第5話

 彼女が同じ職場の店長と、カップルみたく街を歩いた日から時は移り、何ともないが無駄に暑く晴れた日だった。

 彼女が住むマンションの部屋の呼び鈴が鳴らされて、昼時のニュース番組を何気なく見ていた彼女は玄関に急ぎドアを開けた。


「あっ、先生早かったですね」


 彼女に先生と呼ばれたその中年男性は、贅肉がつき全体的に丸みのある体型をしていて、狭い額には玉の汗が浮かんでいるが、暑苦しそうなスーツを着崩すことなくしゃんと装っている人の良さそうな高校教師だ。


「卒業生に何年も経ってから会うのは、何故だが不思議な気分になるよ」

「先生、とにかく中に入ってください。お暑いでしょう」

「いやぁ、すまない。気を遣わせてしまって」


 お邪魔します、と小声で玄関を潜った中年男性は、彼女が差し出した客人用のスリッパを受け取ると、それを履き上り框を上がった。

 彼女は中年男性をリビングまで案内してテーブル脇に座らせると、せこせこ客に出すお茶を取りに、冷蔵庫のあるキッチンに向かう。

 ベランダのある窓からの日の光が翳り出した。


「なんだか、雲ってきたな」


 中年男性は窓の外を見て、なんともなしに言った。

 ガラスのコップに冷えた麦茶を注いだ彼女も、窓の外の暗さに気づいて、


「一雨、くるんですかね」

「それはないと思うぞ。ただ雲っただけだろう」


 彼女はトレイに麦茶の入ったコップを二つ乗せて、テーブルまで持ってくる。


「どうぞ、先生。麦茶ですけど」

「わざわざ、ありがとな。それにしても、美しい嫁さんを持ったもんだなアイツも」


 中年男性が礼を言うのにまぎれて呟いた言葉に、彼女はちょっと恥じらって訂正する。


「もう先生、嫁さんじゃありませんよ。お世辞にもやめてください」


 中年男性はハハハと笑い、


「同棲してりゃ、大差ないぞ」

「戸籍では、まだ夫婦じゃないんです」

「結婚する気は、あったんだろ」

「ええ、まぁ」


 結婚という単語に彼女は照れ臭くて、煮え切り悪く言った。


「アイツは最後、どんな顔をしていたんだろうな」

「どんな顔とは?」


 いまいち意味を理解できず首を傾げる彼女に、彼と彼女の生徒時代の時を思い返し仏壇に視線を向けた中年男性は、


「いろんな顔をしていたなぁ、と思い出したんでね」


 と、記憶の中の彼をありありと思い浮かばしてそう述べた。

 彼女も合点がいくようで小さく頷き、


「そういう意味ですか。確かに、あの人はいろんな顔をしてましたね」

「お前たちが二年の時の体育祭、覚えてるか?」

「ええ、鮮やかなほどに」



 六年前、夏の暑さが抜けきっていない九月中旬での出来事だ。

 炎天下のグラウンドに、石灰の粉で引かれた即席のトラックを粗末な大型の四本脚のテント幾数かが囲んでいた。この日はこの高校の体育祭であった。

 体育祭最後の種目であるマラソン。学校周辺を男子は五キロ、女子は三キロを走りタイムを競い合う。

 このマラソンは、時間調整のため男子は女子より三分早くスタートする。学校周辺のコースで一周が約一キロで男子は五周、女子は三週走ることになる。

 彼女は女子ランナーの先頭を独走していた。

 後ろとの差は十秒程、それもどんどん差は広がっていく。

 それもそのはず、彼女は陸上部のエースだったのだ。

 ゴール間近、彼女は去年の体育祭よりも好タイムが出ることを確信した。

 その一瞬の油断が、仇となった。


「いたっ」


 ゴールラインを越えてホッとした次の一歩で、左足首を挫いてしまった。苦悶の顔で両手をつき座り込む。

 彼女の脇を男子生徒が何人も走り過ぎていくが、疲れて座っているだけだと見て、助け起こそうとする者はいない。


「だ、大丈夫か?」


 走り過ぎると思っていた男子生徒の一人が、膝をついている彼女に心配そうな声を掛けた。

 この生徒こそ、彼女の大好きな彼である。

 この時まだ彼女と彼は、時々話すクラスメイトぐらいの親密さのない関係であった。

 彼女は話し掛けてきた彼に作り笑いを見せて、


「心配しないでもいいよ。力尽くして、思わず座り込んじゃっただけだから」

「足、挫いたんだろ。とりあえず俺の肩掴まれ、そこにいると人とぶつかるから危ないぜ」


 そう気取りもなく彼は言って、彼女の傍に膝を畳んでしゃがむ。


「いいよ、一人で立てるから」


 彼女は彼に悪い気がして軽く断り、ズキズキ痛む足首で立ち上がろうとしたが、


「うぐっ」


 やはり痛みに堪えられず、虚しくも右脚の膝頭は地面に降りた。


「無理するな。俺みたいな影の薄い卑屈な奴なんかに運ばれるのは嫌だと思うけど、肩掴まれよ。本部まで送ってやるから」


 彼の瞳は真っ直ぐ彼女を捉えていて、心から心配している面持ちだ。

 その瞳を目の当たりにしてしまっては、断るのも躊躇われて彼女は弱く頷いた。

 彼の寄せてきた肩に掴まり、体を支えてもらいながら痛む足首で立ち上がり歩き出す。

 体を支えられながら本部まで行く間に、彼女は遅まきに彼の状況を思い出して、


「ねぇ、あなたまだ走ってる途中でしょ!」

「そうだよ」


 しれっと彼は答えた。


「あなた何考えてるの! 私のことなんかいいから……」

「ついたぞ、きちんと冷やしてもらえよ」


 彼女が血相を変えて彼に怒鳴るが、すでにテントを張って日陰になっている怪我人の手当てをするブルーシートまで来ていた。

 その傍で長テーブルに待機していた教師が、ブルーシートに慌てた様子で見に来た。

 この時見に来た教師が、彼女の住居を訪問しにきている中年男性である。


「どこを怪我したんだ。あちゃ、足首か」


 彼女が足首を押さえているのを見て即断し、クーラーボックスから氷袋を取り出して押し当てた。


「君がここまで運んで連れてきたのか?」


 中年男性は視線は彼女から移さず、隣で突っ立っている彼に問うた。


「後はお願いします先生」


 問いには答えず彼は後を頼むと、本部から走り去ろうとする。


「ちょっと、待て」


 引き留めた中年男性は、彼に視線を上げる。彼女も何故かしらせかせかしている彼を見つめている。

 彼女と中年男性はちょっとだけ彼の顔が、ほんのり赤らんでいることに気がついた。


「俺、急いでるので」


 顔を隠したい思いで彼は、それだけで息が切れ切れになってしまいそうな速さで走り去っていった。後ろ姿がマラソンの流れに交ざる。


「あいつ顔が赤かったけど、熱でもあるんじゃねぇか?」


 彼女の足首に氷袋を押し当てたまま、彼が走っていった方を向きながら中年男性が呟いた。


「ふふ、マラソンのせいじゃないんですか」


 彼女は洒々落々と微笑を漏らして言った。


「なんか、お前面白がってるな」

「ええ、ちょっとだけ」


 彼女の頬が微かに緩んだ。



 六年前の彼の赤い顔を思い出して、彼女は改めて疑問を感じていた。


「あの時、あの人は照れていたんですかね?」

「そうじゃなきゃ、あそこまでの親切しないだろ普通」

「でもあの人は根から優しいですから、私以外でも親切にしますよ」


 そんなもんなのかねぇ、解釈に困った口振りで仏壇の据えられたを再びちらと窺った。


「ああして、あいつの仏壇があるっていうことにまだ実感湧かねぇや」

「突然過ぎました」

「お前はあいつの死を悲しんでるんだよな?」


 中年男性が彼女の平然と浮かべた表情に、そんな疑問を投げ掛けた。

 彼女は質問の意味がわからず、母校の教師の中年男性と真顔で視線を交えただけで、誤魔化しも憤慨もしなかった。


「なんか、それほどには落ち込んでないように見えるんだが」

「落ち込んでますよ?」

「そう、その顔が落ち込んでいるように見えないんだ」

「先生は変なこと仰いますね。年のせいですか?」

「うるせぇ」


 四半世紀も多く生きている年上を、彼女は快い微笑でからかった。

 彼の前で悲しむ顔を見せないと決めたからです、という彼の死のすぐ後にした決意を表明せずに、彼女はそれを自分の心に伏せておくことにした。

 なぜなら彼女にとってその決意は、自分が彼を愛しているという、彼女だけの特別なものだったからだ。

















 

 







 






 































































 










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