第25話 右腕

 庭野は、時間きっちりに、「鹿島エンタープライズ」の会社の前に立っていた。5分ほど待つと、茂木の車が会社の駐車場に停まった。


「まずは、社長である俺の親父に挨拶させるからな」と、茂木は言って、会社の中に入って行った。

 会社は二階建てで、一階には事務所、応接間、社長室があり、二階は休憩室と会議室があった。事務所の窓から見える駐車場には、ダンプカー、トラック、トレーラーなどが並んで駐車してあった。

 茂木の父親は、既に出社して社長室にいた。茂木は一応、社長室のドアをノックして、庭野を連れて中に入った。

 

 「親父、今日から俺の右腕として働く、庭野だ」と、茂木が言った。茂木の父親は冷ややかな声で、「お前の右腕?」と言った。


「今日から茂木くんの秘書になる、庭野昇太です。よろしくお願いします」


と、庭野は緊張しながら茂木の父親に挨拶をした。だが、茂木の父親はそれを無視し、


「勝手にしろ。それから、会社では、親父じゃなく社長と呼べ」


と、茂木に言った。茂木は「すみません」と小声で言うと、庭野を連れて社長室を出た。


 事務所に戻った茂木は、一番隅っこにあるデスクに座った。庭野は不思議に思った。社長の跡取り息子が、こんな隅の席とは。しかも、机の上にはパソコンも、書類も何もない。


「茂木くん、俺は、何の仕事から始めたらいいかな」


と、茂木に聞いてみた。すると茂木は、


「会社出て右にまっすぐ行けばコンビニがあるから、たばことスポーツ新聞を買ってこい。それから、会社の裏通りにクリーニング屋があるから、俺のセーターとスラックスを受け取って来い。あ、それと俺の車、洗車しておけ。駐車場に洗車用のホースがあるから」


 そう言うと、茂木は机の中から雑誌を取り出して読み始めた。仕事関係の雑誌かな、と庭野がチラっと見ると、ただの週刊誌だった。


 その日一日は、ただ茂木の使い走りをして終わった。茂木は雑誌や新聞を読んだり、携帯電話でゲームをしていたり、一日中まったく仕事をしている様子がなかった。


(秘書の仕事は、雑用が多いんだな)


 庭野はそう思いながら、自宅に帰った。


 「初出社は、どうだったの?」と、夕食の時に母が嬉しそうに聞いてきた。


 「忙しかったよ。給料が入ったら、ちゃんと家にお金を入れるからね」と、庭野は母に言った。


 

 入社して一週間が過ぎた。茂木は相変わらず、仕事をしている様子はなかった。庭野は、茂木の個人的なお使いばかりやらされていた。

 茂木に、「俺の席は、どこになるのかな」と聞いてみたら、「お前の席なんか、ねえよ」と冷たく返された。秘書は自分のデスクはないものなのだろうか、と庭野は思った。

 茂木から用事を言い渡されない時は、社内の掃除を率先してやった。しかし、庭野に話しかけてくれる社員は誰もいなかった。むしろ、不思議そうな目を向けられた。

 

 ある日の夕方、茂木に「今日はやることないし、もう帰っていいぞ」と、いつもより早く帰るよう言われた。

 庭野は自宅に帰り、久しぶりに楓の携帯電話に電話をかけた。楓に、就職したことを伝えたかったのだ。

 楓の方が仕事が終わるのは遅いので、「実家にいるので、帰ったら連絡ください」と、留守番電話にメッセージを吹き込んだ。

 一時間後、楓から電話がかかってきた。「今日、少しだけ残業があるから、どこかのお店で待っててくれる?」と、会社から電話しているのか、ひそひそとした声で楓は言った。庭野はどこかの店に入るほど金を持っていなかったので、「駅の改札で待ってるよ」と言って電話を切った。そしてニット帽をかぶると、家を出た。


 楓は40分ほど経ってからやってきた。髪には、ユリの花のヘアピンを着けている。庭野は嬉しかった。


「ごめんね、遅くなって。お腹空いてない?どこか、ご飯でも食べに行きましょうか」


「ハンバーガー屋がいいかな」と庭野は言った。ファーストフード店なら、コーヒー一杯だけでも長居できるからだ。

 二人は駅前のハンバーガーショップに入った。


「私、お腹ペコペコ。庭野くんは?」


「俺は実家で済ませてきたから、コーヒーだけでいいや」


 楓は紅茶とチーズバーガーを注文し、二人は窓際の席に座った。

 庭野は、茂木の会社に就職が決まったことを報告した。楓は「茂木」と聞いて、一瞬嫌な顔をしたが、すぐいつもの表情に戻って「どんな仕事なの」と聞いてきた。


「茂木くんの、秘書をしているんだ。茂木くんは次期社長だし、俺も頑張れば、将来は部下を持てるかも知れない。それにね、給料がすごく高いんだ。これからは、楓ちゃんに何でもご馳走してあげられるよ」


 楓は、嬉しそうに話す庭野を見て、頷いて聞いていたが、茂木のことは信用できなかった。そんなうまい話があるだろうか、とも思った。


「ねえ庭野くん。本当に、大丈夫なの?ひどいこととか、されてない?」


「されてないよ。楓ちゃん、俺ようやく、まともな社会人になれたんだ。もう心配いらないからね」


庭野は誇らしげに言うと、コーヒーを少しずつ大事に飲んだ。



次の日、出社早々、庭野は茂木に怒鳴られた。


 「テメェ!昨日帰ってから、どこに行ってた!急用があったのに、実家に電話しても出かけたって言われて、それでもお前、俺の秘書か?」


 「すみませんでした」と庭野が頭を下げた。


 「急用って、何だったの?」と庭野が聞くと、茂木は庭野をにらみながら、

 

 「俺のテレビが壊れちまったから、お前に、電器屋に修理に持っていかせようと思ったのに、いねえから、自分で運ぶはめになったじゃねえか!」


 茂木が事務所で怒鳴り散らしているのを、他の社員は呆れた顔で聞いていた。


 「お前に、携帯電話を貸してやるよ」


と、茂木は言った。


 「俺、携帯は2台持ってるから、1台貸してやる。ただし、通話料は自分で払え」


 茂木から携帯電話を受け取った庭野は、「いいの?ありがとうございます」と言った。


 「貸すからには、俺の電話には絶対出ろ。出なかったら、クビにしてやるからな」


 庭野は唾をごくりと飲み、「わかりました」と言った。


 その日の夜、庭野は、自分で持つ初めての携帯電話が嬉しくて、楓に電話をかけた。


 「もう、家族の目を気にしないで電話ができるし、突然、声が聞きたくなっても電話ができるよ」


 ヤスにもかけたが、留守番電話になったので、「庭野です。これが俺の携帯番号なので、登録しておいてください」とメッセージを吹き込んだ。

 マサに電話をしたら、「茂木の秘書だと?」と暗い声で言われた。就職したことを喜んでほしかった庭野はガッカリした。


 「お前、茂木に騙されるなよ」とマサは心配そうな声で言った。


 「大丈夫だよ。茂木くんは、優しいところもあるんだ。携帯を貸してくれたのもそうだけど、たまにお昼をおごってくれたり、車で家まで送ってくれたりするんだ」


 マサとの電話を切り、寝る準備をした。茂木からいつ電話がかかってきても出られるように、着信音のボリュームを最大にしてから寝床に入った。



 朝から大雨が降ったあくる日、帰宅しようとした庭野に、茂木が言った。


「ひどい雨だから、車で送ってやるぜ」


「いや、今日は楓ちゃんの家に行く予定だから、送ってくれなくても大丈夫だよ」


「でも、電車は遅れているぜ?俺も今日はちょっと、車で用事を足しに行かなきゃならないから、ついでに楓ちゃんの家まで送ってやるよ」


 庭野は、茂木の親切心に心打たれながら、


「ありがとう、茂木くん。それじゃあ、お言葉に甘えるよ」と言った。


 庭野は茂木の車に乗ると、道案内をしながら楓の家に向かった。土砂降りの雨だった。


「やっぱり送ってもらって助かったよ」


「帰る頃には小降りになってるといいな」茂木はハンドルを握ったまま言った。


やがて、楓の住むアパートに着くと、「ありがとう!茂木くん、運転、気を付けてね」と言って、庭野は車から降りて楓のアパートに向かって走って行った。そして、楓の部屋の前まで行き、インターホンを鳴らすまでの行動を、茂木は車の中からずっと見ていた。

 ふと、茂木は、助手席に携帯電話が落ちているのを見つけた。庭野に貸してやった携帯電話だ。たぶん、ズボンの後ろのポケットに入れて、車の座席に座ったときに落ちたのだろう。

 茂木は、その携帯電話を持つと、アドレスの中から楓の番号を見つけ、自分の携帯電話に登録した。携帯電話がないことに気づいて、慌てて庭野が戻って来た時、茂木は何事もなかったように「失くしたら承知しねえぞ」と言って庭野に携帯電話を手渡した。


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