群青の道をゆく

まるた曜子

前編

 浅海あさみからメールがあった。


 2年前に兄の妻になった彼女のメールには、夫の敦一のぶかずには言わずに会ってほしいという文面が綴られている。こんな時間に、と慎二しんじは首を捻りながらも了承し、待ち合わせの最寄り駅に向かった。金曜の夜22時、駅前には大きな繁華街はないのにまだまだ盛りの人混みに辟易しながら浅海を探す。浅海とは春に買い物に連れ出されて以来なので、半年ぶりだ。


 改札から少し右に逸れた柱に、キャリーを手にし、秋物のハーフコートでふっくりふくらんだ浅海の姿があった。その荷物の量に、また慎二用の服でも買ってきたのだろうかと測る。それにしてはどこか強張った表情に違和感を感じながら声をかけた。


「あさちゃん、ひさしぶり」

「しんちゃん」


 視界には入っていたはずだが、気がついていなかったのか、まるでいま目覚めたように浅海はびくりと肩を震わせて慎二の名を呼んだ。その、普段おおらかな彼女にそぐわない切迫感にたじろぐ。そして挨拶もなく告げられた台詞に言葉を失う。


「泊めて」


 慎二が驚きで声が出せずにいると、涙目の浅海が続けて訴えた。

「迷惑かけないから、泊めて。のぶくん、浮気したの。あの家にはいたくない」


 うわき。うわき、

 浮気? あの兄が?


 敦一と浮気という言葉が巧く結びつかなくて、脳内で試行錯誤しているうちにも浅海は言葉を重ねる。

「まだ親には言いたくないし、友達も言えない……しんちゃんなら、あたしが正しければ味方になってくれるでしょう?」

 すがりついて、今にも泣き声になりそうな浅海を無(む)碍(げ)にはできず、かろうじて判断材料を求める。


「証拠はあるの?」

「具体的にはほぼないよ。状況証拠と本人の自白だけ。でも、自白だけで充分」

「自白かあ……」

 あの敦一が認めたなら、本当なのだ。


「ともかく、ここで話す内容じゃないね。夕飯は食べたの?」

「まだ。食べる前に飛び出してきちゃった」

 うっすらと口角を上げて答える浅海は、苦笑よりも威嚇のように見えた。


「……衝動的みたいに聞こえるけど、荷物はもう用意してたんだね」

「……そう。違うなら、あのままあそこにいたと思う……でも違わなかった」

「じゃあともかく食べようか。空腹時はいい考えは浮かばないから。本当は寝る前より昼間のほうがいいけど、とりあえずご飯してお風呂入ってリラックスしてから詳しい話をしよう」

「しんちゃん変わらないね。驚かない?」

「いや、なんか繋がらなくて。まあその辺のオレの感想もその時にね。どっか入る? コンビニかホカ弁する?」

「早くしんちゃんち行きたい。コンビニでいい」

「じゃあ途中にセブンとファミマあるから、どっちか選んで」


 駅よりも大学の近くで探した自室に浅海を招く。人通りが多いのは駅前のみで、少し路地に入るともう喧騒は途絶えた。慎二のマンションがある辺りへは住宅街をぬって進み、浅海のキャリーがたてる音がアスファルトに響く。


 そういえば、兄のいないところで浅海に会うのは初めてだ、と、慎二はぼんやりと過去を振り返った。




 慎二が浅海に会ったのは、中学1年の晩秋である。当時高校1年生で唯一の理解者、敦一が、『彼女ができました』と区立図書館に連れてきたのだ。安息の地であるそこに兄が女性を入れたことに、当時の慎二は裏切りすら感じた。8年近く、図書館は慎二の聖域であり、同級生たちには秘密の隠れ家だったのだ。


 更に遡った昔、幼い慎二の「どうして」攻撃に、両親は早々に白旗を挙げ、彼を図書館へ連れて行った。レファレンスを覚えたのは5歳の時だ。また、兄の敦一はどちらかというと外遊び派にも関わらず、慎二が疑問を唱えたら一緒に調べてくれた。キャッチボールをしていて、どうしても敦一までボールが届かない慎二に、斜め上向きに投げろとアドバイスし、どうしてそれだと届くのか、という質問に彼の愛読書の野球漫画とフォームの図を図書館への送迎を付けて確認してくれた。もちろん物理法則など、当時の敦一には解るはずもなく、慎二が本当の理解にたどり着いたのは小学生になって読んだ科学漫画でだったが、これを紹介してくれたのも顔馴染みの図書館員である。


 だから、慎二はずいぶん長い間『物事には答えがあり、調べれば解る』と理解していた。特にレファレンス係の人々は万能の解答教授者だと信じていた。小学校に入学後、教師は全体を見るのに忙しく、また付属の図書室は区の図書館に比べ書籍数も面積も小さく、2、3度利用した後は図書館へ戻った。学童保育の時間、敦一と慎二は連れ立って認可教室に向かったが、慎二が望めば図書館へ寄ってくれた。


 兄と両親は、当時「この子天才かも!」と期待していたそうだ。母は「ちょっと違ってた」と苦笑いするが、兄は今でも「頭がいいなら行けるとこまで突き進めばいいよ」と言ってくれる。父がいない今、兄が借金にならない奨学金制度や保険など、金銭問題を担ってくれているのでとても助かっている。


 兄は不思議な存在だ。慎二と3つしか違わないのに兄弟だという理由だけで自分を守ろうとする。彼の論理は単純で、『兄弟だから』。『家族は助け合うもの、兄は弟を守るもの』。なんて根拠の乏しいプリミティブな動機だろうか。小学校も中盤になれば己の家族が世界のスタンダードではないことに気付くし、家族愛が案外脆いものだとは同級生の家族構成から推測できる。だから、彼の兄が納得するようには慎二には理解できない。だが彼の愛情を享受し、それに感謝する気持ちは本物で、自分もいつか兄に恩が返せたらと思っていた。それは、『兄弟だから』が出発でないけれども、『自分を大事にしてくれる人に、同じものを差し出したい』という気持ちだ。


 そういう違いを兄は「違いがよくわからんし、貸し借りで考えなくていいんだぞ」と言う。食い違いを逐一説明しようとすると、面倒だからいらないけど、お前の気持ちはうれしいよと総括された。


 たぶん、兄は世間でいうところの《感覚派》なのだ。


 長じて気づいたのは、自分のような《理屈先行派》は《感覚派》と相容れない関係になっていることが普通で、自分が拙(つたな)くも《感覚派》とコミュニケーションがとれるのは、兄を入り口に《感覚派》に苦手意識をそれほど持たずに済んだからなのだった。

 そして、兄以外の《感覚派》、特に女性との会話を推測・理解するためには、もう1人の翻訳者の力が必至だった。それが浅海である。


 小学校高学年あたりから、同級生や上級生女子の理不尽としか形容できない感情の押し付けに慎二は辟易し始めていた。好きという気持ちは分かる。兄や両親に感じる親近感はそうだろう。総合的に見て悪い両親ではなかった。理解はされなかったが最適解を出してくれた。しかしその両親ですら、兄ほどには『ない』のだ。


 ましてや彼女たちの『好き』は理解できない。なぜ独占欲や彼を縛ろうとするマイナス要素が好意に附随するのがわからない。好意というのはプラス要素ではなかったのか。そのあたりを質問すると女子は怒り出す。なぜ女子は訊きたがるばかりで慎二が知りたい彼女たちの心中という前提をぼかすのだろう。そして少ない情報の中で苦心して出した回答にありえないとかそんなはずないとか言い出すのか。まったく理解できない。


 しかし残念なことに兄はこの件では使い物にならず―――敦一も所詮、どこにでもいる中高校生男子で、同世代の女子の気持ちなど測れるわけがない。敦一よりもはるかに見目のいい慎二の苦労を救ってやるには経験値が足らな過ぎた―――、レファレンス係に学校の恋愛相談をするのは常識として無理、両親は問題外、インターネットでのそれは馬鹿の所業である。慎二は八方塞がりで途方に暮れていた。




「今思えば、あさちゃんがオレをいじってたのってオレ的には逆効果だったんじゃないの?」

 温めた弁当の入った袋をガサガサと音を立てながら、慎二は隣に並ぶ浅海を横目にした。


「何が?」

「会ったばかりの頃さ、オレが自分の見た目に興味ないって言ったら、じゃあ好きにさせてって髪とか服とかいろいろ面倒みてくれたけど、あれ、よく見せるためのものだよね? ということは、あれのせいで女子が余計うるさかったのかなって」

「なに言ってんのしんちゃん! しんちゃんがかわいかったからじゃない! あんなジャニーズJr.みたいな顔して私服だけダサくったって、制服着てたら関係ないわー、まったく抜けてるよねーしんちゃんは!」

「オレが抜けてるの?」

「中学生なんてたいして美容能力ないから男女共に素材がでちゃうの! 女顔じゃなかったけど、しんちゃんのかわいさは女の子に引けを取らないレベルだったわ」

「………」

「のぶく……んは全身からいいひと感漂って、かっこいいってタイプじゃないけど、しんちゃんは中学出る頃にはもうイケメンに足突っ込んでたもんね。寮に入っちゃってなかなか会えなくなって残念だったけど、会う度かっこよくなってくから、もうもう買い物楽しみで! 二十歳はたちになる頃には、麻シャツとかロールアップジャケットとかベストとか、クロップスパンツとか白い綿パンとか取捨選択超タイヘン。全部買いたい全部着せたい。なんでも似合うって罪ねー」


 コンビニ袋を振り回しながら熱弁する浅海に苦笑を返す。もう10年以上、なにかれと世話を焼いてくれる彼女に感謝している。浅海は慎二とのやりとりのコツを得ていて、裏を測らせたりせず、「こうだから、こう」と理由を説明してくれる。彼女の言い分に賛同するかは別として理解できる。不思議なもので、浅海と敦一の会話はそこまでオープンでない。よく見かけるカップルのように、推量を試されたり誤解したりする。総て伝えたほうが喧嘩にならないと思うのだが、それは違うと断された。


 コンビニ弁当は満足感を充当するには足りないかもしれないと気づいたのは、マンションのドアの前で鍵を取り出した時だ。浅海の作る食卓はかけねなく旨い。食にこだわりのない慎二でもわかる。慎二達兄弟と出会う前から、浅海は父子家庭で、ひとつ違いの妹と祖母の4人暮らしをしていた。祖母の手伝いから出世して一家の母代わりとなった浅海が、遅れて同じ立場になった敦一に同情し、手助けを申し出てくれたのも、彼女の性根の良さが現れている。そう、慎二は知らぬ間に浅海の手料理をインプットされていた。憔悴する兄に家事協力を申し出、材料費と引き換えに調理済み総菜を提供する関係を母が復帰するまで続けてくれたのは彼女だったのだ。当時から充分なキャリアを積んでいた腕前は、現在ますます上がっている。


(まいったな。とはいえ、あさちゃんより旨い物ってのもすぐには難しい)


 学生達が行きつけの店はもう閉まる頃だろう。それに店でという選択肢は駅の時点でなくなったのだから。

 あきらめて、何気なく買ったデザートにセロトニン増幅を祈る。夜、暗い場所、空腹、緊張。ネガティブを呼ぶ要素をできるだけ排除して、冷静な判断をさせなければ。アルコールは論外だ。ただの愚痴ではない。酔って露わになる本音など当てになるわけがない。本音が求めるものとイコールとは限らないのだ。浅海には明晰な意識を保ってもらわないと慎二も引きずられて判断を誤る。


 エントランスにあるエレベーターは使わず、すぐ横のコンクリート製の階段を連れだって上がる。二階ですぐ左に折れれば慎二の部屋の扉が控えている。慎二のうしろから部屋に入った浅海が「お邪魔します」と呟いた。


「なんか、片づいてるとも散らかってるとも言えない部屋だね…?」

「人がくる前提じゃないからなあ。とりあえず食べようか。その辺てきとうに座って。レトルトの味噌汁ならあるけどいる?」

「うん、ありがとう」


 慎二がIHの一口コンロで湯を沸かし、フリーズドライの味噌汁パックを柄の揃わないマグカップに開けている間に、ぐるりと部屋を見渡した浅海はクローゼットで目を留め、笑みを浮かべた。8畳のワンルームにはベッドと本棚が据えられ、手製の棚と床にはシミュレーション模型が積まれ、開けっ放しのクローゼットには夏物と冬物がグラデーションに並んでいる。


「見覚えのある服しかない」

「そりゃそうだよ。あさちゃんの選んだものしか着てないからねえ。お陰で自分で服屋行っても全然ぴんとこないや。買えるのはせいぜいパンツと靴下」

「しんちゃんはかっこいいから選び甲斐があるのよねー。男だって、本気でイケメン嫌いってあんまりいない気がするの。人間って、キレイなものやかっこいいものは本能的に好きなんじゃないかって思う」

「見た目の印象が判断に影響するのは確かだね」

「だからしんちゃんはそれを生かしてね。昔に較べたらずいぶん柔和になったけど、しんちゃんの固さが誤解されるのは厭だわ」

「そんなこと考えて選んでたの?」

「ううん、『こんなかわいかっこいい男の子を好きにしていいなんて神様ありがとう!』って思ってた」

「そっか。やっぱりあそばれてたんだね」

「えへおほ、うふふ。初めて会ったしんちゃんは警戒心バリバリでかわいかったなあ。オマケに喋り出したら聞きしに勝る難解語話すし、途方に暮れたわー」

「なんとなくだけど、男より女の人の方が話通じないから、嫌われちゃったほうが楽だったんだ。あさちゃんがめげなくてよかった。感謝してます」

「うむ」


 微笑みあいながら、お互いに敦一の名前を出さないように慎重に会話を紡いだ。その不自然さが逆に敦一の姿を際立たせる。


 食後、浅海を風呂に向かわせ、その間に自分が眠る場所をどうにか作る。研究室の床に較べたらずいぶんマシだからと己を慰めた。傷ついた浅海を床に追いやるわけにはいかない。来客用の布団などないので夏用のガーゼケットと冬用の羽毛布団を半分折りにして間に挟まれるようにセットした。真冬でなくてよかったと思うべきだろうか。


 と、洗面室の引き戸が開き、フリースの寝間着でタオルを肩にかけた浅海が顔を覗かせた。ふっくらとした彼女の頬はつやつやと血色良く、蒸かしたての肉まんを彷彿とさせた。


「しんちゃん、ドライヤーある?」

「あー、作業用ならこっちに……あったあった。はい」

「ありがと」


 溶剤で汚れているが使う分には問題ないそれを立ち上がって渡すと、ふわりと薫りがたって慎二は驚いた。慎二がいつも使うものと同じボディーソープの香りなのに、上気して湿り気の残る浅海の身体から漂うそれは、自分に嗅ぐのとはあきらかに違う柔らかさがあった。


(こういうのも性差なのかな)


 女性ホルモンのなせる技だ。

 入れ替わりに浴室に入り、手早くシャワーを済ます。あの浅海を待たせるのは忍びない。

 部屋に戻ると、膝を抱えてスマートフォンを睨む姿があった。顔は険しいが、ふくよかな彼女が丸くなる姿は、ふくら雀のようで愛らしい。


「兄貴から連絡あったの」

「実はずっとなりっぱなし。音もバイブも切って無視してたけど、電話電話メールメールメール電話、って感じ。留守録いっぱい」

「ここのことは話してないんだよね?」

 最初のメールに『敦一には言わずに』とあったのを思い浮かべながら確認すると、肯定が返った。


「出てくるときに、『親とか友達とかに連絡取ったら離婚』って言い残してきたから、独りで悶々としてるハズ。ザマーミロ」

「……まあ悩ませとけばいいよ。さてと、じゃあ真面目に話を聞くよ。離婚を盾に飛び出したなら、あさちゃん的にはまだ迷ってるんだね?」

「う……ん、そう、だね。でもよくわかんない。あそこにはもう一秒もいたくなかったのは本当。のぶくんの顔見てらんなかった」

「そう。で、兄貴は謝ってるんだね? 後悔でもしてるのかな」

「してるんだって。というか、そもそもそんなつもりなかったって。あんまり記憶無いんだってさ。もともとね、会社の飲み会で、連絡あって帰ってこない日はよくあるのね。のぶくん騒ぐの好きだから。でもこの前連絡無しに帰ってこなかった日があったんだよ。次の日はそのまま仕事だし、メールしても返事ないし、あたしも仕事だったけど心配だから昼休みはケータイに電話してみたり、このまま連絡取れなかったら会社に電話しようって考えて、夕方やっと『今日は帰る。連絡つかなくてゴメン』ってメールが入ってるの見て、泣くかと思ったよ。


 帰ってきて、ケータイの電池が切れて、しかも直行予定があったからすぐに充電できなかったって言われて。すごい謝られて、そうなんだ、もういいよ、でも次は気をつけてねって、許して。


 でもさ。


 2、3日たって、すごい不自然だって気づいたの。だってのぶくんのケータイ、ダブルナンバーで会社のも兼ねてるタイプだし、使い捨ての簡易充電器なんてコンビニで売ってるじゃない。よくよく思い出せば、謝るのぶくんの狼狽え方は尋常じゃなかった。あたしを心配させたことより、ついてる嘘がバレないかヒヤヒヤしてたんじゃないかって、思えてきた。

 じゃあなんの嘘なのって思うじゃない。会社でなんかあったのか、ケータイどころかカバン無くしてたんじゃないかとか、悪いこといろいろ考えた。


 ところでね、あたし、家計簿ソフトつけてるの。締めが合わなくても気にしない程度の雑なものだけど、あたしとのぶくんと家のを3本立てで。のぶくんからは週1でレシートもらって、まとめて読み取りかけて。で。のぶくんはいつも財布から取り出した束をくれるんだけど、これじゃ足りないの。酔ってるとスーツとかカバンのポケットに入れちゃうクセがあって、それはもう本人も無意識でさ。面倒だから、そういうのはあたしがざっとチェックしちゃうんだ。たまに会社の経費分も出てくるし、請求しないともったいないでしょ。


 したら、したらだよ、出てきたんだよ、ラブホのレシートが!


 笑っちゃったよ。ビジネスホテルの名前と明らかに違って、ああ、こんなんでもレシートがでるんだなあって、感心した。一応、検索かけて、あたしの思い違いじゃないかってのも調べたけど、のぶくんの会社近くには他になかった。こんなもの、律儀に残してたつもりなかっただろうにね。あの挙動不審を一体どんな悪いことが降り懸かったのってあんなに考えたのに、こんなの想定外だよ。正直ぜんっぜん浮かばなかった。


 これが、先週末の話」


 浅海が吐き出す間中、慎二は時系列と浅海の心境変化と敦一の態度を白紙に書き留める。1人からの聞き取りなので当然情報は足りない。しかし兄から事情を聞くには時間がかかりそうだ。


「1週間なにしてたの?」

「葛藤してた。いままでそんなそぶりなくて、あのうっかり者ののぶくんが、浮気隠しなんて細やかな技をつかえるものなのか、いままでうまく隠してたなら、今回レシートなんて物証がでてきたのはなんなのか。このまま気づかないふりをするべきなのか、いろいろ。


 でもね、―――生々しい話でゴメン、一昨日、のぶくんと、えー、しそうになって、できなくて。のぶくんバカだからさ、途中で『やっぱりあさが一番だ』って。やっぱりってさ、どこにかかってんの? 一番て、誰と比べて? そのセリフは何のため? 本当にのぶくんが他の人となんかしたのなら、このままこのまましたくない、できないって、突然ワーッて胸に湧いて、さ。慌てて適当な言い訳してちょっと今日ムリってごまかして。でも胸の中はグルグルしてた。苦しくて。このまま何も見ないフリなんて無理。それがわかって、じゃあどうしよう、ってスッゴい考えた。とりあえずここにはいられない、でも実家に帰るなんて大事になり過ぎる、なによりどうしたいかわからない―――。で、しんちゃんの顔が浮かんだ。あたしの知ってるなかで、一番冷静に答えをくれるのはしんちゃんだ、しんちゃんなら助けてくれる……。


 だから今日、出てく準備してから、帰ってきたのぶくんに夕飯と一緒にレシート並べて訊いたの。『これ、誰と行ったの?』って」


「あー……」


 さすがに兄が不憫だったが、口にはしなかった。目に見える。狼狽える兄、言い訳、冷めていく夕食。


「会社のバイトの子だってさ。どうしてそこに入ったのか覚えてないそうよ。朝目が覚めて、パンイチに仰天して、飛び出したって、どうしていいかわからなくって、あたしには連絡できなかったんだって。しかも問い詰めたら、最中の記憶はパラパラあるって、もう。ああもう。腹立つやら情けないやら悔しいやら悲しいやら。土下座しそうになるのぶくんに『それで許されると思うな!』ってさけんで、まあ、出てきたわけ、です」


 涙声、鼻声。浅海の顔面にはタオルが押し付けられ、慎二からは口許しか見えない。しかしその唇も、戦慄わなないて引き結ばれている。


「し、しんちゃん、こういう時は胸を貸すのよ。そんで、よしよしってするの」

「…………こう?」


 ペンを置いて浅海ににじり寄り、肩を引き寄せて彼女の頭を抱え、人がペットにするようにその背中を撫でた。

 泣き声が盛大に上がり、すぐにそれはタオル越しにくぐもった。


 彼女の涙は、自分が不憫で流されるのか、怒りのあまり感情が高ぶっているのか。唯一わかるのは、浅海が敦一を嫌っていないということだ。まだ嫌えてないから、葛藤しているのだろう。ただし、まだ好きだからといって総て水に流してしまえるものでもないようだ。複雑な心境だ。


 兄にも自分にも、浅海以上の女性が現れるとは思えない。まあ、今後の兄の妻が浅海のような理解力を持つ必要はないのだが。昔よりは女性心理も読解できるようになってきた。浅海の通訳に頼れずともどうにかなる。最終手段として嫌われるという手もある。


 だから、慎二は浅海がいなくてもいい。敦一も、今回の経緯からして別の女性をつかまえることはできそうだ。浅海は晴れ晴れと裏切った男を棄てて次の道へ行けるのだ。

 慎二は首を振り、浅海の背をポンポンと叩いた。よく母親が赤ん坊にする仕草だ。浅海の泣き声に笑いが混じった気がして、抱いていた彼女の身体を引き離した。


「しんちゃん、ありがと、ちょっと、楽になった。ごめんね、こういうの、嫌いでしょう?」

「なにが」

「泣く女」

「あさちゃんのは正当な理由があるでしょ。それに、泣くのは正しい。交感神経が昂ぶっていれば副交感神経を活性化する必要がある。涙には交感神経で発生したストレスホルモンを体外に出すシステムがあるから、我慢はむしろ有害。人に話すことでアウトプットして、泣いてフラストレーションを解放する。あさちゃんは正しい方法で解決に向かってる。少し楽になったなら、今日はこのまま寝ちゃおう。さっきも言ったけど、重大な結論は昼間に出すほうがいいんだ。明日起きて、近所の公園でも散歩して、太陽光に当たってから考えよう」

「しんちゃんて……。よかった、あたし、やっぱり間違えなかった。しんちゃんが一番頼りになる」

「そうかなあ?」


 もっとまともに浅海に同調して一緒に怒るような女友達のほうが、アウトプットの効率はいいように思えるが。慎二は間違っても同調などない。己の同調機構は機能不全どころか備わってすらいない。


「ベッド使って。枕カバーとシーツは換えたけど、干してないからオレ臭いけどゴメン。寒かったら悪いけど重ね着して。追加の布団なくて」

「え、しんちゃん床で寝るの!? それあたしでしょ!! 駄目だよ、しんちゃんが家主なんだから、あたしなんてゲストどころか招かれざる客なんだから!」

「まあ、今晩はいいよ。明日はまた考えればいい。あさちゃんはまずはもう寝ること。眠剤でもあればよかったけど、持ってなくて」

「……しんちゃん、ホントに優しくなったね。ううん、昔から意地悪じゃなかったけど、公平性と合理性が信条だったのに、ずいぶんあたしのこと思いやってくれるようになってる。実は彼女ができたとか? うわ、ごめん、全然考えてなかった」

「いないって。つか、いたらこんな部屋じゃないでしょ。1人分のスペースしかない。なんだろうね、重度の低機能自閉症やアスペルガーでも性愛や恋愛は原始的衝動として持ってるケースが多いらしいけど、軽々度のオレには欠損してるんだよね。どういうシステムなんだか」

「ホントに? 昔と全然違ってるのに?」

「そりゃ、中学の頃とは違うよ。あの頃は会う度女子の相談してたけど、オレだってあれから他人を観察して学習してきたから、少しは成長してるさ」

「そうなのかなあ、治らないのかなあ」

「うーん、『治る』とは言わないんじゃ……。始めから欠落してるのは、それこそ学習である程度補完してもそれ以上にはならないんじゃないかな。いいんだよ、別に困ってない」

「治んなくていいってこと?」

「絶対必要なもんでもないねえ。ああ、友達はいるよ。この歳になると女の人もまともに会話できる人増えたし、逆に安全牌にされるようになったし」

「ふうん」


 若干不満げな相づちに慎二は苦笑した。今回のことはともかくとして、浅海は恋愛を幸福なものとして享受しているのだ。そしてその幸福を慎二にも味わわせたいと思っているのだろう。これだけ自分を理解している彼女でさえこうなのだから、恋愛は要らないという慎二の言葉が世間でなかなか信じてもらえないのも道理なのだろう。


 ともかく、追究が止まったので浅海をベッドに追い立てた。


「何泊するつもり?」

「とりあえず今日土曜日曜の3泊お願い。月曜は会社ないんだ。だから」

「兄貴とはいつ話すの」

「……まだ考えたくない。ゴメン。しんちゃんに迷惑かからないようにするから。お願い、待って」

「まあ、しばらく研究室で寝泊まりしたっていいけどね」

「そんなことしないで……って、あたしが言ってもあれか。……ごめんなさい。しんちゃんありがとう」

「でも、兄貴も心配してるだろうから、明日にはオレからここにいることは伝えるよ。いいね」

 自分も布団に潜り込みながら言うと、それまで上半身を起こしていた浅海はバサリと布団を被り、くぐもった声で低く「……うん…」と返した。




 八方塞がり。


 そんな時に会わされた高校1年女子は、当時の「同世代女子は敵」という慎二の神経を逆撫でしたし、兄が遠くなった気がして無性に悲しく不快だった。だから兄の取りなしを無視して邪険にし、半ば無視し、早口でその時読んでいた古典物理学概論からマクスウェルの方程式を解説して煙に巻いたりしたのだ。


 だが、浅海はそんな慎二の態度をおおらかに受け入れ、慎二が日々根をあげていた『女子問題』に回答をくれたのだ。彼女は慎二が知らない女子の打算や計画や小狡い作戦を看破し―――そばで聞いていた敦一が泣き出しそうになっていたが―――併せて純情や健気さも教授してくれた。基礎知識が増え、また対象数があがればそれだけ観察眼も磨かれ、半年後には女子に恨まれず男子に妬まれず『峯岡慎二は女子(という性)に興味ない』を定着する事ができた。(それが理解できない人間は男女共に多数いたが、どんな女子にも興味がないというのは男子に支持され、軋轢はなかった)


 後日、敦一がそのためのフォローに浅海を連れてきたのだと知って、慎二は本当に2人に感謝した。兄と、兄が高校で出会った浅海が学校の常識を教えてくれたから、その後の慎二は大きな衝突なく中学生活を終えられた。


 進学についても、高専という選択肢を提示してくれたのは敦一だ。ただし、家からは通わず入寮を決めたのは慎二自身である。自分の面倒をみる必要がなくなれば、母と兄が楽になるのは確かで、そのための費用は父の遺産があった。―――父は慎二が中学に入ってすぐ、勤務中の路上で交通事故に遭い、帰らぬ人となっていた。母の衝撃は凄まじく、魂が抜けたような彼女の代わりに敦一と父の弟の叔父が葬式と会社とのやりとりなどの手続きを工面した。その後も母は寝込んでしまい、敦一がしばらく家をとり回す事態となった。


 入ったばかりの部活を辞め慣れない家事に奮闘しつつ、かつ中学より格段に難しくなった高校授業も遅れるわけにいかない敦一の苦労は如何ばかりだったか。兄弟揃って母の手伝いなどしなかったばっかりに慎二も兄の手助けにならず、しかし1ヶ月もすると全体的に荒んでいた家の中に若干の秩序が生まれ始めた。『料理と掃除のコツを教えてくれる人が見つかった』と、敦一がタッパーに入った煮物をビニール袋から取り出し、夕食に並べるべくレンジで再加熱しながらぶっきらぼうに呟いたのが印象に残っている。


 母はその後快復したが、敦一は部活に復帰はしなかった。野球部は練習がハードで、とても家の手伝いと両立できないと判断したとの言だった。

 育ち盛りが2人もいる家庭だ、貯蓄は少なかったが、父名義の住宅ローンは返済がなくなり、労災と生命保険と慰謝料と遺族年金と、当面の暮らしは何とかなるだけの金の見通しが立ち、峯岡家は安堵した。加害者ではなかったのは本当に本当に不幸中の幸いだ。数年前からパートに出始めた母の収入だけではとうてい立ちゆかない。貧困による学業断念の例が頭を掠めたのは慎二だけではあるまい。慎二は義務教育だが、敦一は本当に学校を辞めると言いかねなかった。


 実際、敦一は大学進学を渋ったが、「将来、浅海との子に金銭面で苦労させたくなかったら、賃金は多いほうがいい」と焚き付けて通学可能な隣県の国立大に潜り込ませ、慎二もまた公立の高専へと進んだのだった。




 天気予報を調べてはいなかったのだが、目覚めてみれば雨が去ろうとしているところだった。


 夜半から明け方にかけて降った雨に濡れたベンチはとうてい座れるものでなく、公園にでもと思案していた慎二の思惑は外された。仕方が無いので朝食に近所の昭和感漂う喫茶店に浅海を誘う。こう、エアスポットのように存在する店は平成も30年近いのに揺るがなさに感心する。料金も普通、味の方も普通なのだが、量とコーヒー2杯目までお代わり可に釣られてこのあたりの学生がふらりと寄って行くにはちょうどいい店である。また、年配の常連客がいるので、学生もむやみに騒いだりしない。そんなところが慎二には居心地が良い。


「オレはちょっと学校に顔出さなきゃなんだけど、あさちゃんはどうする」

「しんちゃんちでごろごろしてる。最近アレ以外でも忙しかったし、ちょっとのんびりしたい」

「そう」

 その場で浅海に部屋の鍵を託し、マンションの前まで一緒に戻った後、慎二はそのまま駐輪場に向かった。一階部分の手前が駐車場、奥が駐輪場となっており、駐輪スペースが表からはすぐには見えないためか、質の良い自転車も並んでいる。慎二は大学構内での盗難が厭なので大分くたびれたシティサイクルに乗っている。


 研究室に着くと、同期の逢坂おうさかがくたびれきった顔をモニターから一時こちらに向けて出迎えてくれた。どうやら徹夜のようだ。慎二も自分の机につき、昨晩急な呼び出しで中断したシステム点検を再開する。低いモーター音と時折キーボードをたたく音が響く研究室はけして静かとはいえないのに静謐で、人の少ない午前中は慎二のお気に入りの時間帯だ。

 ふと思い立って、逢坂にこのあたりの女性向けな旨い飯屋を聞いてみた。普段カップ麺で生きているのでまったく期待していなかったのだが、教授の奢りで行った店が良かったと返ってきた。それをスマートフォンに登録し、それとは別に調べ物をするためにブラウザを立ち上げた。



「おいしい! 薄味なのにしっかり出汁が効いてるね。あごだし? 九州系…?」

 メールで駅前集合を知らせ、時間に着いた慎二は自転車を空きスペースに停めて逢坂から聞き出した和食系創作料理店に浅海を連れて行った。浅海は昔から洋食より和食を好む。教師役だった祖母の影響だろう。

 目を輝かせた後、睨むように椀を啜る。彼女が拘る違いは慎二にはわからない。相槌は返さずに箸を進める。確かに旨い。夕食としては少々高いが。


「ここ、来たことないって言ったよね?」

「うん。教えてもらった」

「女の子?」

「まあ、そうだね」

 逢坂の性別は確か女性だ。

「ホントに仲良い女子がいるんだね」

「この店教えてくれた奴は同期だよ。同じ研究室の」

「なんかしんちゃんの学校って、男子しかいないイメージだったから……あ、でも相変わらずモテてる? そっちは女の子に囲まれてるイメージ」

「えーと、工学系だって女子はいるよー。特に上にいくと就職難でむしろ女子率上がる。ただ、確かにもともと少ないし、その女子も、残ってるのは尖りすぎてむしろお互い尊敬かつライバルかつ同じ穴のムジナ的存在になるし、あんま男とかわんないなあ」

「ライバルかあ……いいなあ、しんちゃんに尊敬とか対等な関係とか言ってもらえるなんて、うらやましいなあ」


 なぜか浅海が悔しそうで笑ってしまう。ライバルという言葉が選択ミスだろうか。どうもニュアンスが違って聞こえる。合う頻度こそ違えても、一番近しいのは浅海だというのに、その本人が膨れてるのがおかしい。


 それから話題は浅海の実家と慎二の家の近況に移った。今は一人暮らしになった母はモバイル乙女ゲーにハマって浅海を勧誘するらしい。なんでもパート仲間から教わったそうだ。あまり行き過ぎた課金はしないようにメールするべきだろうかと訊いたら「イベントは困ってるみたいだけど、職場でキャーキャーするのが楽しいからゆっくりでいいんだって。大丈夫じゃない? それより普通のメールしてあげてよ。お義母さんだって便りがゼロじゃ寂しいでしょう」と苦言を呈された。浅海の方は数年前から祖母が足を悪くして主に彼女が補助をしてるのだが今週は大丈夫なのだという。「どうなるかわかんなかったから、前から美咲みさに頼んどいたの。あの子も普段は平日忙しいけど、その辺は交代でね」自身の結婚に合わせて浅海は働き方を変えた。当時浅海の父と慎二達の母はどちらも同居を希望せず、別世帯を作るよう勧めた。しかし浅海の祖母の軽介護はフルタイムで働く妹と父には任せられない。そのために浅海は周到に準備をしていた。会社が要登録な資格を取得しておいて、人事部に掛け合ってフルタイムの正社員から短時間正社員へシフトしたのだ。そんな方法があるのかと当時の慎二は感心したものだ。世の中いろいろな働き方がある。ともかく、今はみな元気にしているらしい。「お父さんの血糖値が不安なだけ」だそうだ。


 だが確かに、いくら浅海が働き者でも抱えてるものが多いのではないだろうか。普段好き勝手にしている慎二が言える口ではないが、のんびりしたいという浅海の言葉は本音なのだろう。


 一日浅海がいたお陰か普段の帰宅時よりほんのりあたたかい部屋で、今晩は場所を代わろうと提案された。


「いいよ別に。寝心地いいわけでもないし」

「だから代わるんじゃん。家主しんちゃんなのに。それかこっちで一緒に寝れば良いよ。あたし太ってるとはいえ、もう1人寝るスペースくらいあるし」

「いや、いくらなんでもそれは」

「だってしんちゃんに風邪引かせたくないの」


 正直なところ億劫ではあったが、面倒見の良い浅海に押し切られた。上掛けだけは別々にして、ベッドに横たわる。浅海の提案通り、昨晩よりは温かかったが、いかんせん狭い。浅海の体型云々は別にして、狭い。そして慣れない。暗い天上を見上げ、肩を並べた浅海がポツリポツリと言葉を繋ぐ。


「バイトの子って、みっつ下で、かわいくてモテる子で、ただし男慣れしてる子なんだって」

「なんでそんなこと知ってるの」

「のぶくんの部署の人達は結構顔も名前も知ってる人多いから。呼ばれて飲み会行ったことあるし、酔っ払いを連れて帰ってきてもらって、お礼に泊まってもらったりしたことあるし。その子も、実は面識ある」

「うわー……。その状況で兄貴喰おうって勇気あるなあ。無謀というか」

「そういう子の摘まみ食いだから事故みたいなもんと、のぶくんが主張しておりました」

「うわあああ、兄貴大人気ない」


 どちらにせよ、理解不能だ。


 軽く身体を傾け、浅海がこちらを向く。

「でもあたしよりずっとかわいくて美人さんで多少肉食でも許されちゃうレベル……。世間のさ、太った女に対する残酷さって、人格否定レベルでさ、あたしなんか見てないの。

 しんちゃんには絶対わかんない、コンプレックスが刺激されるこの感じ……。ねえ、なんでそんなに他の人のこと気にしないで生きられるの」


 なんでと言われても、困る。慎二にはそれが常態なのだから。逆に、浅海の抱えているものが存外深くて狼狽える。

「あさちゃんってそんなに太ってる? オレの知り合いだと成人病まっしぐら体型の男とか何入ってんのって思うけど……」

「痩せてないオンナは駄目なの」

「それも極端なステレオタイプの発言だと思うなあ」


 性的欲求はともかくとして、慎二にだって美醜は判断できる。浅海は確かに美人ではない。痩せてもいない。だが人好きのする笑顔と昔から変わらぬ安心感が損なわれることなく、兄も自分もそういう浅海が好きなのだ。それでは駄目なのだろうか。


(―――いや、兄貴がこうなったから、揺らいでるのか)


 浅海は高校生の時分から、慎二を受け止められるほど器が大きかったのに。それはずいぶん素晴らしい資質だ。それは浅海の外見になんの関係もない。


 美しいということは、それほど飢えなければいけないことだろうか。


 慎二は自分の外見が『いい』ということを知っている。今はこれをスピーチや広報活動に利用している。周りも便利に使っている。使えるものは使わなければ現実問題としてアピール不足の研究は予算が削られるばかりだ。なので確かに助かってはいる。だが、アイデンティティとしては長い間煩わしく苦い思いをしたものなのだ。そこまで素晴らしいと自分に酔えるものではない。


 こんなものより、浅海の内界の深さの方がよほど素晴らしいと慎二は思う。


 だが残念ながら、ひとは自分にないものを求めるのも一面だ。常には見せない浅海の妬みが痛い。


「でもオレは、あさちゃんがいいよ。あさちゃんがいなかったら、オレはもっとコミュ障で女子とか目の敵にして見た目なんてグダグダになってた自信ある。あさちゃんのお陰だよ」

「…………―――うん」

 それでも……と、小声が浅海から零れた。


(あたしも欲しかった?)


 殆ど聞き取れず、しかし単語はそう綴られたように感じた。

 慎二に言えることはもうない。聞こえなかった態で寝返りを打った。

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