9.誘拐

「なんてこった」

 中華料理屋から出て、地下鉄に乗り、ナゴヤ駅へ来た―――はずだった。記憶が曖昧だ。気が付けば、巨大なマネキンが置いてある通りを歩いていた。

 そんなに長いこと話し込んでいたと思わなかったが、通りの端にある時計は夕刻を差していた。何かよく分からない政治演説、ティッシュを配る人々、蝉の音、雑踏。すべてがごちゃ混ぜになって耳に届いてくる。頭が少しバカになってしまったようだ。

 路上ライブの音は聴こえない。夕方とはいえ、平日にやる物好きはいない。いや、一人だけいたな。ド平日の真っ昼間にジャカジャカやってた自分アホが。

 俺は立ち止まった。止まりたくてそうなったわけじゃない。足が動かなくなってしまったのだ。朝、あれほど女たちに弱音を吐いて甘えておいて、まだ足りないのか。自分を叱咤するように太腿を拳で叩いたが、鈍痛が広がるばかりで足は一向に前に進まない。

 前―――前とはどっちだ。俺は、動かない足の代わりに、首を動かした。通り過ぎる人々が怪訝な顔で俺を見ているのは気にならなかった。視界が、ぐるりと回り、車道の方を向いたとき、それが見えた。

 中程からぽっきりと折れた、標識。

 ―――まだ直す見込みがついていないのか、あのポンコツ、自分のパーツを売ってでも弁償させるか。

 そう思った瞬間、笑みが零れた。泣けない代わりの哄笑こうしょうだった。

「なんてこった!!」

 道の真ん中で空に向け絶叫した人間に近づかないように、雑踏が大きく割れる。俺は浅く息を吐きながら、ゆっくり視線を元に戻す。人が俺の半径五メートルに入らないように歩いて行くのを見るのは、なかなか面白かった。


 にゃあ。


 そんな霧島三郎の結界を破ってきた動物がいた。

「レノン、なんでお前がそこにいる」

 普段は餌の時間以外、近づこうとしない駄猫が、何かを伝えるように俺にすり寄ってきた。

「シーナが外に出したのか。イブがドジったか」

 いや、二人には外で何をしでかすか分からないこいつを出さないようにと言い含めてある。

 いつになくおとなしい猫を抱き上げると同時に、携帯がユウからの着信を知らせた。シーナのことかと思い、出る。

『サブ、イブたちが―――』

 それからのやり取りで、俺はまた記憶を少し失った。ただ、イブ、シーナそしてヨンジーとエミの四人が何者か―――十中八九、PEプライベートエデンの連中だろう―――によって略取されたというユウからの報だったことはしっかりと脳に残っていた。

『ごめん、ボク、何も―――』

「謝るな。知らせてくれてありがとう。また電話する」

 俺はほぼうわの空で通話を切った。大通りの真ん中に立ち竦む俺に、通行人が怪訝な視線を送るのも気にならない。

 まるで、こうなることを予期していたとしか思えない手際の良さだ。俺はハヂメの“壊れた平静”の態度を思い出す。よもやここまで破綻していようとは、身から出た錆とはいえ食いしばる歯の力を抑えきれない。

 硬直した俺を救ったのは、片腕に抱いたキジトラの指への噛みつきだった。あの駄猫がこうまで俺の腕におとなしく捕まっているはずがない。何らかの意思を持っての行動だと推察し、そっと地面に置いた。レノンはそこを動かなかった。

「すっかりシーナの友達か」

 時間は薄暮に向かっていた。俺は顔を上向けた。やや白味を増した空は、それでも青く澄んでいる。ゆっくりと鼻から酸素を取り込み、腹に溜め、スーッと音を立てながら吐いた。基本的なブレストレーニングの要領で気持ちを落ち着けると、俺は電話をかけた。

『どうも、お久しぶりですな』

「―――安藤さん。あんたに一生のお願いをする」

『どうされました』

 据わったような俺の声色に事態を察したのか、安藤の声も固くなる。俺は事情を話した。

『電光石火な連中ですな。如何します』

「追う、車を出してくれるか」

『御意。犬居、鍵を貸せ、俺が転がす』

 近くにいるらしい部下に対する声を聞き、俺は生まれて初めてヤクザに心から礼を言った。

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