なダメージとなっている」として拒否をした。

 返って警戒されるかもしれない理由にしてしまったとも思ったが、辞める前に上司から「あの件については他言無用である」ことの重要性を暗に示されて多少の安心はあった。

 マークには妻がいる。彼の性格を知る上司は、家族を守るために必ず口をつぐむと考えている。

 もちろん妻を守るためも理由の一つだが、何よりもベリルのためが大きかった。

 彼なら、どんなことがあっても自分に接触してくることはないだろう。それならば、政府の目を分散させた方が彼のためにもなる。

 仕事を辞めると言ったときローラは少し驚いたあと、いつもの笑顔で夫の決断を尊重した。

 何も話さなくとも、夫が大きなものを抱えているのだと気付いていたのかもしれない。何も言わずに許してくれたローラに感謝しかなかった。

 そうして遺伝子関係の仕事に就くことは避けて、なるべく経歴から遠い職を選んだ。そのせいで苦労は絶えず、それもまた人生の良い経験となっているのだと思いたい。

 ふと、青い空が視界に入るとマークはついつい見上げてしまう癖がついていた。

 ベリルは幸せに生きているのだろうか、世界を回っているのだろうか、捕まってやしないだろうか……。

 それを考えると、一年がとても長く感じられた。



 ──あれから三十年、マークは妻と共に郊外で静かに暮らしていた。

 この国にはさしたる観光名所もなく、発展しているのは中心にある首都くらいだ。他は古い建物が多く、人々はほのぼのと生活している。

 彼の住む町も例外ではなく、典型的な外国の田舎町といった風景が続く。建てられている家屋は、周囲の国々の影響からか多様性が見られた。

 ほぼ平野しかない国土には点々と林と森が広がっており、自然豊かである事が唯一の自慢と言ってもいい。

 優れた科学技術を有し、それらを輸出しているとはいえ、それのみでは国を維持するだけで精一杯なのだ。多くの技術はすでに他国と拮抗を始めている。

 マークは、リビングの窓からレースカーテン越しに外を眺めた。車の駐まっていない煉瓦造りの道路を見やり、溜息を吐いてソファに腰を落とす。

 髪はすっかり白くなり、肌の張りも失われて曲がりかけた背中に不満はあれど、気力だけは今も若い頃と変わらない。

 国の仕事を辞めて三十年、ようやく僕の監視は解かれたらしいと安堵して背もたれに体を預ける。確かに、あの時の僕の言動は周りから見ても変だったろう。

「襲撃に関わっていたかもしれない」と考えられてもおかしくはない。ベリルが生きているなら接触する可能性があると考慮し、家には盗聴器まで仕掛けられている。

 知っていて知らない振りをするというのは、結構な精神力が必要なんだなと実感した。もっとも、それも数年で慣れてしまった。

 僕が願っている通りに逃げ延びているなら、生きていることを何かで伝えようとするかもしれない。しかし、彼がそのリスクを考えない訳がない。

 彼は優しいから、きっと真っ先に僕と妻のことを思うだろう。出来るならば、もう一度だけ会いたかった。

 けれど、彼が無事でいるなら僕はそれでいい。いっそ忘れてくれて構わない。

 マークはゆっくりと目を閉じて、小鳥のさえずりを楽しむように耳をくすぐる鳴き声に聞き入った。

「あら、どなた?」

 玄関の方から妻の声がする。客でも来たのだろうか。

「ご主人はいらっしゃいますか」

 青年の声だ、この声は初めて聞く。

「ええ、リビングにいるわ」

「お邪魔させてもらっても」

「どうぞ。私はこれから買い物だから、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます」

 警戒心など微塵も見せず、中に促す妻に半ば呆れて溜め息を吐く。この町でわざわざ僕たち夫婦を狙う者がいる訳もない。知らない人間なら尚更だ。

 ゆっくりとした足音が近づいてくる。この靴音はスニーカーかな? それにしては革靴のようにも聞こえる。

 広い家でもないのに妙に落ち着いた足取りなので、マークはついつい目を閉じて思考を巡らせていた。

 重くもなく軽くもないけれど、なんというか貫禄がある。

 まるで──

「っ!?」

 懐かしい影を思い浮かべた瞬間、部屋の入り口に立っている青年の姿に声もなく目を見開いた。

「お久しぶりです」

 その青年は柔らかに微笑み、体を強ばらせているマークを見つめた。彼の驚きを予想していたのか、動かないマークに再び笑みを浮かべる。

「そんな、馬鹿な」

 震える足で立ち上がり、青年をまじまじと見やった。金髪のショートヘア、エメラルド色の瞳に整った面持ち。自分の目が信じられず頭を横に振る。

 覚えている。忘れるものか。この顔立ちは紛れもなく──

「ベリル? 本当に?」

 無言で頷き、三度みたび笑みを見せた青年にマークは体を震わせてまた首を振った。

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