第37話/表 四分の一の偶然。

「俺が思うにさ、案外安全なんじゃねえかなこれは」


 久野の明るい声が聞こえる。

 瞬きした先は、研究所の廊下だ。足元はしっかりとした金属、壁には窓はなく、照らすのは夕陽ではない。

 もう、彼処ではない。ここは、現実だ。


 少し前を、久野とスミス氏が並んで歩いている。同じ制服を着た彼らは共に筋肉質で、同じチームに所属するスポーツ選手のように見える。

 見えるだけだ。

 良く見れば肩を叩きながら親しげに話しているのは久野だけで、スミス氏はやや迷惑そうにあしらっているようである。恐らく、緊張すべき場面で喧しいとでも思っているのだろう。


 まあ、無理もない。久野はこういう場面でこそ、喧しく騒ぐタイプ。気を使ってこうしているのではなく、元からこういうやつなのだ。


 緊張感はあるが、それに囚われない。

 真剣ではあるが、それに留まらない。


 平行思考というか。

 なにか一つのことを懸命にやりつつも、同時に他のことも考えられるのが、久野の良いところなのである。

 他のことで、出来れば役に立つことを考えてくれればなお良いのだが。


「排水口ってのは、どこにあるんだっけ?」

「建物の外、お前たちが寝泊まりしている寮の地下にある。一般人には入れないところだ。しかし、だからと言って安全と言うのは強引だぞ」

「………寮の利用者は、どのくらいですか?」


 さも当たり前のように、僕は二人に声を掛けた。ごく自然に、最初から聞いてましたとでも言うように。

 ………夢の話は、しない。久野のように騒ぐこともないが、そんな不気味な話で士気を下げる意味もまたないだろう。


「大体、百人くらいか」


 幸いスミス氏は異常に気付いた様子もなく、淡々と返事をしてくれた。

 ちらりと振り向いた久野の方は、何処と無く物問いたげではあったから、もしかしたらおかしいと思ってはいたかもしれない。

 僕は久野の、正鵠を射る不安を封殺するようにして、大きく頷いた。


「研究員以外の労働者は、全員そこに住んでいる。研究員も住むことは出来るんだが、基本的に彼らは自分の研究室から出ないからな」

「成る程。………人材の質というか、能力で考えるのなら、確かに寮が襲われても被害は少ないと言えなくもないですが………」

「褒められた考え方ではない」


 スミス氏が不機嫌に断じる。

 僕としても、反論の余地は見付けられない。人の果たす役割で貴賤を問うような考え方は非道だし、そもそも僕らだって単純労働者だ。制服を着替えたからといって、中身まで上等になることは無い。

 もしそうなるのなら――世界中の人間がスーツを着るべきだ。そうすれば、紳士的な世界になる。


「そもそもが、人が死ぬのだ。そこには悪しかない」

「あー、まあ、そう言われちゃあそうなんだけどさ。………なんつうの、世の中には【最悪】ってあるじゃんか。こうなったらまずいって言うか、こうなったらお仕舞いみたいな最終ライン」

「だから、それは人の死だろ?」


 呆れる僕に、久野は力強く首を振る。


。少なくとも今回は、違うんだよ津雲。この件における最悪は、実は人の死なんかじゃあない」

「………………」

、ここからあの化け物を出すことだ。世間一般、平和に暮らしてる町に、あいつを解き放つことだ。………あの化け物、人間をどうするか見たろ? 食うか、或いは」

「操るか、か」

「下手くそなやり方だけどな。けど、あれが元は人間で、知性を持つのなら、何度か繰り返したら。手段は洗練され、見た目にも行動にも人間みたいな化け物に変わっていくだろうさ。そうなったら………誰にも止められないぞ」


 それは、確かに恐ろしい想像だった。


 そもそも人間社会というやつは、その規模に反して非常に脆く儚いものを土台にしている。

 それは、信頼だ。

 人間同士の、ではなくもっと大きな規模での信頼。国というものが、社会規範が明日も明後日も続いていて、印刷された紙切れや電磁信号で物を買うことが出来るという信頼。法律という文字の羅列を周りの人も含めた全ての隣人が守るという、信頼。極端な話、明日も明後日も安穏無事に生きていけるという信頼だ。

 人になりきれる怪物がいたら、どうだ。

 隣の人間が実は人間ではなく、自分とは意思の疎通も出来ない、血肉を喰らう怪物かもしれないとしたら、どうだ。

 見ず知らずの人間と、物の売買が出来るだろうか。他人とすし詰めになる公共交通機関を利用するだろうか。

 誰かと共に居たいと、思うことが出来るだろうか。


 不可能だ。

 それも、確信とか証拠など無くともそうなる。という疑惑だけで、人は人を信頼できなくなる。

 信頼という楔を無くしたら、社会はどうなる。世界は、果たしてどうなる。


 


「ライオンとウサギは、違う檻に入れるべきだ。だが、共食いするウサギなんて見分けようがないぜ?」

「それは――最悪だね」

「それで、何が安全なんだ」

 僕の賛同に喜ぶ久野に、スミス氏は怒鳴る寸前みたいな声を投げる。「仕留め損ねたらまずいという危機感しか伝わってこないぞ」

「そりゃ勿論、確率の話さ。所長の話にもあったろ? 化け物の核となった例の薬には、致命的な壁があるってさ」

「………何の話だ」

「おいおい、冴えないおっさんだな。あ、顔の話じゃなくてな、頭の中の話な? 津雲はきっちり解ってるぜ?」


 そんなフォローになりきらない悪口の後で、僕の名前を出さないでほしい。

 スミス氏が、若干不機嫌に僕を見る。所長といい久野といい、理不尽な期待を寄せるのは止めてほしい。

 あと、その対照相手にスミス氏を出さないでほしい。片手で僕の頭を握り潰せそうな相手に睨まれる気持ちが、君らには解らないのか。


「………………」


 まあ、ともかく。

 久野がこんな風に言うということは、答えは既に提示されているということでもある。破片ピースは既に目の前にあり、後は考えれば解るような状況なのだ。


 僕は少し沈黙し、そしてやがて、その答えに辿り着く。


「………!」

「ビンゴ」


 そう。あくまでも所長の言葉を信じるのなら、という言葉はつくが、あの薬は移植に際して、

 ということは、奴が餌とするのは、


「単純に、四分の一だろ?」

「確かにそれなら、多少は気が楽だな」

「因みに、白沼博士の血液型は何なんですか?」

「あ、それ聞かないと駄目だな」


 寧ろ、最初に気になるところだと思うのだが。


「津雲は何だっけ? 俺らは、一緒なんだよな?」

「………Bだよ」こいつはどうして覚えてないんだ。

「奇遇だな、俺もだ」


 スミス氏は、僅かに驚いた様子で答える。

 まあ、四分の一だ。確率としては別に低くはない。驚くようなことでもないと、僕らは気を取り直して頷いた。


「博士は?」

「待て………ノア、どうだ?」

『博士もBですね、残念ですが』


 ………四分の一。

 いや、確か血液型は平等な割合では存在していなかったと思う。少ない血液型もあれば、多い血液型だってある。Bは、そんなに少なくはない筈だ。

 驚くようなことではない。偶然の一致だ、単なる偶然。

 だというのに。

 この、背筋をゆっくりとなぶるように這い上がる悪寒は、一体なんだ。


「………………ノア、?」


 同じ不安に行き当たったのか、スミス氏が重苦しく尋ねる。

 僕らはその不安に息を飲みながら、同時に、ある種の確信を抱いていた。

 通信機からの返事は――


『………………Bです』

「………安全じゃあ、無かったな」


 ポツリと、スミス氏が呟いた。静かなその声に、応える者は誰もいない。

 何とも言えない沈黙が、廊下に満ちていた。

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