16.墓参

 翌朝一番の汽車で、エリカは煙霧京へとむかうことになった。

 鉄道のほうがやや遠回りで時間もよけいにかかるが、自動車で悪路を延々走るよりは病人に障りが少ないだろうとの判断からだ。

 エリカの付き添いにはミズ・ジョンソンと、帝都の事情にあかるいエヴァグリン夫人も同行することになった。帰路に自動車を使わずにすんだ夫人は、どことなく安堵した様子だ。

 風邪をうつすようなことがあってはいけないというので、城の子ども部屋の窓から見送るリィンセルの眼下では、熱で赤い顔したエリカの、「せめて駅までついてきてほしいの」という頼みを無下にできなかったコハクが、一行とともに車へ乗り込んでいる。

 朝靄のただよう玄関先に整列した使用人たちと、エリカの二人の兄が見守る中、サフィルの運転する送迎の車が走り出した。

「エリカさんのご病気、たいしたことがないといいわね」

 高い窓辺に寄せた長椅子には、前肢をかけて伸びあがった星星と、寝間着のまま座面によじのぼったリィンセルの姿がなかよく並んでいた。

 小さくなる自動車の後ろ姿を見届け、リィンセルは素足で床におりる。寄り添った星星の毛並みに手足をくっつけているときは暖かいが、離れた途端、暖炉に火を入れた部屋でもすうすうして肌寒くなる。

「だめよ、ちゃんと室内履きをはいて。このあたりは煙霧京よりずっと冷えるんだから」

 ときどき、わざと無作法をして楽しんでいるふしのあるリィンセルに、絹の内張りをした刺繍入りの室内履きと、真綿をはさんだ分厚いガウンを両手にしたアリアドネが近づく。

 階上に部屋があるとはいえ、侍女がいなくても身の回りのことはひととおり自分でできるアリアドネは、すでに着替えをすませて、腰までうねり落ちる金髪を、飾り帯でつむじに結い上げている。

「朝食は執事さんたちが戻ってきてからよ。少し時間がかかるから、お腹がすいたら昨日のお菓子と温かいお茶を持ってくるわ」

 今朝は侍女役のアリアドネの手で厳重にガウンを着せられたリィンセルは、お菓子、と聞いて思い出したのか、そういえば、と話し出した。

「昨日、みんなでお散歩に出かけたでしょう。そのとき、星星を連れ出すのに、エリカさんもわたしといっしょに階下へいらしたのよ。そしたら、村のひとたちが届けてくれたお菓子が、たくさん厨房に置いてあったの。エリカさんは、とっても甘いディライトが好物なんですって。内緒でひとつだけつまんだのよ。ディライトっていえば、前にアリアドネが雪花亭で作ってくれたわよね。ターキル国ではロクムというんだって。先生がお茶をたくさんおかわりされたわね」

「……そのディライトを、リィンセルも食べたの?」

「いいえ。サンドイッチでお腹がいっぱいだったもの」

 急に考え込んだふうなアリアドネの顔を、リィンセルが不思議そうにのぞきこむ。

「ねえ、お願いがあるの。今夜はわたしといっしょに寝てくれる? エヴァグリン夫人がいるときは叱られるけど、エリカさんもいないし、お城があんまり広くて寂しいんだもの」

「ええ、いいわ。でも、今夜だけね。でないと星星が拗ねちゃうから」

 嬉しそうにしがみついてくるリィンセルの、ガウンでひとまわり大きくなった体を抱擁したあと、アリアドネは白雪姫の『血のように赤い』頬に接吻する。

 リィンセルを抱擁したり、つやつやと赤い頬や黒檀のような髪に接吻するのは、亡き母親の公爵夫人がもし生きていたら、可愛い一人娘にきっとこうしていたに違いないことを、アリアドネが代わりにしているという気持ちがあった。

 昨夜、おやすみの挨拶だといってコハクが触れたのも、アリアドネの頬だ。

 ジーペンの血を半分混ぜたコハクは、額でわけたまっすぐな髪も、銀縁眼鏡ごしの切れ長の瞳も、闇夜のごとく黒い。

 執事としてのコハクへの心配は消えないまま、親しみだけが増すことに、アリアドネは言いようのない危うさを感じていた。




 コハクが城へ戻るころには、すっかり朝靄が晴れていた。

 煙霧京の名が示すとおり、帝都を年中覆う灰色の霧は、郊外の工業プラントが排出するスモッグが原因だが、田園地帯のベニントン領では、土にふくまれる水分が払暁の大気の熱に蒸発して靄になったもので、まったく質の違うものだ。

 晴天のみずみずしい田舎の空気は、都会暮らしの者にはことさら新鮮に感じられる。

 運転手をしていたサフィルとともに、コハクが城の階下へ降りると、階上の住人であるはずのリチャードとパトリックの兄弟が、厨房に使用人を集めてなにやら話し込んでいる。

「どうしたんだ、二人とも。なにかあったのか?」

 コハクの声に振り向いたパトリックが、肩をすくめた。

「使用人の中にも具合の悪い者が二、三人いるそうでね。これはいよいよおかしなことになってきたって、兄さんと話してたところだ」

 言われてみると、昨日初めて階下のかれらと顔を合わせたコハクがざっと見ただけでも、使用人の頭数が少々足りない気がする。

 続けて、村医者に知らせたのかどうかたずねてみれば、リチャードが「さっき電話した。すぐに来てくれるそうだが、姫様を心配させないよう、こちらから迎えの車をよこすと言ってある」と応じた。

「ローズオンブレイ先生がいなかったのが、よくよく悔やまれるな」

 風邪が疑われるエリカを、食あたりと判じた村医者のことだ。どこまで正確な診断ができるのか分からない。

 ちょうどそこへ、アリアドネが給仕用の階段を駆け降りてきた。

 リチャードの求婚で焦ったわけでもあるまいに、昨夜の挨拶が大胆すぎたのではないかとの含羞が、あとからおそってきたコハクはひとり、昨日の今日でなんとなく落ち着かなくなってしまう。

 コハクの内心の狼狽をよそに、アリアドネはアリアドネで慌てた様子だ。

「リィンセルが気になることを言ってるの。昨日、散歩へ出る前にエリカさんが、この厨房にあったお菓子をつまんでるんですって。ほら、あたりの小作人が届けてくれたっていう。リィンセルはお腹がいっぱいで食べなかったそうよ」

「なんだい、つまみ食いか。レディのくせにお行儀の悪い妹だな」

「小作人たちが届けた菓子は、夕食のデザートにお出しした以外は、姫様が昨夜のうちに使用人へふるまわれた。種類が多かったのでまかないでは食べきれずに、冷蔵庫へしまったものもあるし、まだ全部は手をつけていないはずだ」

「エリカさんが食べたのはディライトよ。リィンセルがそう言ってたわ」

「あの甘ったるいやつか!」

 話を聞いたサフィルが気を利かせて、貯蔵庫にあった菓子箱を取ってきた。

「どの小作人がなにを届けてきたのか控えてある。あとで目録が必要かと思ってな」

「姫様ならお礼をしたがるだろう。では、控えを調べればディライトを届けたのが誰なのか分かるはずだ。体が不調の使用人は大事をとって、今日一日休ませよう。皆も、届けられたものはすべて手をつけないでそのままにしておいてくれ」

 本来の領地管理人のリグルワース家の兄弟をまじえたコハクが、深刻な顔をして話し込むかたわらで、朝の仕事を中断された使用人たちが手持ち無沙汰なのを見てとり、アリアドネが声をかける。

「執事さん、リィンセルが階上うえでお腹をすかせてるの。朝食を用意してもらっていいかしら」

「ああ、すまない。すぐにやらせよう。それと、姫様に菓子のことは」

「まだ黙っておくのね。分かってるわ。リッキーたちも、朝食には普段どおりに食堂へあがってきてくださる? リィンセルは頭のいい子ですから、いつもと違ったらすぐに気づくと思うんです」

「承知した。姫様は今どちらに?」

「部屋で読書を。星星と、ヴァイオラについてもらっています。じゃあ、リィンセルが本に夢中になってるあいだにお願いするわ」

 執事のコハクが手ぶりで指示するまでもなく、アリアドネの言ですでに使用人の群れがばらけ、厨房やらあちこちで忙しく働き出している。

 階上で給仕をするための午前の礼装姿の上級使用人たちが、アリアドネと前後して階段をあがっていくのを、コハクは低い場所にとどまりつつ見送った。



 何事もなくすんだ朝食のあと、星星をつれたリィンセルがこの城自慢の図書室に入り浸ったのを幸いに、リチャードとパトリックの二人は、小作人たちの届け物の目録を書き出すといって、こちらも一室にこもっている。

 おのおの勝手に好きな場所で食事ができるよう、アリアドネはあらかじめ、昼食にサンドイッチとコーヒーの用意をヴァイオラに頼んでおいた。

 村医者は、公爵家の車で恐縮しいしい昼前にやってきた。やはり昨日と同じく、寝ついた使用人たちを食あたりと診立て、人数分の水薬を出すころにはちょうど昼時にさしかかっていたので、そのまま帰すのも気がひけたアリアドネとコハクが、昼食に招待した。村医者は、今日は白雪姫様にお会いできないことをしきりと残念がって、コーヒーを三杯もおかわりして帰っていった。

 動ける城の使用人はいつもより数を減らしたうえ、小作人の届けた野菜でスープを作るつもりだった厨房奉公人の予定が狂ったりと、階下もなにかと浮き足立っている。

 エリカに飲ませた熱さましの薬草と、ボウルの水に入れるミントをまたわけてもらおうと、午後になってアリアドネは、城の温室へ足をむけた。

 カサブランカ城の温室は、ほぼ正方形に近い城からそこだけ突き出す形になっており、一部が談話室に利用されている。

 貴族の居城に談話室は欠かせないものだが、カサブランカ城ではあくまで温室としての役割が主たるもので、談話室は付属のかっこうだ。

 やはりといおうか、温室では執事というより庭師のごとく軽装のコハクが、鋏を片手に切り花を択んでいた。

 入り口のガラス戸を軽くノックすると、作業に没頭していたコハクが顔を上げ、格子窓ごしに目が合ったアリアドネは微笑し、戸を押して中へ足を踏み入れる。

 談話室側の壁炉で石炭を焚いた温室は、むせかえりそうなほど暖かい。

「お邪魔してごめんなさい。昨夜の熱さましとミントをわけてほしいの」

「寝こんでる使用人の分か。少し待っててくれ」

 コハクはかかえた切り花を作業台に広げ、鋏は持ったまま、さまざまな植物が群生する緑の中へと入っていった。

 アリアドネがふと外へ目をやると、温室でも談話室でもないレンガ造りの小屋が棟続きになっているのが見える。窓がなく、城に接しているのは壁だけで、庭のほうから出入りできる両開きの木戸があるところからすると、道具入れの納屋かもしれない。

 コハクの戻った気配に、それきりアリアドネの興味はその納屋から離れた。

「白根草を煎じるときは、煮詰めすぎないように気をつけろ。昨日のエリカ様とは勝手が違うから、温かいうちに蜂蜜を混ぜて飲ませたほうがいいかもしれないな」

「そうするわ。熱があるのに寒気がするのは、階下でも同じみたいね。お医者様の出したお薬もあるし、ただの風邪だといいんだけど。それにしても、ずいぶん古い温室だわ。雪花亭のものより小さくて、種類はこちらのほうが多いみたい」

 差し出された二種類の薬草を、ショールをかけた腕に受け取ったアリアドネは、周囲で枝を伸ばす木々や草花を見渡して感嘆したように言う。

「晩年のナサニエル卿が直々に手がけられたものだ。十七世紀のロンドン大火後、雪花亭を建てるときにあちらの温室も一緒に造られ、ここの植物を移植した」

「じゃあ、アジサイの親株はここにあるのね?」

「ああ。そこだ」

 コハクの指差す先には、緑葉だけを茂らせた低木が植わっている。

「残念だが、今は花期ではないし、ここのアジサイも青い花を咲かせたことはないそうだ」

「こんなにたくさんの植物がある温室にも、青い花はほとんどないのね。黒いバラがあって、青がないなんて不思議だわ」

「いつか母の生まれた島国のヤーパンに行き、この目で青いアジサイを見て、土壌をくわしく調べられたらいちばんいいんだが、なにせ大陸の東の果ての、そのまた海のむこうだ」

「簡単に行ける距離じゃないわね。私だって、印度までしか道案内できないもの」

 なにげなく言ってから、なぜかおかしな空気になったことに気づいたアリアドネは、理由が分からないまま急いで話題を変える。

「さっきの切り花は? 城に飾るの?」

「これは墓に供えるものだ。執事ボイドは代々、火葬したあとカサブランカ城近くの決まった場所に葬られる。先代白雪公の墓碑は帝都にもあるが、あちらは遺髪と遺品を収めたもので、雪花亭におられるご家族の墓参が適えられるよう、便宜的な意味で設けられている」

「印度で火葬は当たり前だけど、アルビオンでは土葬するって聞いたわ」

「初代ファーロン・ボイドからの習わしだ。執事ボイドの骸は形を残すべきではないとされている。初代が『咎人』だったことからきているんだろう」

「それじゃまるで、亡くなったあと火刑に処するみたいだわ」

「これも執事ボイドの背負う因縁だ。自分は納得している」

 コハクが話を切り上げたので、アリアドネもそれ以上のことは言えなくなる。

 鋏を置き、かわって切り花を無造作にひとかかえにしたコハクを、アリアドネが呼び止めた。

「そのままお墓に持っていくつもり?」

 なんのことか飲み込めないコハクがいぶかしげに見る中、歩み寄ったアリアドネは自身の金の髪から外した飾り帯を、切り花にひとまわりさせ、結ぶ。

「お父さんのお墓参りなんだから、このくらいしたほうがいいわ」

 アルビオンでは、未婚既婚に関わらず女性が人前で髪をほどくのは非常にはしたないことだが、この国での礼儀にまだまだ疎いアリアドネは、やはり踊り子風情といったところで、そんなことを気にする性分でもなかった。

 花束に飾り帯を結んだアリアドネが顔をあげると、コハクと視線がかち合う。

「今ここで、青いものがあるとすれば、君の瞳だろうな。ラズーリ嬢」

 こぼれおちそうに大きな碧眼がコハクを見返し、二、三度ぱちぱちとまたたいて、やがて困ったようにそらされた。

「私も一緒に行っていいかしら」

「墓参りに? 別に構わないが……」

 銀縁眼鏡の下のコハクの顔つきは、なにがしたいのか、と言いたげだ。

「裏口で待ってて。髪を直してくるから」

 ほどいて放埓な髪が急に恥ずかしく思えて、コハクと距離を置いたアリアドネは、薬草を持ち、小走りに温室を出ていった。



 髪を後ろでまとめ直したアリアドネが、城の裏手、使用人が出入りするための階下に通じる裏口へいくと、こちらも執事のフロックコートを着込んで身なりをあらためたコハクが、切り花を飾り帯で束にしたものを小脇にし、傾きかかった遅い午後の光のもとで立っていた。

 アリアドネを先導するコハクは、森へ続く散歩道を歩きだしたかと思えば、やがて、まばらにヒース(エリカ)の枝葉が這う荒野に伸びた小径へそれる。

 人の往来がほどんどなく、あまり踏みならされていない小径で、慣れない革靴の足元を土にとられるアリアドネを見かね、コハクが片腕を差し出した。

「ここに掴まるといい」

「ありがとう。やっぱり執事さんも紳士なのね」

 アリアドネはフロックコートの袖に触れ、折り曲げたひじのあたりに手をそえる。

「コハクでいい」

 始めはコハクがなにを言い出したのか飲み込めず、アリアドネはぼんやりしていた。

「君に執事と呼ばれると、よそよそしい感じがする」

「じゃあ、私のことも名前で呼んでくれれば」

 しばらく無言だったコハクから、「次からはそうする」との応えがあった。

 執事ボイドの墓は、城とそう離れていなかった。森のそばで、太陽が木々に遮られる朝から日中はあまり日が差さない。今の時刻は逆に、きつい西日が照りつけていた。

 霜枯れした下草が荒野をおおう中にところどころ、大きめの石がぽつぽつと点在するだけで、墓地らしいことはなにもない場所だ。その石の数も、おそらく歴代の執事の人数よりずっと少ないだろう。

「燃えやすいように油を染み込ませた木箱の棺桶に骸を入れて、その木箱の大きさの穴を地面に掘るんだ。穴には焚きつけの薪を並べて火をつけ、骨が粉々になるまで薪を足しながら焼いたあと、そのまま土をかければ埋葬は終わりだ。年代の新しい墓には、故人をしのぶ遺族のために石で目印をしているが、古いものは朽ちるにまかせている。墓碑がないので、以前は墓だった場所をまた掘り返して火葬をしていることもありえる。むやみに墓地を広げて耕作地にかかってしまうと、あたりの農民に迷惑がかかるのでな。それに、ここらの者のほとんどは火葬を恐れている。焼かれた骸とともに、魂まで灰塵になると信じているからだ」

「印度では、体はただの容れ物よ。魂が死後の国に送られたあとは、火葬するのが普通だわ」

 わびしい墓地の一角、枯草まじりの盛り土をかけ直したばかりの場所を示す、新しそうな石のところへ、コハクは荷物でもおろすように花束を置く。もとはアリアドネの髪を結わえていた飾り帯が、色のない地で鮮やかに流れた。

「神は仔細を択ばず、いずれにおいても宿り、何人なんぴとを信じさせるのが本分だ。求められる神の数だけ、教義と信仰は作られる」

「この国でそういうことを言うのは、あやういと思わない?」

「執事ボイドを許すのは、白雪公に限られる。神に許しを乞うべきではない。よって、むやみと他言はしないのが務めだ」

「私は白雪公じゃないわ」

「君は吹聴するような人ではないだろう。なので話した。それだけだ」

 墓前らしき場所に花こそ手向けたものの、祈りを捧げるでなしに、その場で直立するコハクは無為にアリアドネと言葉を交わし続けた。

「大学があったとはいえ、結局、火葬のことは、姫様やリグルワース家にまかせてしまった」

「お父さんはどんな人だった?」

 会話の流れでそうたずねると、コハクが口ごもる。

「……よく分からない」

「親子なのに?」

「寄宿学校に入ったあと、特にここ十年はまともに話していなかった。父とはその……折り合いが悪くて」

「話さずに避けてたんなら、良くならないかわりに、悪くなりようがないわ。分からない人をどうやって嫌うの」

「君に理解できることじゃない」

 父親との確執を持つ者と持たない者のあいだに横たわる、埋められない断絶を示すごとく、コハクは切り口上に言った。

 いきなり梯子を外されたようで、アリアドネは憮然となる。

「理解できるように話して」

「父をどう思うかは、自分の心の中のことだ。そんな私的なことを、簡単に口にできるわけがない」

「誰にも言わないわ」

「揚げ足を取るのはやめてくれ」

「そりゃ私は、気が強くて生意気な口をきくわよ。だからって、誰かを傷つけたくて言ってるんじゃないの。私にとっては、これがまともなやり方なのよ」

「たとえ君が正しくて、自分が間違っていようが駄目だ。自分の心に踏み込んでこないでくれ」

「そうやって私を締め出すの?!」

「違う! 君の問題じゃない。これは自分のことだ。他人に触らせてどうする」

「じゃあどうして、お父さんと同じ執事になったの?! 分からない人と同じものに!」

「自分は父とは違う!」

 勢いで言ったあと、コハクはあきらかに拙いことを口走った、という顔つきになった。

「分からないのに、違うと言うことはできるのね?」

 これ以上口を開けば、いらぬ言質を取られるだけ、とでも言いたげに、コハクは沈黙している。そもそもこの執事の口重さからすると、先ほどまでの剣幕がむしろ異常なことだったし、もしかしたらひた隠しにされてきた、かれの素がほころびでたのかもしれない。

「……あなたが、執事ボイドと違うものになれるなら」

 誰かが言わなければならないことだと、アリアドネは知っていた。けれど、その役目が自分でなければいいと願い、そして恐れていたのは、やはり自分が言うことになるだろうと悟っていたからだ。

「お父さんの仇討ちは諦めて。数百年間続いてしまった復讐の連鎖を、あなたで断ち切るべきよ」

「この期に及んで君は、ダネル公に肩入れするのか?!」

「最後まで聞いて! あなただって、リィンセルが古い因縁に囚われるのを望まないはずだわ! だったら、本当の望みをかなえたほうがいいに決まってる。それも分からないって言うつもりなの?」

 アリアドネの正論に対し、コハクは急激に冷えた口調で、「自分は父とは違う」とくり返した。

「死んだ親の仇を討たずして、子の道義は能わずだ。父は家族をないがしろにした。父と自分の立場が逆なら、父は仇討ちなぞしない。復讐の連鎖の中で、これまでの執事ボイドがそうしてきたごとく、父もその役を果たしたのは、みずからの血族がお仕えしてきた白雪公の御為にほかならない。自分は、けして父と同じものになるわけにはいかないのだ」

 アリアドネは、目の前が真っ暗になったような気がした。父を憎んでいない者に、コハクの暗部が理解できないのは、まったくそのとおりだった。

 心と心が分かり合える、その幻想を砕かれて、これ以上なにができるというのだ。

 悔し涙があふれる前に、アリアドネはコハクに背を向けた。ここで泣いてしまったらコハクが悪者にされ、アリアドネは女性というだけで擁護される。それでは口論までした意味がなくなってしまう。

 城への帰り道を、肩を震わせたアリアドネが、ひとりで歩き去る。

 夕焼けに照りかえった金髪がうねり落ちる後姿を見送ったコハクは、その場で跪く。

 花束に巻かれた紺青の飾り帯を抜き取り、それをきつく握りしめた。




…… 次回 17.長銃の夜(上) ……

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