強肩強打のサイボーグでアイドルなボクの義妹
そらみみむつき
1st inning
第1話 ファースト・ストライク
「前に乗ればいいのに」と母は言った。
「いいよ、別に」と雄吾は言って、二つ並んだ前の座席を一瞥した。「母さんこそ、助手席に座ったら?」
母は返事をしなかった。かわりにイグニッションに触れ、BMWの眼を覚まさせた。
ディスプレイ・ウィンドウに、今日の天気と外気温と湿度が表示され、母が行き先を告げるとそれは消え、モビリティAIの指揮で車は少しの揺れもなく街に出た。
朱里絵は、雄吾の母は、車の免許を持っていない。大型バイクの運転資格ならある。だから自律運転の車には乗れる。
といって、運転席に座る必要はまったくない。ひとりでにまわるハンドルを眺めているくらいなら。その席の空白をジーンズの下に押し込もうとするくらいなら。
雄吾は気をまぎらすために端末眼鏡をかけた。眼を大きめに開けて虹彩認証をパスすると、すぐに仮相環境へのアクセスが始まり、眼の前の空間に仮相ウィンドウが現れる。
それは別次元に開いた扉のようにも見え、宙に浮かんだほの明るい光の枠の中、相対するバッターとバッテリィの姿を映し出している。
メジャーリーグベースボールは、雄吾にとってほとんど唯一の興味の対象と言っていいものだ。けれどこの日のゲームはつまらないものになりつつあった。死球と乱闘が相次ぎ、そのときだけ酔っ払ったファンが歓声をあげていた。
視線追尾をオフにして画面をそこに固定し、窓の外に眼を向ける。
ほかの誰からも見えず、雄吾の視界からもはずれた仮相の画面は、そこに存在していないかのようだ。しかし音声はたしかにこの次元まで届いている。
眼鏡の耳かけに内蔵された骨伝導スピーカーから、世紀を何度またいでも変わらない、木と皮の交響曲が鳴り響く。
車は市内の運動公園にふたりを降ろした。園道の桜はとうに散っていた。先端都市の公園――遺伝子編集された草花が一年じゅう咲き誇る――とは比べようもない。灰色の雲がありとあらゆる景観から彩りを奪っていた。
花のない並木道を歩きながら、雄吾はだんだん億劫になってきた。
「こんなところに何の用があるんだよ」
「すぐわかるわよ」
舌打ちし、再び仮相の世界に浸ろうとしたとき、ある音が鼓膜を打った。
球音。それはなまの球音だった。
向こうに貸しグラウンドがある。
ダイヤモンドのまわりに、黒っぽい服の審判ふたりとユニホーム姿の女の子たちが散らばっている。ただし、そのユニホームというのは長ズボンではなくホットパンツで、腿から下は厚手のサイハイソックスに覆われている。
ソフトボールの試合かと雄吾は思ったが、ピッチャーは肩の上からボールを投げ、それをバッターが木のバットで打ち返した。
いきいきと跳ね踊る白球のゆくえに、つかの間、眼を奪われた。
「懐かしいでしょ?」と朱里絵が言った。
はっとした雄吾は、むすっとして、さっさと先に歩き出した。
一塁側と三塁側の防球柵の外にそれぞれのチームのベンチがあり、その脇にまたそれぞれちょっとした応援席が設けられている。楽に二十人は座れそうだ。
実際、どちらの応援席にも観戦者が――選手の家族らしい――けっこういて、朱里絵は三塁側の人たちと親しげに挨拶を交わした。
雄吾はそんな母を置いて列の端に座り、仮相ネットで試合の続きを観始めた。本物の男の勝負を。
「こら、ちゃんと試合観なさい」
「アマチュアの、それも女のスポーツなんて、つまらないよ。特に野球は」
「野球とは違うわよぉ」
「これは野球だろ」
「違う違う。これはね――」
カツッ、と音がしてふたりは顔を上げた。
白い点が落ちてくる。
「雄吾! 捕って、捕って!」
朱里江が雄吾の襟首をつかんで揺さぶっている間に、うしろにいたおばさんが身を乗り出し、このファウルボールを見事にキャッチした。
両チームの父母たちの喝采を浴びながら、おばさんはそのボールを雄吾にくれた。
ボールは雄吾の指先を跳ね返した。壁を押したような感触だった。
「硬球……?」
静かな驚きとともに、父の言葉が不意によみがえった。
“どうだ、硬いだろう。こいつをただの木の棒でひっぱたくんだぞ……”
ばきりとバットが折れる音。
六・四・三とボールが巡る。しかし打者走者の足が速く、併殺は成らなかった。
「えっとお、あれ? ヴィクトルが教えてくれたんだけどなぁ。何だったかな」
「……その人と、これから会うの?」
「その人、なんて言わないの」
朱里絵は笑ったが、雄悟はそうしなかった。なぜあのランナーは一塁ベースから離れないんだろうと考え、そのランナーと同じように膝に手を置いてじっとしていた。
「彼、いいひとよ」朱里絵はそっと言った。「本当に、いいひと」
そうじゃない、と雄吾は言いたかった。その「ヴィクトルさん」がどういう人間かは問題じゃないんだ。
「あのさ母さん、俺は別に……」
あっと朱里絵が声を上げた。それほど一塁ランナーが仕掛けた盗塁は絶妙だった。
しかし次の瞬間には、鋭い送球が宙を走り、二塁手のグラブに突き刺さっていた。
塁審の腕が上がるや、三塁側から歓声が起こった。
「いいぞ、マリー!」
朱里絵が立ち上がって声をかけると、マスクを外したキャッチャーの子が振り向いた。そして笑った。そう、笑ったのだ。
花のように。
「ほら、雄悟も手振って」
「い、いいよ俺は」
ぐずぐずしているあいだに、その子は白木のバットを携えて打席に向かった。
「あの子――」
ヘルメットの下で三つ編みの金髪が揺れている。
「あの子が、俺の……?」
「そうよ。マリーはあなたのいもうと」
わたしたち家族になるの、と朱里絵は言った。
家族、と雄悟は呟いた。しかしその声は、ベンチから発せられる女の子たちの声援にかき消された。
このチームは外国人のほうが多いようだ。髪は黒いが、面立ちと肌の色に少し日本人とは違う色彩がある。
その中で金髪碧眼はマリーだけだった。マリーが目立つのはそのせいかと雄悟は考えたが、違った。
快音。
灰色の空に大飛球が飛んでいく。
誰もが首をぐいいとまわしてアーチのゆくえに眼をこらしたが、板張りのフェンスを越えた打球はファウルとされた。
「えーっ! 今の入ってるよね? ねぇ?」
朱里絵のように地団太を踏む人、助かったと手を打つ人、誰もかれもゲームに戻りきれていないのをよそに、マリーは早やばやと次の投球に狙いを澄まし、神経質に足元をならすピッチャーを見据えている。
その曇りない眼差しを見たとき、雄悟は気づいた。マリーの違いは、髪や眼や肌の色ではなく、ひとりのアスリートとしての違いなのだ、と。
再び右打席に入ったマリーは、薄い金色の愁眉をきりりと引き締め、バットの切先をわずかに揺らしながら投球を待った。そしてボールがやってくると、来賓を迎えるように丁重にヒッティング・ゾーンまで招き入れ、しかるべきタイミングでバットの美味しいところを食らわせた。
ライン・ドライブが右中間を破っていく。
マリーは一塁をまわり、二塁も蹴った。ボールが中継の野手に返ってきた。
雄悟は思わず立ち上がった。
「滑れーっ!」
送球が一瞬、走者と並んだようだった。
土煙が上がり、全員の視線が塁審に迫った。
「――セーフ!」
わっと悲喜こもごもの客声が上がる。
はしゃぐ朱里絵の横で、雄吾は目の前で起こったこと、自分のしたことの何もかもに意識が追いついていなかったが、額に当たる陽光に、はっとした。
何の騒ぎか、と太陽が顔を見せていた。
「ブイ!」と朱里絵が二本指を突き出した。
「ヴイ!」とマリーもこちらに向けてやってきた。
避ける間もなく視線がぶつかり、雄吾は反射的に肩を引いて逃げようとした。
「ユゥーゴー!」
心臓が跳び上がった。
「ヴイ!」
マリーの突き出したVサインに、雄吾はどうやって応えたかおぼえていない。
十五年、生きてきた中ではじめての経験だった。
全然知らなかった。眼も眩むような笑顔。そんなものが本当にあるなんて。
気づいたときにはもうマリーはそこにいなかった。ワイルドピッチで逆転のホームを踏み、ダグアウトでハイタッチを受けていた。
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