其の三

 深夜一時。明日が休日明けの平日と言う事もあり、色街ですら半分ほどの店が戸を閉めるような時間である。夜の街ですらこうなのだ、中央大通りなどはさながらシャッター街の様相を呈していた。


 と、そんな人気のまるでない道を一人の女が歩いていた。化粧や服装からして夜の蝶。仕事も終わり、このまま大通りを抜けて下町の家に帰る、それが彼女の日常だ。日中は人であふれかえるも、自分が帰る頃には誰もいないこの道。そんな状況に慣れ切った普通の女性だ、背後より近づく不審な影に気が付ける故も無かった。


 肌色をまるで見せないほど重装の黒装束。頭部は黒頭巾に黒の覆面。唯一違う色なのは、右手に握った白銀のブロードソード。そのあからさまに不審な見た目に見合った殺気を放っているが、油断した一般人に背後のそれを察しろというほうが無理な話なのかもしれない。


 10メートル…8メートル…と黒装束の男が徐々に間を詰める。しかし夜の蝶はこの捕食者にまるで気付こうともしない。遂にはブロードソードの間合いにまで接近を許してしまった。黒装束は剣を振りかぶり眼前の女に振り下ろそうとする。



びぃんっ



 しかしその剣が肉を断つことはなかった。瞬間、右手を目に見えぬ何かに引っ張られるような感覚が走り、振り下ろせなったのだ。その謎の衝撃を前に思わず剣を握る拳も緩み、ブロードソードは地面に落下、ぐわあああん、と森閑とした夜の光景に金属音を響かせた。


「きゃああああああああっ!!!!」


 さしもの女もこの音で、とうやく背後の不審者の存在に気が付いた。振り返れば黒づくめの男、足元にはブロードソード。恐怖に叫ぶのも当然だ。黒装束は歯噛みをしながら剣を拾い、踵を返し一目散に逃げて行った。叫び声を聞きつけた夜回りの州衛士がその場に駆け付けたのは、それからほんの1分後のことだった。





 男が逃げ帰った先、そこは不審者には似つかわしくも無い豪邸であった。深夜だというにもかかわらず、音を立てて正門から進入しどたどたと足音を立てながら廊下を歩く。家人だとしてもデリカシーに欠ける行為、案の定寝ていた家主を起こす羽目となった。


「何だこんな時間に…シャーティ!?その恰好、お前まさかまた…!?」


 騒音に目を覚ました家主、ジオール・レンボルトが目の前の黒ずくめを見て、顔も見えぬままだというのにその名を呼んだ。その声に応えるように男が覆面を剥ぐと、そこには怜悧な瞳の彼の孫、シャーティーの顔が確かにあった。


「ああ、お祖父様か。今夜は調子が悪く、逃してしまいましたよ。」

「お前まだそのようなことをっ!!」


 慌てて逃げかえった割には、祖父の問いには事も無げに答える。人ひとりを殺しかけたというのに、まるで釣果の無かった釣り人のような軽い語調。人として憤りを覚えるのは当然の発言であった。ジオールも眉間に皺寄せ拳を握る。


「前にも申しましたが、私はお祖父様の言いつけを忠実に実行に移しているだけですよ?『振るわぬ剣は錆びるのみ』『性を売り物にする商売はこの街を蝕む癌』という、お祖父様の口癖をね。」

「ぐう、また屁理屈を…!」

「己の腕が衰えぬよう剣を振り、街の癌を駆逐しているだけ。むしろ一石二鳥と褒めてもらってもいいくらいだ。」



―――ジオールの息子夫婦、即ちシャーティーの父母は彼が幼い頃早くに死去し、祖父の元で育てられた。質実剛健を地で行くジオールのこと、この可愛そうな孫を時には優しく、そして時には厳しく育てた、筈だった。両親の死により精神が欠落したのか、元よりそのような傾向であったのかは今となってはわからぬが、ジオールの厳しさは根性を捻じ曲げ、優しさは増長を招き完全に裏目となり、今かような怪物として存在している。精神修養のため第五近衛師団に預けたのもまるで意味を成さなかった。


「どうしましたお祖父様、そんな顔をなされて?私の行いを許せぬと思うなら、すぐさま官員に突き出せばいいじゃないですか。数日前のように、団長経由で各所に口封じなどという庇いだてなどせずに、ね。」

「………」


 そして最悪なことに、事ここに至りてジオールは、孫に対し厳しさよりも優しさを以て当たっていたのだ。あるいは身内から殺人鬼が出れば地位や名誉に傷がつくという保身も含まれていたかもしれない。ともかく、一度目の犯行を隠蔽してしまった。そしてシャーティーもそれに完全に味を占めてしまっていた。


「お互い明日も早い。もう寝ましょうお祖父様。」

「ぐ、ぐう……」


 憤慨と悔恨で苦悶の表情を浮かべるジオールを嘲笑うかのように、シャーティーは回れ右して自室に消えて行った。黒装束を脱ぎ、寝巻に着替えるところで、ふと右手首を見やる。あの時不自然に止まった右腕、己の体に何か不調があったのだろうか。そう思いながらじっと手首を見るめると、何やら細い糸で縛られたような痕が残っていた。しかし本当に細い痕、このようなか細い糸で大の男の全力スイングが止められるわけが無いだろう。結局シャーティーはこれを無視しベッドに潜った。


 彼は知らなかった。その痕は、その日四六時中彼を見張っていたWORKMANリュキアが咄嗟に投げた得物の黒糸であることを。



 そしてこの夜の会話が、今なお後を付け回しているリュキアの耳にそっくり入っていたということを―――





「………まさかのビンゴだった。凄いねアンタの勘。」

「いやまァ、厳密には俺の勘じゃねェんだけどな。」


 神父はともかく異性のリュキアに対しては、よもや以前に紹介した春画の新作がソースとは気恥ずかしくて声を大にして言えまい。翌朝、サボりに行った先の教会でいち早く事の顛末を聞いたマシューは言葉を濁すしかなかった。


「して、その未遂に終わった女性はどうされました?」

「今朝一で屯所にすっ飛んできたぜ、危うく殺されかけたってなァ。前と同じパターンなら一両日中に連中も動きを見せるだろうよ。そん時ァ…」

「ええ、黒幕の全容を暴き頼み人の恨みを晴らす時でしょう。リュキア、今度はジオール議員の動向を見張ってて下さい。」

「………了解。」


 奇妙にもほどがある縁によって得た棚ぼたとはいえ、真相にいち早く近づけたのは確かだ。後は深く裏を取り、そして「仕事」にかけるのみ。WORKMANたちの胸中に、本番への緊張感と高揚感が芽吹く。と、そんな段に至って、神父のほうからもう一つの指示がマシューに飛んできた。


「ああそうだベルモンドさん、件の絵草子作家…確かアンジュ女史でしたか。貴方には彼女のほうの見張りをお願いしたいと思います。」


「おいおい何だよ神父様。確かに二度も誰彼の裏の顔を見切ったのは不可思議かもしれねェが、あの姉ちゃんにやましいところなんかなさそうだぜ?いや、描いてる本はやましいけどよォ。」

「別に疑惑を以て見張れということではありません。件の本も書店に並んでいるのならば、衆目に付き存在が知れる。それが万が一連中の目にも入り、我々と同じ結論に至った場合、奴らはどう出ると思われますか?」

「―――消しに来る、だろうな。」

「人の不幸の上に成り立つこの『仕事』ですが、無駄な血が流れるのは本意ではありません。それは貴方も同じですよね、ベルモンドさん?」

「わかったよ。善処はしてみらァ…」


 マシューの返答は歯切れが悪かった。それは別にアンジュの死を望んでいるとかそういうわけではない。己に付きまとう因果を思えばこそ、その任務への不安を感じてならなかったのだ。





「レンボルト卿、今宵は夕食にお招きいただきありがとうございます。」

「そうかしこまらんでも良い。二・三言付けしてそれで用は仕舞いだ。」


 レンボルト邸の食卓に豪華な食事が並ぶ。港湾都市らしく海鮮類を中心とした料理の数々、しかしそれらを前にしても館の主ジオールの表情はすぐれない。卓を挟み対峙するのは第五近衛師団団長ハーウィット。こちらは対面の男とは打って変わって、卑屈な笑みを浮かべながら料理に舌鼓を打っていた。


「いやあ、儂も人生長いですが、これ程の食事は年に一度あるかないか…して、本日の御用とは?」

「言わずとも察しておるのだろう?前と同じく孫のこと、そしてその後始末を頼みたい。」


 先日マシューを怒鳴りつけた人物と同じとは思えぬ軽薄な口調のハーウィット。重々しく口を開いたジオールとは対照的であった。気が重くなる理由は明々白々、そしてその処理を「再び」頼むために晩餐に呼んだのである。


「ああ、シャーティー殿、いや孫上の悪癖がまた出たようですな。いや申し訳ない、こちらの指導が至らぬばかりに。」

「『あれ』が他人の指導で矯正できるなら苦労はせぬ。いらぬことは考えずただ口封じの圧力をかければいいだけだ。」


 当の「あれ」は、食事時というのにもかかわらずこの場にはいなかった。一度家に帰ると、すぐさま例の恰好に着替え外に出て行った。場合によっては翌日にも頼みごとが増えるかもしれない、そんな嫌な予感がジオールの胸中によぎっていた。


「しかし今回は斬られそうになった商売女が自ら証人として喧伝しとりますからなぁ。噂を完全に遮るには前以上に手間となるかと…」

「わかっておる。金の方はこちらで出すから自由に使うが良い。無論お前への報酬にも色を付ける。」

「へへへ、ありがとうございます。」


 ハーウィットの口角がいやらしく吊り上がった。先程までの慇懃無礼な態度の裏には、このように弱みに付け込む形で金をせびる算段があったのだろう。ジオールとてそのことに気付かぬほど愚鈍ではない。しかし、事はもはや取り返しがつかないところまで来ていた。


「…とは言えだ、人の口に戸は立てられぬもの。いくら上から抑えようと、いつかは真実が明るみに出てしまうのが世の常なのかも知れぬな。」


 ふと、深いため息のように、胸奥から吐き捨てるような言葉がジオールの口から零れた。


「いやいや!何をそんなに弱気になっておられるか!?不肖このゲラン・ハーウィット、議員の身内の恥が漏れぬよう全力を尽くし、墓の下まで抱えていく所存ですぞ!大船に乗った気分でご安心めされよ!」


 それに反応し、ハーウィットは忠臣めいたセリフを口走った。しかしその瞳に、燃えるような忠義心はまるで見受けられない。ただ、打算と欲望で濁っているだけであった。





 その後、早々にこの食事会を切り上げるつもりが、主にハーウィットのおべんちゃらのせいで終わった時には夜の10時を回っていた。夜もとっぷり更け、周囲の家には灯りの落ちたところも少なくない。ハーウィットはその暗がりの中を歩いて帰って行った。


 一方、ジオールは三階の窓を開け、遠い目で夜のザカールをじっと眺める。いつもと変わらぬ光景、あの夜ともまるで変わらない。そう、シャーティーが人ひとりを斬り殺して帰って来たあの夜とも。


 何故、あの日孫を匿おうと思ってしまったのか。何故、叱りつけて官員に引き渡してしまおうとしなかったのか。惜しんだものは孫の未来なのか、それとも己の地位か。思えばこの子を育てるにあたって、常に選択を誤って来たような気がする。叱るべき時になだめ、褒めるべき時に突き放していたような記憶。その結果と思えば当然なのかもしれない。


 いや、今更原因を追究したところで何になろうか。孫は調子に乗って思うさまそのどす黒い感情を吐き散らし、下賎の者にはたかられ、自分とくればそれら頭の痛い事象と良心の呵責の板挟み。精神が疲弊し、その巨躯が弱って小さく見えるようになるのも已む無き事だろう。



―――となれば、かような現世からの解放は、あるいは彼にとっては救いだったのかもしれない。



 ふと、ジオールは夜景の中にきらりと光るものを目撃した。まだ夜でも温かみの残る季節である、羽虫か何かだろうと特には気に留めなかったが、次の瞬間、その煌めきは明確な殺意を持って彼に襲い掛かかる。首周りをくるりと一周したかと思うと、唐突に首を絞められたかのような感覚が走った。


 無論それは感覚だけでない。実際に首を絞めていた。屋根の上に潜むWORKMANリュキアの放った必殺の黒糸、それが階下を見ずして標的の急所を的確に捉えていたのだ。


 リュキアは片膝をついた状態から立ち上がり、両の足を踏みしめながら一気に黒糸を絞り上げる。黒糸は着実にジオールの気道を塞ぎ、呼吸を妨げる。呼吸が出来ねばその先に待つのは死、のみ。やがて事切れたジオールは、糸の切れた操り人形のように上体をだらんと窓に投げだしたまま、ぴくりとも動かなくなっていた。


 齢60とも思えぬ巨漢が相手、女の細腕で死を与えるには骨の折れることだと覚悟を決めていたリュキアだったが、その「仕事」は拍子抜けするほどに簡単であった。それらしい抵抗もなく、実にあっさりと殺らせてくれた。ひょっとしたら、こうなることを望んでいたかのような感さえある。しかし、リュキアにとってはどうでもいいことだった。自分の使命は、ただ頼み人の恨みを晴らすべく死を与えること、それだけなのだから。





 夜更けの暗がりの中を、ハーウィットは鼻歌交じりで機嫌良さそうに闊歩していた。ここ山の手の高級住宅街から第五近衛師団の宿舎までは歩いて30分強ほどかかる。その微妙な距離すらも、今の彼には苦では無かった。


 基本、近衛師団は数が若いほど地位が高い。第五近衛師団はつまり、6つあるザカールの近衛師団のうちで二番目に地位が低いことになる。齢を重ねたベテラン団長といえど、上の団の団員に軽んじられることは少なくない。州衛士への刺々しい態度も、そのコンプレックスの現れなのかもしれない。


 しかし今は違う。州議会で強い権限を持つ議員と一蓮托生の共犯者となった。正直、シャーティーは招かざる客だった。権力者の血縁の厄介者を押し付けられたようなものであり、実際県の腕はそこそこにしても元からいた団員と折が悪く団の空気を著しく害していた。そいつが人を斬り殺したなどと聞いた時は、どこまでも迷惑な奴と呪ったものだ。しかし結果はご覧の通り、災い転じて福と為すとはこのことだろう。これを後ろ盾にすれば金の無心だけでなく、地位の逆転も夢ではないかもしれない。ハーウィットの前途は希望に満ちていた。



 しかし彼は知らない。その後ろ盾は今しがたこの世を去ったということを。そして自分も程なくして後を追うことになるという未来を。



 高級住宅街から官員の宿舎が立ち並ぶ団地へと抜ける道、ここは良く植樹され一種の遊歩道として市民に親しまれている。朝夕あたりは散歩する人々が大勢いるが、さすがにこう夜更けではすれ違う人もまずいない。それどころか道脇に人の住むような建物も無い。ここで今ハーウィットの身に何か起きてたとしても、目撃者となり得る人間など存在しないだろう。そしてそれこそが、WORKMANギリィ・ジョーの狙いであった。


 道脇に植えられた樹の上で、紅く色付く葉で身を隠しながら標的を待つ。浮かれ気分のハーウィットは、まるで無警戒のままその樹の横を通り過ぎようとする。



瞬間、跳躍。



 ギリィは的目掛け樹上から小柄な身体を浴びせかけた。騎士と言えど老齢、不意を打って飛んできた40キログラムの肉弾を受け止めることなどままならず、ハーウィットはそのままカエルのように押しつぶされる。うつぶせに倒れる老騎士の首筋は、うまくいきすぎなほどに無防備だった。しかしギリィ、楽な「仕事」の空気に浮かれることなく、ただ無慈悲に得物の長針をそこに突き刺す。頸椎からうまく髄に侵入した針は中で液体のように溶け出し、一目散に脳を目指しそこで花開く。かはっ、っと一瞬目を見開き吐血したハーウィットだったが、それ以上のリアクションをすることはなかった、いや、できなかった。


(だから、国防の要の人間がこんなに簡単に殺られるってのはどうなんだよ…!?)


 第三近衛師団長に続き第五近衛師団長もその手に欠けたギリィ・ジョーは、やはりまんじしりない思いを抱えつつその場を後にするのだった。





 貧富に関係なく、夜は万民に等しく訪れる。下町長屋-――ここも今の時間となればほとんどの灯りは落ち、深い闇と静寂に包まれる。しかし一軒だけ、未だに煌々と灯りをつけたままの家があった。


 その一軒家の中で、絵草子作家アンジュは一心不乱に筆を走らせ、新作を描いていた。版画屋から言われた最終持ち込み期限は明日の朝8時。出版社を通さぬ個人出版だけに、版画屋の融通は利かない。この期日を破れば新刊は出ぬ。となれば待ちわびる女性ファンへの裏切りにもなるし、何より己の手銭が尽きる。恰好こそだらしないままだが、アンジュは鬼気迫る表情で原稿を進めていた。


 それほどまでの集中力で眼前の紙と向かい合っているのだ、玄関に一歩一歩と迫る不審人物の存在など気付けるはずも無かった。


 長屋の通りを歩くシャーティーは昨夜同様に覆面黒装束の完全防備。凶刃を振るう気に満ちた格好である。しかしてその内に秘めるのは、今までのような衝動的なものではない、明確な殺意。彼は日中、書店にて件のアンジュの絵草子本を目撃していたのだ。


 自分を同性愛者のように描かれたことは別にどうでもいい。しかし己の悪癖を見透かしたかのような描写の数々はシャーティーの肝を心底冷やした。何故この作者が俺の裏を知っているのか?いや、いつどこでバレたかなどは問題ではない。このままこの作家をのさばらせておけば、折角祖父が匿ってくれているというのに全てが水の泡になる。


―――ならば、消すしかない。どうせ猥褻な絵草子作家、祖父が口癖のように言うザカールの汚点のうちのひとつ、消したところでむしろ街の為だ。保身と自己肯定の末、害虫駆除に向かうかのような心持ちで、シャーティーは本屋から聞いた作者の家へと向かっていた。


 ご丁寧に灯りが付いたままの玄関は、表札をその目にはっきりと映す。間違いない、ここだ。接近に気が付く様子も無い。このまま強行突入し速やかに斬り殺すのみ、と玄関扉に手を伸ばす。



すっ…



 シャーティーが玄関に手を触れるより先に、何かが彼の手に触れた。横から伸びる棒状のもの、よく見れば細身の剣を収めた鞘のようである。その鞘を目線でたどり持ち主を見ると、そこには今の自分の姿にも引けを取らぬような怪しげな男がいた。マントで口元まで覆い隠した、金髪モジャ毛でタレ目の男、しかしてその一見気だるそうな眼からは、強い殺意を感じさせる。明らかに堅気の人間では無かった。


「よォ兄ちゃん。この家の姉ちゃんに用があるのかい?」

「…………」

「斬るってんならよォ、こんな萎びた娘よりも、もっと甲斐があって有意義な人間を斬ってみてェとは思わねェかい?」


 覆面全身黒装束という近寄りがたい風体にも関わらず、男はシャーティーに実に気さくに話しかけた。しかもまるで何もかもお見通しといった様子。さしものシャーティーもだんまりを通すことは出来ず口を開く。


「何者だ、貴様…?」

「アンタもザカールの人間なら一度は聞いたことあんだろ?WORKMAN、の名前をよォ。」


 シャーティーの体に電流のような衝撃が走った。金で恨みを晴らすという凄腕の暗殺者、噂でしか聞いたことの無い存在が今目の前にいる。その瞳に宿る漆黒の殺意は、この言葉が虚言であるという可能性を打ち消していた。


「まあ何だ、こんなところじゃアレだし、もっと広くて人気の無いところにでも行こうや。」


 男は移動を提案した。シャーティーにも拒む理由は無く、言われるがままに付いていく。そしてそのようなやりとりが玄関前で行われていたことは、締め切りに追われる家人には与り知らぬ所であった。





 5分ほど歩き、着いた先は街外れの草原。背の高さほどの秋の野草が生い茂り、よしんば人が通りかかったとしても彼らの姿をはっきり見ることはできまい。そんな天然の決闘場で、二人の怪しげな男は何を説明するでもなく互いに剣を抜き構えた。シャーティーはゴードンアーツの教科書通りの上段の構え。対し男は細身の剣を腰で水平に構えた中段の構え。


 互いに摺り足で間合いを詰める。徐々に近づく必殺の射程を前にシャーティーの心は高鳴った。都市伝説でしかその名を知られぬ凄腕の殺し屋、それを斬って落とし衆目に晒したとなれば、一体どれほどの称賛を浴びることが出来るのだろう。それを思うだけで既に達してしまいそうになっている。その高揚感を前に、最早アンジュのことは彼の頭から押し出されていた。


 無論この妄想は今の決闘に勝ってこそなのだが、シャーティー自身のうちには負ける要素は無かった。生まれ持った剣の才能、それに加え「人を斬った」という経験―――いかに道場で優れていようが、実際に人を斬ったという経験と覚悟が無ければ実戦の場では無用の長物と化すだろう―――それが彼の勝算である。相手も数多の人を斬って捨てた殺し屋だろうが、人を斬る感触を知るのは己も同様、ならば後は剣才と体格がモノをいう領域。見れば対手は背も低く腕も細い。ならば鍛えた己の肉体が勝るは道理の筈。シャーティーは自信満々で歩を詰める。



 それが、悲しいまでの自惚れであると知らぬままに。



 男の爪先がブロードソードの射程ギリギリに重なった。瞬間、シャーティーは半歩の踏み込みから上段に構えた剣を振り下ろす。



 しかし、振り下ろした先に男の姿は無く、その目に映ったのは己の腹から滴り落ちる血のたまりであった。



 男はというと、彼の左後ろあたりで剣についた血を懐紙で拭っている。シャーティーが踏み込み剣を振り下ろすという動作は決してのろまなものではなかったのだが、男はその動作のうちに彼の懐にまで飛び込み、脇腹を裂き、そのまますれ違うように斬り抜いていたのだ。



疾すぎる―――



 痛みも、死の恐怖も、身の程知らずを悔いる気持ちも、およそ感情と呼べるものは何もない。今際のシャーティーの胸中に浮かんだ言葉はただ漠然とそれだけであった。そして支柱を抜かれたやぐらのように、足元からぐらりと崩れ血に臥した。


「やっぱりアンタの腕じゃ、中の上がいいとこだったわ…」


 サムライソードを納刀しながら真黒の死体を一瞥し、WORKMANを名乗る男―マシュー・ベルモンドは草原を掻き分けその場を離れていく。彼にとっては組みし易い相手ではあったが、かような裏稼業にあってひとりの女性を「守る」ことができたという充足感が彼の心に満ちていた。





「あのような嗜好の女性は他者を一目見て『ウケ』と『セメ』のふたつに分類するらしいですね。しかも極まった者ならば、人間のみならず無生物、果ては事象や概念すらも『ウケ』『セメ』で分かつことができるとか。万物を一瞬にして二つの分類に固定化、つまり二元論に結び付けることが出来る人間なればこそ、その裏に隠れた真実をもまた見抜くことができるのかもしれませんね。」


 後日、神父はアンジュの神懸かり的な的中力をこう推論づけていた。





「主様―、じきにお姉様が買い物から戻ってきますので、それまでに廊下の拭き掃除終わらせておいてくださいねー。」

「おう、わかった。」


 ある日のベルモンド邸。この日は月に一度の大掃除の日であり、使用人のみならず主人であるマシューも駆り出されていた。雑巾で床を磨くマシューに、フィアラは声をかける。もう春画の件は怒っていない。というか、先日フィアナが言っていた通り、その翌日には機嫌を直しいつも通り主人に接していた。


(ホント、あいつ何でもお見通しだよなァ…)


 マシューはそのことを思い出し、感心していた。一歳二歳の差とはいえこの屋敷で一番の年長者、年の功の慧眼ということなのだろうか。などと他事を考えてながら床拭きをしていると、当の本人が帰って来ていた。


「主様~、フィラちゃん~、ただいま帰りました~。」

「お帰りなさいお姉様。いつもよりちょっと遅かったから心配してたんですけど、何かあったんですか?」

「あ~…ちょっと、ね~」


 フィアナは買い物かご一杯の荷物を抱えて屋敷に上がる。大掃除の晩は奮発するのがベルモンド家のきまりごとだ。万年金欠でもそれだけは欠かさない。しかし流石にこのいっぱいの食材は重かったのか、多少足をふらつかせる。とその時、


どんっ


 考え事をしていたせいで前方不注意のマシューが、フィアナのその足元に激突した。その衝撃に耐えられる訳も無く、フィアナは買い物かごを投げ出し尻もちをつく。宙を舞う籠の中身―豚肉・たまねぎ・にんじん・セロリ・その他諸々、そして一冊の本。


 本は表向きのままぱたりと廊下に落ちた。そしてその表紙には裸で抱き合う美男子の絵と「作者:アンジュ」の銘。


「おいフィアナ、これって…」

「お姉様…?」

「………」


 本来ならぶつかった者同士互いに不注意を謝るべきところではあるのだが、その本のインパクトを前にした三人に言葉は無かった。真新しい紙のその本は、おそらくアンジュがあの夜必死になって描いていた新作。発売はまさに本日、その当日に手に入れるほどなのだから、フィアナは随分と熱心なファンなのだろう。


「さすがに実の姉がこんなん所持してるってのはドン引きですよ……」

「ち、違うのよフィラちゃん、主様~!これはですね、え~っと~…そう、八百屋のジーニーに頼まれてですね~!」


 珍しく狼狽するフィアナを見ながら、マシューは神父の推論を思い出していた。年の功の慧眼ではなく、こういう趣味があるからこそ自分たちのことを何でもお見通しできるのだろうか?姉同然の女性の醜態を前に、つい現実逃避のようにそんなことを考えてしますマシューであった。

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