記者と政治家⑦

「これより十五分後に源田智和官房長官の講演会を始めさせていただきます」

 司会進行を務める女性が会場全体に良く通る声で、講演会の開催予告をアナウンスした。大学内に設置された大ホールの客席は満員となっており、がやがやと忙しない。

 辺りを見回すと、ホールの所々にSPらしき黒服の屈強な男たちが耳元に手をあて、口元を微かに動かしながら、周囲に目を光らせている。

 隣に座った老夫婦にわたしは小声で話しかける。

「やっぱり源田智和ともなると、ああいう護衛の方もたくさんつくもんなんですね」

 老夫婦は、ぐるりと目をSPにむけると、まあ、と呟いた。

「そうねえ。たしか二、三人程度は見かけたこともあるけど、こんなに多いのは初めてかもしれないわね」

「でも今日はステージに三名ほど。客席には段ごとに一人ずつ。二階席も同様だと考えれば、十数名のSPが集結しているわけです。何かあったんでしょうか」

「どうだろうねえ。私たちにはわからないけど、政治家さんなんて大抵何かに追われているものじゃないのかしら」

 老夫婦はさほど不思議には思っていないらしく、早々に話を切り上げて、源田智和の英雄譚を語り始めた。わたしはトイレに行くふりをして席を立った。

 ホールを出ると、会場の関係者が忙しなく動き回っている。

 わたしは会場の地図を見ながら周囲の声に耳を済ます。


「どうだ見つかったか」

「源田先生の様子はどうだ」

「まったく困ったものだ」


 飛び交う言葉はどことなく焦りを含んでいる。

「どうかされましたか」

 周囲の声を聞き取るのに集中していたため、背後の存在に気付くのが遅れた。

「え? ああトイレの位置を確認していました」

「そうですか。トイレはこちらに記載してあります。右手にまっすぐ進んでいただければ、同じく右手にみえますので」

「ご丁寧にありがとうございます」

「これが仕事ですので」

 わたしに声をかけてきたのは、黒服の若いSPだった。

 上背は低く、一五五センチ程度のわたしが少し目線を上げる程度。髪は短く刈り上げ、髭の剃り残しも無く、若々しい好青年という印象を受けた。優しい声色に浮かべる笑顔と敵か否かの算段を推し量る視線は、相反する感情が入り混じっているようで、妙な緊張感を覚えた。

「……どうかされましたか」

 黒服の若いSPは、その場で立ち止まっているわたしを心配してか、再度声をかけた。

「……え? いや、すいません。あまりに若い人がSPだったので、少し驚いてしまって……。それにこれだけのSPがいると、やはり圧巻で多少の緊張がありました」

「ああ、そういうことですか。まあ、でも怖がる必要はありませんよ。敵でなければ危害を加えるつもりはありませんし、むしろ身を挺して守るのが我々の使命ですので。私の童顔に関しては何とも言えませんね。むしろ若く見られるのは仕方がないと自分でも割り切っています。親父もお袋にも似ていない顔だと言われたものですから」

 照れながら話す彼は、その童顔を除けば、純朴そうな好青年のように思えた。細身ながら筋肉が引き締まっているのは、服越しから見ても十分にわかる。快活に笑う時に見せる白い歯に健康的な肌色から、年齢の判別を迷わせる。

「このSPを続けて、どれほどになるのですか」

「どれほど、というものでもありませんよ。というより、私は源田先生の常勤ではありませんので、上から通達があれば、都度向かう、といった派遣のようなものです」

「源田先生のSPは今回が初めてなんですか」

「いえ、何度かお世話になっています」

 いくつか質問を投げかけると、彼は嫌な顔一つせず、質問に答えてくれた。

 しかし、そこで一つの疑問が浮かぶ。

「というか、そんな勝手にぺらぺら喋って大丈夫なんでしょうか」

「それを言うなら、あなたの方ではありませんか。トイレに行きたいと探していたはずなのに。今はそれをそっちのけで、私に質問を投げかけている。更に言うなれば、どことなく私から何か情報を聞き出そうという魂胆が垣間見えます。普通SPがどんと構えていたら、すぐにどこかへ去ってしまうものです。我々が近づく、という行為は敵か否かの判断をしているわけですから」

 ずばりと胸の内を笑顔を崩さず、極めて冷静に晒す。

「そんな怪しいわたしの質問に、何故答えてくれたのでしょうか」

 彼は一瞬天を仰ぎ、うーん、と唸りながら、何か逡巡しているようだったが、「理由はいくつか挙げられますが」と切り出した。

「一つだけ挙げるとするならば、拒否する理由がなかったからです。私が今回課せられた指令は、不審な人物の摘発と確認です。不審から危険だと判断されれば、退場を命じますが、問題なければ話をして終わりです。第三者からの質問に答えてはいけない、といった指令は出ておりませんので。それにあなたの質問は、私に関する質問に終始していました。個人のプライバシーに関する情報の開示は、すべて個人の責任で行うのが当たり前でしょう。先刻も申し上げた通り、私個人へ質問をすることで、あなたが何かしらの情報を得ようとしているのは、おそらく当たっていると思いますが、それに関しては私がとやかく詮索するものではないと考えております」

 終始笑顔の彼は、その笑顔に反して熱量の感じない台詞で淡々と語った。

「よくクビにされませんね」

「それを考えるのは雇い主の方ですから。これも私が関知するものではありませんね。私は雇われている身ではありますが、あくまでも雇用されているだけで、源田先生の所有物ではありません」

 そこまで言うと、彼は腕時計を覗き、「そろそろですね」と呟いた。

「間も無く講演会が開催される時間ですよ。先にお手洗いに行かれた方がよろしいかと」

「あ、ありがとうございます」

 時計を確認すると、同時にホールのブザーが鳴った。開園の合図だ。

「お手洗いに行く時間がなくなってしまいましたね」

 わたしは自嘲気味に言うと、「大丈夫ですよ」と彼は答える。

「まだ始まりませんから。ゆっくり行っても十分に間に合います。ブザーが鳴ったからと言って講演会が始まるとは限りませんよ。というのもお役所仕事のようなもので、問題が起きていても、とにかく定刻通りに事を進めないと気が済まない人種はどこにでもいます。自分たちの弱味を見せないためにも」

「……どういうことですか」

 彼の言葉の意味がわからず、聞き返すが、彼はただ言葉を濁すだけだ。

「まあ直にわかりますよ。安心してください。きっといい記事が書けるでしょう」

 彼はそう言って、わたしから離れ、通路の奥へと消えていった。

 わたしは言葉を反芻するが、やはり真意がわからない。

 しかし、その中で一つの疑問に導かれる。


 ――わたしは彼に自分の職業を話しただろうか。


 背筋に冷たい汗が滴る。吐き気を催したわたしは一目散にトイレへ駆け込んだ。入り口には『工事中のため使用禁止』とあったが、関係ない。

 しかし、そのトイレの中でわたしの目的は果たすことができず、代わりに別の目標が達成されていた。それもわたしの望まぬ形で――……。


 ――源田智和が死んでいたのだ。

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