第66話/真 笑顔。
「具合は大丈夫かしら、どこか不自然に痛むところは無い?」
「大丈夫です」
「……何があったか覚えている? 貴女は、屋上から落ちて、」
「飛んだんです。落ちたんじゃない、私は――死のうとしたんです」
「……そう」
「…………お気遣いありがとうございます、大丈夫です」
「……良かった、少し触るわね?」
私は胸ポケットからペンライトを取り出すと、左右の目に近付ける。
一瞬だけ、びくりと彼方ちゃんの体が震えたが、大きな抵抗はしなかった。
「大丈夫よ、反応を見るだけだから」
「そう、ですね。ライトも普通のライトですし」
「医療用のものではあるのよ? 病院の売店で売っているわ」
安物だと光を当てたときに反応が見辛いし、あまりに強いライトを使うと視神経の負担になる。
例えば、軍用のフラッシュライトなんかを使うと、下手をすると失明の危険さえあるのだ。たかが懐中電灯と侮ってはいけない。
「……本当に、そうですね」
まるで当てられたことのあるような口振りに私は眉を寄せ、そして直ぐ、ある可能性に思い当たった。
そっと声をひそめ、周りに誰もいないことを確認しながら、横たわる彼方ちゃんの顔に近付く。
「もしかして、その――虐待でもされているの?」
「……え?」
「ライトの話とか、その、自殺未遂とか。それに、気のせいかもしれないけれど。貴女は私を怖がっていないかしら?」
「…………」
私を見上げる彼女の瞳には、僅かな驚きとそして、安堵があった。
やはり、そうなのか。
聞かれなければそれで良い、けれど、聞かれることを覚悟していたのではないかと、私は自らの推理の正しさを確信する。
まあ、推理だなんて大仰なものでもない。
彼女はこんな幼さで屋上から飛んだ。その背景に何かがあると思うのは誰だって思うし、それだって一般的には家族か学校かの二択だ。
そして私を、見ず知らずの私を恐れるということは、恐怖の対象は詰まり大人ということ。
彼方ちゃんの母親は、彼女が幼い頃に亡くなっている。その後、父親は再婚しているようだから、継母との関係とかだろうか。
……不愉快なことだ。
別に私は子供好きな訳ではないけれど、弱い立場の者を虐げるのは好みじゃない。まして、親は子を守るものではないか。
憤りを心の内に隠して、私は出来る限り最高の笑顔を見せながら、彼方ちゃんの手を優しく握った。
「大丈夫よ、ここには、貴女を傷つける人は居ないわ」
一人だけ、実に不快な妖怪爺が頭に浮かんだが、奴は例外だ。
何事にも罠はある。
「もし良ければ、私が貴女の味方になるわ。それとなく警察とかに話しても良いわよ?」
と言うよりも、他に出来ることはない。
私は医者というそれなりに特殊な立場だが、それだけ。彼女の家族でもなければ、親しい友達ですらない。
そして、私は医者だから、全ての相手に平等でなければならない。
友人を作れないとは言わないが、患者の内の一人にばかり肩入れすることもまた、出来るとは言えない。
会えば挨拶はしよう。
乞われれば話もしよう。
話を聞いて優しい言葉をかけても良い。けれど、私に出来るのはそれだけだ。
私は数多くの友人の一人にはなれるが、彼女の唯一の味方にはなれない。
たった一人きりを唯一無二の支えにするのは、する側にとってもされる側にとっても、破滅への特別快速にしかならないのだ。
特に、私のような人間は。
「落ち着いてからでも構わない、何かあったなら、話くらいは聞いて、」
「……とうに?」
「え?」
囁くような声が、彼方ちゃんの唇から溢れた。蚊の鳴くような、なんて今時全くピンと来ない喩えがしっくりくるような、控えめな声だった。
固く硬く固められた彼女の防衛意識からこぼれ落ちたような、意図せぬ本音のような声だった。
――どうしよう、完全に聞きそびれた。
虐げられた子供のこぼす本音という、千載一遇の機会を、私は完全に逃していた。
だって、小さいんだもの。
大事なことなのだったら、もっとこう、派手な色のアンダーラインを引いて目立たせて欲しい。文字の色を変えるとか色々あるじゃないか、昨今ならば。
――とはいっても。病人に大声を出させるわけにもいかないし……。
どうしたものか。
少し考えて、私ははたと両手を打った。
聞こえないなら、近づけば良い。
私はベッド脇に椅子を出すと、静かに腰を折った。
ゆっくり、ゆっくり。
まだまだ見知らぬ大人に過ぎない私に対して、彼方ちゃんが怯えないように、静かに静かに、彼女に顔を寄せていく。
彼女の口許に、耳を近付けていく。
触れるか否かというくらいにまで、近付いた。
彼方ちゃんの吐き出すか細い息が、その温かさがこそばゆい。
「……本当に、お医者様なんですね、黒木さん」
「っ!?」
突然普通の音量で話されて、私はバネ仕掛けのビックリ箱みたいに跳ね上がった。
それを、許さぬとばかりに、彼方ちゃんも身を起こした。
私の首に、細い腕を素早く巻き付けて。
私の力を利用して、一息に身を起こす。
「っ……」
「彼方ちゃん?!」
次の瞬間、無言でうずくまる少女を、私は慌てて抱き抱えた。
津雲日向がクッションになったとはいえ、彼女は全身を激しく打ち付けているのだ。激しい動きは、命にも関わる危険な行為に他ならない。
抱き締めた、細い身体はひどく熱い。全身に刻まれた傷跡が、熱を持ってしまっているのだ。
「ごめんなさい、私、驚かせてしまったようね……」
「え?」
何もかもが、いきなりに過ぎた。
幼い、固まっていない心を悪意の炎で炙られて、絶望の鎚で歪められた少女に対して、精神的にも物理的にも、間合いを詰めるのはもっと慎重にしなくてはならなかった。
医者だというのに、癒さなくてはならなかったのに。
自己嫌悪に陥る私の耳に、不思議な音が聞こえてきた。
クスクス、クスクスと。
少女は、笑っていた。
「何て言うか、失礼かもしれないんですけど、ふふ。黒木さんは本当に医者なんですね」
私の腕の中で、力無くもたれ掛かりながら、楽しそうに。
私も、何故だか笑ってしまった。
「何それ、貴女、疑っていたの?」
「少しだけ」
「まあ!」
クスクス、クスクスと、私たちは顔を突き合わせながら、この世で最も幸せな唄を共に歌う。
「……黒木さん、私の――彼方ちゃんの味方になってくれますか?」
「え? えぇ、勿論よ」
奇妙な言葉だった。
不思議で、不自然な言葉だった。
それでも――真摯な響きだったから、私はしっかりと頷いた。
頷いた、私に。
彼女も頷いて、そして、笑った。
片方の眉をひょいと上げて。
唇の左端をそれに続けて持ち上げて。
シニカルに、ニヒルに、君は本当に馬鹿だなとでも言うように。
そして、言った。
「僕が、私じゃなくても?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます