第30話 グラジオラス
その時だった。
「ごふっ。ご、ごふっ」
と、庭野が口から泡を吐き出し、大きく息を吸い込むと、ぜえぜえと苦しそうに呼吸をし始めた。
息を吹き返した庭野を、楓は信じられないという顔で見つめていたが、やがて庭野の頭を抱きしめて、わあわあと泣いた。
「どうしてあなたはいつも、やられっぱなしなの!どうしていつも、負けてばかりなの!首を吊る勇気があるくらいなら、その勇気を、どうして他に使わないのよ!」
楓は泣きながら怒鳴った。
庭野はうっすらと目を開けた。そして、目の前に楓がいるのがわかると、涙を流し始めた。
「お、俺は」
庭野は苦しそうに喘ぎながら言った。
「死ぬことすら、できなかったのか」
そう言うと、庭野はしゃくりあげながら泣き出した。
楓は、しばらく黙って庭野の頭を抱きかかえていたが、やがて、言った。
「庭野くん、私と、一緒に、生きて」
その言葉を聞いた庭野の泣き声が、ぴたりとやんだ。
「私が、一生、あなたを守っていくわ」
「一生、って…」
庭野が驚いて半身を起こすと、楓は、庭野に顔を近づけた。そして、そっと、庭野の唇にキスをした。庭野は驚きのあまり、目を閉じるのを忘れてしまった。
「庭野くん、私と、結婚して」
庭野は、言われた言葉が信じられず、確かめるように楓の顔を覗き込んだ。楓は優しく微笑み、頷いた。
二人は同時に、きつく抱きしめ合った。気づけば、庭野は声をあげて泣いていた。楓も泣いていた。だが、二人の涙は、悲しみの涙ではなかった。
マサの家で、庭野は事のすべてを話した。マサもヤスも早奈恵も、そして楓も、黙って聞いていた。
「茂木の野郎、許さねえ」
ヤスはそう言って拳を握ったが、庭野は静かに言った。
「茂木くんだけが悪いんじゃない。俺が、もっと慎重に考えて、行動していればよかったんだ。それに」
と、庭野は少し言いづらそうに、
「多額の請求が来たのは、俺のやましい行動があっての事実だし」
と言って、俯いた。しかし、楓は言った。
「庭野くんは悪くないわ。私が、悪いの。ずっと、庭野くんに、我慢させてきたの。付き合っているのに、何も許してあげられなかった私が悪いの」
マサは腕組みして聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「その借金っていうのは、いくらなんだ」
「30万」と庭野が言うと、楓は驚いて、
「茂木くんは私に、100万って言ったわ!」と声を荒げた。「私、騙されて風俗で働かされるところだったのね」
「話はわかった」と、マサが言った。そして、「早奈恵、タンスだ」と、庭野には意味の分からない言葉を言った。
早奈恵は黙って立ち上がり、寝室に入って行った。そして、ゴソゴソと音がし始めた。
しばらくして、早奈恵が茶封筒を持って茶の間に戻ってきて、マサに手渡した。
マサは、庭野の前に、その茶封筒を置いた。
「使え。30万だ」
庭野は慌てふためいた。マサと早奈恵に目をやると、二人とも優しい眼差しで庭野を見ている。
「こ、こんな大金、受け取れないよ」
と、庭野が茶封筒をマサに押し戻すと、マサはいきなり怒鳴った。
「テメェの命に比べたら、はした金だろうが!」
庭野は茶封筒を、震えた手で受け取ると、涙をポロポロ流し始めた。
「俺、マサに、一生ついていくよ」
「ついてくんな。うっとおしい」と、マサは横を向いて言った。
「お金は、必ず返します。どんなに時間がかかっても、必ず」庭野が泣きながら言うと、
「その金は、お前の将来を見越しての投資だ」とマサは笑った。
「ところで」とヤスは早奈恵の方を振り向いた。
「お前ら、マジでタンス貯金なの?この時代に?」とニヤニヤしながら言った。
「銀行は信用できねえからな。貯金は、早奈恵のパンティーの中に隠してある」
と、マサが言うと、すかさず早奈恵は、
「嘘言うんじゃないよ。あんたの水玉模様のパンツの中でしょうが」と、マサの耳を引っ張った。
「それじゃあ、趣味が悪くて盗まれる心配はねえな」とヤスが言うと、皆笑った。やっと全員の空気が和んだ。
次の日、庭野は自宅にいた。マサも来ていた。
約束した夕方6時から、30分も遅れて茂木がやってきた。
「遅れて悪かったな。仕事が忙しくてよ」
と、茂木は言ったが、庭野にはすべてがわかっていた。
「金を返してもらえるなら、逃げたことに関しては、責めるつもりはないからよ」
と言って、茂木はマサに目をやると、「どうしてマサくんも同伴なんだ?」と、不思議そうに聞いた。
「俺は立会人だ。ダイヤルQ2からの請求書と、茂木が領収書を書くところを、見せてもらう」
マサがそう言うと、茂木はあからさまに不快な顔をした。
「マサくんには、関係ないでしょ?」
「関係あるんだよ。ダイヤルQ2への返済の金は、俺の金だ。俺が立て替える。急いで金を払わないと、茂木のところにヤクザが取り立てに来るんだろう?」
「誰の金だろうと、返してもらえるなら俺は文句言わないよ」
茂木は、延滞金も含まれた金額が記載された請求書を庭野に見せた。延滞金は、庭野が新聞配達で働いた給料で支払い済みとなっていた。残金は28万7千円。庭野は改めて、自分のスケベ心が、マサに痛い出費をさせたことを悔やんだ。
庭野は、茶封筒を茂木に渡した。茂木はそれを受け取ると、中から金を出して、慣れた手つきで数えだした。そして、「きっちり30万だな。確かに受け取ったよ。お釣りは…」と言いかけた。するとマサが、「釣銭はとっておけ」と呟いたので、「それじゃあ」と、茂木はジャケットの胸ポケットに茶封筒を入れた。
そして茂木は、領収書を書くと、「ハンコなんて持ってきてないから、拇印でいいよな」と言って、親指で領収書に拇印を押した。
領収書をもらった庭野は、安堵のため息をついた。やっと、終わった、そう思った。
「マサくんもこれで文句ないよね?」と茂木が言うと、「言いたいことは、山ほどあるが」と、マサが口を開いた。
「庭野は、お前だけのダチじゃねえ。お前は知らないだろうが、庭野は昨日、人生で初めて、命を懸けた決断をした。そんなダチを救う為なら、俺も命懸けで助けるつもりだから、よく覚えておけよ」
茂木は、マサが何のことを言っているのか理解できなかったが、昔、マサを猛烈に怒らせた事を思い出した。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで帰るよ」茂木はそう言って慌てて立ち上がると、庭野の家から出て行った。
茂木は車を、自宅アパートのピロティ形式の駐車場に停めた。そして車から降りてアパートの階段に向かおうとすると、駐車場の柱の陰から、3人の男が出てきた。白いダウンジャケットの男、スカジャンを着た男、革のコートを着た男と、目つきからして明らかにカタギとは思えない男たちだった。
「おい、金出せよ」
スカジャンを着た男に言われて、茂木は顔をこわばらせて、じりじりと後ずさった。
「大人しく金出さねえと、テメェ痛い目みるぞ」と革のコートを着た男が言った。
「そういや正月、諏訪神社でカツアゲした時は、連れの女がすぐ金出してきたっけな。でも、お前には、味方は誰もいないようだな」ダウンジャケットの男がニヤリと笑った。
茂木は駐車場出口に向かって駆け出そうとした。だが、素早い動きの相手に、すぐに髪の毛を掴まれて、飛び膝蹴りをくらった。茂木の首が、がくんと後ろに倒れた。茂木はそのまま、脳震盪で気を失った。
気が付いたとき、慌てて胸ポケットに手を入れたが、茶封筒は跡形もなく消えていた。
楓は、自宅のインターホンが鳴ったとき、すぐに庭野だと思った。約束の時間にピッタリだったからだ。
無事に返済も終わり、お祝いをしたかった楓は、花屋で買ってきた切り花を部屋に飾った。
庭野のリクエストで、ハンバーグを作っていた楓は、手を布巾で拭くと、「はーい」と言って、覗き穴で確認せずにドアを開けた。
しかしそこには、目を血走らせた茂木が立っていた。
「どうしてここが」
と言いかけた瞬間、口を押さえられ、部屋の中に連れ込まれた。ワンルームの楓の部屋は、玄関から扉を開けて部屋に入ると、すぐ左手にベッドがある。茂木はそこに、楓を押し倒した。
「クソ!お前だけでも!」
茂木はそう叫ぶと、荒々しい手つきで、楓のブラウスの前ボタンを全部引きちぎった。楓は悲鳴をあげた。
ドン!と、鈍い音がした。
楓は恐怖で目をつぶっていたが、その物音で目を開けた。そして、自分に覆いかぶさっている茂木を慌てて押しのけた。茂木は口を開けたまま、ごろりと転がってベッドから落ちた。そして、頭を押さえて呻いた。
庭野が、大きな花瓶を手に、茂木の後ろに立っていた。花瓶には、血がこびりついている。
庭野は怒りに顔を歪め、花瓶を振り上げると、もう一度、茂木に目がけて振り下ろそうとした。
「庭野くん、駄目!」
楓が、庭野の腕にしがみついて止めた。
「こんな男の為に、殺人なんかしたら、駄目!」
庭野は、呼吸を沈めて、花瓶を床に落とした。
「今度、俺たちの前に現れたら」庭野は言った。
「茂木、お前を、殺す」
茂木は、庭野の方を振り返ったが、庭野からただならぬ殺意を感じると、足を滑らせながら慌てて部屋を飛び出して行った。
床には、花瓶から零れた水たまりと、楓が飾っていたグラジオラスの花が散乱していた。
グラジオラスの花ことばが、「勝利」であることを庭野が知ったのは、だいぶ後になってからである。
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