第五話〜1

 絡む指に違和感を持たなくなったのは、いつだろうか。

 最初から?

 いや、そうではない――そんな意味のない自問自答をしながら、俺はドクに手を引かれていた。


 ドクは俺をわずかにも振り返ることなく、ただ一心に三階の廊下を進んでいる。

 そして無言のまま、階段を下りた。

 目覚めて最初に降りた側の階段だ。

 彼女の足取りは決して軽くなどないのに、それでも歩みを止めることはない。

 一体何を急いでいるのか――不意に浮かんだ疑問は、あのとき聞いた声を思い出させた。


『ねぇ、追いかけっこしよう』


 もしあれを言ったのがドクならば、俺はもうとっくに囚われてしまっている。

 けれどももし、ドクでないとすれば。

 俺達のどちらか一方、もしくは二人ともが、声の主に追われているということなのか。


 ――いや、それにしては。


 ふるりと頭を振って、思考を振り払う。

 いずれにせよ俺は、ただただ手を引かれながら歩いて、差し出される紙切れを受け取って、白衣のポケットへと突っ込む、それしか出来ない。

 昔から論理的に考えるのは苦手なのだ。

 いや。

 俺はきっと、多分、恐らく――そうすることを無駄だと思い込んでいる。

 残念ながらこれだって自分で考えてその結論に至ったわけではなく、くだんの神経質な友人に言われて、そうなのかと思っているだけだ。


 お前は大人らしい顔をして世の中を上手く渡っているようでいて、その実、精神は学校の机の中に忘れてきている、とはその友人の談だ。

 子供染みた癇癪を、諦観で覆い隠し、日々殺しながら生きているのだとも。

 いくら言われようとも、俺自身にそんな覚えはとんとない。

 むしろ、そんなことを言うアイツは、昔から大人の顔をして大人のように生きているように思える。

 ただ、俺とアイツには明確で、そしてあまりに決定的な違いがあった。

 俺が消極的ニヒリズムで生きている人間だとすれば、アイツは間違いなく、鷲の勇気と蛇の知恵を持ち合わせた人間なのだ。


「なぁ、ドク」

「なんだい、いっちゃん」


 古い映画のようにわざとらしく呼び掛ければ、同じような声が返ってくる。

 何故だか俺は、そのことに一抹の安堵を感じていた。

 同時に、そんな自分に戸惑って黙り込む。

 ドクは言葉が続かなくとも気にならないようで、二階の赤く仄暗いままの廊下をひたすらに進んだ。


 目的地は分からない。

 けれども進んだ先、そこにあるのは間違いなくあの紙切れだ。


 ドクのお下げ髪が揺れている。

 黒いセーラー服が、衣擦れの音を微かに立てる。

 その後ろ姿がまた一瞬だけ静止画に見えて、強い目眩が俺を襲った。

 まただ。

 一体俺は、何度デジャヴを感じればいいのか。


 咄嗟に視界を閉ざせば、その分だけ他の感覚が鋭敏になる。

 働きすぎる聴覚に、二人分の生きた音だけが届いた。

 ドクの右手は冷たく、俺の左手も凍えている。

 右手の感覚は、もうない。


「……なぁ、ドクは、後書きなんかは読まないタイプだろう」


 俺が唐突につぶやいたその声に、ぴくり、と繋いだ手が震えた。

 ドクはそれを、まるで気付かれていないとでも思っているのか、どこか楽しげな様子で首を傾げてみせる。


「なんだい急に。いっちゃんはA型だと記憶していたのだけれどね」


 何故知っている、なんて問いは、ドクがドクであるが故に今更だ。

 彼女の小さな背中を見ながら、彼女に対する一切の疑問を投げ捨てる。

 ドクは笑った。

 何がおかしいのか、俺には分からない。


「まぁ、そうだね、言われてみればそうなのかな」


 俺の手の甲を撫でる、絡められた指。

 どうしてそう思ったんだい、なんて、吐息混じりの声で囁くドクは、赤い仄明かりに照され、どこか少女らしからぬ淫靡さを漂わせる。

 ああ、いやに静かだ。

 内臓を皮一枚の所で擽られるような、そんな妙に落ち着かない心地になる。


「これまで見てきて、そうだろうなと。移り気で、興味のない事柄には全く見向きもしない」

「失礼だなぁ、いっちゃん。確かに興味がないなら勿論、一切の興味はないけれどね。それを差し引いても私はとても一途だよ。一途過ぎて困ってしまうくらいに一途さ」


 指を絡め繋がれた左手が、苦し気に脈打った。

 ドクのものとは思えないあまりにも強い力がそうさせるのか、単に俺が怯えただけなのかは分からない。

 ただ、確かに俺の心臓は鳴っていた。


「さてと」


 そうつぶやいたドクは、廊下の突き当たりまで来たところで立ち止まった。

 目の前には引き戸があり、室名札には漢字のようでそうでない滅茶苦茶な何かが三つ並んでいる。

 文字なのだろうけれども――ゲシュタルト崩壊でも起こしてしまったかのようで、俺には全く理解出来ない。


「ここはあまり好きじゃあないのだけれどね、仕方がない」


 室名札を眺めたままの俺は、そんなつぶやきを聞きながら手を引かれて、室内へと足を踏み入れた。

 視界を鴨居が遮ってから、ようやく進行方向へと目を向ける。


「ここは……」


 感じたデジャヴは、今までとは違い、単に俺が高校の教員であるからだろう。

 事務机がずらりと並ぶさまは、俺がここで目を覚ます前に見ていた光景に良く似通っていた。


「職員室、か」


 ただ、やはり何も置かれていないけれども。

 ドクが足を止める。

 見下ろした斜め後ろからの視界では、どうしても彼女の表情はうかがえない。


「ああ、そうだろうね、恐らく」

「……恐らく?」


 珍しく曖昧な物言いのドクに、思わずつぶやいた。

 聞こえているのか、いないのか。

 分からないけれどもそれをドクが拾うことはなく、ただ黙したままで足を踏み出した。

 引き摺られるようにしてを歩いている今なら、恐らくは目をつぶってでも自席へたどり着けるだろうと思う――勿論、そんな馬鹿なことはやらないけれども。

 通路として開けられた事務机の隙間を縫い、ゆっくり歩く。

 ぼんやりと眺めた二面ある窓の外は赤く、作り上げられた影と強烈な程のコントラストを生み出している。


「さてさて、どうして君は教師になろうと思ったんだい、聞かせてくれるかな語部一路くん」


 唐突なドクの質問に、俺は目をしばたたかせた。

 フルネームで呼ばれるのは、落ち着かない。

 急に面接でも始まったのかと冗談だろうという思いと、ドクであるのに理由が分からないのかという疑問が湧き上がる。

 そして何より、ここで急に訊ねる意図が分からなかった。


 答えない俺に焦れたのか、ドクが振り向く。

 黒い目に、連なる四角形の赤が映っている。

 じっと見つめられ、何故だか急速に恐ろしくなった。

 本当に、答えを聞きたいと思っているのだろうか。

 何を求められているのかが、分からない。

 そんな戸惑いが、真っ黒いドクの瞳に自分が映り込むことを無性に恐ろしくさせる。

 内臓が宙に浮いているような頼りなさが、回答を躊躇わせた。


「……どうして、そんなことを訊くんだ」


 絞り出すようにして声を発した俺を、ドクは然して気にするでもなく、にんまりと笑ってみせた。

 何がおかしいのか知らないけれども、弧を描く唇は楽しげな音を紡ぎ出す。


「ふふ、これはね、お決まりの台詞なのさ。ここではそう訊く。そういうものなのだよ」

「……そういうものか」

「ああ、そうだとも」


 眉を寄せる俺に、ドクは何の臆面もなくうなずいた。

 理解も納得も出来やしなかったけれども、訊いたところで無駄なのだと――俺はただそういうものなのだと、自分に言い聞かせる。


 そもそも、教師を志したキッカケなんて別に隠し立てするようなことでもないのだ。

 極々ありきたりな、それでいて無気力なものでしかないのだから。


「……親が教師だった。だから、親が、俺も教師になることを期待していた。俺には大した夢がなかったから、それに応えた。ただそれだけだ」


 家業というわけでもなく、同じ道を選ぶ必要は別にないけれども、小さい頃から自分は教師になるのだと思っていた。

 なるにしてもどうやら親達は小学校教諭にしたかったらしかったけれども、しかし、俺が取得したのは高校の教員免許。

 俺が今の高校に勤めることになったときも未だ不満があったのか、随分と複雑そうな顔をしていた。


 とにかくそれ以外に、然したる理由はない。

 夢も希望もあったものではないけれども、それが俺にとっての現実だった。

 そう、現実なのだ。

 ゆっくりとひとつ、まばたきをする。


「そう、まぁ、いいのだけれどね」


 奇妙な物言いをしたドクは、また俺に背を向けて歩き出した。

 出入り口とは対角に位置する窓が、俺の視線の先にはある。

 けれどもドクはそこまで辿り着かない内、部屋の丁度真ん中、赤と黒が半分ずつのところで足を止めた。


 ドクの黒い後ろ姿が、赤に塗れている。

 これまで散々みてきたはずの、その光景。

 だというのに、今更ながらに見ているのが無性に嫌で、反射的に手を伸ばそうとする。

 けれど、しかし、俺には出来なかった。

 左手は繋がれているし、右手は上手く動かない。

 静止画を見ているように――いや、俺が静止画であるように動きを止め、かける言葉も見付からずに茫然と赤を眺める。


「これと……あと一枚」


 いつの間に拾い上げたのだろうか。

 お下げ髪を揺らして振り向いたドクの手には、あの紙切れが持たれていた。

 頬が赤く照っていて、瞳は急に冷めた色を宿す。

 そこにあるのはどんな感情なのか。

 考えることはせずに、目をしばたたく。


 俺は何も言わないまま、紙切れを受け取って右のポケットへと押し込んだ。

 混ざりあったそれらと――そして、言葉通りなら、あとの一枚が中庭に。

 あれを回収すれば、終わりなのだ。

 この赤と黒が支配する場所から、自分の場所へ帰ることが出来る。


 ――そのはずだ。


 そう思って、そう信じて。

 俺はきびすを返したけれども、ドクはそこで立ち尽くしたままだった。

 く、と手を引かれ、俺は反動でのめるようにして足を止める。


 ――今更、何を躊躇うことがある。


 自分でも判別のつかない、どこか濁った感情のままドクを振り返ってみても、彼女はうつむいていて、表情はうかがえなかった。

 ただ、赤く染まっているだけだ。


「……本当に行くのかい、いっちゃん」


 一拍、二拍、間を置いてからの、静かなつぶやき。

 俺はゆっくりと目をしばたたく。

 その問いはまるで、最後通牒のようだ。

 カラカラに乾いた唇を、舌でなぞる。

 落ち着いた声で答えなければ。

 努めてわずかずつ空気を吸い込む。


「……何を、今更。ここから抜け出さなくてはいけないと言ったのはドクだろう」


 言った途端、繋いだ手がびくりと震えた。

 握り締めた手が脈打っている。


「そう――そうだね。そうだった」


 うつむいたままつぶやいたドクは、引き摺るようにして足を踏み出した。

 赤い逆光。

 追い抜く為に擦れ違う、その瞬間にも表情はうかがえない。

 けれども何か、ドクの意識のベクトルは、どこか違う場所へと向いているように思えた。

 俺はまた結局、手を引かれて歩き出す。

 何故だろう、一定に鳴り続ける心臓が急に萎れてしまったような心地になる。

 窓の外の赤に目がくらんで、俺は前を行くドクのようにじっとうつむいた。

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