scene:06 それでもわたしは、
城内のどよめきは、エリザの位置からでも痛いほど感じ取ることができた。
――公女エリザベートの首を、私の前に差し出したまえ。
騎士の言葉は、チェルノート城に避難してきた住民たちに深く浸透した。
その様子に満足したのか、上空の騎士たちは
そして、エリザへとチラリチラリと向けられる視線。
町の人間の瞳に宿る色は様々だが、好意的、同情的なものは一つとしてない。
それら多くの視線を前にして、エリザは拳を握りこんだ。
――わたしが、なんとかしないと。
「お、おひい様っ!」
駆け出したエリザを引き止めるミシェエラの声。
それを背後に置き去りにして、エリザは住民たちの前に立った。
そして声の限りに叫ぶ。
「なんとかします!!」
町人たちのざわめきが、さぁっと引いていく。
チェルノート城正門前広場に集まった600人余り。彼ら全ての瞳が、エリザへと向けられていた。
エリザはそれに対し、可能な限り自信たっぷりな笑顔を作ってみせる。
彼らの不安や恐怖は察して余りある。領主までもが不安な顔をしていては、領民の不安を
だから、と、エリザは
「わたしが、なんとかします。どうか安心してください。決して、あなた達の命を奪わせたりなどしません。だから――」
「どうやってだ?」
エリザを遮った声は、町人たちの中から聞こえた。
どこから発せられたものかは分からない。
だが、その言葉はハッキリと町人たちの脳内に滑り込む。途端、そこかしこから「そうだそうだ」「あんなの相手にどうするんだっ」「町だってめちゃくちゃになっちまったぞ!」「どうしてくれるんだ!?」と抗議の声があがり始めた。
そうなってしまっては、もうエリザにはどうしようもない。
いくらエリザが「皆さん落ち着いてください」と訴えても、降って湧いた命の危機に
むしろ、その矛先がエリザへと向けられるだけである。
「あんた帝国に
「いや、
「なるほど、どうりで……」
「税金を免除してたのは、後ろ暗いところがあったからなんだろ!? でなきゃ、貴族がそんなことするわけがねえ!」
「そうだ、そうに決まってる!」
思わず、エリザは口を挟んでしまう。
「そんな……、わたしは皆さんの助けになればと、」
「俺たちを助けたいなら、いま死んでくれよ!」
そんな声が、どこかから上がった。
途端、再び町人たちが口を閉ざす。チェルノート城正門前広場には静寂が戻り、霧のような雨が芝生を
彼らは一様にこちらを、エリザベートという少女を見つめている。
その視線に込められた
つまりそれは、わたしに――
「エリザ」
背後からかけられた声に、ビクリとして振り返る。
そこにいたのは
ナカムラ・マリナはエリザの肩に腕を回し、抱きかかえるようにして
「夜明けまではまだ時間がある。少し、ここを離れよう」
「…………はい、」
マリナの言葉に誘われるようにして、エリザは町人たちの前から離れる。
去り際にマリナは「それでは、シュヴァルツァー様。後を頼みます」「……あんた、未来予知でも使えるのか?」「まさか、経験豊富なだけですよ」と、シュヴァルツァーと言葉を交わしていた。
だが、エリザにはその意味を問う余裕すら無かった。
頭の中の整理がつかない。
エリザは
町の人たちが不安がっていると思ったのだ。
だから元気づけなくてはと思ったのだ。
わたしが何とかすると言えば、少しはマシになるだろうと思ったのだ。
別に感謝されたかったわけではない。
ただ、彼らの不安を取り除きたかっただけ。
――だが、返ってきた言葉は『死んでくれ』。
この町へ来て一年。
少しは彼らと打ち解けたと思っていたのだけれど。
背中に突き刺さる町人たちの視線は、エリザにとっては何より恐ろしい魔剣だった。
◆ ◆ ◆ ◆
紅茶の
応接間のソファへエリザを座らせたマリナは、途端にそう口にした。
薄暗いチェルノート城の応接間。
広い部屋を照らすのは僅かな
故にマリナは
マリナなりの気遣いなのだろうか。だとしたら、少し
だが、と。エリザは苦笑しながらマリナを諭す。
「……
「そうなのか?」
「空気、抜けちゃってますから。一回、沸騰した後のお湯で紅茶を
無論、それらを教えてくれたのはミシェエラだ。そのミシェエラは「コイツ等、おひい様になんて口を」と町人へ殴りかかろうとして、エンゲルスに抱きかかえられて
エリザの説明を聞いたマリナは肩をすくめ「なら仕方ねえな」と、ティーポットへ
「……マリナさん、あまり茶葉を無駄遣いしないでください」
「いいだろ? とりあえず何でも良いから水分取っとけ。気分転換だよ、気分転換」
どさりと対面のソファに座ったマリナは、ズゾーっと音を立てて熱い紅茶を
「で、どうする?」
カチャリ、と。
優雅さの
あまりに曖昧な質問。
しかし、意図を察せないほどエリザも
「……城を出ます」
「ほー、出てどうする?」
「炎槌騎士団の下へ。わたしから、領民への慈悲を願います。その隙に、みなさんには裏から森へ逃げてもらいましょう」
「エリザ。お前、死ぬぞ?」
「それで、町の人たちが助かるのなら」
「まだそんなこと言ってるのか?」
マリナは眉をひそめ、小馬鹿にするように笑った。
驚き、エリザはマリナの顔を見る。
そこに浮かぶのは嘲笑だった。
何かを思い出すかのように天井を見上げ、ナカムラ・マリナ笑みを浮かべている。誰を見下し、小馬鹿にし、
エリザか、町の人間か、それとも――世界全てか。
そんな考えが浮かぶほど、マリナの凶悪な笑みは悲しげだった。
「なあ、見ただろ?」
「……え?」
「あんたが守ろうとしてる町の人間たちの――頭の中身だよ」
途端、エリザの耳に『死んでくれよ』という声が
それを察したかのように、マリナはソファから身を乗り出してエリザの瞳を
「たしかに、あんたは良い領主だったんだろうさ。町の人間にとって」
「そう、でしょうか?」
それは保証する、とマリナは言った。昨日今日来たばかりの人間でも分かる程度には、町の人間はエリザベートという領主を慕っていたと。
だが、とマリナは
「あんたを慕ってたのは、自分たちに得があったからさ。他の連中と比べて自分たちが恵まれてるってのも大きい。見下せる相手がいるってのは心の安寧を保つからな」
マリナが言う『見下せる相手』とは、山を下った
「だが、それも今日でおしまいだ」
マリナは、小さく鼻で笑って宣言する。
「どんな得や利益も、死という極大の損に比べりゃ鼻くそみたいなもんだ。
あんたが一年かけて積み上げた信用も信頼も友情も親愛もなにもかも全部消し飛んじまった。
悪いのは公女エリザベートだ――街の人間はそう言うさ。
お前のせいで自分たちが死ぬなんて許せない、ってわけだ。
エリザが街の人間を助けても、あいつらは感謝しない。
――
マリナの言葉が、耳からエリザの脳を
割れた丸メガネの奥。
マリナはエリザの言葉を待たずに、答えを口にした。
「一度獲得した権利は、あって当たり前の権利だと考えるからさ。
自分が何かを間違えたとも、生きる努力をしなかった結果とも思わない。
自分たちが恵まれていたことも忘れて、あんたを責める。
俺たちの権利を奪うな、ってな。
……なあ、貴族ってのはそんな
その一言が、エリザの脳内に突き刺さる。
「……助けます」
「ほお?」
ようやく紡ぎ出した一言に、マリナは片眉をあげた。
「あんたの苦労を知らず、不幸なのは自分だけだと思ってる連中を助けるのか?」
「助けます」
「あんたが仮に死んだら連中はむしろアンタを罵倒するぜ? 俺たちに迷惑かけるだけかけて自分は勝手に死にやがったってな。それでもか?」
「助けます」
「貴族ってのはここまで小馬鹿にされても、民草を守るものなのか? そんな行為は貴いとは言わねえ。ただの道化だ。
――それでもか?」
「助けますっ!!」
今や、エリザは言葉の呪縛から解き放たれていた。
マリナの心を
「道化なら道化で構いません! 小馬鹿にされただけで民を守れなくなるのが貴族なら、わたしはもう貴族でなくてもいい。たとえ貴族でなくたって、わたしにそれが出来るのなら同じことをしますから」
「なぜだ?」
「わたしがそうしたいからです!」
止まらない。
エリザは心の内に抱えていた思いを吐き出すように叫ぶ。
「税を軽くしたのは〝わたし〟が苦しむ姿を見たくなかったから。
町の人が栽培する余裕の無かった野菜を安く売ったのは〝わたし〟が、彼らに食べて欲しかったから。
彼らを助けるのは〝わたし〟が彼らに生きていて欲しいからっ」
そこまで言葉にして、エリザはようやく気付く。
結局、父の信念に共感し尊敬していたのは
確かに父のことは好きだった。
だがそれは、
『王や貴族というものは、民草の幸せのために戦わねばならない。それが出来るから貴いのだ』
という信念に共感したからなのだ。
父を好きだったから信念を受け継いだのではなく、
信念に共感したから父を好きになったという順序ならば――
――エリザの中にも最初から、父の信念に似たものがあったことになる。
自身が知らないものに、人は、共感など覚えないのだから。
つまり――――
「わたしが、わたし個人が!
彼らが苦しむ姿を見るのが辛いから勝手に手助けしているだけ。
彼らの笑顔を見るのが好きだというだけ。
わたしはたとえ彼らが『不幸になりたい』と
言い終えると、途端に自身が肩で息をしていることに気づく。
どうやら自身の
見れば、対面のソファに座るマリナは顔を伏せ、その手を額に当てて身体を震わせている。頭を抱えるほど
だけど、それならそれで仕方がない。
エリザは、ようやく言葉にした自身の
どんな罵倒でも受け止めよう。
そうエリザは身構える。
だから、
マリナが身体を震わせながら笑い声をこぼし始めた時には、心底驚いた。
「く、くく、くはははははははははははははははははははは!」
天井を見上げ額を手で押さえたまま、マリナは高らかに笑い声をあげる。
そしてひとしきり笑い終えると、エリザへと満面の笑みを浮かべて言った。
「エリザ、オレはやっぱりあんたが大好きだっ!!」
「……は? え、」
あまりに予想外の言葉に、エリザの思考は漂白されてしまう。
意味が分からない。先ほどまで小馬鹿にするような嘲笑を顔に貼り付けていたマリナはそこにはいない。子供のように無邪気な笑みで、エリザを見据えている。一体何が言いたいのだろうか、この
「あんたがそんな人間だから、オレはあの爆発を生き残れたし、これから騎士を倒すこともできるんだからなっ」
「マリナさん、あなた何を言って――、」
「何をって……オレの見立ては間違ってなかったって事をさ!」
マリナも立ち上がって、エリザの両肩をテーブル越しに
割れたメガネの下に満面の笑みを浮かべて、それを口にした。
「オレは、あんたみたいな気狂いを探してたんだ!!」
アンタみたいなキチガイを待ってたんだよ、オレはっ」
――――は?
エリザはマリナの言うことが何一つ理解できなかった。
いや、一つ一つの単語の意味ならば分かる。だがそこに含まれる意図がさっぱり読み取れないのだ。大好きだと言ったり、生き残れたのはわたしのお陰と言ったり、挙げ句には『気狂い』呼ばわり。喜べば良いのか、怒れば良いのかサッパリだ。
だが、マリナは構わず続ける。
エリザベートという少女がどんな『気狂い』なのかを突きつける。
「エリザがしてるのは、人を幸せにする
だから幾ら罵倒されても、死ねと言われても、それを止めようとしない。
そらそうさ。
エリザは民草と仲良くなりたいんじゃねえ。――民草を幸せにしたいんだもんな。
だから民草がこちらをどう思っていようがそんなの知ったこっちゃない。
だってそんなのは
そんな事で
そこまで言われても、エリザにはマリナが喜ぶ理由がわからなかった。
だが、腑に落ちる部分もある。
――仲良くなりたいのではなく、幸せにしたいだけ。
確かに、町の人間に罵倒され『お前が死ね』と言われてショックだった。
だが別に、裏切られたとは思わなかったのだ。
わたしは失敗してしまったのかという、自分自身への失望があっただけ。彼らと打ち解けることで、その望みを知り、適切な対処をできていたという自負が打ち砕かれたことが衝撃的だったのだ。
言い換えればそれは、町の人間にどう思われていても良いということ。
そこには確かに、エリザからの一方的な
マリナの物言いは乱暴だが、ある意味、エリザベートという人間の本質を見抜いたものなのかもしれない。
だが。
納得できる部分があるからといって、遊びに
肩に置かれたマリナの手を振り払い、不快感を
「……それで? マリナさんはそんな気狂いにどうして欲しいんですか?
人の中身を
わたしは
「
叫び倒して少しは落ち着いたのかマリナは、ドサリとソファに腰を落とす。
それから再び、あの嘲笑にも似た笑みを浮かべて話し始めた。
「周りがそうしてるから、それが正しい事だから、そうしなければ非国民だから――そういう常識だの正義だの哲学だの
オレをこき使っていた連中はそんな
「だがアンタは違う。単に自分の欲望だけで行動してる。しかも他者へ押しつけるどころか、共感も、理解すらも求めてない。純粋な欲望の塊。つまり機械じゃねえ――人間だ」
エリザベート・ドラクリア・バラスタインは人間だと、既に一度死んで人間の模造品に魂を定着させられた
「俺は人間に仕えて、ソイツの
言うなればオレは“エリザが望みを
「……不愉快ですね、それ」
「構わねえぜ? オレはエリザが望みを
――エリザが民草に罵倒されようとも、その幸せを願うのと一緒だ。
エリザが多くの民草の幸せを願うように、オレは、あんた一人の幸せを願っているってだけの話だよ」
言いたいことは全て伝えたとばかりに、マリナは両腕を広げて肩をすくめる。
あとはただ、エリザを見上げて瞳を
だがそれは、エリザの承諾を待っているわけではない。
エリザが承諾しようと拒否しようと、ナカムラ・マリナという
ただ純粋に、相手の幸せを願っているだけなのだから。
ならば――――、
「わかりました。では、わたしの
わたしが
さっき、マリナさんは言いましたね? 騎士を倒せる、と」
「ああ、もちろんだ」
ボロボロの
「オレたちの
【第3話へつづく】
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