第18話 島津の援軍

 ムンバイにはインドとの貿易のために明智家が商館を開いていた。キャラコやショールといった綿製品や胡椒やシナモンなどの香辛料を輸入し、絹織物や陶磁器を輸出するのだ。

 インドにはイギリス東インド会社が進出し、西欧との取引も盛んである。西欧人たちはアメリカ大陸から持ってきた銀を所有している。この時期の西欧諸国の輸出品は銀なのである。アジア諸国に売れるような輸出品など当時の西欧にはなかったのだ。

 イギリスは毛織物を売り込もうとしていたが、熱帯のインドでウールの生地が売れるわけはなく、絹や綿など様々な織物があった中国でも毛織物は不評だった。

 そういう意味では西欧は後進国だと言えるのだが、武器だけは一歩リードしていたのだ。西欧の歴史は戦争の歴史である。中国の明王朝や清王朝の時代にあったような太平の世が何百年も続くことはなかったため、武器の開発は日進月歩だったのだ。


 帝国による特許状によりインドでの優先的な取引を許された明智家は財閥といっていいほどの財力を蓄えていた。

 インド貿易が巨万の富を生み出しても、当主、明智光慶は上海を動かなかった。

 「武将としては、わし一代で終わりにしたい」

 という父、光秀の方針に従い、貿易によって明智家を発展させてきたのだ。

 光慶には文人としての才があり、上海での官僚や武将たちとの交流を楽しんでいた。連歌や茶の湯にも通じ、特に漢詩を詠むことに優れた光慶は日本人や中国人のサロンに足しげく出入りしていた。 

 現代風に言えば営業活動であり、あらゆる情報を集めていたのだ。


 インドのマドラスにおいてイギリス人たちが要塞を築き始めたが、明智家は武力というものに力を注いでこなかった。 

 危機感を持った光慶は強兵の誉れ高い薩摩の島津家と提携することにした。島津家は義弘の子、忠恒の時代を迎えており、忠常は自らムンバイに乗り込んでいた。


 インドに行ってしまった息子の代わりに、薩摩の領国経営を行っていたのが島津義弘である。かつて、織田信長に従って満州騎兵と戦ったこの猛将も、もはや七十過ぎの老境にある。

 「老境というわりには、めちゃめちゃ元気そうなり。」

 そうだな、まだ子どものひとりやふたり作れそうだな、と言うと、戸部典子はくつくつと笑い始めた。

 その笑い方、気持ち悪いんだけど。

 島津義弘の下には忠恒から定期的に書状が送られてくる。これは義弘の楽しみのひとつでもある。しかし、その日の書状は急を告げるものであった。エゲレスの艦隊が、台湾遠征の準備をしているとの報告だったのだ。もちろん、この報告は上海や台湾にも送られているはずだ。

 島津義弘の血がたぎった。もう十歳若ければ自ら台湾へ乗り込んだはずだ。

 「鹿児島かごんまに船は何隻残っちょっる?」

 「三隻ばっかい残っちょいます。」

 日本列島は実に平和である。島津水軍の船はインドから東南アジア、中国から琉球に至るまで各地に分散している。

 「明朝あしたんあさ、台湾へむけて出発でたっすっで準備をしろ。」

 「殿、お齢をおかんげくいやい。」

 「わかっておる、わしではない、豊久を行かす。」


 「島津豊久君なり!」

 戸部典子が踊り狂っている。両腕をカクカク動かす不思議な踊りだ。

 島津豊久は島津義弘の甥にあたる。改変前の歴史では島津義弘とともに西軍として関が原に参陣している。戦いが東軍の優勢となると、島津軍は退路を断たれ孤立した。関が原の戦後処理のためには義弘の存在があってこそ島津家を救えると考えた豊久は、東軍の猛攻を凌ぎきり義弘を戦場から離脱させた後、討ち死にしたと言われている。世にいう「島津の退き口」である。

 歴女さんには、これがたまらなく萌えるらしい。


 「島津豊久君のフィギュアは中国では売ってなさそうなり。」

 戦国の大スターとまではいかないから中国では売ってないだろうね。

 「ネットで取り寄せるなり。」

 島津豊久は歴女さんに人気があるから、日本では生産されてるんじゃないか。

 「あったなり! カッコいいなりー! でも高いなりー!」

 少量生産だろうから高くて当たり前だ。

 「先生、今月、あたしの誕生日なり。」

 お前、先月もそんなこと言ってなかったか?

 「女の子には毎月、誕生日があるのを知らないなりか?」

 知らん!

 「欲しいのだ! 欲しいのだ! 欲しいのだ!」

 じたばたしても一緒だ!

 「いいのだ、経費で買うなり!」

 また、中国人民の血税がフィギュアに注がれていく。


 島津水軍の桜島丸を含む計三隻を率いた島津豊久は琉球、さらに西南諸島を辿りながら台湾へと向かった。

 鹿児島は日本列島の辺境にあったが、海の帝国では中心にある。地図を広げてみればよくわかるのだが、鹿児島は上海に近く、台湾へは西南諸島つたいに地続きのようなものなのだ。


 ゼーランディア城を海上封鎖している九鬼艦隊が、丸に十の字を染め抜いた島津水軍の白帆を発見した。

 「島津殿か。」

 遠眼鏡で島津豊久の姿を確認した九鬼守隆がうれしそうにしている。

 数年前からインドと鹿児島を往復していた豊久と、南シナ海を駆けまわっていた守隆は幾度か会ったことがある。

 「面白き客人の到着じゃ。今夜は宴席を儲けんとな。」


 「今宵は、ご馳走になりもんど。」

 島津豊久は無遠慮にどっかと椅子に腰かけた。

 私は必要な言葉以外は何一つ発しないような薩摩武士を想像していたのだが、実際の島津豊久は、まぁ、よくしゃべる男だ。

 真田信繁と伊達政宗とは初めての対面だったが、島津義弘の甥ということで一気に意気投合したようだ、

 酒が入ると、豊久は叔父、義弘の物真似を始めたのだ。叔父、甥の間柄ゆえ声の質が似ているばかりではない。豊久は義弘のしゃべり方や言い回し、ちょっとした仕草まで上手に真似て見せたのだ。信繁と政宗、そして九鬼守隆が腹を抱えて笑っている。

 ひとりきょとんとしている袁崇煥には、島津義弘のカタコトの中国語を真似て見せて笑わせている。全員を笑わせないと気の済まない性格のようだ。


 翌朝は軍議である。

 英国艦隊襲来の知らせは既に台湾に届いていた。これを、どう迎え撃つかである。

 伊達水軍、島津水軍などと言っても、十年程度の歴史しか持っていない。本格的な海の戦いができるのは、九鬼水軍をベースにした帝国艦隊と、村上水軍を取り込んだ毛利水軍くらいのものである。九鬼守隆にしても数十隻で戦う艦隊戦は初めてと言っていい。

 九鬼守隆が艦隊戦について説明している。陸の戦いに比べて海上戦闘は気候的な条件や潮の流れに大きく左右される。敵の陣形にしても刻々と変化していくのだ。

 艦隊同士が接近して砲火を交える。艦隊同士は一撃離脱で離れていく。体制を整えたところで再び接近戦に持ち込む。この繰り返しが基本だ。

 九鬼守隆は帝国艦隊がこの基本ベースの戦闘に臨み、伊達、島津両水軍には奇襲を受け持つという作戦を立てていた。艦隊戦の後、敵が体制を整えるところを奇襲するのだ。

 守隆は伊達政宗がケンカ戦法でピーテルスゾーンを撃破した経緯を聞いて、伊達水軍を帝国艦隊の旗下に置くよりも、自由に戦わせた方がいいと判断したのだ。それに島津豊久も独特の戦いをする男だと聞いている。

 統率のとれた英国艦隊の度肝を抜くことになるやも知れぬと、九鬼守隆は密かに期待していたのだ。

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