第19話 彼女はいるのに
ヤスがマサの家に、お土産をぶら下げてやってきた。玄関で早奈恵に「シュークリーム買ってきた」と手渡した。早奈恵は、「ありがとう。コーヒー入れるね」と言ってキッチンに戻って行った。
「那羅延天のやつらが、俺のアパートの周りをよく通るようになった」
ヤスはいつになく真剣な顔で、マサに言った。
「前に、那羅延天のやつらに、俺たち囲まれて、返り討ちにしてやっただろ?あの時、俺たちのバイクのナンバーを覚えられていたかも知れない。そうだとしたら、ここにも来るかも知れねえぞ」
「何人来ようが、ぶっ飛ばすだけだ」
「那羅延天のバックには、ヤクザの海藤組がついてるそうだ。組長の名前は、確か、ええと…」とヤスはしばらく天井を見上げていたが、「思い出した。海藤勝彦、とかいう名前だったかな」
「海藤勝彦?」と、マサはその名前を聞くと、黙り込んだ。何かを考え込んでいる様だった。
「なあ、早奈恵ちゃんに、パート辞めるように言った方がいいんじゃないか。もしものことがあったら」とヤスが言いかけたとき、
「コーヒーできたよ。ヤスが持ってきてくれたシュークリームも食べよ」と、早奈恵が声をかけてきたので、ヤスは口をつぐんだ。
庭野が深夜に働くコンビニエンスストアに、茂木がやってきた。他に客はいなかったので、茂木はレジにいた庭野に、
「たばこくれ。お前のおごりでな」
と言った。庭野はしぶしぶ茂木にたばこを差し出すと、自分の財布からたばこ代を出してレジに入れた。
「お前、こんなバイト辞めちまえよ。全然遊べねえじゃねえか」
「深夜のバイトは、時給がいいんだ」
「俺との付き合いは後回しか?なぁ」
巨漢の茂木に凄まれて、庭野は首を横にぶるぶる振った。
「あ、後回しにしようなんて、考えてないよ。でも遊ぶにも、お金がいるし」
「遊ぶ金なら俺が多少出してやる。だから、ここでの仕事は日数を減らせ。いいな」
毎日休まず、昼と夜の仕事をしていた庭野は、正直、体力が限界だった。庭野は最近、野菜のパック詰めの工場に面接に行った。給料は安かったが、今の工場よりはだいぶましだった。幸い、採用が決まったので、今まで賃金の安い工場のアルバイトは辞めて、深夜のバイトのシフトも減らそうとしていたところだった。
「わかった。シフトは、減らすことにするよ」
庭野がそう言うと、茂木は満足げにニヤリと笑い、店から出て行った。
新しく勤めだした工場は、女性のパートが多かった。そして、女特有の「派閥」ができており、庭野は比較的若い社員とは普通に話してもらえたが、中年女のボスがいる派閥のパートからは気に入られなかったようで、毎日怒られたり、時には無視されたりもした。
「庭野くん!何回言ったらわかるの!そんな詰め方したら商品がつぶれるでしょ!」
中年女のボスは、庭野を目の敵にしていた。そのボスの、取り巻きの中年女性パート軍団も、庭野をいびった。だが、庭野は辛いとき、楓のことを思い出しては我慢して働いた。
仕事が終わると、茂木が買ったばかりの車で工場まで庭野を迎えに来て、運転しながらひたすら車の自慢話をした。茂木はたばこをくわえると、「庭野、火」と言って火を点けさせ、「そのCD飽きたから別のCDに入れ替えろ」など、まるで召使のように庭野を扱った。
そして、満足いくまでドライブをし、帰りにコイン洗車場に寄ると、庭野に「車、洗車しろ。ワックスもかけろよ」と、言った。
庭野が茂木の車をせっせと洗っている最中、茂木は近くのラーメン屋に行き、自分だけラーメンを食べた。洗車が終わると、茂木は車を隅々までチェックし、「バンパーのワックスがムラになってるじゃねえか!ぶっ殺すぞ!」と、庭野の腹を蹴飛ばした。
その後も、庭野の仕事が終わる頃、工場の前で茂木が待っていることはしばしばあった。そして、ドライブに連れて行かれた。茂木は、庭野を「誘ってあげている」と思っていたし、庭野も庭野で「誘ってもらっている」と思っていた。そんな訳で、茂木にこき使われても暴力を振るわれても、慣れっこの庭野は、茂木に付き合っていた。
茂木のドライブにつき合わされ、帰宅が深夜になった日、庭野はヤスのアパートに帰ると、玄関に女性のブーツが置いてあるのに気付いた。外に出た方がいいか悩んだが、ヤスの部屋からはまったく物音がしなかったので、事を終えて寝ているんだな、と思い、足音をたてないように庭野専用の部屋に入った。そして、布団に入り寝ようとすると、隣のヤスの部屋から、「ねえヤス、もう一回しよ」と声がして、やがて女の喘ぎ声が聞こえてきた。
庭野は、しばらく女を抱いていなかった。もともと性欲の強い庭野は、デートの時は、家を出る前に必ずオナニーをして性欲を沈めてから、楓とデートをしていた。
ヤスの相手の女の声で興奮した庭野は、その声だけで股間が膨らんだ。そして、喘ぎ声を聞き、妄想しながら自慰行為に及んだ。
ある日、ヤスから借りた成人向け雑誌を読んでいた庭野は、雑誌の最後のページに、
「エッチな女の子が、電話を待ってるよ」
というキャッチコピーで、可愛い女の子が受話器を持っている広告を見つけた。さらに、
「電話しながらエッチしよ」
という吹き出しまで載っていた。
電話を持っていない庭野は、雑誌を放り投げると、部屋の真ん中で大の字になって横たわった。
彼女はいるのにセックスができない。その欲求不満は、庭野の中で次第に積もり始めていた。
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