第28話 三十二パーセントの正義
私が講義を終えて一礼すると、会場は拍手につつまれた。
紺のブレザーを着た岡田君が、巨体をゆすらせて舞台に登場した。
「それでは、質疑応答に移らせてもらいます。」
おー、手がいっぱい上がってるぞ。
そこの眼鏡の女の子、行って見ようか。
「興味深いお話、ありがとうございます。文学部日本史学科の今田と申します。今日は歴史の話だと思って来たんですが、社会や経済、文化とかいろいろな話が出てきたのが面白かったです。それでー、先生は、歴史をお考えになるとき、何をポイントにしていらっしゃるんですか?」
えー、何といえばいいいか、そうですね渾身の力で考え抜くというのがポイントです。分からなければ本で調べますし。そうやってるうちに、変なものと変なものがつながっちゃうんですよ。
「分かりました、わたしも考え抜きます!」
元気のいい答えだった。いい大学ではないか。
次、右端の男性!
真っすぐに手をあげていた青年にマイクが回された。
「先生は、中国に日本を売った売国奴だという意見がありますが。ご自分ではどう思われますか?」
青年はひどく無表情な顔をしている。それでいて、この場に相応しくない質問をする確信犯なのである。
岡田君の顔が凍り付いた。
困った質問だ。こういう場合は、質問には質問で返す。李博士から教えてもらった交渉術だ。
君は、学生?
「質問となんの関係があるんですか?」
さっきの女性も学部や学科で自己紹介したでしょ。
「社会人です。」
今日は平日だけど、仕事はお休み?
「いえ、今日は夜勤なんで。」
病院か何かにお勤めかな?
「コンビニのバイトです。」
あっ、何だ、この嫌な気持ちは。
売国奴と呼ばれることくらい、もう慣れた。嫌なのはそんなことではない。
この男性、若く見えるが三十は過ぎているだろう。私の講演会を聴きに来るくらいだから、知性もそれなりにあるのだろう。高度経済成長期であるならば、それなりの企業に就職し、仕事が出来なくても終身雇用が保障されていただろう。だが、今の日本は違う。グローバリゼーションが日本にも競争社会をもたらしたのだ。グローバルな競争社会では学歴もよっぽどの一流でないと世界の秀才たちと互角に戦うことはできない。良い大学に入れば良い会社に就職して一生安定という社会は終わったのだ。勉強はできても組織に順応できない者や、コミュニーケーションの力が無い者ははじき出されてしまう。知性や才能が必ずしも認められるわけでは無い。
今の日本で、若者たちに与えられている仕事の多くが、何の創造性もない単純労働である。一昔前なら企業は若者を育てた、仕事はきつくても残業が多くても乗り越える喜びがあった。今は若者を使い捨てにする。グローバリゼーションが生み出した国際的な競争のなかでは、日本の若者は低賃金で働く発展途上国の人々と競争しなくてはならない。
これは正義だろうか? 世界的な格差が是正され、貧しい国の人々の生活が向上したという点では正義である。日本やアメリカのような先進国の豊かさが抑制されたことも、かろうじて正義だ。世界はより平等になったからだ。しかし、日本の国内に生じた格差は何パーセントくらい正義なのだろう。ひとつ言えることは、富裕層に富が集中することは正義ではない。富の集中が世襲されることは、はっきり悪だと言える。
この青年は、憤っているのだ。自分を貶める社会に憤っているのだ。ここにもルサンチマンが横たわっている。
憤りが行き場を失うと、鶴橋で見たヘイト・スピーチのようなことになる。この青年のように場違いな質問をして暗に他者を非難する。中国や韓国を批判することに怒りをぶつけるのだ。そして今回はたまたま私が標的になったのだ。
虐げられた日本人が、同じアジアの国々を侮蔑する。その構造が私を嫌な気持ちにさせるのだ。
だが、この青年はきっと賢いはずだ。私にはわかる。
私はマイクを取って、彼の質問に答えた。
売国奴と言われようが、国賊と言われようが、私は今の仕事に正義があると思っている。その正義は、もしかしたら三十二パーセントくらいの正義かも知れない。ただ、私は考え続けようと思うし、ほんとうのことが知りたい。それだけだ。
「僕はあなたを売国奴だと思います。」
青年は言った。
中国は嫌いなのかね、と私は問うた。
「中国人も朝鮮人も嫌いです。」
日本人はどうだろう。
「日本人は…」
彼は口ごもった。彼を苦しめているのは、まぎれもなく日本の社会であり。彼を認めなかった日本人なのである。就職の面接試験で落とされたのか、会社組織や仕事についていけなかったのか、いずれにしても彼は挫折したのだと思う。職業に貴賤は無い、などという良識派のおためごかしを言うつもりなんか言うつもりはさらさら無い。
中国人にも、悪い中国人と良い中国人がいる。優秀な中国人と優秀でない中国人がいる。日本人も同じだ。
君は、良い日本人? 優秀な日本人?
我ながら意地悪な質問だ。
「ありがとうございました。」
青年はぶっきらぼうに言って、マイクを置き、会場を出ていった。
その姿は、敗者の姿だった。戦わずに去った敗者だ。だが、私の心は晴れない。
だが、気を取り直していこう! 次の質問だ。そこの緑のシャツの男性。
「今日、会場には戸部典子さん、来てらっしゃいますよね?」
来なくていいのに、来てるぞ。
「できたら、戸部さんのお話も聞きたいなって。」
つまらん質問だ。
戸部典子君、出番だ!
戸部典子は揉み手をして、頭をヘコヘコさせながら舞台に現れた。
これは学術的な講演会だ。それではお笑い芸人ではないか。お囃子でも流してやろうか。
戸部典子は碧海作戦の面白話をしゃべりまくった。会場は爆笑の渦だ。
私よりも目立っているではないか。悔しーい!
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