第 話
それは、不意に目を覚ました。
上体を伏せたまま辺りを見回し、そこが確かに見慣れた室内であることに安堵して、知らず知らずの内に詰めていた息を吐き出す。
体を持ち上げてぐっと背骨を伸ばせばそこから鈍い音がして、どうやら随分と寝こけていたらしいと気が付いて少し苦笑した。
溜め息と共に上げた腕を下ろし、ぼんやりとする頭を一度だけ振る。
しかしそれだけでは靄は晴れず、また溢れそうになった溜め息を
伏せていた机の上には、ハードカバーの本がある。
毎度枕にしているのだけれども、これは果たして何度目だったろうと、大して思い返すつもりもないまま、それはつぶやいた。
そうして、そのつるりとした表面をなぞる。
印刷してあるのは『
本棚に同じシリーズの本が並んでいるのが、何の気なしにそちらへと向けられた黒い瞳へ映り込んだ。
『解読~
大人気を誇る、とまではいかなくとも、細々と続くそのシリーズは、これまでに五年を掛けて本編として四冊、サイドストーリーとして一冊刊行されている。
『語部の瑕疵』は、三年前に発売されたそのサイドストーリーだった。
主人公となるのは、名前を組み合わせると四字熟語になるからといつも
至極真っ当で穏やかに――事なかれ主義で生きる
それはそのシリーズが好きで、特にそのサイドストーリーが大好きだった。
――いや、愛していた。
その本に登場するとあるキャラクターを妬み、自分が取って代わってやろうと想像を膨らませてしまうくらいには、愛していた。
妬んだのは、
学校にも家にも居場所がない、そんな自らと同じ思いを持ち、偶然にもそれと同じ名前を持つキャラクター。
いつからか、自らを重ね合わせていた。
それは、自分にとある能力が備わっていることを知っている。
能力と言っても、例えば
夢を好きに操る力――つまりは、明晰夢を見る事が出来るのだ。
特に訓練したわけではなく、いつからか自然と出来るようになっていたことだから、才能と呼んでも良いのじゃないかと思っている。
ともかくにも、それは、明晰夢を使って愛する
日常風景でなくサイドストーリーを舞台に選んだのは、
何故だか最初は上手く行かなかったけれども続ける度に
『
いつものように授業を終えた、そこから。
戻った職員室で仕事をしている内に、どこか見覚えのない教室らしきところで目を覚まして――けれども本当ならあの場所にそれは、
ドクは初めの頃ずっと、遠くから
全ての戸を開き、全ての窓を開き、全てに触れて、そこがどこであるのかを考察し記憶を探す場面を、何度も見ていた。
最終的にあの狭間と称した空間から助け出すのは
ドクは自らの存在でもってほんのわずかずつ、雨垂れが石を穿つように浸食していったのだ。
それにしても、とドクは小さく溢す。
何年も何度もあの夢を見て、自分の良いように話を変えてきたけれども、あんなことになったのは初めてだった。
全てが思い通りになると
あの場面を見るのはやはりいつでも、嫌だった。
それでもいつもなら、四階の廊下から落ちるところを見ていたから、ドクはどこか他人事でいられたのだ。
上の階から回ったのも初めてだったし、問い掛けも妙に多かったように思う。
こんな風に自分は、いっちゃんと色々話したかったらしい――そう思えばついおかしくなって、何度か笑ってしまった。
考えたのはただそれだけで、ドクは四枚目から逆回りに集めることに何の疑問も持たなかったのだ。
「次はやっぱり下から集めよう」
ドクはひとりごちる。
自分の死体なんかもう見たくない。
いつからドクだったのかなんて問い詰められるのも嫌。
ただ一緒にいられることが嬉しく、縋るように握られる手が欲しかっただけなのだ。
同じように愛してくれたら――そう思わないでもないけれども、それが無理な話であることは重々理解している。
これはあくまでも夢なのだからと、夢と現実を一くくりにしない為にも、途中からドクと名乗ることにした。
ドクは、自らの、そしてあのキャラクターの名前でもある読子の
『……なぁ、ドクは、後書きなんかは読まないタイプだろう』
ドクがそんな
その時の
あんなことを夢の中の
確かに、とドクは思う。
最近は夢を見ることばかりを優先して、読むとしても、
後書きどころか、冒頭しかページを捲っていない。
本は読まれる為に存在するのであって、読まれない本の存在は神仏への冒涜に等しい――本編中の
『人は、薄氷の上に生きている。
何でもない顔をして踏みつけるそれは脆く、いつ崩れてしまってもおかしくないというのに、しかし誰も、顧みることをしない。
割れないと信じているのだろうか。
それとも、薄氷の上にいることすら気付いていないのだろうか。』
この冒頭を何度読んだことだろう。
本を買ったときには
ドクは、自分が薄氷の上に立っていることを想像する。
ふとした瞬間に踏み抜いて、冷たい水底へ沈む――そんな様が浮かんで、思わず身震いした。
結局、最後までこの冒頭の文言の意味は明かされないのだけれども、もしかすると、自分が読んでいない後書きにでも書かれているのだろうか。
改めて読み直そう。
そうして、これを読み終えたら、他の本もきちんと初めから終わりまでを読もうと心に決めた。
とはいえドクは基本的に、本をひたすら消化していくタイプであって、愛着を持って保存しているのはこの
今度からはきちんと読むことにしようと独りうなずいては、また文面へと視線を落とす。
階段を下りる途中に掛けられた声に妙な反応をして、その生徒と別れた。
とはいえ、文字通り旧。
昔の、という意味であって、実際にはもう存在していない。
本来なら残されるはずだったのだけれども、あの事件があってから、取り壊されることとなったようだと後に
読子の死後、勿論問題にはなったけれども、結局は学校側の責任はなかったとして片付けられ、無事、他の高校と統合されて違う名前となったその高校。
事件の記憶がある両親は良い顔をせず、それでも理由の説明など出来ないし拒否権などあるはずもない。
そして幸いというべきなのか、両親が懸念しただろう事件への想起は起こらなかった――その時までは。
女子生徒が発した旧校舎という単語、赤い日。
それらが最終的な引き金となって
ゆっくりと目を閉じて、夢の中で感じた手のひらの温もりを思い出す。
初恋の相手が私で、幼い約束の相手が私で、
そんな都合の良いことを夢見て、夢を見る。
けれども今はまた、悪夢になってしまいそうだった。
それならば。
最後まで読むと決めたのだからと、ドクは目蓋を持ち上げた。
ページを捲る。
狭間の世界――ドクがそう称したのは、
勿論、
そう考えながら文字を追い掛ければ、
やがて全てを集め終え、それが自分の記憶だと悟って、嘆、き――?
「なん、で……え、嘘、でしょ」
ドクの背筋に、生温い汗が滑り落ちた。
本を押さえる指先が微かに震えていることに、ドク自身は気付かない。
「こんな、話、じゃ……」
知らず、唇が
四階から落下した二人を、吹き抜けを挟んだ向かい側から見た
けれどもどうだろう。
一階まで仄赤い階段を下って右手に二回折れる。
ドクの心臓は、恐怖に戦いているようだった。
痛みを感じるほどに激しく脈打ち、しかし末端までは血液が流れていかずに胴体ばかりが熱を持っている。
それでも、指はページを捲り、目は文章を追う。
そこにドク自身の意思は介在する余地はなく――いや、まるきり不要であるとでもいうかのように、心を置き去りにして身体は先へ先へと急いていた。
ドクは短く浅い呼吸を繰り返す。
自らの呼吸と脈動ばかりが響いて、その他の音が遠退いていくようだと思った。
そして、そっと、頬に触れ――
「もう悪夢は終わりにしよう」
――そう、耳元で囁いた。
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