第8話 球場での出会い

 攻守交代の小休止のあいだもまだ少しくらくらしていたが、だんだんまわりを見る余裕が出てきた。

 幸いといってよいのか、雄吾のいるブロックは静かな観客ばかりだ。オプティック・デバイスや古めかしいタブレット端末でスタッツを細かくチェックしながら観戦している好事家たちもいる。

 球場に来たんだ、という実感がわいてきて、そわそわしながら席に座りなおす。

 正面を向いた雄吾の目の前の空間に、仮相ダイアログが現れた。この球場の局地ネットがより深いアクセスを求めたので、端末眼鏡のセキュリティが判断を仰いできたのだ。

 アクセスを承認すると、北九州サンフラワーズのチームロゴが現れ、それが横向きに裏返り、空間の向こう側から小人が飛び出してきた。


「こんばんは!」

 骨伝導スピーカーから元気いっぱいの声が伝わってきて、それが自分にしか聞こえていないのはわかっていても、雄吾の額に冷や汗が噴き出た。

「ILP2、北九州サンフラワーズ対南九州フレックルズのナイトゲームにようこそ。本日の球場ナビ担当はわたし、サンフラワーズアカデミー生のマナカ・マコが務めさせていただきます。よろしくお願いしますっ」

 深々とお辞儀する彼女の膝元に【真中真心】と名前が出ている。

 顔を上げた彼女はにこっと笑ったが、雄吾のほうは何だこれという顔をすることしかできない。

 彼女がユニホーム姿で、今グラウンドに出ているサンフラワーズの選手たちと同じ格好だという情報だけ、頭に入った。

「あなたは、パールボールの試合を観るのははじめて?」彼女は首を傾げて質問した。さらさらの髪が肩を流れて腰の横まで垂れ下がった。「よかったら、わたしにルール説明や解説をさせてくれないかな?」

 仮相のメニュー画面が現れた。ざっと見てみると【解説】の項に小さく料金が載っている。

「え、有料?」と思わず声が出てしまい、空席を挟んで右隣に座っている観客にちらっと見られた。


 一つ咳払いをして、選択肢に向き直る。無料のルール説明くらいは聞いておこうかなと思ったが、隣の客がまだこっちを見ている。なんだか気になって身動きが取れない。

 雄吾はその観客を横目で見た。キャップを目深にかぶってカラーフレームの眼鏡をかけた若い女だ。ストローでジュースを吸いながら、もはや観戦でなく雄吾を観察しに来たといっていいくらいあからさまにこっちを見ている。

 何なんだ、と思う一方、彼女の顔をどこかで見たような気がした。

 カン、という打撃音とともに思い出した。

「朝倉?!」

 のけぞったまま固まる雄吾を見て、やっとわかったかというように朝倉優姫は笑った。そして何かを言ったが、その声はまわりの騒々しさに遮られた。なにせ打球が外野を転がっていて、バッターランナーは二塁をまわりそうな勢いで走っているのだ。


 二塁をまわった。しかし北九州の右翼手――対馬おつうだ――からものすごい送球が返ってきた。吉本二塁手の中継も素早い。

 きわどいタイミングになった。地面に膝をついたサードとバッターランナーが見つめる先、塁審が誰かを殴り倒すみたいに腕を振った。

 一塁側の悲鳴が歓声に変わった。

「良い肩してるよね」

 すぐ近くで声がして、雄吾はびくっとした。いつの間にか朝倉が隣にいた。

「ま、私だったら二塁で殺してるけどね」

 そう言って犬歯が見えるように笑った。

 雄吾が一瞬困惑をおぼえるほど、それは獰猛な笑みだった。

「なあ」と雄吾は言った。「朝倉……だよな?」

「そうみたいだね」

「席次一位おめでとう」

 朝倉はくすっと笑った。「ありがと。君はどうだった?」

「いちばんうしろだよ、打順でいえば」

「守備でいえば、外野のいちばん右だね」朝倉はそう言って眼鏡を外した。「私もよくそこにいるよ。良いポジションだと思うな。そう思わない?」

「う、うん」

 雄吾は朝倉の返答に戸惑いつつも、このキャッチボールがちょっと楽しそうに思えた。

 さてもう一球、と思ったところで、どこからかすすり泣きが聞こえた。


「放置……スポーツ放置……」

 硬球の上に載った女の子が顔を手で覆っている。

 うわわと慌てて硬球にタッチすると、女の子はぴょんと元気になった。

「もう! さびしかったんだからね!」

 うーんと頭のうしろを掻いていると、ねえと朝倉の声がして雄吾はまたのけぞった。

「何その反応?」

「いや、あの、ここ別に何もないから。はは」

 雄吾は水晶玉を撫でるような手つきで女の子のいるあたりを隠した。北九州のピッチャーがせっかくの好守をふいにする四球を出した。

「ごまかさなくていいよ」朝倉はわけ知り顔で言った。「こんな二軍の試合を観に来るなんて君、相当好きでしょ、ん? 推しは誰なの?」

「オシ、って何」

「え?」

「てか、これ、マイナーリーグの試合? こんなに客入るもんなのか?」

 朝倉はぽかんと口を開けている。

「あ、走った」


 一塁ランナーが左足でベースを踏んだ体勢からスタートを切った。しかし投球はワンバウンドになり、キャッチャーは二塁に投げることすらできなかった。

 盗塁が成功したあと、スコアボードに今まで【12】と表示されていたところが【9】に変わったことに雄吾は気づいた。その数字の横に【sec.】の表記も見える。

「あの数字って何?」と朝倉に訊いてみた。

「ピッチ・グレイス」

 朝倉はいぶかしげな顔をしながらも、そう教えてくれた。

「単にグレイスって言うことが多いかな。あの時間の分だけピッチャーは猶予(グレイス)を与えられるの。そのあいだはランナーがベースから離れられないってわけ」

「じゃあ、あのランナーは十二秒待ってスタートしたのか?」


 朝倉は首を振り、グラウンドを指差した。「ピッチャーの足元に四角い白線が見えるでしょ? あのピッチャーズボックスに入るとグレイスのカウントがはじまって、身体の中心がボックスから出るとグレイスは終わってしまうの」

 その判定は、投手のベルトのバックルにつけられた発信器と、試合進行を管理するアトラス・システムが協同で行うのだと朝倉は説明した。

「ボックスはピッチャーのストライドより短いから、モーションの途中でグレイスは切れて、投げる瞬間くらいかな、ランナーのスタートは。ま、私だったらもっと速」

「盗塁されると減るのか?」

 朝倉は片眉を上げて雄吾の顔を見た。

「減るのか?」

「……ただ減るだけじゃなくて、相手側のグレイスに加算されるの。だからけっこう重たいよ、パールボールの二塁ベースは」

「へえ」

「ていうか、ルールも知らない、女の子目当てでもない、って君ここに何見に来たの?」

「毎回『セーフ!』ってやる一塁コーチャーの無駄なアピールとか」

「残念。パールボールに一塁コーチャーはいないの」

 攻撃選手のヘルメットに骨伝導スピーカーがついていて、ダグアウトから一方通行ではあるが直接指示が届くから、一塁コーチャーを置かないのだという。


 試合のほうはまだ天秤が動いている状態だ。智賢ジヒョンという名前の北九州のピッチャーがワンアウト二塁からツーアウト一、三塁までピンチを広げたが、最後は三振を奪って得点を許さなかった。

 制球コマンドに不安定さはあるものの、左手からの投球がひとクセもふたクセもあって打ちにくそうなピッチャーだ。

 その正体をチケット購入者限定の観測アプリで見てみると、速球系の最高速は130キロ超、ツーシームの変化の仕方が二種類あり、加えて持ち球アーセナルにはナックルボールを備えている。変則型のパワーピッチャーという紹介だ。

 スタッツはどうだろうか。雄吾は仮相環境にいくつも資料となるページを並べ、細々とした数字やグラフを眼で追いかけた。

「調べものが好きなんだね」と朝倉がちょっと呆れたように言った。

「見たい数字が出てこないんだよ」雄吾は弁解した。「野球の指標はパールボールにはないのかな」

「あるけど、全部は公開されてないの。それがアイドルリーグの方針だから」


 雄吾は手を止めて振り向いた。朝倉は冷めた顔をしていた。

「アイドルリーグ・パールボール、通称ILP――日本で最高峰のプロ・リーグってことになってる。一応」

「なんか含みがあるように聞こえるけど」

「別に」と言って、朝倉はジュースを飲んだ。

 それで喉の通りが良くなったのか、飲みこみかけた言葉を吐き出した。

「だってさ、これスポーツなんだよ? アイドルがプロとしてやってるって、すっごい違和感。しかもそのリーグが最高峰って、おかしいと思わない?」

「悪いけど……その問題について俺はよくわからないよ」雄吾は正直に言った。「アイドルがスポーツしたり、その世界で一番になったりするのはおかしいのか? そもそも、アイドルってどういう人たちのことを言うんだ?」

「それは――」


 朝倉は口を閉じ、しばらく考え込んでいたが、やがてひとりごとのように「たぶん」とつぶやいた。「たぶん、ブレイキング・ボールみたいなものなんだよ。誰かがそう呼ぶか、自分でそうだと言い張るかしたら、それは全部、アイドルなんだ」

「なぁ、あれ」

 雄吾はびっくりしてグラウンドを指差した。ビジターチームのダグアウトから制服姿の女学生が出てきて審判に選手交代を告げたからだ。

「ごめん。私もう行かなくちゃ」

 朝倉は立ち上がり、長い足で雄吾の前をひょいと横切った。

 階段を上っていく朝倉を見送ったあと、雄吾はぼうっとスタッツの海をながめていた。だが、不意にそれらの数字を載せた薄膜がぱっと消え失せた。

「ちゃんとプレーも見て」雄吾の頭を撫でるように朝倉の声がした。「せっかく球場に来たんだから」

「う、うん」

 雄吾に眼鏡を返すと、今度こそ朝倉は行ってしまった。


 直後、サンフラワーズに勝ち越しのホームランが飛び出した。

 右翼席を目指して飛ぶ打球を見つめながら雄吾は、一九八八年のワールドシリーズ、脚の故障を抱えた主砲カーク・ギブソンが鉄壁の抑え投手デニス・エカーズリィから放った代打逆転サヨナラ本塁打を思い出し、そのときのテレビ実況を声に出さずに真似した。

「She is gone」と。

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