第12話 歴史学講義

 山東半島に渡った信長を阻んだのは倭寇鎮圧のための明の水軍だったが、鉄甲船を主力とする信長の水軍の前にあまりにも無力だった。

 上陸した信長軍は陸上でも快進撃を始めた。と、いっても倭寇に対する守備兵がいた程度で大きな抵抗はなかった。鉄砲が火を噴けばたちまち逃げ出してしまうのだ。

 碧海作戦が意図したとおり、明王朝は腐敗しきっていて朝鮮半島での出来事さえも対岸の火事のごとく捉えていたのである。明王朝の動きは鈍かった。

 信長の水軍は青島チンタオの湾内に錨を下した。現在では中国人民解放軍の海軍基地が置かれる軍事上の拠点だが、この当時は単なる漁村である。


 青島での軍議の際、信長は驚くべき命令を各武将たちに下したのだ。

 鎧兜を残らず献上せよ、というものだ。

 戦国武将といえば、それぞれに個性的な兜と煌びやかな鎧である。

 戸部典子は泣き出した。

 必死になってメイン・モニター映し出された信長に懇願している。

 「信長さまぁ、それだけは、それだけはお許しくださいませ。この典子がみさおを差し出しますゆえ、どうかご勘弁をぉ」

 いちいちうるさい奴だ。おまえの操などいらん。

 豪華絢爛たる鎧兜が無ければ、戦国武将の魅力も半減ということだ。悪いな、戸部典子!


 浅井長政が鎧を脱ぎ、配下に持ってこさせた兜を信長に差し出したのが初めだった。各武将たちも複雑な表情をしながらも次々に鎧兜を差し出していく。

 信長のパシリ・伊達政宗は最後まで抵抗した。なにしろ半月の飾りのあるド派手な兜を新調したばかりだったからだ。

 「こわっぱ!」

 上杉景勝の一喝で、政宗はしぶしぶ兜を脱いだ。

 信長は武将たちが、てんでんばらばらに戦うのを見て、苦々しく思っていたのだ。これからの軍の主力は鉄砲である。もはや英雄豪傑の時代ではないことを信長は認識していた。


 「これはいったいどういうことなんですか?」

 と、李博士が質問してきた。

 李博士だけではない、陳博士もいぶかっている。研究室中がざわめいている。

 よろしい、ここは私が説明しよう。研究者だけでなく人民解放軍の諸君も興味があるようなので・・・

 久々にやるか!万歳先生ワンセーシェンシェの歴史学講義だ。


 碧海作戦のブリーフィング・ルームで私は歴史学講義を行った。意外にも盛況で、立見が出るほどだった。

 近代というものについて講義を行う。

 「皆さん、歴史の区分を知っていますか。古代・中世・近世・近代と大まかに四つに分けられます。」

 これはヨーロッパの歴史区分が元となっている。西欧では西ローマ帝国の滅亡をもって古代の終わりとし、中世が始まる。暗黒の中世は文明の後退の時期であり、分裂と宗教の時代だ。歴史は常に進歩するものではない。後退することもあるのだ。中世末期はルネサンスの時代だ。ルネサンスは文芸復興、つまりは古代のギリシャやローマの文明に立ち返ろうという運動である。

 異論はあるものの、中世の終わりは一四九二年をもってするのが定説だ。この年、コロンブスはアメリカ大陸に到達し、イベリア半島からイスラム勢力を追い落としてレコンキスタが完了する。

 次は近世ということになる。近世は英語ではアーリー・モダンだ。つまり、近代モダンの先駆けであり早期近代と訳した方がいいくらいだ。近世とは近代の始まりである。

 「さて、中国人諸君、中国における近世の始まりがわかりますか?」

 「はいはいはいはい」

 戸部典子だ。こいつは大学時代に私の講義を散々聞いている。知っててあたりまえだ。私は戸部典子をにらみつけた。

 「黙るなり・・・」

 さすがの戸部典子もしゅんとした。

 「日本の歴史学の先駆者・内藤湖南博士は北宋の時代で中国史は近世に入ると指摘されていましたね。」

 陳博士の答えを李博士が訳した。さすが陳博士だ。

 中国の早期近代は北宋王朝によって始まる。十二世紀のことだ。

 この時、何が起こったかというと、身分というものが無くなったのだ。皇帝を除いて。

 皇帝の下、全ての民衆は平等になった。貴族というものがいなくなったのだ。

 でも官僚はいる。官僚は科挙と呼ばれる試験で採用される。どんな貧しい出自であっても、勉強して試験にさえ受かれば支配階級になれるのだ。ただし一代限りで、息子がボンクラならそれで終わりだ。リバタリアンが大好きな自由競争の世界が中国に生まれたのだ。

 平等のかわりに超競争社会がやってきた。中国が今もって激しい競争社会なのは中国近世の遺伝子があるからだ。

 「それから朱子学という学問が宋王朝では採用されました。これは儒教をこの時代の政策に合わせてカスタマイズしたものです。」

 人民解放軍の諸君がなるほどと頷いている。


 「さて、それでは日本の近世はどうかな?」

 日本の近世は安土・桃山時代を含むとい説もあるが徳川期以降としていいだろう。

 「はいはいはいはい」

 また戸部典子だ。こいつは無視だ。

 「黙るなり・・・」

 李博士が答えた。

 「江戸時代は身分制度が厳格な時代ですわ。」

 そう、日本史と中国史は構造が違うのだ。

 日本は士農工商の身分制度を厳格化することにより、競争を抑えた。競争原理を封じ込めることによって世の中を安定させた。安定の代償として支払わなければならなかったのは、どんなに実力があっても出世できないことなのだ。下級武士だった福沢諭吉が「門閥は親の仇」といったのがよくわかる。優秀な彼がボンクラの上級武士には逆立ちしても逆らえなかったのだ。

 徳川政権も朱子学を採用した。けれども宋王朝の政策に合わせた思想に江戸時代の政策はマッチしないのだ。日本の思想界は国学を生み出し、水戸学を生み出し、蘭学を学んだ。日本人の思想的雑食性は江戸時代に生み出されたのかもしれない。

 明治維新以降、日本は四民平等を謳い身分制度を廃したが、日本近世の遺伝子は競争よりも協調を尊しとなす日本人の指向として残っているのだ。

 ただ明治時代だけは競争原理が優先された。急速な近代化を成し遂げるためもあったろうが、明治の元勲たちは優秀な下級武士の出身が多い。

 「中国の皆さんはおそらくご存じないが、近代化した直後の明治時代には『女工哀史』というのがありました。近代的な工場で働く女性のなかには労働の厳しさに耐えかねて悲惨な運命をたどる者がいた。これが日本の一般的なイメージです。でもね、その反面、優秀な女工さんたちは、せっせと稼いで蔵まで建てたらしい。近代化直後の日本は中国みたいだったわけです。」

 笑いが起こった。人民解放軍の諸君も面白いという顔をしている。

 社会学の鄭博士が質問した。

 「中国の近世が世界に先駆けるものだといことがわかって、とても嬉しいです。でも、近代化が遅れたのは何故でしょうか?」

 「いい質問です。でも私には答えられない。その質問に答えを与えるのが碧海作戦なのです。」

 一同が、おーっ、と唸った。

 「ただ、西欧で産業革命が起こるまで、中華が世界をダントツでリードしていたことは間違いありません。十八世紀でさえ、中国のGDPは世界の三十パーセント以上を占めいたはずです。」

 皆が嬉しそうにしている。だが中国人諸君。「奢れるものは久しからず」という言葉が日本にはあるのだ。


 さて、信長が鎧兜を捨てさせたのは何故か?

 槍や刀と違って、鉄砲は大した訓練もなく使うことができる。民衆に鉄砲を渡し、軍事教練を施せば、鎧兜に身を包んだ武将を一撃必殺できるのだ。

 「西欧では、銃の普及が市民社会を生み出したのだと考えられます。フランス革命のときには民衆が銃を取って戦いました。その後、ナポレオンが創設した近代的軍隊は彼らが主役でした。」

 誰でもが兵士になれるというのが近代国民国家の条件なのだ。

 豊臣秀吉は刀狩りと称して、民衆から刀や鉄砲を取り上げた。民衆が武装することを嫌ったからだ。徳川政権もこの方針を継承し、市民社会の誕生を阻んだのだ。

 信長が近代を理解していたとは思えない。ただ中世というものに違和感を持っているのだ。天才の堪がささやくのだろう。


 戦国武将たちは、装飾を取り払ったシンプルで実用的な鎧兜を新調した。

 大陸において実にすっきりとした織田軍団が出来上がった。

 まだまだ近代式の軍制には程遠かったが、これもひとつの進歩である。


 伊達政宗はシンプルな兜の額に半月のマークを刻み込んでいる。

 おいおい、それってナイキのマークじゃないか。商標権侵害で訴えられるぞ、政宗君。


 この中に変わり者がいた。若干二十歳の若武者・真田信繁だ。彼は馬上で鉄砲を撃つことを考え、新式銃の開発に着手し始めた。堺から連れてきた鉄砲鍛冶たちを集めては日に夜にディスカションを繰り返している。

 「信繁君、馬上で鉄砲を撃つだと、それは近代的発想とは言えないのだよ。」と、説教してやりたくなったが、これはこれで面白いのかもしれない。こういう発想が副産物として元込め銃や連発銃を生み出すことになるからだ。

 メイン・モニターに映し出された真田信繁は腕組みして知恵を絞っている。

 ハンサムとは言えないが、いい面構えをしている。それに才気を感じる。

 「のぶしげさまぁ」

 戸部典子がうっとりしている。昨日までは政宗君じゃなかったのか。この浮気女!

 「こういう若者がいるというのは、中国人には羨ましいですわ。儒教の思想なんかにとらわれず、自由にものを考えられるって、素敵ですわね。」

 李博士がぽつりとつぶやいた。

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