4.女王の果樹園

 届けられたばかりの信書をたずさえ、アルビオン大英帝国中央議会宰相のシャナハン・アイギスは、王宮内にもうけられたリザベル女王の執務室ではなく、ド・ポワッソン草庵へと足を向けた。

 広大な王宮の敷地は、『白雪公』スノードロップ家の煙霧京での荘園と境を接している。

 その荘園の大半をニヴァリス・パークとして開放する白雪公の、町屋敷たる雪花亭と、王宮本殿をあいだにして反対側にあるのが、ド・ポワッソン草庵だ。

 古ガリア語の名を持つド・ポワッソンは、『黒馬公』セングレン家現当主のダネルより女王に捧げられた庵にして、アルビオン大英帝国ヘリタード地方に多い果樹園と農家屋をささやかに可愛らしく再現している。お気に入りのこの草庵でひとときを過ごす女王は、衣装も侍女にこまごま指図して仕立てさせた田舎娘ふうのものを身につけ、野草摘みのカゴまで持つという凝りようだった。

 ド・ポワッソンで放し飼いにする家畜の糞があちこちで野ざらしになった平原を抜け、小川のせせらぎのむこうに草庵管理人の小屋を遠目にしつつ、茅葺きの粗末な農家屋の前に立ったアイギスが木戸をたたくと、出てきたのは女王の侍女マリーだ。洗いざらしの前がけをした侍女のほうが、当然ながら女王よりも百姓の娘らしい質素な身なりをしている。

「あら、宰相閣下」

「やあ、マリアンヌ。陛下はおられるかな」

 侍女の名もガリアっぽく呼びかけながら、渋い顔つきのアイギスに、いつもの女王の遊興に付き合わされる苦労と受け取ったのだろう、マリーは気の毒そうに苦笑した。

「リンゴの花摘みに出られてますわ。呼んでまいります」

 農家屋の裏手に広がる、森ともいえないような木立を抜ける小径へと侍女が走り出ていくのを見送り、アイギスはわざといびつにした木椅子のひとつに腰をおろした。

 さほど間をおかず、侍女と連れ立ってリザベル女王が小径から姿を現した。たがいに田舎令嬢の衣装に身をやつしていても、女王と侍女のふたりが並べば女主人と下婢ほどに違って見える。

 手ずから木戸を開いての宰相の出迎えに、「せっかく公務のない日だというに……」などと、リザベルは不満気にぶつぶつ言い、花のつぼみが入ったカゴを侍女にまかせて始末させる。

 いくら百姓娘の身なりを真似ようが、王族に生まれついた貴婦人が外を裸足で歩き回るのはどだい無理で、農民がよく使う樹皮から作った靴を女王も履いていた。

「また見合いの話なら、明日にいたせ」

「ご無礼を。白雪公ベニントン公爵家、雪花亭より火急の文がまいりましたもので、どうかご容赦いただきますように」

「お隣さんのスノードロップ少尉から、何用だ?」

「恐れながら、差出人は娘の白雪姫、リィンセル嬢になっております」

「ふん、そうか。あの齢でわたくしに文をしたためるとは、ずいぶん利発な娘だ」

 気のない息をついた女王は鷹揚な所作で、アイギスが捧げ持つ銀のトレイに乗った信書とペーパーナイフを取り上げる。

 用件をつらねた文にじっくり目通しする女王の顔にやがて、憂いの色が浮かんだ。

「ベニントン公爵スノードロップ少尉が、執事ともども死んだそうだ」

 リザベル女王は、信書をもとどおりに折りたたんで言った。

 文を女王陛下に取り次いだアイギスは、たくわえた口ひげをもごもごさせて、「白と黒の両公爵家、忌々しいものですな」と、もったいぶって返す。

「ダネルなら、レイントン領内のグロウリー城にこもっておる。今年の社交シーズンも議会も、まだ始まっておらぬでな。今の時期、あやつは領地経営に手一杯で、煙霧京には近づかぬ」

 なにか言いたげなアイギスに、女王は、「そういうことになっておるのだ、察しろ」とつけ加えた。

 女王はさっきの花のつぼみと同じく、読み終えた信書も侍女のマリーにまかせたが、よもや始末させる気ではあるまいな、とアイギスは場違いな不安を覚えた。

「白のスノードロップ家は、いつの時代も王朝に忠実な臣下といえましょうが、黒のセングレン家はいささか……、なんといいましょうか、相談役であるのをいいことに、陛下の寵をたのみにするようなところがございますな」

「そう言うてやるな、シャナハンよ。ダネルをあてにしておるのは、わたくしのほうぞ。戴冠して二年経つが、なかなか政治には慣れぬ」

「は……」

 慣れぬとは言いながら、リザベルの口調にどこか得意げなものを感じ取り、短く応じたアイギスも、女王陛下の政治能力に関して異論はなかった。

 女として相談役の男より劣ってみせようとの了見は、女王でなくとも褒められたものではない。

 いまや『退嬰』とも揶揄される現王朝のワトリング王家から、議会が選定した今上帝女王リザベルだが、形だけの継承順位を頭越しにした優秀さの評に外れ、彼女には稚拙なところが多々あった。やはり若すぎたか、との失望は、女王にごく近しいアイギスのみならず、議会にも共通して流れている。御歳二十一の若い女王陛下とて、議会の空気に気づかないほど愚鈍ではないにもかかわらず、彼女はみずからの才気がおのれの幸福を遠ざけることをなにより恐れている。

 生家のある自然豊かなヘリタード地方を離れて王宮に入る際、リザベルは幼いころから慣れ親しんだ乳母に別れを告げてきた。今の侍女のマリーは、女王が王宮にきてから仕えている。乳母や家庭教師といったかつての使用人との交流は、王との私的な結びつきを足がかりに政治への介入を危惧する宮廷や議会がいい顔をしない。白い断崖アルビオンの対岸、大陸での旧ガリア……フランセーズ王国ならば、公妾夫人たらいう王の愛妾が公然と政治にくちばしを挟むが、そういったことはアルビオン本国では馴染まない慣習だ。

 政治家としては足りず、政略婚の具とするには才気走りすぎ、というのが、帝国中央でのリザベル評だった。

 三代続く女王の初代、ヴィクーティカ女王の時代に現在の帝国の形が成立したアルビオンは、女王陛下の治世における隆盛の記憶が濃く、メアリアン先代女王、リザベル現女王と、女王を望む臣民の期待に応え、中央議会もまた、女王の威光、正確には偉大なヴィクーティカ女王の威を借りてきたといえる。

 リザベル女王自身、今なお帝国の母と讃えられるヴィクーティカ女王が、王配とのあいだに子宝に恵まれた家庭を築き、帝国を繁栄に導いた姿を理想としている。そのくせ、大英帝国にとって有益な配偶者を周辺国から得ることに、女王は及び腰だ。

「ところで、ダネルの出仕はいつごろになろうか」

 ここではないどこかに心を羽ばたかせたような、うっとりした声での問いかけに、またか、とアイギスはつい嘆息しそうになる。

「麦の種まきのあと、雨季の前ほどでございましょう」

 黒太守ダネル公が今の時期、煙霧京から西の奥部にある本領地にこもりきりだというのは、ほかでもない女王が先ほど口にしたばかりだ。いくら待ち焦がれたところで、今すぐでないことは分かりきっている。

 領地経営に熱心なダネル公はやもめで、社交シーズンを待ちかねて出仕を急かす夫人や子女がないからなおのこと、議会の始まる直前まで煙霧京での町屋敷には移ってこないのが常だ。

「生まれる前に亡くなったダネルの子は、娘だったそうだ。あやつが相談役を引き受けたのは、ちょうど娘ほどの年頃のわたくしを捨て置けなかったのであろうよ。この庵も、わたくしの好みをよく分かっておる。ヘリタードはもうすぐリンゴの花摘みの季節よのう。懐かしいわたくしの故郷……」

「さようでございます」

 出仕したらしたで、ダネル公がおればこそ、リザベル女王の政務能力にも信が置けようが、死んだ娘の身代わり気取りに男の歓心を惹きたがる女王が公爵ひとりの意ばかり汲むのも議会には望ましくない。

 帝都におらぬも困るが、いても困るのがダネル公だ。まして、黒馬公と双頭をなす白雪公のスノードロップ少尉は、もう二度と議席をあたためることはない。

 当代の黒馬公と白雪公たる、ダネル公とスノードロップ少尉のあいだにはかなりの年齢差があり、彼らの属する議会派閥の勢力を見ても、対等とはいいがたい。ただ、彼らには、同じ南阿戦争での悪夢の共有があった。

 白雪公が煙霧京での荘園の町屋敷で通年を過ごすようになったのは、黒馬公が中央議会への出仕を渋るのと同様、たがいの接触を極力避けるのが理由だったとの説がある。

 十六年前、忠実なる執事ボイドを従えたスノードロップ少尉が、それまでの復讐の原則を破ってダネル公の身重の夫人に手をかけたのは、少尉の父親を葬った若き日のダネル公の手口があまりに苛烈にして凄惨だったことの報復とも、若輩の少尉が歴戦のダネル公を屠るには力量不足で、卑劣にも夫人の腑臓を裂くのが精々だったとも憶測されている。

 白と黒の両家は、因縁と復讐のもとに定められ、いずれの時代も殺し合う。

 この期に及んで政略婚に乗り気でないリザベル女王が、アイギスとさして変わらぬ年かさの血塗れの男にいくら熱をあげようが、宰相としてのアイギスにも議会にも、不都合なことは起こらない。帝国の王権が神より授けられるものであろうと、その選定と罷免は中央議会の裁量に託されている。

 リザベル女王は侍女マリーに指図し、田舎娘の衣装の肩へぜいたくなビロードの肩掛けをつけた。

「白雪姫の齢では、まだ社交界に出られぬな。後見人が必要であろう。わたくしが引き受けてもよい」

「光栄の至りにございます、陛下。では、ベニントン公爵家にはそのようにはからいます」

「それと、幼くとも公爵家令嬢にレディの称号は当然ながら、前ビーフィッド王朝、我がワトリング王朝の双方と姻族を為すスノードロップ家の白雪姫には、プリンセスがふさわしかろう。わたくしが後見となったからには、女白雪公はこれからも白雪姫でかまわぬと伝えよ」

 湿った感情にものを言わせる若い女王に、ペーパーナイフを手にしたアイギスは顔の皺を深めて微笑した。




…… 次回 5.新品執事 ……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る