羽蛇様、喰らう。

青樹加奈

 フグの身は固い。薄く削がなければ食べられない。

 俺は親父から譲り受けた庖丁を取り出した。短刀のように細く長い親父の庖丁は一度引くだけで身を薄く削げる。俺は丁寧に削いでいった。削いだ身を皿に並べて行く。並べた身の上から皿の模様が透けて見える。並べ終わって、タレを用意した。庭先にある橙の木からまだ青い実を取り、半分に切って汁を絞る。深皿にこの汁とひしほを合わせ細かく刻んだ細葱をくわえる。

 囲炉裏端に座り、刺身とタレの乗った盆を引き寄せた。刺身を箸ですくい上げタレに浸けて食べる。ひしほの旨味、橙の香りと酸味が刺身本来の旨味を引き立ててやまない。そのまま食べてもいいが、小指の長さ程に切った細葱ほそねぎを巻いて食べてもいい。炊きたてのアツアツの飯に乗せて食べると絶品だ。

 だが、まずは酒だ。

 嫁が土器かわらけに酒を注いでくれた。刺身を噛み締め酒をぐっとあおる。フグの旨味と酒が熱く胸を降りて行く。二杯目、ふうっと酔いが回る。

「母ちゃん、飯ついでくれや。酒はここまでにしておく」

 嫁がだまってかまどからアツアツの飯を茶碗に盛って出してくれた。こころなしか手が震えている。

 刺身を一枚すくってタレにつけ、飯に乗せて食べる。

 飯の香りに、刺身、橙の汁とひしほねぎの味が口の中で一つになる。

 うまい。

 一枚とってタレにつけ飯へ。これを繰り返す。

 アラは鍋にして食べるが、今日は味噌汁にして貰った。麦味噌と昆布だしで作った味噌汁にフグのアラをくわえる。出された味噌汁を一口すする。骨をしゃぶってわずかに残った身をだし汁と一緒に食べる。胸の奥がほうっと暖かくなる。

 最後に皿に残った数滴のタレを舐める。タレにフグの味が移り旨味がぎゅっと凝縮している。そのタレと共に残った飯をかき込む。

 うまい、うまいなあ。

 いつまでも食べていたい。

 食べていたいが、そういう訳にもいかない。

「さてと、そろそろ行くか」


 何時の頃からか、村に怪物がやってくるようになった。

 怪物は口から火を吹く羽のある蛇だった。そいつは十月の満月の夜やってきて、収穫間近の稲穂に向って火を吐いた。

「稲はお前達の食料なのだろう? これを焼いてしまっていいのかい? だけど、お前達の中から誰か一人、私に喰われるなら稲はこのままにしておいてやろう」

 火は稲穂をかすっただけだったが、脅しはそれで十分だった。

 村は半農半漁で喰いつないでいる。魚は取れるが主食というわけにはいかない。米が取れなければ村は全滅するだろう。

 身寄りのない年寄りが志願した。

「生きていても仕方がない。村の役に立つなら本望じゃ」

 怪物は年寄りを一吞みして帰っていった。

 次の年も奴はやって来た。次の年も。

 年寄りがいなくなり、病人もいなくなり、とうとう若い娘を差し出さなければならなくなった。

 何故、毎年毎年生け贄を出さなければならないのか?

 人々は怒った。怒りにまかせ、怪物に戦いを挑んだ。

 が、結果は惨憺さんたんたるものだった。怪物は田畑を焼き払い、暴れ回ってつつみを壊した。

 人々はわずかに焼け残った稲と、蓄えていた米で一年しのいだが、次に怪物がやってきた時、人々に戦う気力はなかった。一人の犠牲で村が助かるのだ。生け贄はクジで決められた。


 今年はお袋の番だった。ところが、お袋が今朝方死んだ。生け贄になる重圧に心の臓が停まったのだろうと、医術の心得のある者が言った。

 母の代わりを出せと言われ、俺が行くと言った。嫁や子供を犠牲には出来ない。

 俺は母の亡骸に手を合わせ、家族に別れを告げ家を出た。既にあたりは暗い。嫁がフグ提灯に灯りを入れてくれた。漁に使うもりを持って怪物がやってくる丘へ向う。もりなど持っていても役には立つまい。しかし、ただ喰われたくはなかった。片目くらいはつぶしてやりたい。丘の上で俺はもりを足下に置いた。薄く土をかけ隠す。

 月が中天に上ると同時に奴はやってきた。

 特有の羽音が響く。コウモリの羽のように薄い膜が風を切る音。草の上に奴の巨体が軽やかに降り立つ。シュッシュッと怪物の歯の間からきしるような音が聞こえる。

「今年はおまえかい?」

 でかい。恐ろしさに汗がにじむ。

「ああそうだ」

 怪物が喉をならす。大きくを口を開けた。

「何故、俺達を食べる?」

 怪物の動きが止った。冷たい瞳の上を薄いまぶたが上下する。呆れているようだ。笑い声のような音が牙の間から洩れた。

「何故って、美味しいからさ」

「若い女ならわかるが、年寄りもうまかったのか?」

「ああ、うまいよ。お前達は稲を食べて育った生き物だからね」

 怪物はしゅるっと舌なめずりした。

「お前達はね、私の腹の中でゆっくり溶けて行くのさ。ゆっくりね。きもが溶ける時はえも言われぬ香りを放ってね、極上の味がするのさ」

「そうか、きもか。実は俺の母が今朝死んでな。俺は母のかわりなんだ。母はあんたを神様と呼んでいた。母は死に際、俺に頼み事をした。羽蛇様に喰われて死にたいがそれは叶わない。せめてきもを食べてもらってくれと。母の肝を食べてやってくれぬか?」

「いいよ。羽蛇様とはね。嬉しい限りさ。その肝はどこにあるんだい?」

「これだ」

 俺は懐に持っていた包みを出した。

「今朝死んだばかりなら生きもいいだろう、さ、それをお寄越し!」

「ああ、やる。これをやるよ。だから、だから頼む。俺を喰わないでくれ」

 地面に頭を擦り付けて頼み込む。

「なんだ、命乞いかい。いいよ。それをくれたら、食べないでおいてやろう」

 俺は包みを高く放った。

 怪物が上を向き肝を一吞みしようと口を開けた。瞬間、俺の目の前に怪物の喉が曝け出された。俺は隠していたもりを掴んで怪物の喉元に打ち込んだ。が、怪物のうろこは固く歯がたたない。

「そんなもり、毛ほども痛くないよ。きもがうまければ許してやろうと思ったのに、このきもはちっともうまくない。やはり、おまえを喰らうとしよう」

 怪物の大きな口。牙が月光に光る。

「くそー」

 俺は落ちた銛を拾って思い切り突き出した。ばきっと銛の折れる音がする。奴の生臭い息が俺を包む。もう駄目だ。

「ギャアアア」

 突然、怪物がのたうち回った。羽で地面を叩き、ゴロゴロと転がる。

「な、何を! 何を喰わせた? さっきのは何だぁ?」

 俺は逃げ出した。

 怪物はげぇげぇと吐きながら追いかけて来る。

「うわあ」

 奴の牙に足をはさまれた。引きずられる。体が浮いた。空中に投げ出される。

「貴様、何を喰わせたぁ。ぎゃあ」

 気が付くと俺は近くの草むらに転がっていた。慌てて立ち上げる。

 死にかかっている怪物が息の下から言った。

「何故、私を殺す? 私が老人を食べたおかげで口減らしが出来たろう? 私が田畑を焼いたおかげで土地が豊かになったろう? 私が暴れたおかげで堤が壊れ荒地をため池に出来たろう?」

「何を言っている。おまえのやった事はすべて俺達の為だったというのか?」

「ああ、そうさ」

「だけど、だけど、おまえは俺達を食べるじゃないか?」

 怪物がかっと目を見開き、炎を吐いた。咄嗟によける。熱い。逃げようとしたが足がもつれ尻餅をついた。ついたまま後ずさった。もう駄目か?

 だが、それが最後だった。怪物の目から生気が消えた。

「おまえが喰ったのは、お袋のきもじゃない。ははは、おまえが喰ったのは、おまえが喰ったのはな。フグのきもだ。フグの肝を喰ったのさ。ざまあみろ」

 フグの肝には毒がある。ほんの少し食べただけで、人は一瞬で死んでしまう。昨日、フグが網にかかった時、フグの毒で怪物を殺せないかとひらめいた。怪物に効くかどうかわからなかったが、一か八か試してみて良かった。

 怪物の体が痙攣を始めた。

 まさか、まだ、生きているのか?

 腹が割れ何かが転がり出た。黒煙こくえんが上がる。みるみる溶けていく。凄まじい腐臭ふしゅうだ。

 何もかもが溶けて消えてしまった後、一抱ひとかかえもある大きな白い卵が残った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る