プリンセス・スノードロップ

かしわ ししゃも

当代編

1.春荒れの嵐の日に

  アルビオン大英帝国に相並び立つふたつの公爵家、その片翼のベニントン公爵家に女公爵がたてられても、女王の御世が三代続く帝国においてはなんら不思議はなかった。

 長きにわたるベニントン公の歴代のうちでも、はじめての女公様は、巷間では親しみをもって『白雪姫様』とも呼ばれる、リィンセル・カサブランカ・スノードロップだ。

 彼女が世にも稀なる存在であった実のところは、かぞえ歳わずか七歳でお父様からお家を託されたことだ。

 おとぎ話の白雪姫と同じく、リィンセル姫様は雪のように白い肌、血のように赤い頬と唇をし、黒檀のように真っ黒な髪をお持ちの愛らしい小さなレディで、この姫様のみならず、姫様のお父様も、そのまたお父様も、由緒あるスノードロップ家が興された昔からずっと、ベニントン公爵は『白雪公』と呼びならわされてきた。

 白があれば黒も、と思われたのか、アルビオン大英帝国にはもうひとつ、黒の公爵家もあった。ひとつの帝国に、ふたつの公爵家。ベニントン公爵と双頭をなすレイントン公爵、すなわちセングレン家の『黒馬公』だ。

 本来ならば、スノードロップ家当主の白雪公は領地にちなんでベニントン公爵、セングレン家当主の黒馬公はレイントン公爵と呼ぶのが正しいのだけれど、この白と黒の両家に限っては当てはまらない。

 生まれつきスノードロップ家の嗣子姫たるリィンセルが、はやばやと女公におさまる因となったのはやはり、先の白雪公でお父様のハクロ・アレグザンダ・スノードロップ少尉と死に別れたからだ。

 このとき、白雪公と並び立つ当代の黒馬公は、ダネル・サリバン・セングレンといい、スノードロップ家ともども王族の裔たるセングレン家当主のつとめを、若き日より長年果たしてきた公爵ダネルはいかにも頑強そうな初老の男で、まだほんの子どものリィンセルからすると、お父様の体の影にかくれて遠目に窺い見るのがせいぜいの人物だった。

 突然のできごとに、ご当主のハクロ様を亡くしたスノードロップ家の皆が悲しみに暮れる中、宮廷と議会で海千山千に世慣れたダネルに対するのが、女白雪公となる幼くけなげなリィンセル姫様とあっては、お家の先行きのごとく、小さな姫様の頼りなさに誰もが不安を感じずにいられなかった。

 若き今上帝女王の相談役を務めるダネルは、ことさら白雪姫と比するでなしに、歴代黒馬公の中でも特に『黒太守』と称されていた。






 ―― はじめに 言葉ありき


 聖書の最初の一文だけ指先でなぞったあとは、苛立ちをにじませた手つきで皮表紙を閉じる。

 いつもの儀式のようなものだ。

 十字軍の騎士から奪ったと伝わる、慈悲の十字短剣<ミセリコルデ>を先祖から受け継ぐボイド家で、もっとも歳若いコハク・H・ボイドは、誰に言われるでなしに、聖書や教会の祭壇とは自分なりの距離をおいて接してきた。国教会の首長はすなわちアルビオン大英帝国の王あるいは女王というこの国の、しかも帝都においてコハクのこのふるまいは、彼自身の依怙地がそうさせていた。

 大学卒業を三ヶ月後に控えるコハクのもとへ、季節変わりの長雨のこの時期に飛び込んできたのは、父イヴォーク・ボイド危篤の一報だ。

 なにごとが父を襲ったのか、コハクにはとっくに分かっている。

 代々、白雪公に執事として仕えてきたボイド家の忠義は、歴代の黒馬公を屠り続けることであかし立てられ、その復讐により、次代の黒馬公から死を与えられる悲劇を何度も何度も繰り返してきた。

 アルビオン大英帝国に興った白と黒の両公爵家が、双頭をなすゆえん。古き因縁と復讐の連鎖に絡め取られた両家は、それを今日まで断ち切れずにいる。

 正直、殺したいほど父を憎んだのはコハクのほうで、その父が他人の手にかかり凶刃に倒れても、悲しみよりおのれの獲物を横取りされた憤りが先に立つ。

(自分が殺すはずのものを、あの男が殺した。本来、あの男でなくてはならなかった。卑属の自分は始めから、択ばれさえしなかった)

 取るものもとりあえず学生寮を飛び出したコハクは、辻馬車に混じってのろのろと通りを行き交うタクシーを捕まえる。白雪公の邸を行き先に告げるという無分別をしてしまい、もとは農民らしい朴訥な運転手が驚きに目をむいた。

 執事の息子たるコハクは労働者階級に属しながら、地代などの不労所得に拠る紳士階級ジェントリの子息が大勢を占める寄宿学校で、彼らと机をならべて学んだ特異な立場だ。紳士階級の収入の一角をなす小作人は、労働者階級という点では執事とほとんど同列だろう。

 どれほど父を厭うても、ボイド家の男の端くれである限り、いまだ学生で半人前のコハクが帰るのは、後見人で名付け親でもある白雪公のところ以外にない。

 ガキのころからずっと、父の仕事だけは継ぐまいと心に決めていたはずだった。

 職務に忠実な父イヴォークは、執事としては白雪公スノードロップ少尉に重用されたが、私人としては、コハクの母が早世する前はほとんど寝たきりだったのに、幼い一人息子のコハクに何か言うでもなく、家族をないがしろにするだけの、酷薄な男にすぎなかった。

 そんな父と同じ生き物になるまいとして、かたくなに依怙地なコハクは寄宿学校の休暇にも家に帰らず、そうすることで縁を切ったつもりだった。

 今日までおのれをいっぱしの善良な小市民と信じ、誠実に生きてきたはずのコハクは、電話一本で自身のつめたい決意とは裏腹に、たったひとりの肉親の臨終の場面に駆けつけようとしている。死に瀕した肉親のために動揺する心は善良で誠実。一方、つめたい決意は血縁を切り捨てたがる。コハクは相反する二心を腹に隠し持っている。

 そもそも、王宮や白雪公の荘園が在する市街シティから、十マイルと離れていない市立大学シティ・カレッジに進んだことからして、父への反発も腰砕けだった。

 アルビオン大英帝国の帝都たる煙霧京グレーター・ロンドン市街ロンドン・シティ、その市街のさらに中央部に鎮座する王宮と境を接した荘園を賜る白雪公は、その荘園の大部分を公園ニヴァリス・パークとして市民に開放している。残ったわずかな敷地に建てられたのが雪花亭で、すなわち白雪公の帝都での居所だ。公爵様の町屋敷にしては小ぢんまりとした、ちょっと裕福な物持ちの一軒家といったような風情の雪花亭に暮らす、慈悲深い白雪公は古くから市民の尊敬を集めてきた。

 雪花亭ではなく、行き先をパークと言えば穏便だったろうが、思惟に囚われた今のコハクにそこまでの気回しは無理なことだ。

 コハクの父イヴォークは、ボイド家の男の例にもれず白雪公に仕える執事だったので、母の生きていたころ、コハクがまだほんのチビだった時分は、ほかの使用人たちと同様、雪花亭に室を与えられ、一家で起居していた。

 煙霧京の名にふさわしく、シティは今日も濃い灰色の雲が低く垂れこめて、空模様は重苦しい。郊外の工業プラントが、ひっきりなしに操業の黒煙を吹き上げている。

 日中、黒煙を含んだ雷雨がシティを篠突いた。コハクの父はその雨中で死に瀕した。暗い企てにはおあつらえむきな天候だ。たとえ対手がとうに知れていようと、しかし不利な状況は覆らない。視界が利かず、足音と気配が激しい雷雨にまぎれた復讐者を退けるには、あまりに不利な……。

 むこうも、復讐の機を図り長らく辛抱したのだろう。なんとしても仇を討ち果たすという、決然として堅固に凍てついた意志。決闘をみとめられた時代とは違う。一度仕止め損なえば、たとえ前王朝の裔といえど、市警シティ・ポリスの捜査と追及を完全にかわして醜聞を免れるのは難しい。

 復讐者は、白雪公と双頭をなす、黒馬公。スノードロップ家にとって因縁の、セングレン家の黒太守ダネル。

 即位まもない今上帝リザベル女王陛下の相談役として、宮廷で重んじられるダネルには当然、政敵も多い。復讐殺人の最重要容疑者となれば、いかな女王陛下といえど、議会と対立してまで庇いきれるかどうか微妙なところだった。そうでなくても、選定女王のリザベル陛下はまだ年若く、政治に不慣れだ。

 思惟にとらわれるあまり、顔を伏せたコハクの、肩で切りそろえた黒髪が頬にかかって鬱陶しい。大学の研究室で土いじりに没頭していた黄ばんだ指が、邪魔っ気な髪を後ろに払いのける。東夷人ジーペンを母に持つコハクの肌色は、『黄禍』と忌々しく形容されることもあった。

 焦りにまかせて詰め込んだ旅行カバンは中身が偏っており、路上の砂利をタクシーのタイヤが踏むたびに、コハクのとなりでごろごろ耳障りな音をたてる。

 コハクはカバンを引き寄せて、寮の部屋に備え付けだった重たい皮表紙の聖書が、その押し付けがましい善人面で荷物に紛れてやしないかとたしかめた。ボイド家の血統につらなるものが、父の死の間際に聖書を持って馳せ参じるなんて冗談じゃない。

 しみじみと侘しい北風が吹きつける、黒煙の煤で薄汚れたタクシーの窓に、馬車道通りの先、パークの木影にたたずむ雪花亭が見えてきた。




…… 次回 2.さようなら、おとうさま ……



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