記者と政治家⑨(完)
大谷政明は、切り裂きジャックが忽然と姿を消した――元々姿形は人目についていないのだが――ことに恐怖を抱き、血眼になって切り裂きジャックの行方を追った。しかし、案の定というべきか、結局その夢が叶うことはなく、切り裂くジャックの音沙汰は完全に消えた。
そこで彼は発想を切り替える。今までは大谷組という組織の中で、切り裂きジャックを追っていたが、その居場所を変える必要があるのではないか、と思い始める。情報が無くなった以上、大谷組にいる必要性もない。ならば大谷政明がいるべき場所はどこか。それが殺し屋の世界だった。
思い立った彼は即座に行動に移す。突然の退任の報告に組の幹部たちは驚きの表情を隠せなかった。しかし、先代の組長とは毛色が全く違い、惨忍性が増したこの組に違和感を覚えていた彼らが反対の意を述べることもなく、大谷政明自身も驚くほどにすんなりと決まったらしい。とはいえ、県下一の組を統べる組長の突然の退任であるため、岐阜県下のニュースではそれなりに大きく報道され、周囲の組織にも少なからず影響を与えたらしいが、大谷政明にとっては些末な問題であり、記憶が曖昧である。そのいい加減さが、組織内の謀反という語弊を生み、先輩らをミスリードの疑惑へと誘う結果となった。
そして大谷政明は、大谷組組長改め、殺し屋大谷政明として第二の人生を歩むこととなる。
しかし、彼の思惑とは裏腹に、進展は全く無く、無風の日々が過ぎていく。
彼の殺人欲求は満たされているものの、切り裂きジャックへの憧れは日に日に膨れ上がっていく。
そこで彼は二度目の転換期を迎える。
某日、大谷政明は源田智和からとある依頼と提案を受けた。
その依頼が先輩の殺害であり、提案というのが、その殺害方法である。
「雑誌SCOOPの記者であるこの男を殺してもらいたい。ただ今回は一つ条件を付けてもらいたい」
そう言って源田智和が提案した条件が――切り裂きジャックの模倣犯としての殺害だった。
源田智和にとって、その提案は単なる相手への脅しの一つに過ぎなかったのだろうが、大谷政明にはまさに光明が差し込んだような気分になった。
そうか。切り裂きジャックが見つからないのであれば、私が切り裂きジャックに近づけばいい。常人には理解しがたい発想だったが、大谷政明は至極真面目に考えていた。
切り裂きジャックに扮して、事件を繰り返せばもしかしたら……。そんな確証もないものに彼は縋るより他なかった。
「まあ、これで見つかるとは正直なところ覆ってはいなかったんです。それでも切り裂きジャックに出会える可能性が高くなるのであれば、手段は選びません」
「……でもどうして源田智和を殺したんですか。他に依頼があったんですか」
「一番太いパイプが源田智和先生でしたからねえ。なかなかそんな依頼は来ませんでしたよ。これは単なる好奇心です」
「……好奇心?」
「そう。好奇心です。源田先生に従っていたのは、彼が切り裂きジャックと繋がっている可能性が高かったから。しかし、昨日彼から思いもよらぬ言葉を聞かされまして。彼はもう用済みになったので、消えてもらったということです」
昨夜、源田智和に呼ばれた大谷政明は、今日の講演会で殺害を依頼した。ターゲットはもちろん、彼女だ。
「やたらと彼らにこだわりますね」
大谷政明は、特に何の意味もなく、世間話をする要領で発言をした。
「君は何も考えず、儂の言うことを聞いておればいい」
「そうすれば、私の望むものが手に入るんですよね」
源田智和は彼の言葉に笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。
この日の源田智和は珍しく酔っぱらっていた。いつも彼と会う時はほぼ素面だった記憶しかないので、珍しいな、と感じていた。源田智和の座っていたテーブルの上にはアルコール度数の高い空のウォッカが一本と、飲みかけのウォッカが一本置いてある。顔も少し赤らんでいるようにも思える。
「……源田先生?」
源田智和の異変を感じた大谷政明は再び問いかける。
「ああ、すまない。何の話だったかな」
焦りが源田智和の表情から読み取れた。その表情を見た大谷政明は落胆を覚えた。
――ああ、やはり彼もまたただの人間だったんだな、と悟った。
「大谷君、もう切り裂きジャックを追うのは諦めないかね」
「……どういうことですか」
「そのまま意味だよ。探すだけ無駄だと言っている。それに今や君が行なった殺害で、今度は君が切り裂きジャックの再来だと騒がれている。所詮世間の目はそんなものだぞ」
源田智和はウォッカを更に煽る。
「どうして探すだけ無駄だ、と言えるのですか」
「君もなかなか理解の遅い人間だな。もう切り裂きジャックはこの世にいない、というわけだ」
源田智和のこの発言で、大谷政明の目の前が真っ白になる。
「……死んだということでしょうか」
「そう捉えてもらっても構わん。奴の最期を見届けたわけではないがな。ただ現に奴と繋がっていた伝手は完全に途絶え、そして切り裂きジャックはここ数年、姿を現しておらん。切り裂きジャックとしての奴は死んだ。だからこうしてお前に仕事を依頼している、というわけだ」
「――つまり端から切り裂きジャックとの繋がりはほぼ皆無だったというわけですか」
「そう捉えてもらって構わんよ。殺し屋なんぞの感情など理解しがたいものだろうから、儂には関係のない話だ。それに儂ももうすぐ総理になれる。邪魔なものは大方片づけてきたし、もう儂に立てつく者も居なくなった。そうなれえば儂らのコンビも解消だな」
源田智和はそう言うと笑いながら、大谷政明に帰宅を促した。
「……つまり、切り裂きジャックとのつながりのない人間に成り下がったから殺した、ということですか」
「……そう捉えていただいて窯ませんよ」
わたしの問いに、大谷政明は源田智和の真似を挟みながら答えた。
「私にとって、源田智和は同じ種族だと思っていたんですけどね。こんな結果になってしまい、本当に残念です」
悪びれもせず、乾いた口調の彼に憤りを感じたが、何もできない自分自身に一番腹が立つ。
「さあ、雑談もここまでにしておきましょうか」
大谷政明は掴んでいた私の手を緩めると、ぱん、と手を叩いた。
「……殺しますか、わたしを」
わたしは緊張で生唾を飲み込んだ。ごくり、と喉元を過ぎる音が大谷政明にも届くのでは、と不安が過ぎる。
「殺しませんよ。あなたの場合、生かしておいた方がいろいろと都合がよさそうですし、こういうつながりも大切にしておいたほういいのかもしれません。それにあなたも信じていないでしょう。切り裂きジャックが死んだなんて話を。源田先生は切り裂きジャックをただただ自分の出世の道具程度にしか考えていませんでした。そんな私利私欲に走る人間が、切り裂きジャックを追えるはずもありません。切り裂きジャックを追えるのは、結局のところ切り裂きジャックと同じ側の者だけです。私や――もしかしたらあなたのような、ね」
「……わたしは、あんな冷徹な殺人鬼ではありません」
「火元は違いますが、あなたも私と同じように切り裂きジャックを追っているのでしょう。その執念や凄まじきかな、といったところです。まあ、狂気とまではいかないでしょうから、私の勘違いかもしれません。こと切り裂きジャックに関しては、私の視野狭まっていけない」
ふふふ、と大谷政明は薄気味悪い笑みを浮かべた。
「いずれ、また切り裂きジャックは現れますよ。もしかしたらこの模倣犯である私のもとに現れてくれるかもしれない。それまでは私が引き継ぎます。切り裂きジャックは私に殺されるべきだし、私は切り裂きジャックに殺されるべきだと思っています。その時は是非、あなたの手で、私たちの記事を書いてください。このぬるま湯に浸かったこの世界に刺激を与えたいのです。切り裂きジャックが少し姿を見せなくなっただけで、もう緊張の糸は切れてしまっている。しかし、考えてもみてください。切り裂きジャックが岐阜市に潜んでいた頃でさえ、騒いでいたのはマスコミだけ。怯えていたのは被害者の関係者だけ。結局、市民は『怖い怖い』と言葉では口にしながら、どこか対岸の火事として捉えていたはずです。そこに切り裂きジャックが潜んでいるかも知らないくせに。だからこそ、もう一度あの時の絶望を街の住人に与えてやりたかった。その想いしかありません」
大谷政明はメモ帳を取り出し、十一桁の数字の羅列を書き記した。私の電話番号です、と彼は言った。
「もし何かあれば、連絡ください。何か力になれることがあるかもしれませんし、何かわかったらすぐに連絡していただきたいのです」
そう言って彼はトイレを後にした。わたしは後を追ったが、もう彼の姿は見えなくなっていた。
大谷政明は本当に切り裂きジャックのもとに辿り着くかもしれない。それも近いうちに。そう感じずにはいられなかった。
結局、源田智和は切り裂きジャックの被害者として警察に処理された。わたしも第一発見者として事情聴取を受けたが、大谷政明がその場にいたこと、今回の事件が切り裂きジャックの模倣であることは伏せておいた。雑誌SCOOPの記者ということで、先輩の件も含め、追及もかなり強かったが、何とか堪えた。
すべては大谷政明が切り裂きジャックを見つけるために――。
しかし、時は残酷に過ぎ、追い打ちをかけるように残酷なニュースが私の目に飛び込んできた。
――大谷政明の死である。
あれだけの啖呵を切っておきながら、あっけなく死んだ。しかも切り裂きジャックにでもなければ、組の抗争に巻き込まれたわけでもなく、単なる交通事故だというから目も当てられない。それも組長という立場だったとはいえ、今となってはただの一般人だ。地方ニュースで小さく取り上げられるに留まり、浮かばれないだろう、と少しだけ同情した。
結局、切り裂きジャックは再度現れることはなく、半年の月日が流れた。そして一度は『切り裂きジャックが潜む街』として世間を騒がせた岐阜県岐阜市は以前の地味な地域としてひっそりと市民の生活を回している。
騒いでいるのはマスコミだけ。
怯えているのは被害者の関係者だけ。
所詮は対岸の火事――。
わたしは関係者だったからこうして今も切り裂きジャックを追っているが、周囲の人間が被害者でなかったら、と考えるとどうだっただろうか。面白半分で興味は持つだろうが、それはただの好奇心であり、当事者でない限り、野次馬のそれと変わらないだろう。
――だが。
そんなものは結果論に過ぎない。
わたしは関係者だ。何もせずに泣き寝入りなど、ごめんだ。
それに市民のためにとか、正義のためにとか、そんな高尚な想いは持ち合わせていない。すべては自分のため。ただのエゴである。そう考えれば、わたしもまた対岸の火事の向こう側にいる、というだけで、何も知らない市民と何ら変わらないのではないか。
別件の取材で、源田智和の大学の横を通った。大学の門には多数のマスコミが詰めかけており、異様な空気を醸していた。
源田智和の死後。盛大に惜しまれる声が挙がるかと思えば、次々と源田智和のしてきた蛮行が明らかとなり、惜しまれるどころか、憎まれながらこの世を去っていくこととなった。それが編集長の差し金であることと知るのは、これより後の話だが、自分のしてきたことの見返りであるのだから、そこに同情の余地はない。
「――大丈夫かい?」
運転席でハンドルを握る編集長が声をかけた。考え事をしていたわたしの表情が険しくなっていたのかもしれない。
「はい、大丈夫です」
わたしは笑顔で答える。しかし編集長にはすべてお見通しだった。
「また切り裂きジャックかい」
「ええ、まあ」
苦笑を浮かべるわたしに、編集長も苦笑いで返した。
「あいつも幸せもんだよ。これだけ必死に追ってくれる後輩がいるんだからな」
編集長は先輩が大谷政明の手によって殺されたことを知らない。わたしはあの一連の出来事を誰にも話していない。必要性を感じなかったからだ。
「そうかもしれませんね。先輩――山伏さんのことはわたしは一生忘れませんから」
空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。
わたしの心の曇り空はいつになれば晴れるのだろうか――。
見えない青空のどこかに潜む切り裂きジャックを探し求めて、今日もわたしは彷徨い続ける――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます