第78話

 いくつかの諸確認を済ませて会合は終了となった。皆一連の戦線でたまった疲労に促されるように自室へと向かって消えていく。


「時雨様は戻られないのですか?」

「俺は……どうにも寝られそうにないな」


 誰もいなくなった会合室でそう答えた。

 いろいろと懸案事項や悩みが絶えず。どうにも寝つける気がしなかったのだ。


「その気持ちが解らないわけではありませんが、休息を取らないことには心も体も休まりませんよ」

「別に疲れていないからな」

「嘘ついても私にはわかりますよ。時雨様のことは何でも」

「逐一心拍とか脈拍観測されていればな……解った自室に戻る」


 彼女にはかなわないと判断しエレベーターを経由して自室へと向かう。そうして自室に戻るや否やベッドへと倒れこんだ。


「久々だなこの天井」

「学園に潜入してからずっと学生寮生活でしたからね。実質二十五日ほどぶりですかね」

「怒涛の一か月だったな」

「沢山の人に出会い、その人々に翻弄され騙し騙され……稀有な人生ですね」

「全くな」


 ベッドに身を沈めたことでどっと疲労感が押し寄せてきた。眠りの深奥に引きずり込もうとする睡魔に抵抗しようとして抵抗をやめる。

 もう寝てしまってすべての呪縛から解放されたい気分だった。意識は静かに別世界へと飲み込まれていく。気づけば夢の中へと落ちていた。


 夢――――にしては明瞭すぎる光景。感覚すべてが研ぎ澄まされているような。

 目の前には見知った少女の姿があった。


「また来たの? 時雨」


 どこか幼い彼女の姿。胸の奥底からこみあげてくるような懐かしさ。

 向日葵の香ばしい香りと陽光にさらされ黒い長髪をオレンジ色に染めた少女は、生暖かいそよ風に髪がなびくのを鬱陶しそうに手で抑え込んでいる。

 見た目も声音も。ほとんどレジスタンスに所属する真那と変わらないのに。それだのにそんな彼女の姿にひどく安堵を感じていた。


「また……?」

「だってそうでしょ。夢の中で私のことを求めるの、もう何回目だと思ってるの?」

「……今回が初めてじゃないのか」


 まったく想像だにしていなかったその言葉に困惑する。夢の記憶などほとんど有していないから当然と言えば当然か。

 そんな頻繁に夢の中で真那に出会っていたというのか。


「お前、どこにいるんだよ」

「何おかしなこと言ってるの? 私はここにいるじゃない」


 怪訝そうな目で彼女は自分の胸元をトントンとたたいてみせた。だが違うそういう意味ではないのだ。


「そうじゃない。俺はお前でいるようで、お前じゃない真那のことを知ってる。いつも一緒にいる。だが……何か違う。真那じゃない。少なくとも俺の知っている真那ではな」

「時雨、あなたの言ってる言葉の意味がさっぱり解らないんだけど。病院行く?」


 痛々しいものを見る目で彼女は時雨の額に手を重ねた。熱はない。そうぼやきながら一抹の安堵感に胸を焦がれていた。

 この反応だ。この表情だ。この真那だ。これが時雨の知っている真那なのだ。


「何よ時雨、慈愛に満ちた目で見て」

「いや嬉しくてな」

「嬉しい? なんかよく解らないけど……私の顔見ながらニヤニヤしないで。なんだか彼みたいよ」


 本気で気味悪がるように彼女は体を掻き抱くしぐさをする。鳥肌でも立っていると表明するように。ちょっと傷つくだろ。


「彼……?」

「ええ、彼よ、解るでしょ、彼」


 一体誰のことを言っているのだ。


「そんなことより、ねえ時雨」

「なんだ?」

「時雨は、今が幸せ?」


 随分と藪から棒な質問だ。


「ううん、ちょっと気になっただけ。私はね、今幸せなのか、幸せじゃないか解らないんだ」

「何かあったのか?」

「特別、何かあったわけではないんだけどね。でも私が今いる環境に、辟易へきえきしちゃっているって言うかな」


 どこか複雑そうに彼女はそう述べた。

 環境と言われて咄嗟に周囲に目を配る。そこには懐かしい光景が広がっていた。視界を覆い尽くすようなヒマワリたち。


「ここ、救済自衛寮か」

「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……ま、いいか」


 ふふっと真那は柔らかい笑みを見せた。先程までの悲しげな表情は、暗雲に月が隠されるように気づけば掻き消えていて。


「どう? 懐かしい?」

「まあ……三年ぶりか」

「時雨、あの日、突然いなくなっちゃったもんね」

「真那、何か知ってるのか?」


 はっとして彼女に詰め寄る。時雨の記憶に存在しない防衛省に所属するまでの経緯。どうして救済自衛寮から防衛省に転属していたのか。

 その間の記憶の欠落に関して真那は何かを知っているのか。


「知ってるよ」

「本当か! 一体何があったんだ?」

「知ってるけど教えてあげない」


 詰め寄る時雨に彼女はだがいたずらげな表情で応じた。

 さらに問い詰めようとする時雨の口元にひんやりとした指先が重なる。思わず口ごもった。


「時雨、今が幸せ?」


 再度その質問が来た。


「幸せに見えるか?」

「見えるよ」

「目が節穴だな。あいにく絶賛不幸中だ」

「ううん、時雨は今が幸せなんだよ」


 時雨の返答などお構いなしに真那はそう言い切った。


「絶賛幸せ満喫中の時雨には、やっぱり教えてあげない」

「俺はお前がいない生活なんて、考えられない」


 荒ぶる心を抑え込んで真那の華奢な肩を軽くつかんだ。


「お前がいないと俺の人生は色づかない。お前がいない人生が幸せなはずがないだろ」


 おかしなものを見るような目でそれってプロポーズ? と問うてくる。

 この冗談めかした性格もまた時雨の知る聖真那のそれであった。


「違う」

「知ってた」


 やはり茶化すように彼女は笑う。そうして背を向けた。


「ねえ時雨、私にとってね、幸せなことって時雨が幸せなことだから」

「何言ってる」

「だからいま私はね、幸せなのかも」


 そっと彼女は目線だけ振り返る。


「ちょっと寂しいけどね」

「寂しい……?」

「それから時雨はちょっと勘違いしてるよ」

「勘違いも何も、俺は、」

「だって私はずっと、時雨の傍にいるもの」

「……は?」


 その言葉の真意を量り知ることは出来なかった。いつの間にか目の前に舞い戻っていた彼女が、そっと時雨の胸を押し出したから。


「さぁ目覚めて時雨。あなたの世界に戻って」

「待て、まだ何も、」

「あなたはもうこっちの人間じゃないんだから。こんな紛い物の夢から目覚めないとね」


 抵抗すらできずその場にしりもちをついた。視界が明転する。グワングワンと大脳が震撼するような感覚。

 ブラックアウトする視界の中で、なぜか真那が悲哀の表情を浮かべているような気がした。


「……起こしてしまった?」


 覚醒した感覚、それらの中で最初に知覚したものは香り。わずかに薫る真夏のヒマワリの香りだ。どこか心が安らぐような。


「どっちの真那だとか……俺の思い込みなのかもな」

「?」


 目を見開くと、不思議そうに小首をかしげた真那の姿が視界に収まる。ベッドの隣に腰かけているのか低い位置に見えた。


「よく解らないけれど……私は私。他の何物でもないわ」

「そうだよな……悪い」


 時雨を見下ろしている彼女の顔を見ていると、自分が悩んでいたことが馬鹿らしく思えてくる。

 時雨の知っている真那の印象。それに差異があるからと言ってこの真那が真那じゃないわけがないのに。


「で、どうした、何か用か? というか何故俺の部屋に」

「ごめんなさい。ノックはしたのだけれど返事がなかったから。特別用事があったわけではないのだけれど……」


 覚束なげに彼女は歯切れ悪くそういって言葉を切る。何か言いたいことでもあったのかと思ったがどうやらそういうわけでもないようだ。

 上体を起こして真那のことを伺う。彼女はベッド脇の床に脚を軽く崩して座っているようだ。


「用事がなきゃ来ないだろ」

「そんなこと言われても知らないわ」

「知らないってお前な」

「私がお二人に代わって申し上げましょう。真那様がここにいる理由、それすなわち……夜這いです」

「よし黙れ」


 この自称ハイスペック人工知能様はいちいち茶々を入れねば気が済まないのだろうか。


「そうなの?」

「知るか……そういう話題になる度に真っ先に俺に聞くな」


 何故そう純朴な顔で問うてくるのか。調子がくるって仕方ない。


「とにかく何も用事がないなら」

「待ってください時雨様、今よもや、部屋に帰れなどと言おうと致しませんでしたか?」

「そうだが、それが?」

「馬鹿ですかアホなんですか。真那様が自分から部屋に来てくれることなんてそうそうありませんよ。というか時雨様のような甲斐性なしの鏡相手であることを考えると、今後一切ないと踏んでもいいです。この好機を有効利用せずしてどうするのですか、このフニャチキン野郎」


 好機とはいったいなんのことか。


「同衾に決まってんじゃないですか。頭湧いてんですか」

「頭湧いてるのはお前の方だ」

「私が時雨の部屋に? いつでも行けるけれど」


 意味わからずしてそんなこと言うんじゃない。何も考えていなそうな顔で小首を傾げる彼女に、時雨は出て行けという気も失せる。

 先ほどまで真那の夢を見ていたということもある。もちろんこれまでもそして今も、やはり彼女の存在に一抹の違和感は抱かずにはいられないが。

 それでも、なんとなく今の真那の存在がどこか心地よく感じてしまう自分に戸惑いを隠せない。


「ここにいたいならいてもいいが」

「と気のないふりをしながらも、UMN細胞数値は断続的に上昇中。男のツンデレとか需要ないのですが」

「この部屋にいてもやることなんかないだろ」

「それもそうね」


 淡々と彼女は納得してみせる。ほんとに何しに来たのだか。


「でも退屈なの。というより一人でいたくないわ」

「……寂しいのか?」


 彼女の発言に少しばかり驚嘆を覚えた。このどこか感情の希薄な真那の口から、そんな言葉が出てくるとは思っていなかったから。


「寂しい、というわけではないのだけれど」

「掴みどころないな」

「でも今はどうしてか解らないけど、誰かと一緒にいたいのよ」


 自分でもその感情に名前を付けられないように真那は困った顔をする。だが何となく彼女のその感情に目星がついた。

 感情表現が乏しいどこか義務的な彼女だが。それでいて、心のどこかに彼女は本来の彼女の感情を持ち合わせている。

 辛いことに直面してそれを悲しく思う気持ち。誰かを助けたいという気持ち。彼女自身が実感しえない、どうしようもないような人間らしさを持ち合わせているのだ。

 それが今回の一件で現れ始めた。デルタボルト空爆時に時雨を助けようとしたこともその意識の表れだろう。

 そして度重なる喪失の連鎖。仲間がたくさん失われ、彼女は名前の付けられない切望に苛まされているわけだ。


「よかったですね時雨様。『誰か』と一緒にいたいという理由で、その『誰か』に抜粋されたようですね。あくまでも『誰か』に過ぎない話ですが。真那様の心情如何関係なく、無作為に抽出された『誰か』に時雨様が当てはまっただけですが。『誰か』に」

「これみよがしに誰かを強調するな……真那、お前少し気を張り詰めすぎなんだ」


 そんなことはないと言いたげな不審な視線が返ってくる。予想できていたが。


「自分では気づかない中で神経が凝り固まってることもある。少し肩の力を抜いたほうがいい」


 しばらく真那は押し黙っていたが、納得が行っていない様子で時雨の目を見返して来る。


「それは時雨もよ」

「いや俺は、」

「見てれば解るわ。あなたは一人で背負いこもうとする癖があるから」


 自分で気づかないこともあるといった手前、それを否定できない。


「実際、肩が凝り固まっているしね」

「お、おい」


 ベッドに乗りあがってきた彼女はそっと指先を時雨の肩に触れさせた。

 後ろからならばそこまで動揺しなかったろうが、問題なのは対面して彼女が身を乗り出していることだ。いろいろと目のやり場に困る体勢で思わず目をそらす。


「疲れているでしょう。凝りをほぐしてあげる」

「いやいい」

「遠慮しなくていい。私たちは仲間だもの。持ちつ持たれつよ」

「ギブアンドテイクというやつですね。ただその条件を成立させるためには、時雨様も真那様にギブしないといけないわけでして」


 肩をもみ返せと?


「セクハラですよ時雨様。肩とて女性の体の一部なんですから。訴えられますよ」

「なら何しろというんだ」

「簡単です。ほら目の前にあるじゃないですかちょうどいい感じに実った二つの果実が。ここは凛音様のように、『C.C.絞っちゃうんだぜ!』と潔くその果実を揉みしだいて」


 このままではネイがさらに変なことを言い出しかねない。肩におかれていた真那の手を掴んで離させる。そうしてベッドから足を降ろし立ち上がった。


「お互い疲労もたまってるんだきっと」

「……睡眠をとれとでもいうの?」

「いや寝たって拭えないものもある。肉体的な疲労じゃなく。たとえば……」


 べっとりと染みついた血の臭いとか。その言葉は控えた。不謹慎すぎたから。

 だがどうやらそのニュアンスを嗅ぎ取られたらしい。真那は神妙な面持ちでこちらの顔をじっと眺めていた。


「さすがです時雨様、あえてその話題を持ち出すことによって入浴イベントに持っていこうとするとは。ですが詰めが甘いです。それでは別々に入浴する選択肢が生まれてしまいますから。それ故この場合はこう言って誘うのです。『べっとりと汚れちまってるぜ、自分では洗えなそうなところが』、と」

「とにかく気分転換に、どこかいかないか」


 ネイが年齢制限を逸脱した発言をしかねなかったため、その言葉を遮るように提案した。


「前に言ってたデートとかいうもの?」

「そういえばそんな話題あったな」


 その時は棗と任務とかで華麗にスルーされたが。


「昨日一日ずっと戦闘続きだったろ、激戦区でさ。少しくらい休んだって罰当たらないだろ」

「それはいいけれど……でもどこに行くの? 棗も言っていたけど顔が割れている可能性がある以上、あまり迂闊に外には出れないわ。棗の言う拠点拡張のための、だれにもリークされないような場所ならいいけれど」

「それは確かにな」


 そもそも誰かとの気晴らしの外出などしたことがない。

 これまで真那と出かけた時も常に義務的な作業だった。レジスタンスとしてリミテッドの土地勘を与えるためだとかなんとか。

 いかんせん経験不足が際立って、そもそもどこに出掛けるかすら解らないというのに。外出すら拒まれてはもはや取りつく島もなかった。


「あらら、また振られましたね。シグレ、撃、沈! と、立木○彦ふうに言ってみたり」

「俺は今、そんな大金の動く賭博で敗北したのか」

「負け犬で世間の落ちこぼれの時雨様には、地下帝国がお似合いではないですか」

「地下……?」


 元ネタが解らなかったのか真那が不審そうに眉根を寄せる。まあ彼女が理解を示していたら逆にどこかショックだったが。


「地下……もしかして、棗の考えって……」

「どうした?」


 だがどうやら彼女は時雨とネイの話題には興味などなかったらしい。代わりに何やら別のことに気が付いたようだ。


「まあとにかくどこかで気晴らしでもと思ったんだが……それも無理そうだな」

「いえ、そうでもないわ」


 消極的であったはずの真那が突然首をふるう。何かいい場所でもあるのだろうか。


「どこかいい場所でもあるのか?」

「私は立ち寄ったことがなかったのだけれど。行きたいところが出来たわ」

「……?」

「ついてきて」

 

 彼女は立ち上がり背を向ける。そうして颯爽と部屋から出ていくのに困惑しながらも、時雨は彼女の背中を追いかけた。


「どこに向かってるんだ?」


 エレベーターを乗り込んだ時点でそれが上昇していることに気が付く。てっきり出口のある下に向かうものかと考えていたのだが。


「上よ」

「それは解るが……上って、特別展望台の慰霊碑くらいしかないんじゃないのか?」

「いえ、他にもいくつか施設があるのよ」


 エレベーターが止まったのは特別展望台のある階層だった。ここには慰霊碑しかないと思っていたが何かあるのか。


「エレベーターの反対側よ」


 そこから出るとすぐに視界いっぱいに巨大な黒い建造物が収まる。支柱を囲うように設置された円筒状の慰霊碑だ。

 アーチ状に築かれた出口を経由し標高225メートルの床に足を降ろす。そして視界に広がった光景に思わず感嘆の息を漏らしていた。

 

「すごいな……」


 前回来たときは明るい時間帯だったため気が付かなかったが、この階層はブルーライトによる装飾がなされていた。フロア全体が幻想的に照らし出され慰霊碑がその光に照らされ浮かび上がるように錯覚する。

 だがそれよりも目を引いたのは巨大なガラスから窺える外界の光景だ。絶景と言わざるを得ない発展し続けた街並み。高架モノレールや高層建造物帯にはネオンや建物の光が飛び交っていて。

 思わずその光景に釘付けになる。


「俺にこれを見せようとしてくれてたのか」


 心の底から形容しがたい感情が滲みだしてくるようだった。

 きっと彼女は、時雨の心に蟠ったさまざまな負の念を労わってくれているのだ。それを少しでも解消しようとこの場所に連れてきてくれた。


「違うわ」

「へ?」

「景色なんてどうでもいいの。他に行きたい場所があるのよ」

「……あ、そう」

「妄想乙」


 まあ解ってたけども。解ってたけども! そんな可哀そうなものを見る目で見るんじゃない。


「……バーだな」

「ええ。そうよ」


 広々とした特別展望台の中央の支柱に沿って迂回し辿り着いた反対側。そこには立派なバーが存在していた。展望窓に隣接して設置されたいくつかのイスと机。

 それとは別に窓枠の役割を果たす支柱に接触する形で据え置かれているカウンター。どうやら支柱の一部分に埋め込む形で設置されているようだ。

 カウンター席には数人の姿があった。


「妃夢路に船坂……それに皇まで」


 幅のあるバーカウンター。その中心辺りの二つの席を占拠する二人の後ろ姿。妃夢路と船坂だ。やけにこの場に溶け込んでいるように見えるのは、以前シャトー・オー・ブリオンという酒にまつわる話を聞かされたからか。

 それとは別に二つほど席を開けて棗が座っている。二人に交わるわけでもなくカウンターに肘をついて頭を抱えていた。


「やっぱりここにいた……棗、起きて」


 そんな棗の傍に真那は音もなく歩み寄る。そうして彼の肩をゆすった。なんとなく真那が棗に接触する姿を見て複雑な心境になる。


「卑しい目で二人を見ないでください」

「……いいだろ別に。にしても皇のやつ、酔いつぶれているのか」


 頭を抱えていたように見えたがどうやらカウンターに突っ伏して寝ていたらしい。真那の膂力では彼の上体は起こせないのか、棗は依然として爆睡したままだ。


「なんだこの酒瓶……アブサンじゃないか」


 カウンターテーブルに倒れている酒瓶。そこから漏れ出している緑色の液体を見てすぐにピンときた。


「強烈な酒を飲んだものですね……」

「薄めてはいたみたいだけど……棗、お酒に弱いのよ」

「御嬢さん、そっとしておいてやりなさい」


 どこかで見た記憶のあるバーテン。やけに紳士的な声音。以前寿司屋にいた大将にひどく似通っている。

 時雨の記憶が正しければ、決してこのバーテンは御嬢さんだなんて紳士的な呼び方はしないはずだ。他人の空似と言うやつだろうか。

 彼はスナック菓子とノンアルコールの酒の入ったグラスを二つ、時雨たちの前に置いた。

 

「疑わしいので、とりあえず顔にモザイクかけておきます」


 とりあえず気づかなかったことにしておこう。


「皇さんは、たまにここに来られるんですよ」

「酒を飲みにか?」

「まあいつも、アルコールの入ったものは飲まないのですがね」


 バーにくる意味ないのでは。


「マスター、バレンシアをお願い」


 棗の泥酔する席の隣に腰かけた真那。淡々とバーテンに話しかける真那に呆気にとられながら彼女の隣に座る。

 なるほど、だがまあ理解した。真那が突然出かけるつもりになったのはここに棗がいたからか。


「どうぞ。バレンシアC.C.Rion割り」

「ありがとう、いただくわ」


 柑橘系を柑橘系で割るのか。


「時雨は飲まないの?」

「全員酔いつぶれたらまずいしな」


 真那がグラスに口をつける姿を見ていれば彼女が酔いつぶれることはなさそうだが。成人したばかりであるはずだが、グラスに口をつける彼女の姿はどこか様になっている。

 ブルーライトと摩天楼の光に照らされた彼女はどこか幻想的で。もしかしたら酒慣れしているのかもしれない。

 そう考えるとなんとなく彼女が自分より先に大人になってしまったのだなと痛感した。時雨の知っている救済自衛両時代の頃の真那は当然飲酒などしていなかったからだ。未成年だったということもあるが。


「うぅ……に、にぎゃい」

「飲めないのかよ」


 口をすぼめていやいやとグラスを突き放す彼女。突っ込みながらどこか安心する。どうやら味覚は子供であるようだ。


「まあお客さん、そんな固いことを言わずに。度数の低いカクテルでもいかがですかな」

「……まあそういうことなら」

「それにしても、今日はポチはいないのですかね」

「ポチって……お前やっぱりあの寿司屋の大将だろ」


 疑惑が確信に変わった瞬間だった。


「ふふふ、なかなかに面白いことを仰られますね。どこで私のことを見られたのかは判断しかねますが、それは仮初の私……バーテンダーとしての私こそが、真の私ですよ」

「悪いがその紳士ぶった外面の方が仮初にしか見えない」

「御冗談を」


 冗談なのはその違和感満載な仮面だろ。


「さてお嬢さん、新作のC.C.Rion和えレーションは如何ですかな?」

「新作って……レーションにC.C.Rionぶっかけてるだけじゃないか」


 真那が器用に箸をつけている皿の上には、ふやけて溶解した到底食用とは思えない工業廃棄物が鎮座している。

 おまけにC.C.Rionの黄色い色と、どろどろに溶けたレーションが相まって、ヘドロのような液体が捻出されていた。


「美味しいわ。口の中でスプラッシュするカーボネイティドと、シトラスのスメルがいい。シトラスがディゾーブするのが、また絶妙ね」


 やけに真那が饒舌だった。しかも英語が意味をなしておらずもはや意味不明。僅かに赤らんだ頬を手の甲でこすって何度も眠たそうに瞬きする。


「真那様は泥酔するとえせ外国人のような口調になるのですね」

「悪いこと言わないからそれはやめておけ」

「おいしいけれど」


 不満そうに脇目で伺ってくる。


「味はどうだかわからないが、いや味もやばそうだが、とにかく体に絶対よくない」

「大丈夫よ。私のストマック、メタル製だから」

「金属製の胃とかもはや機械の次元だろ……」


 真那が時雨と同じ改造人間であったのならば、あながち間違ってない気もする


「餌付けされてるんだぞ。とにかくここから帰ったら酔い覚ましにほうじ茶と茶請けでも入れてやるから……今はそれに手を付けないでおけ」

「わかったわ」


 存外素直に応じる。酔っていても傍若無人になるわけではないらしい。


「烏川、俺の客観的視点で語らせてもらうなら……お前のその行為も、等しく餌付けだ」

「違いないねぇ」


 時雨たちの会話には無関与を貫いていたかと思っていたが、船坂と妃夢路が呆れたように声をかけてきた。


「悪い、煩かったか」

「いや、むしろ少し騒がしいくらいの方がいい。バーは静かすぎる」

「まったく、義弘は昔からせっかちだからねえ……もう少し落ち着きを持つべきさ」


 見慣れぬラベルの酒瓶を揺らしながら、酔いかけの妃夢路が船坂の背中を遠慮なく叩く。


「そうは言われてもだ。酒を飲み交わしているところを奇襲されれば、対処できない可能性がある。泥酔などすればさらに泥沼じゃないか」

「その考えからして問題なのさ。そもそも酒と戦場を結び付けるもんじゃないよ。ましてや高級酒をモロトフ代わりに使うなんてもってのほかさ」


 シャトー・オー・ブリオンのことを言っているのだろうか。どれだけ根に持っているのだ。


「だがアルコールは生存に欠かせないものだ。爆薬の代わりにもなるし、暖を取るのにも最適だ。場合によっては体内に摂取することで、体温を保つ手もあるにはあるが……」

「だからそんな心構えで、酒飲んでんじゃないって言ってるんだよ」

「恋華は恋華で少し注意が散漫しがちじゃないか。酒やタバコなんてものにうつつを抜かして、寝首をかかれる恐れもないとは言えないんだぞ」

「タバコじゃなくて、電子タバコさ」

「同じようなものだろう」

「全然違う。副流煙が出ない。これは革命ともいえる電子タバコの進化さね」

「吸ってるお前がニコチンを摂取しているのだから、同じ話だろう」


 お互い酒がまわってるのか少し赤らんだ顔で何やら言い争っている。なんだかんだ言って、仲良し二人組なのだと再確認した。


「すぅ、すぅ……」

「って、おい……」


 呆れつつも二人から眼をそらして真那に声をかけようとする。だが彼女は気づけば時雨の肩にこめかみを乗せて静かに寝入っていた。

 かすかに頬が赤らんでいるのは、先ほど飲んだカクテルの影響か。ほんの一口しか飲んでいなかったはずだが……どうやら彼女もまた酒には大分弱いらしい。


「この機に及んで、セクハラなどしたら見損ないますよ」

「しない」

「それにしても、無垢な寝顔ですねえ」


 ネイのその言葉につられるように再度真那の寝顔に意識を向ける。

 きめ細かい肌に色彩鮮やかな頬。大きな瞳は閉じられ華奢な肩は静かに上下していた。

 限りなく近くに彼女の存在を感じる。自然と鼓動が速まる。


「だらしなく鼻の下伸ばしやがられてますよ」

「…………」

「幸せそうですねえ」

「黙れ」

「平和ボケした時雨様。ですが私は少し安心いたしました。これなら……彼女も幸せになれますから」

「……え?」


 はっとしてネイの姿を見やる。だが彼女はすでに我関せずと言わんばかりにそっぽを向いていた。


「で、とりあえず目的の皇だが……」

「ひ、ひぐっ……お、俺だって、俺だってよ……くぅ……」

「完全に酔いつぶれてるな」


 バーテーブルに突っ伏したまま爆睡している。何やら情けない声で寝言を呟いていた。どうやら相当酒がまわっているようだ。


「ある意味ギャップ萌えというやつですね」

「需要あるのか?」

「頭の腐った婦女子方には、ある種の需要があるかと」

「おい皇、起きろ」


 さすがにそんな彼の姿は見ていられない。真那を起こさないように注意しながら、棗の頭にスナック菓子の包装紙であった紙ごみを投げる。


「……烏川か」

「やっと起きたか。あまりだらしない姿見せるな。俺たちのリーダーだろ」

「リーダーか……俺にはその役が収まるような、器はないのかもしれないな」


 酒は抜けきっていないようで彼は朦朧とした意識の中で何やら呟きはじめた。


「何言ってる、いつもの自信はどこに行ったんだ」

「……そんなもの見栄に決まっているだろう。俺は、俺にはすべての重責を背負う使命があるからな」

「さっき、責任は押し付けるつもりはないって話になったろ。俺はまだアンタのことを信頼しきれてないが、だがアンタには頼れる仲間がいる」

「ふん……確かに頼れる仲間がいる。だが俺は時折考える。何故俺のような男に皆は従うのかと」

「……まじで酔ってんな」


 棗がこんな弱音を吐くとは。予想だにしない展開に返答に詰まる。


「俺とて、率先して破壊工作に乗り出したいわけではない」

「…………」

「だが時に非情にならねばならない時がある。非情になりきらなければ耐えられない重責が、ある」

「……皇」

「烏川、俺は、間違っているのだろうか」


 朦朧とした目で棗は時雨の目を見据えた。その言葉に何も返せない。彼のとった選択は確かに非人道的だった。だがそれによって救われた命はあったのだ。

 どちらが正しいかなんて時雨には判別できない。いやその権利がなかった。


「ふっ……情けない姿を見せたな」


 棗は目を逸らし、中身のすべてあふれ出した倒れている酒瓶を手に取る。そうして空になったそれを一気に嚥下した。

 彼はその中身がもうないことに気が付くこともなく再び昏倒する。酒瓶を握ったままバーテーブルに突っ伏した。

 複雑な心境のまましばらく時間が流れた。

 バーテンは陽気に鼻歌を奏でながらグラスを拭いている。船坂と妃夢路に関しては徐々に会話が少なくなり、酒におぼれる様にただグラスを傾け続けている。

 そんな静寂に包まれたどこか落ち着く場所で。時雨は肩に真那の重みを感じながら、ただじっと時が流れるのに身を任せていた。

 言葉にできない感覚。こんな不謹慎なことを言っていいのか解らない。だが確かにこの安らぎの中に幸福を見出していた。


「ねえ時雨、私にとってね、幸せなことって時雨が幸せなことだから」


 頭の中に反響する彼女の言葉。


「だからいま私はね、幸せなのかも」


 そう呟いたいつかの彼女の笑顔は、どこか悲しげで。


「ちょっと寂しいけどね」


 その言葉の意味をいつか理解できるのだろうか。理解できたとしてその寂寥を解消してやれるのだろうか。

 視界はすでに滲み始めていた。朦朧とした意識の中で肩に重なる彼女の温もりに意識を落とす。

 真那はここにいるじゃないか。もし少しでも寂しいと感じているのなら、その心の欠乏を埋めてやればいい。それではだめなのか?

 

「駄目なんかじゃないよ。時雨が幸せなら……私も幸せだから」





「クレアなのだ」


 ちょっとした遠征任務を終了し本拠点へと帰還する道すがら。港区の構想建造物帯を抜けているときだった。

 踵を返そうとしたところで凛音がその場から歩みだした。

 彼女の向かう先を見やると、確かに特徴的なガスマスクが歩いている。ガスマスクはどこか挙動不審な仕草で物陰を移動していた。


「怪しい動きだな」

「内気なクレア様ですから。人目が気になるのでしょう」

「一人で外出なんて珍しいな」

「クーレーアーっ、どこ行くのだぁっ?」


 凛音の呼びかけに彼女は答えない。周囲のことを気にしているせいか、まったく気が付いていないようだ。まあ距離も離れているし聞こえなくてもおかしくはない。

 彼女はやがてとある路地裏で足を止めた。そうしてそこに入っていくかと思いきやその場にいる誰かと話し始める。


「あんな場所で何やっているんだ」

「あれですね、あれに決まってます。援助な交際に違いないです」


 ないだろ。


「どうしてそう言い切れるのですか? クレア様は健気な、やさしいお方ですから。レジスタンスの資金獲得のために幼い体を商売道具にされているのかもしれません」

「レジスタンスは資金的な面では潤沢だし、そもそも紙幣が存在しないから個人間での金銭の譲渡は出来ないだろ」


 通常IDカードにはマジョリティ、マイノリティ、カルテブランシェという種別がある。

 IDカードを持っているだけで住民はそのカードに無条件で一定額が支給されるのだ。月当たり順番に10万円、180万円、そしてカルテブランシェは億単位。

 それはリミテッド建設に伴う失業者の救済処置的なものである。職に就いている者はさらにその額に収入分が上乗せされる仕組みだ。

 そういう骨組みもあって貨幣などは一切存在せず、金銭の譲渡は現状認められていないはずだ。


「ちっ」

「おいなんで今舌打ちした」

「いえ、別になんでもありません」

「とーさまなのだ」


 凛音の言うとおり路地裏から貫禄まで感じる禿げ頭スキンヘッドが歩み出す。しばらくして路地裏から見知らぬ女性が歩み出してくる。


「誰だあれ、レジスタンス局員か?」

「リオンは知らぬのだ」

「以前参照したレジスタンス構成員に、あのような女性はいなかったように思いますが……」


 不審に思ってクレアたちのことをじっと見据える。もしクレアが狙われるようなことがあれば迅速に行動しなければならない。

 だが女性は、何やらクレアが抱えられるほどの大きさの金属ケースを取り出しただけだった。それを幸正に手渡し女性はそのまま再び路地裏の中に姿を消した。


「あのケース……リジェネレート・ドラッグだな」


 見間違えることはない。時雨自身レジスタンスに所属してからは常にリジェネレート・ドラッグを持ち歩くようになった。致命傷を負ったときあれがなければ修復できないからである。

 さすがにあの箱を持ち運ぶことはないが常に部屋に数箱配備してあるのだ。

 時雨が使っている物に関しては妃夢路経由で入手しているわけだが。幸正たちが受け取ったあれは同じものなのだろうか。

 そのまま幸正たちは雑踏の中へと姿を消す。なんとなく言い知れない不安感を抱きながらも拠点へと帰ることにした。

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