第七話 カプリチオ・オブ・セイレーン

1.連行

 あれはいつで、どこだっただろうか。記憶はたどる度に錯綜する。

 2012年の、路上ライブを始めて間もない頃のカナヤマ駅前だったような気もするし、2013年の年始、初詣終わりの参拝客を狙って行った地元イチノミヤ駅での路上ライブで、ハートオーシャンのブッキングマネージャーに誘ってもらったような気もする。

 いずれも定かではないのは、俺にとってのライブハウスでの初ライブが、思い出すだけで頭を抱えのたうち回りたくなるレベルでボロボロであったこと。あまりに不甲斐ない自分へのショックでチケットノルマ代五千円を支払うのもそこそこに逃げるように箱を出て行ったからだ。

 一種の部分的記憶喪失。いっそ全て忘れてしまいたいが、悲しいことに、ステージに立った瞬間、暴力的なほど眩いライトに照らされ歌詞やコード進行が半分以上頭から吹き飛んで行ったことや、十人にも満たない観客の中に俺が呼んだ人間は一人もいなかったことなどは、はっきりと覚えている。

 故に、浮浪者ストリートミュージシャンのジョンさんと出会い、師事するようになって間もなく、アカネやシンジローさんに出会うよりは前だということが分かるだけで、いつ・どこで・誰に・どのような誘われ方でライブハウスに出演するに至ったのか、そして、それが人脈となり、街のいくつかの箱で演奏できることになっていったのか、俺はこれからも分からないままだろう。

 ただ、一つだけ分かるのは、あれだけボロボロな演奏を披露しておいてなおミュージシャンになるのが夢だとのたまうガキの気持ちを受け入れてくれ、一週間後に再度出演の誘いをしてくれた上、一ヶ月に一度程度の割合で定期的にライブが行えるスケジュールを組んでくれたライブハウスという存在は、俺にとって本当に大切だということだ。

≪日曜夜の惨劇 ナゴヤの老舗ライブハウスで謎の集団失神≫

 携帯の画面を凝視する。事件後数分で速報が流れ、さらに数時間後に詳しい内容を配信したニュース記事には、セイレーンや杉野のことが書かれていなかった。警察が情報を止めているのだろうが、早晩、被害者の証言から明るみになる。マスコミから突き上げられれば、これがトチ狂った宗教団体幹部の犯行だということも白状するかもしれない。無論、プライベートエデンの名は明かされない。あくまで杉野の単独犯ということにされる。犯人は完全に四面楚歌だ。

 追い詰められた人間は何をするか分からない。事実、奴は逃げ出したその日にハートオーシャンを狙った。セイレーンの“素”となるマスターテープを用いて、多くの人を巻き込んで今も野放しになっている。

 時刻はそろそろ零時を回る頃、俺は暗い仏間の布団から立ち上がると、二階で寝静まっている同居人の少女たちを起こさぬよう家の勝手口から小さな庭に出た。

 雨は夏特有のにわか雨だったようで、手入れが不十分な庭にできた水たまりに月明りが反射していた。ぬかるんだ地面を踏みしめ、俺はある人物へ電話をした。

『……もしもし』

「よう、人の性癖を見るのが趣味な我が心の弟よ。昨日はなかなかの逃げ足だった、誉めてやろう」

 まさかこんな時間に眠ってはいなかっただろうユウは、それでも寝起きの如きぼそぼそとした声で応対する。

『……ボクは脅されただけで―――』

「罪を逃れようとする奴はみんなそう言うと相場が決まっている。つまらない言い訳をする前におとなしく借りを作っておけ」

 ぴしゃりと言い放つと、ユウはさっとしおらしくなる。

『分かりました。何なりとお申し付けください、お兄様』

「良い心がけだ。では早速だが、今日の午後から夕方にかけてハートオーシャン近くのカメラをチェックしろ。怪しい挙動、具体的には箱に入り、すぐに出ていった人間を見つけるんだ。俺もこれからそちらに向かう」

『了解。なんだか燃えてるね。いつもより口数が多いよ』

 そうだろうか。俺は「頼むぞ」と一言だけ残し、身支度を始めた。寝巻を着替え、ヘアピンを着ける。どこからかレノンが何事かと目を光らせてやってきた。

「留守を任せたぞ」というと、にゃー、と一声鳴く。

 この時間ではバスも電車も動かない。金がかかるが、タクシーに乗るしかないだろう。目減りする一方の財布と相談しながら、家の外に出ると、向こうから一台の車がやってきて家の前に止まった。降り立った二人組には見覚えがあった。

「霧島三郎さんですね。署までご同行願います」

 約二週間前、ナゴヤ駅前のノノちゃん人形前で会った警官。確か年配の方が大木とかいったはずだ。俺は任意同行に応じるついでに言った。

「丁度いい、ササシマの方まで乗せて行ってくれ」

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