第105話
無数の向日葵に囲われた広大な庭。その軒下にて。
熱く炙られたレンガ敷きのベランダに横たわりながら、燦々と照る日の光を眺めていた。
見渡す限り向日葵。目が痛くなるほどに立ち並ぶ黄金の防壁に彩られたその光景は、いつみても圧巻だ。
その一面花模様を目の当たりにしても少しも美しいとは感じない。
向日葵たちに外界とこちら側を遮断されているとすら考えていた。
ここからでは位置的に見えないが、この向日葵群の外側には、この施設をぐるりを囲う形で背の高く分厚い防壁が築かれているはずだ。
外部から入ろうとする者。内部から出ようとする者。そのどちらも容認しえない強固な壁。
ここは言うなれば向日葵の監獄なのだ。
救済自衛寮。防衛省が経営する孤児を寄せ集めた人員養成施設。そんなネームプレートは表向きだけだ。孤児が自立することはない。内情は知らないがまともではない研究の材料にされてしまうのだ。
ベランダから施設の内部に足を踏み入れる。視界に収まるのは、外の壮大な光景とは裏腹な無機質を極めたような陰険な空間。
幅のある通路。その脇に無数に配列の組まれた個室の扉。その扉は金庫室かくやと言わんばかりの重厚で頑丈なセキュリティドアだ。明らかに一般的な自室とは言い難い違和感しか生まれないゲート。
その部屋の中には死んだ魚みたいな目をした孤児たちがいる。きっと毒室行きの保護された動物みたいに一寸たりとも動こうとしていないのだろう。
いずれ時雨もそうなってしまうのかもしれない。この閉鎖的な閉ざされた監獄に絶望を思い知らされ、希望など捨ててしまうのかもしれない。
いつかここから出ていけるのだという淡い希望が。
「不幸そうな顔」
「ッ!?」
施設内、日の当たらない場所に横たわっていると。突然自分の頭上に少女の顔が広がった。
「ぐっ」
「あぅ……っ、いたっ!」
反射的に起き上がろうとして盛大に額を彼女の顎にぶつける。
お互い悶絶しつつも少女の姿を確認。背中に伝う長い黒髪は流麗な雰囲気を携えている。木漏れ日を反射して幻想的に新緑の色に染まる。
齢十六といったところか。その面持ちに視線を這わすと、薄桃色の唇と大きな瞳が視界に映りこむ。まるで作り物のような造形美だ。
見ない顔。まあ他の孤児の顔なんてほとんど見たこともないのだが。
「お前誰だ?」
「そういうあなたこそ誰? ここ、私の家なんだけど」
「家? この救済自衛寮を家とか言えるとか、どれだけ被虐思考なんだ」
「家は家だよ。私の」
「……もしかして孤児じゃないのか?」
「そうだよ?」
てっきと同じ孤児なのだと思ったがそういうわけではないらしい。
少女は少し赤くなった額を不満そうな面持ちで擦りながら、不審げな眼で見据えてきていた。
「なら何者だ?」
「だからこの家の人間だよ。お父さんが救済自衛寮の院長なんだよ」
ああそういうことか。つまり院長であるあの自衛官の娘ということだろう。
基本的に孤児である時雨は自室に隔離されているため、そもそも娘がいることすら知らなかった。
「そうか」
「そうかって……他に何かないの?」
「何かと言われてもな。興味がないから他に尋ねることもない」
端的に伝えて再度冷たいフローリングに背中を転がした。
不満そうに頬を膨らませる少女を脇目に見ながら内心逸る鼓動を無理やり抑え込もうとしていた。
この救済自衛寮に入ってから、まともに誰かと会話をしたのはだいぶ久しぶりな気がする。
ほかに関係のあった孤児がいないではないが、その孤児ももう二度と時雨の前に姿を現すことはないのだ。
自衛寮の院長である自衛官、聖玄真とは何度か会話をしたことがあった。だがそれはこの孤児院に関する義務的な物ばかりで。
それに彼の時雨たちに対する対応は到底対等な関係にある相手への接し方ではない。
高圧的だとか高慢だとかそういう意味ではない。あたかも物を扱うように接する。金魚鉢の金魚を覗き込むように俯瞰する。
そんな管理体制の中で時雨は生きてきたのだ。
「ねえってば、ねえ、何で無視するのよっ」
この少女にはそんな印象は微塵にも抱かせられない。対当に、少なくとも人間として扱っている。もの珍しそうに見て話しかけてきている。
そういう観点で言えばやはり等しく俯瞰する側の立場なのかもしれないが。
「あーそうやって無視を貫き通すつもりなんだ」
「…………」
「それともシャイな性格なの?」
「…………」
「もしくは日本語解らないとか」
さっき会話してたろ。
どうやら諦めたようだ。少女の気配が傍から離れていくのが解る。
「えっと確か、この辺にペンチが、」
「それで何をやるつもりだッ!?」
反射的に反応してしまう。飛びのいた時雨を見て少女はしたり顔で満足そうに笑っていた。
「なぁんだ、日本語解るんじゃない」
「そりゃ解る。それよりその手に握っている物騒な物をとりあえず下ろそうか」
本当にどこからか取り出してきた凶器を手に持つ少女。振り向いて確認しそれがただの油性ペンであることに気が付く。
どうやら顔に落書きでもするつもりだったらしい。一瞬身の危険を感じたものの、こんな少女相手に忌避感を抱いても仕方ないかと考え直す。
「何で無視するのよ」
「変な奴とは極力関わりたくない主義なんだ」
「変な奴って、ひどいよ」
「いきなり初対面のやつになれなれしく話しかけてくる奴とか、変質者以外の何物でもないだろ」
「それを言うなら、君だって大概変わってると思うけど」
少女は訝しそうに時雨のことを眺めていた。
「私、これまでほとんど入所者にあったことなかったんだよ? 自分の家なのに。少なくともこんな昼間から、こんな場所で少ない余命と惰眠を貪って浪費してる簀巻きの受刑者を見たのは初めて」
「人を死刑囚扱いしてんじゃねえ」
「正直、あんまり変わらないんじゃない?」
その言葉に何も返さない。的確な発言だったからだ。この少女は救済自衛寮の本質についていくらかの認識を有しているのか。
月に数人失踪するという噂。この寮の娘ということならば、その噂を耳に入れたことがないわけがない。そう考えればこうして親近的に接してきているのもあくまでも聖玄真の策謀という線もありそうだ。
「当然か……こんな場所で常識人に会えるはずもない」
「なんだかむかつく物言い。私は割と常識人だけど」
「で、何の用だ? 今度は俺が失踪する番ということか?」
まったくあくどい謀略だ。こんな一見無垢そうな少女で孤児をほだそうだなんて。
きっとこのまま美味しい餌に釣れられ誘導されれば、得体のしれない場所にたどり着く。そうしてしめしめ餌に齧り付いたと勘違いしている幸せ気分の間に、逆に人体実験の餌にされるわけだ。
「失踪? 何言ってるの?」
「とぼけた所で何も変わらない。誰でも知っている。この自衛寮にいればいずれ例外なく失踪する」
「だから、何を言っているの?」
少女は本当に理解が及んでいないように小首を傾けていた。
ついでにバカを見るような目でこちらを見下ろす。演技にしては迫真すぎる気がするが。
「失踪するわけないじゃない。ここは孤児院なんだよ? 逆に失踪しそうな精神不安定な子供を救済するんだから」
「……どうやら本当に知らないみたいだな」
「何を?」
「……なんでもないさ」
彼女に噂について話そうとしてやめる。彼女はここの院長の娘なのだ。その彼女に自分の父親への疑心を抱かせるのはよくない。
もう身内におけるいさかいにはうんざりだ。それにこんな少女に話したところで時雨の命運が変わるわけでもない。結局は無意味なのだ。
「とにかくそういうことだ。俺に関わってもどうせそのうち姿を消す。関わらないに越したことがない」
「もしかして、もうすぐ退所する予定でもあるの?」
「ない」
そもそも、この孤児院には退所なんてシステム自体が存在しない。孤児の自立などというのは表面上の名目に過ぎない。
本当の目的は孤児を研究素体として養成することにある。何の研究なのかはわからないしあくまでも噂に過ぎないが。
「それなら関わる」
「なんだよ」
「もっと君と関わってみたい」
「鬱陶しい、必要ない」
「必要なくなんてないでしょ? 君はきっと私と関わりたいと思ってる」
「さっきから何なんだよ、知ったような口ききやがって」
「だって、ずっと寂しそうな眼をしてる」
思わず返答に窮した。純粋な目で少女は時雨の目を直視する。何の偽りも雑念も存在しない澄んだ瞳で。
「ひどく寂しそう。拠り所も何も無くなったみたいに」
「何が解る」
「何も解らないけど、でも寂しそうだなってことは分かったよ。だから私は君の友達になってあげる」
「……どうしてだよ」
「だって、その死んだ魚のような目、ほっといたら腐り落ちちゃいそうなんだもん」
快活な笑顔で彼女は何のよどみもなくそう告げた。
「断る、気分が悪い」
「もしかして熱でもあるの?」
「言い方が悪かった。気持ち悪い」
「吐き気とか? 薬持ってこようか? 胸がむかむかするの?」
「いやてめえが気持ち悪い」
「それは率直すぎる罵倒」
少女はそこまで突っ込んで、ふふっと晴れやかな笑い声を漏らした。純朴すぎる優しい笑顔。ああくそさっそく
「……変な奴だな」
「君には言われたくないことその一!」
「二以降はあるのかよ」
「ないよ」
「ないのかよ」
「だからこれから作っていけばいいんだ。そういうこともね」
ああちくしょう。閉ざし始めていた心の扉をこの少女は強引にぶち破ろうとしてくる。
快活なひまわりのような笑顔、その内側から枯渇することを知らず溢れ出してくるどこか温かい優しさに。心を閉ざしたはずの鍵が緩んでいく。
そのことに不思議と嫌悪感は抱かない。そんな自分に腹が立つ。
散々誰かに親しくされるということに絶望しか見いだせないと痛感してきたというのに。また心の弱みを露見させてしまうのか。
「名前はなんて言うの?」
「院長の娘なら自分で調べろ」
「そうやって意地はるんだから」
「得体のしれない変人相手に名乗るのは不快だ」
「言っておくけど君のほうが変人だから」
これは半分本音だよと呆れたように肩を竦める。
「……時雨だ」
「なあんだ、言えるじゃない」
少女は再度満開な頬笑を見せた。時雨には眩しすぎる笑顔だ。
そうして背景に無限の向日葵を広がらせた彼女は。桜色の唇を開くのだ。
「私は聖真那。今日から、君の同居者」
◇
「という時雨様の若かりし頃の青臭い妄想話があってですね……」
「おい、締めで捏造するな」
真那に話し聞かせた彼女との出会いの話。その話に終止符を打つようにネイは余計なひと言を付け加えた。
「これは、いずれ防衛省に実験体として扱われる、そんな過酷な孤児生活の中、ストレスのあまりに時雨様が脳内に生み出してしまった妄想なのです。聖真那などという黒髪ロングつまり時雨様のフェティズムを否応なく刺激しうる少女は存在せず、当然引き籠りの時雨様には友達など生涯作れませんでした終わりまる」
確かに友達という感じでもなかったが。
「でしょうね。どうせ家畜扱いされ亀甲縛りならぬチャーシュー縛りにされてはブヒィと情けない嬌声を上げていたのでしょう」
「どんな性癖だ」
「あ、失礼しました。これはスファナ……いえ、とあるSM兄妹間における秘話でした」
それは聞きたくなかった。
「その聖真那と言う少女、本当に私……?」
「当然の反応だな。だが本当の真那だ。少なくとも同姓同名で容姿や声までもが瓜二つな聖真那が二人いなければの話だが」
「この世には、自分と全く同じ容姿、性質の人間が二人存在すると言われています。ですがそれは統計学的に見て今回の話に当てはまるとは到底考えられないですね。つまり時雨様が今目の前に見ている真那様はドッペルゲンガー。自分のドッペルゲンガーを見たものは死ぬといいますが、時雨様の場合は他人のドッペルゲンガーを見ても死にます。というわけなのでさっさと死ねください」
「極論をさらに極めた感じの発言だな」
「……私は、時雨と面識があった」
真那は膝を抱えたまま考え込んでいた。そんなことを言われてもにわかには信じがたいのだろう。
それも当然だろう。彼女の記憶には烏川時雨という存在はいないのだから。
「この矛盾は、何だろうな」
「現状から推測しますに、いくつか可能性があります。一つ、真那様は本当に二人いる。それは全くの別人という意味でです」
「だけど私も救済自衛寮に住んでいたわ。聖玄真の娘として」
「真那様は実は双子で、どちらも真那という名前を授かったという可能性もあるかもしれないではないですか」
ひどく非合理的な見解だ。人工知能の思考とは思えない。
「ですからあくまでも可能性の話なのです。次に、救済自衛寮時代の真那様は単純に時雨様の妄想という線。まあおそらくないでしょうが」
「それはないと思いたい」
もしそうなら時雨は相当の変人ということになる。
妄想の中で真那に変人と言い返されている以上、もしそうであるならば自分が変人であると自覚している変人であることになるが。そこまで人の温もりに飢えてはいなかったはず。
「そして最後。二重人格という可能性」
「二重人格か……確かにあり得るかもな」
状況から鑑みれば一番可能性が高そうだ。記憶の欠落。彼女自身が自分の中に感じる別の人格。それも感情の起伏が乏しい真那に相反したような快活な人格だ。
「いえ、確率的にはごくわずかですね」
「どうして?」
「そもそも人格を複数持つ人間、すなわち解離性同一性障害ですが。この症状の場合、人格が二つだけということはほとんどありません」
ネイが言うことには例外はあるがいくつも人格が生まれてしまうとのこと。
さらに通常多重人格の場合、本来の人格以外の人格は到底まともに会話などが出来る理性を持ってはいないらしい。
「怒りっぽい、卑屈っぽい、涙もろい、ヒステリック。そう言った性質が出てくる人格であって、少なくとも今の真那様や、時雨様の記憶の中の真那様のような知性、理性を持った受け答えなどは到底できないでしょう」
「なるほどな……」
確かにその条件から鑑みても多重人格である線は薄い。
真那は確かに感情の起伏が乏しいがそれは冷静さゆえの性格だ。少なくとも知性などがないなどということは全く当てはまらない。
むしろ今の話を聞く限り、他の人格は両極端に性質が現れるという。それであればドライな性格であることは全く逆の状態であるということになる。
「まあ可能性として最も有力なのは、それらではありませんね」
「私が単純に記憶を欠落させている……?」
「そう考えるのが順当でしょう。真那様は精神面的にも肉体面的にも異常とされるような症状は見受けられません。となれば何か触発的なショック状態に陥ったことによる記憶喪失と考えるべきでしょうか」
失っている記憶が時雨に関することだけというのも変な話だ。
先の話と真那の記憶との相違点は他にないのか。
「……まだ何とも言えないけど多分それだけ」
「そうなるとただの記憶喪失という感じでもありませんね。真那様が時雨様に関する情報を全て抹消したいと思った。それによって敷居が設けられ記憶に蓋をかぶせてしまったという可能性」
「非科学的だな」
「プラシーボ効果というものもありますから。人間の脳は、私のような人工知能と違って知性という電子信号によって操作されています。もしその知性、思考構造に何かしらの強烈な負荷がかかれば脳の一部が圧迫される可能性はあります。それによって時雨様に関する記憶が閉ざされている、と考える筋は十二分にあります」
まあ確かに心的な衝撃やストレスによって記憶喪失になるという話はよく聞く。脳が防衛本能として現実逃避しようとする心因性の記憶喪失だ。
「記憶を失うほどのストレスってなんだ」
「……時雨様、自主してください」
「は?」
「どうせ若気の至りだとか何とか言って、抵抗する真那様を拘束しここでは放送禁止ワードになるようなあんなことやこんなことを」
「どんな言いがかりだ、してるわけねえだろ」
何であれ記憶の欠落には何かしらの原因があるはずなのだ。
そして記憶の欠落には時雨が関わっている可能性がある。いったい何だというのか。
「私、どうすればいいのかしら」
「さっきも言ったが今の真那のままでいい。無理に思い出そうとする必要もないだろ」
「……ええ」
彼女はやはり納得がいかないような顔をしていた。
「とりあえず今日はもう帰るぞ」
「シエナたちに声を掛けてこないと」
先行する真那。その後姿をぼんやりと眺めながら静かに感慨にふける。
ここに来るまでの道中感じていた気まずさはもうない。それでもわだかまる距離感は依然として付かず離れず状態だった。
物質的な距離ではなく体感的な彼女との精神的距離感。きっと今手を伸ばしても、彼女の手首を捕えることが出来ない。
それは真那が伸ばし返してくれないからか。あるいは時雨が伸ばした手を降ろしてしまうからなのか。
どちらにせよ真那との間にはまだ明確な隔たりがあるのだ。
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