第 話

 は、不意に目を覚ました。

 上体を伏せたまま辺りを見回し、そこが確かに見慣れた室内であることに安堵して、知らず知らずの内に詰めていた息を吐き出す。

 体を持ち上げてぐっと背骨を伸ばせばそこから鈍い音がして、どうやら随分と寝こけていたらしいと気が付いて少し苦笑した。

 溜め息と共に上げた腕を下ろし、ぼんやりとする頭を一度だけ振る。

 しかしそれだけでは靄は晴れず、また溢れそうになった溜め息をすんでのところで飲み込んだ。


 伏せていた机の上には、ハードカバーの本がある。

 毎度枕にしているのだけれども、これは果たして何度目だったろうと、大して思い返すつもりもないまま、それはつぶやいた。

 そうして、そのつるりとした表面をなぞる。


 印刷してあるのは『解読ディサイファ』というタイトルで、副題には『語部かたりべ瑕疵かし』とある。

 本棚に同じシリーズの本が並んでいるのが、何の気なしにそちらへと向けられた黒い瞳へ映り込んだ。

『解読~繙多はんだ真実さだざねの書棚』から始まるそのシリーズは、人々の記憶をひもとく力を持つ繙多はんだ真実さだざねと言う神経質の嫌いがある男が、方々の依頼を受けて事件を解決していくホラー要素ありのミステリ小説だ。

 大人気を誇る、とまではいかなくとも、細々と続くそのシリーズは、これまでに五年を掛けて本編として四冊、サイドストーリーとして一冊刊行されている。

 『語部の瑕疵』は、三年前に発売されたそのサイドストーリーだった。


 主人公となるのは、名前を組み合わせると四字熟語になるからといつも繙多はんだとワンセットにされてしまう、他称で折衝せっしょう、自称は緩衝材である解読シリーズでの語部ワトスン役

 至極真っ当で穏やかに――事なかれ主義で生きる語部かたりべ一路いちろが本編中に見せる、時折の虚無感の源流が何であるのか、そこをひもとく話になっている。

 はそのシリーズが好きで、特にそのサイドストーリーが大好きだった。

 繙多はんだも、繙多はんだに依頼を持ち込む一人である渡会わたらい刑事も勿論好きだけれども、何より語部かたりべが一等好きだった。


 ――いや、愛していた。


 その本に登場するとあるキャラクターを妬み、自分が取って代わってやろうと想像を膨らませてしまうくらいには、愛していた。

 妬んだのは、語部かたりべの持つ苦手意識の原因であり、虚無感の源流そのものである。

 学校にも家にも居場所がない、そんな自らと同じ思いを持ち、偶然にもと同じ名前を持つキャラクター。

 いつからか、自らを重ね合わせていた。


 は、自分にとある能力が備わっていることを知っている。

 能力と言っても、例えば繙多はんだのように、他人の記憶を覗いてひもといていくなんて、超常現象に属するようなものではない。

 夢を好きに操る力――つまりは、明晰夢を見る事が出来るのだ。

 特に訓練したわけではなく、いつからか自然と出来るようになっていたことだから、才能と呼んでも良いのじゃないかと思っている。


 ともかくにも、は、明晰夢を使って愛する語部かたりべに会うことにした。

 日常風景でなくサイドストーリーを舞台に選んだのは、語部かたりべが自らだけを欲する状況を求めてのことだ。

 何故だか最初は上手く行かなかったけれども続ける度に語部かたりべとの距離が狭まり、ついには自然と手を繋げるようにまでなったところだった。


 『語部かたりべの瑕疵』は、語部かたりべの普段の生活から始まる。

 いつものようにを終えた、そこから。

 戻った職員室で仕事をしている内に、どこか見覚えのない教室らしきところで目を覚まして――けれども本当ならあの場所には、ドク見知らぬ少女は存在しない。

 ドクは初めの頃ずっと、遠くから語部一路いっちゃんというキャラクターを見つめていた。

 全ての戸を開き、全ての窓を開き、全てに触れて、そこがどこであるのかを考察し記憶を探す場面を、何度も見ていた。

 最終的にあの狭間と称した空間から助け出すのは繙多はんだの仕事で、自分の抜けた記憶を取り戻し嘆き苦しむ語部かたりべを立ち直らせる場面で、あのサイドストーリーは締めくくられる。


 ドクは自らの存在でもってほんのわずかずつ、雨垂れが石を穿つように浸食していったのだ。

 それにしても、とドクは小さく溢す。

 何年も何度もあの夢を見て、自分の良いように話を変えてきたけれども、になったのは初めてだった。

 全てが思い通りになると語部かたりべに向けて宣言したばかりだったというのに、まさか――来繰くくり読子が、死んでしまうなんて。


 あの場面を見るのはやはりいつでも、嫌だった。

 それでもいつもなら、四階の廊下から落ちるところを見ていたから、ドクはどこか他人事でいられたのだ。

 上の階から回ったのも初めてだったし、問い掛けも妙に多かったように思う。

 こんな風に自分は、いっちゃんと色々話したかったらしい――そう思えばついおかしくなって、何度か笑ってしまった。

 考えたのはただそれだけで、ドクは四枚目から逆回りに集めることに何の疑問も持たなかったのだ。


「次はやっぱり下から集めよう」


 ドクはひとりごちる。

 自分の死体なんかもう見たくない。

 いつからドクだったのかなんて問い詰められるのも嫌。

 ただ一緒にいられることが嬉しく、縋るように握られる手が欲しかっただけなのだ。

 同じように愛してくれたら――そう思わないでもないけれども、それが無理な話であることは重々理解している。

 これはあくまでも夢なのだからと、夢と現実を一くくりにしない為にも、途中からドクと名乗ることにした。

ドクは、自らの、そしてあのキャラクターの名前でもある読子のドクで、読者のドクだった。




 『……なぁ、ドクは、後書きなんかは読まないタイプだろう』


 ドクがそんな語部一路いっちゃんの言葉を思い出したのは、ただ偶然のことだ。

 その時の語部かたりべの様子を思い浮かべながら、くたりと机に上体を倒す。

 あんなことを夢の中の語部かたりべに語らせたのは、自分自身でそんな自覚があるということなのだろうか。

 確かに、とドクは思う。

 最近は夢を見ることばかりを優先して、読むとしても、語部かたりべが自らの記憶の中の世界に落ちるまでしか読んでいないのだ。

 後書きどころか、冒頭しかページを捲っていない。

 本は読まれる為に存在するのであって、読まれない本の存在は神仏への冒涜に等しい――本編中の繙多はんだの台詞を思い返しながら身体を起こすと、そっと表紙を捲った。


『人は、薄氷の上に生きている。

 何でもない顔をして踏みつけるそれは脆く、いつ崩れてしまってもおかしくないというのに、しかし誰も、顧みることをしない。

 割れないと信じているのだろうか。

 それとも、薄氷の上にいることすら気付いていないのだろうか。』


 この冒頭を何度読んだことだろう。

 本を買ったときには語部かたりべにあんな過去があるとは思わなかったから何とも思わなかったけれども、改めて頭から読み返せば少しだけ歪まされた心がうかがい知れるようだった。


 ドクは、自分が薄氷の上に立っていることを想像する。

 ふとした瞬間に踏み抜いて、冷たい水底へ沈む――そんな様が浮かんで、思わず身震いした。

 結局、最後までこの冒頭の文言の意味は明かされないのだけれども、もしかすると、自分が読んでいない後書きにでも書かれているのだろうか。

 改めて読み直そう。

 そうして、これを読み終えたら、他の本もきちんと初めから終わりまでを読もうと心に決めた。

 とはいえドクは基本的に、本をひたすら消化していくタイプであって、愛着を持って保存しているのはこの解読ディサイファシリーズだけだ。

 今度からはきちんと読むことにしようと独りうなずいては、また文面へと視線を落とす。


 語部かたりべは授業を終え、職員室へと向かう。

 階段を下りる途中に掛けられた声に妙な反応をして、その生徒と別れた。

 語部かたりべが反応した旧校舎とは、あのキャラクター、来繰くくり読子が自殺したあの校舎のことだ。

 とはいえ、文字通り旧。

 昔の、という意味であって、実際にはもう存在していない。

 本来なら残されるはずだったのだけれども、あの事件があってから、取り壊されることとなったようだと後に語部かたりべは語っている。


 語部かたりべは記憶に蓋をしていて、それでも『おねえちゃん』に宣言した通り教師となった。

 読子の死後、勿論問題にはなったけれども、結局は学校側の責任はなかったとして片付けられ、無事、他の高校と統合されて違う名前となったその高校。

 語部かたりべはそうとは知らずに――知っていても、覚えていないのだから、何も思うはずもない――赴任した。

 事件の記憶がある両親は良い顔をせず、それでも理由の説明など出来ないし拒否権などあるはずもない。

 そして幸いというべきなのか、両親が懸念しただろう事件への想起は起こらなかった――その時までは。


 女子生徒が発した旧校舎という単語、赤い日。

 それらが最終的な引き金となって語部かたりべの記憶を揺さぶり、あの出来事に繋がったのだ。


 ゆっくりと目を閉じて、夢の中で感じた手のひらの温もりを思い出す。

 語部いっちゃんの記憶をドクで塗り潰してしまえたら。

 初恋の相手が私で、幼い約束の相手が私で、心の傷瑕疵の原因すら私で――そして共に在れるのが私であったなら。

 そんな都合の良いことを夢見て、夢を見る。


 けれども今はまた、悪夢になってしまいそうだった。

 それならば。

 最後まで読むと決めたのだからと、ドクは目蓋を持ち上げた。

 ページを捲る。


 語部かたりべは職員室で仕事をして、あの声を聞き、そして記憶の中の世界へと迷い込む。

 狭間の世界――ドクがそう称したのは、語部かたりべにとってというよりも、ドクにとってあの場所が夢と現実の狭間であるからという意味合いが強い。

 勿論、語部かたりべにとっても狭間ではあるのだけれども。

 そう考えながら文字を追い掛ければ、語部かたりべは一人きり、見知らぬ校舎を巡り記憶の欠片を集めていく。


 やがて全てを集め終え、それが自分の記憶だと悟って、嘆、き――?


「なん、で……え、嘘、でしょ」


 ドクの背筋に、生温い汗が滑り落ちた。

 本を押さえる指先が微かに震えていることに、ドク自身は気付かない。


「こんな、話、じゃ……」


 知らず、唇が戦慄わなないた。

 四階から落下した二人を、吹き抜けを挟んだ向かい側から見た語部かたりべは、繙多はんだがやって来るまでそこにうずくまり、読子との出来事を思い返す――ドクが最初読んだときまでは、少なくともそうだった。

 けれどもどうだろう。

 語部かたりべは、歩き始めていた。

 一階まで仄赤い階段を下って右手に二回折れる。


 ドクの心臓は、恐怖に戦いているようだった。

 痛みを感じるほどに激しく脈打ち、しかし末端までは血液が流れていかずに胴体ばかりが熱を持っている。

 それでも、指はページを捲り、目は文章を追う。

 そこにドク自身の意思は介在する余地はなく――いや、まるきり不要であるとでもいうかのように、心を置き去りにして身体は先へ先へと急いていた。

 語部かたりべは確かな足取りで廊下を進み、そこへと通じる扉の前に立つ。

 ドクは短く浅い呼吸を繰り返す。

 自らの呼吸と脈動ばかりが響いて、その他の音が遠退いていくようだと思った。

 語部かたりべは殊更ゆっくりと、自らの存在を秘すかのように扉を開き、その影へと近付いていく。


 そして、そっと、頬に触れ――


「もう悪夢は終わりにしよう」


 ――そう、耳元で囁いた。

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