10.最後の一服

 玄関を開けると、夕刻を告げるチャイムが、どこからともなく聞こえてきた。

 鍵を郵便受けに投げ込み、猫に柱という柱を削られた築五十年だか六十年だかの老家に背を向ける。

 歩き出すと、少しヘアピンがずれていることに気が付いた。すっかり慣れた手つきでそれを直しながら見上げた空は、薄く血をまぶしたように輝いている。

 徒歩で十分のところにあるバス停に辿り着くと、俺はベンチに座り、マルボロを取り出した。きっともうじきこの街も路上喫煙は禁止になる。最後に、一服してやるのも悪くないだろう。

 タバコを口に咥え、火を点け、吸う。

「―――まっず!」

 絡んだ痰でも吐くように紫煙を吹き出し、誰もいないバス停で叫んだ。よくこんなものをウチの師匠は旨そうに吸ってやがるな。きっと音楽のやり過ぎで味覚を司る脳が壊れてしまっているのだ。

 だが、不老不死の薬なんてものを自分の身体に注ぎ込んでいる奴よりはマシだ。

 ハヂメの写真を見て、“おじさん”だと気付けなかった理由はいくつかあるが、その一つとして異常な若返りがある。なっちゃんが生まれるよりもさらに若い、俺と同い年ほどの若い顔だ。会った時から既に“おじさん”だった彼とは、なかなか結びつかないし、きっと、イブに使われている人工皮膚を生成する過程で自分の身体も弄っているのだろう。面影は、皆無だった。

 あの狂った男。俺が狂わせてしまった教祖ハヂメという名のマッドサイエンティストに、一体何をしてやれるのだろうか。

 靴先に、多少の熱を持った物体が落ちた感触があった。見ると、いつの間にか、煙草がその筒の半分を燃焼していた。

 結局一吸いしただけで終わったマルボロを、備え付けの殻入れに投げ込むと、まるで見計らっていたようなタイミングでクラクションの音が聞こえた。あちこちボコボコになった車がやってきて堂々と違法停車をかまし、その助手席にいた強面が俺に話しかけてくる。

「おや、グッドタイミングでしたか」

「ああ」

「―――済みましたか」

 何が、とは訊かない安藤の気遣いに、俺は表情を緩めて、こう返してやった。

「ばっちりだ。無事家に戻れたら結婚しようと言っておいた」

「それダメなやつじゃん!!」

 運転席にいたヒロが身を乗り出して叫んだ。窓の割れた後部座席にいた犬居が笑い、安藤が続き、やがては大爆笑へと変わっていった。

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