第7話 拝啓ご両親、慣れることは無いでしょうが頑張ってみようと思います

 少ない経験に従って朝ご飯を控えめにしておいてよかったと心底実感しています。


 意外とエチケット袋って容量が少ないのですね。


 「大丈夫か?」


 「はい、何とか……」


 自分の粗相を最低限の形でカバーした僕は、班長の声にどうにか返事を返せました。反吐と同じように腹の底から捻り出すような見苦しい声ですが。


 「新人がことある毎に戻すのはWPSでも警察でもままあることですが……」


 平坦な調子で喋る先輩ですが、蹲る僕の背後で背中をさすってくれているので本当は優しい人なのです。予想してエチケット袋をくれたのも先輩ですし、口をゆすぎなさいと小さな水筒も出してくれましたから。この人に着いていけば大丈夫だという気がしてきます。


 「流石に突入前に吐いたのは初めて見たな」


 「現場で吐かれるよりもマシではありますけどね」


 ただ、この班長は流石に一月以上付き合っていると分かりますが、結構アレな感じなので着いていくのは程ほどにした方がいいのでしょう。外川氏と一度お酒を呑んだ時、実習でのエピソードを話したら「畜生かよ……」という感想も頂いた位なので、傍目から見てもアレなのかもしれませんし。


 「さて、落ち着いたかビギナー」


 「先輩、暇だからって煙草ふかさないでください」


 「バッカ、お前が口にしなきゃカメラの都合でHQには見えねーんだからいいんだよ」


 『HQよりE-35、後で話がある』


 始末書じゃなくて説教止まりか、なら後一本行けるななどと呟く班長を先輩がどつきに行き、果たして僕がここにいる意味とは一体と悩み始めて漸く吐き気は収まりました。もう戻す物が無くなるほど吐いたので、きっと大丈夫でしょう。きっと。


 「いけそうか?」


 「ぬっ、ぐぬっ……」


 振り返れば二本目の煙草を咥えた班長と、班長から煙草を取り上げようとするも頭を手で押さえられリーチの差で何も出来なくなった先輩の姿がありました。この二人は僕がいなくともこんな感じなのでしょうか。


 「ふははは、天が与えたもうた肉体の差に屈するが良いわホビット族め」


 「このオーク女が……」


 「オーク!? 酷くないか!?」


 そういえばこの間、夜間宿直の時に並んでポータブルDVDプレイヤーで指輪を不法投棄しに行く映画を二人で見てましたね。ただ班長、その辺にしておかないとそろそろ先輩の手が手斧に伸びますよ。


 「さて、じゃあビギナーも復活したし、気を取り直してやるか」


 班長はケラケラと笑って先輩を軽く突き飛ばして距離を取り、からかうように僕に微笑みかけました。まるで今のやりとりで緊張も少しは取れたろう? と言うかのように。


 ……まぁ、この人も悪い人では無いのです。悪い人では。


 ただ遊びが過ぎるだけで。


 古めかしいシリンダー錠はあっさりと回り、小気味良い音と共に扉の中で駆動が働きました。


 仕切り直して先ほどと同じ陣形を組みます。緊張の全てが抜けきった訳ではありません。しかし、不思議と心臓の高鳴りはさっきと比べて随分と大人しい物になっていました。肩をちょっと突かれただけで心停止に陥りそうな焦燥は失せ、目の前に集中できる丁度良い意識の張り詰め方。


 流石に全てを計算してやったとは思いませんが、きっとアドリブに強い人なのだと思います。何より状況がコロコロ変わるこの仕事。そんな対応力こそが大事なのでしょう。


 「3、2……」


 カウントが進み、ノブが回されます。後はもう扉を開くだけ。向こうで何が待ち構えているかは分かっていても、状況が分からないことが恐怖を誘います。


 「1」


 僕たちが騒いでいたのに吊られて直ぐそこに居るのかもしれません。それとも本当に無精が祟っただけで、誰も死んでいない可能性もあるのでしょう。色々な可能性が今は不確定ですが……。


 「0」


 それもたった今、確定してしまいました。


 密閉されていた部屋が開け放たれ、向こう側に蟠っていた空気が漂ってきました。遠い昔に一度だけ嗅いだ記憶のある嫌な臭い。鼻に刺さる魚介とも肉ともつかないものが腐った酸味のある独特の臭気。


 紛れもない死臭です。死人だけが発する、この世で最も神経を逆なでする臭い。


 今まで僕が目にしてきた死体は、曲がりなりに整えられてきた物ばかりです。再起する前、ほんの少し前まで脳が生きていて心臓も動いていた死体は生き物として死んでいても、まだ身体を構成する細胞は生きているのです。だから臭いは消毒液の臭いしかしません。


 長い闘病の末に少しずつ末端が壊死して弱い死臭を放っていたご遺体もありましたが、これほどの臭いを発するケースはありません。


 紛れもなく、この部屋の住人は亡くなっているのです。


 フィルターを通して尚も弱らぬ臭いに本能の深い所が刺激され、脳の奥から沸き上がるように恐れの感情が滲んできます。この人間以外の肉が腐るのとは全く違う臭いが告げてくるのです。ここに居ると死ぬぞと。


 「E-35よりHQ……DA確定だ。嗅ぎ慣れた臭いがしやがる。時期的にそんなに経ってないな、部屋の外に出ない程度の臭いだ」


 顔を防護するマスクの内側で班長が鼻をひくつかせて無線機に語りかけます。慣れてくると臭いだけでも分かるのでしょうか。捕まれぬよう先輩がシニヨンにし仕立てた後頭部が楽しそうに揺れているのが見えます。


 あの人は楽しんで居るのでしょうか。この緊張を。命のやりとりを。


 『HQ、了解。再起性死体の捜索と鎮圧にあたられたし。オーヴァー』


 1Kの狭苦しいアパートで捜索もなにもないでしょう。班長は玄関マットが敷かれた廊下に土足で上がりました。よく見れば、廊下にポツポツと黒い何かが落ちています。


 「ビギナー、覚えておきなさい。再起性死体にせよホトケさんにせよ、それが転がってる部屋には虫がいます」


 後に続く先輩が目線を前に固定したまま、手斧でポツポツと転がる物、寿命が来て死んだであろう蠅を指して言いました。


 蠅は死臭を嗅ぎつけて小さな隙間――換気扇や風呂場の窓。人間の家は思っているよりスカスカだそうです――から入り込み、死肉に群がって繁殖します。彼等に普通の死者が再起死体かの区別など無く、死肉には違いないのですから。


 後で教えて貰ったことですが、この死んでいる虫の数でも死後どれだけ経ったかが大体分かるそうです。死後一月も経つと、床一面が死んだ成虫とサナギで真っ黒になるほどだとか。入り込んで役割を果たした成虫だけが死んだだろうから、この程度しか転がっていないのでしょう。


 「聞こえてた話し声はこれか」


 耳を澄ませば磨りガラスが嵌まったキッチンと部屋を隔てる扉の向こうから人の声が聞こえてきます。軽快な話し口調は道中車内でも聞いていたラジオ局のDJに違いありません。


 班長が扉に手を掛けながら磨りガラスでよかったと呟きます。向こう側が見えるので、開けた途端に再起死体に掴みかかられることが無いので、こういった構造の扉の方が嬉しいのは分かります。誰だって様子が分からない部屋に踏み込むのは怖いですから。


 「風呂場、トイレはクリアです」


 1Kのユニットバスを先にクリアリングを済ませますが、元から灯りの着いていなかったそこは空っぽでした。長い間放置されて乾いた水場特有の嫌な臭いがします。トイレのパイプ、その奥から漂ってくる悪臭と死臭が混ざり合って酷い臭いでした。


 「じゃあ踏み込むぞ」


 班長が先頭に立ち、右手でドアノブを握って盾で上半身を庇いながら突入の準備を整えます。押して開くタイプのドアの場合、ドアの直ぐ脇に居たなどという状況に備えるため、ノブを捻ったら盾ごと身体を押し込むように突入するための構えです。


 ドアを開けると、そこもまた中々に酷い光景が広がっていました。


 窓際に置かれていたベッドと小さな机以外には古めかしい衣装箪笥しかないこぢんまりとした部屋。部屋の右手奥側に位置する衣装箪笥、恐らくは嫁入り道具だったであろう部屋に似合わぬ桐の立派な箪笥の前に彼女はいました。


 地味な私服を身に纏った小柄な老婆のシルエット。箪笥の上で賑やかに流行の音楽を流すラジオに向かって微妙に届かない手を伸ばす姿は生者のものではありません。


 「HQ、見えてるか」


 『HQよりE-35。確認できた。強制執行を許可する』


 本部から強制執行の指示は、あっさりと言って良いほど簡単におりました。ええ、それもそうでしょう。カメラ越しの後ろ姿であっても一目で分かります。彼女はもう死んでいるのだと。


 伸ばされた手も惰性で立ち続けた足も、微かに覗く首もどす黒く変色した死者の色。その表面を這い回る白いものは、彼女自身を食んで成長した蛆でしょう。蛆以外にも屍を食む虫が巣くっているのが分かります。


 僕が始めて、この目を通して見る再起性死体でした。


 資料では幾度となく見てきました。ニアパンデミック事件時の資料や、事故現場の資料など、今直面している死体よりずっと損壊が激しく目を覆いたくなるような遺体が幾つもありました。


 しかし、しかし始めて目の当たりにしたこれは……。


 「ラジオに惹かれてずっとあそこって訳か」


 「楽でいいですね」


 先輩達は警戒を解き、班長は構えていた防盾を下ろしました。僕たちが入り込んでも死体はラジオが流す流行のポップスに向かって突き進み、時折指の先がギリギリでラジオに触れるだけ。カチカチと硬い物がぶつかる音は、食欲に任せて歯を打ち合わせている音でしょうか。たとえその腹にどれ程の糧を詰め込んだとしても、欠片ほども飢えなど満たせないというのに。


 「吐くなよビギナー」


 「現場汚すと鑑識に叱られますからね」


 揶揄するように語りかけてくる班長ですが、不思議と吐き気は湧いてきませんでした。恐怖は勿論あります。本来動かないものが動いていることに対する違和感も、世間一般から見て普通である死生観による嫌悪感も。


 ただ、それを上回る悲しみを覚えたのです。


 彼女に何があったのでしょう。外に出かけるのに丁度良いジャンパーに小ぶりなポシェット。片方脱げた靴下は、帰ってきて脱ごうとしていたのが何となく分かります。


 今は彼女自身から滲んだ腐臭で見る影もありませんが、丁寧に整えた部屋からして、きっと身ぎれいでシャンとしたお婆ちゃんだったのでしょう。きちんと母の日にプレゼントを贈られ、今も心配して家族が来ている彼女は、愛されているいい人だったに違いありません。


 なのに彼女は死んで、死に損なって一人立ち尽くしています。腐れた肉に腐汁を滴らせ延々と飢えに苛まれる。これほど辛い仕打ちがありましょうか。たとえ大脳は殆ど機能を失って腐り果て、自我などあるはずも無いとしてもあまりにも、あまりにも酷いではないですか。


 一体彼女の何処にこんな姿になって彷徨わねばならぬだけの罪があるのか。僕には……僕には分かりませんでした。


 どうしてか、その悲しみが先に来たのです。非再起処置の時は、そんなことを感じなかったのに。本当にどうしてなのでしょう。


 「いいかビギナー、連中は発達した嗅覚で同類と獲物を区別し、聴覚で獲物を見つけて寄っていくが……」


 「あんまり頭が良くないのと、視覚に頼っていないので、複数のターゲットが存在する場合は、より大きな刺激を与えてくる方に反応します」


 本来ならば即座に対応すべき脅威に向かっていくはずですが、再起性死体が僕たちに興味を示さないのを良いことに班長は彼女を僕の教材にすることにしたようです。


 そういえば、確かにさっきから小声でとはいえ話していますし、足音も立てたり扉を開けたりもしているのに反応していませんね。人間であればラジオの音よりも扉や人の声に反応するのですが、班長や先輩が仰る通り、より大きな刺激に反応するということでしょうか。


 「その習性を利用する装備や設備もあるんだが、それは追々教えてやる。戦法としてもメジャーなのが幾つかあるしな」


 班長はそう言うと手斧をベルトの鞘に戻し、邪魔になると言って防盾まで外してしまわれました。


 一体何をと思っていると、徐に再起死体へと歩み寄り襟首を掴んだではありませんか。


 そして掴んだ襟首を勢いよく引き寄せ、その際に腕が曲がるのを利用して肘を肩に打ち付けて強引に体を入れ替えます。掴んだ襟首だけでは無く肘と腕を使い、全身の体重移動に巻き込んでの投げ。逆に掴み返されれば簡単に引き裂かれるような相手なのに班長の動作には迷いも怯えも無く、完璧に洗練された技術と慣れのようなものを感じます。


 ちゃらんぽらんな発言から中々にアレな印象を受けてしまう人ですが、こうしてみると本当に歴戦の執行官なのだと今更認識できました。


 円運動を伴うすれ違いによって亡骸は強引に地面へと引き倒され、腐った肉がフローリングに叩き付けらる気味の悪い水音が響きます。


 受け身も取れず倒れた老婆の背に、班長は何の容赦も無く打ち付けるような勢いで足を踏み下ろしました。今になって何が起こっているのか気付いたらしく、再起死体は四肢をばたつかせて起き上がろうと藻掻いていますが、重心を完全に押さえられて完全に潰されています。


 「人間、うつ伏せに倒れた状態から背中を踏みつけられると起き上がれないもんでな。この位置に足を載せてやれば、後は俎上の鯉だ」


 長い足を誇るように体重を載せる班長。死体が無理に腕を回しても届かない位置に陣取った彼女の足に手を届かせることは適わず、起き上がろうとしても直ぐに重心を崩されて潰されてしまう様は、酷く寂寥感と哀れみを誘います。


 「さて、じゃあ無力化するぞ。ビギナー、やってみるか?」


 班長は気軽に言って、懐から取り出した物を僕へ投げ寄越しました。本当にちょっとした別部署へのお遣いを命ずるように、僕の手に長いアイスピックのような強制執行時の非活性化処置装備が収められます。


 この長いアイスピックのようなナイフは、安全に再起死体を無力化できた時に使う装備であり、比較的遺体を損なわず非活性化処置――既に起き上がってしまった死体を非活性化させる処置であり、非再起処置とは明確に区別されます――を果たすための装備。


 これで首の裏から脳幹を貫いて機能を停止させるのです。小さな傷口しか作らないのでダメージは最小限で済みますし、グリップのボタンを強く押し込めば刃が抜けて傷口も塞ぐことができます。


 グリップを握る手に力が無意識にこもりました。


 確かに今まで何回も非再起処置をして、抵抗は薄れてきていました。必要なことだと思うと共に恐れを拭いきれていないのは事実です。しかし、この感情は何なのでしょうか。


 哀れみ? 同情? 自分の中に形容しがたく整理のつかない感情が渦巻いているのが分かります。無理矢理言にでも語化するのであれば、悲しみとしか言いようのないこの感情は何なのでしょう。


 自然と僕は言われるが儘にピックの鞘を外し、グリップを強く握っていました。


 「逆手に握って、左手で柄頭を覆うようにしてください。そうすると滑らなくてすみますから」


 傍らで様子を伺っていた先輩がこわばっていた指に手を伸ばし、直接僕の身体を操作して指導してくれました。グリップは強く保持し、手からピックが抜けないよう空いた手で柄頭を押さえる。こうしないと体重を掛けて突き刺した時、手が刃の方に滑って接触感染の危険があるそうです。


 「近寄る時は片足で手を押さえろよ。片手でも簡単に引き倒されるぞ」


 「握力だけで骨がへし折れることもありますから、踏み折る勢いでやってしまいなさい。それくらいの損壊なら回収後に幾らでも誤魔化せます」


 手本として先輩が隙を見て再起死体がばたつかせる手を踏みつけました。強く打ち付けられた革靴の底と床に挟まれ、細い肘から骨が割れる甲高い音が響きます。それで尚動き続けていますが、流石に関節を砕かれると支障が出るのか、先ほどまでの力強さはありませんでした。


 お手本通りにばたつく左手が伸びきった瞬間を狙い、肘を踏みつけました。正しく小枝を踏み折るような小気味のよい、それでいて酷くおぞましい感覚。腐った皮膚が靴底で伸びて千切れるのが分かります。後少し足を踏み込む角度が浅ければ、盛大に剥がれた皮膚と共に僕は転んでいたことでしょう。


 その事実に恐れるように体重を篭めると、掌を下に藻掻いていた左腕は動きを止めました。関節を押さえられ、これ以上動けなくなったのです。人の構造とは不思議なもので、ある一点を押さえれば簡単に動けなくなるのだと改めて認識しました。


 「上等上等。始めてやるとすっ転ぶヤツもいるから準備してたんだが、中々どうして上手いじゃないか」


 僕が慌ててバランスを整えていたのを班長はしっかりと見ていました。振り向いてみれば、何時もの笑みを浮かべた彼女の右手にはいつの間にやら拳銃が握られているではありませんか。すぐにフォローできるよう備えてくれていたのでしょうが、僕が何かトチるのを若干期待していると思えるのは、どうにも被害妄想ではないような気がするのです。


 抗議混じりの視線を送っても何処吹く風、軽く受け流されて次の指示が出されます。この人の精神にダメージを与えられる人がいるのか分からなくなってきました。先輩とのやりとりは、どちらかと言えば楽しんで居るような感じもしますし……。


 「じゃあ次は首の方にしゃがみ込め。ビビるなよ、しっかり動きは止めておいてやる」


 「突き刺すならここにこの角度です。一突きで小脳と脳幹を破壊できます」


 首の裏と後頭部の境目辺りをボールペンで指しながら先輩が角度と位置を教えてくれました。小脳は脳幹と寄り添うように後頭部の下部に位置しており、知覚や運動を制御する中枢機能を司ります。大脳は死して腐り果てても、再起死体の脳幹と小脳は一部の機能を維持しており、それ故に死体は動き回り生き物にも似た摂取行動を取ろうとするそうです。


 だからこそ、ここさえ潰してしまえば死体は元の死体に戻る。


 「この角度だと頭蓋を上手く避けられます。一突きで力強く行きなさい」


 「し損じると危ないしな。それにだ」


 ライターを弾き、炎が大気を炙る音。腐臭の中に甘やかな紅茶を想起させる臭いが漂い、何処か蠱惑的な吐息が鼓膜を揺らしました。


 「誰だって好き好んでくたばった後に這い回ってる訳じゃない。さっくり終わらせてやれ」


 嗚呼、分かりました。あの整理しがたい感覚は……憐憫だったのでしょう。こんな姿になってしまって、僕はこの老婆を哀れんでしまったのです。死に触れて、死に慣れてきて、恐怖に塗りつぶされていたものがやっと表出したのでしょう。


 これは必要な仕事です。生者にとってもですが、それ以上に死者にとっても。


 誰かが皮肉のように言いました、生きている連中のために死体と戦っているのに、そのやり口に文句を言われるのもやるせないなと。


 確かに僕らは雁字搦めです。放ってけば何人が殺されるかも分からない、人を古くなった人形のように容易く解体する存在と相対しているのに剰りに多くの制約を課されています。それこそ一歩間違えば次の瞬間には自分たちが“処理”されてしまいそうな危険を冒さねばならないほど。


 しかし、人は死者を弔ってきたのです。死者が何かを感じることは無かろうとも、たとえ生者が自身の感情に整理を付けるための儀式に過ぎないと言われながらも。人は死者のことを思うからこそ弔ってきたのです。


 彼女に死後、自身の腐汁を纏わせながら彷徨い続けるだけの罪業があったとは思えません。それならば、終わらせてあげるべきなのです。生者を護り、死者の尊厳を取り戻すこと。それが僕たちの仕事なのでしょう。


 なら、もう迷いはしません。この仕事が好きになれることはないでしょうし、完全に慣れることもないでしょう。それでも、僕が迷ってはいけないのだと理解は出来ました。


 だから、始めて繰り出した刃は、思っていたよりもずっと軽い手応えしか返してきませんでした…………。






 昼下がりの穏やかな陽光に照らされて、僕はアパートの前にある黄色い車止めに座って項垂れていました。


 処置自体は上手く行きました。一突きで再起死体は非活性化され、ボディバックに仕舞われて乗ってきたバンの後部に格納されています。


 気に病んでいるわけでも無ければ、最初の実習の時のように得も言えぬ罪悪感に打ちひしがれているわけでもありません。なんと言いますか、腹を括ることができても精神的にクるものはクる訳でして……。


 後、凄く今更ですが死臭に酔いました。ものすごく気分が悪いです。


 緊張していて五感が一部を除いて鈍っていたのでしょうか。強制執行中には酷い臭いだと思っても耐えられなくも無かった腐臭が、気を抜いて大きく深呼吸した瞬間にガツンと精神と鼻粘膜を蹂躙してきました。


 ええ、それはもうきつい臭いです。普通の肉が腐る臭いでも辛いのに、人の肉が腐って汚物と混ざり合う臭いというのは、それはそれは筆舌に尽くしがたく脳と精神を蝕む臭いなのです。先輩曰く、ここで同族が死んだという事実に対する警鐘として、脳が過剰に反応するから臭く感じるとのことですが、そんな説明が何の救いにもならないのと同じで、きついのはきついのです。


 反吐を吐ききったと思うのに、まだ吐く物があったのかと思うほどの吐き気を乗り越え、僕は今ここで休憩している次第。自分でも分かるほど顔色が悪くなった僕を見かねて、後処理は班長と先輩がしてくれました。今頃、警察とご遺族に説明をした上で除染斑の到着を待っているのでしょう。流石に二次感染が怖いので、民間の特殊清掃業者に任せる訳にもいきませんし。


 ああ、必要な仕事だと再認識できましたが、ほんとこれからやっていけるのでしょうか。班長も先輩も何とも無さそうにしていらっしゃいましたけど、あの領域に至れたら至れたでどうなんだという気はしますし……。


 などと考えていたら、不意打ちで押しつけられた冷たい感覚に甲高い悲鳴を上げてしまいました。何事かと思って顔を上げれば、喪服のジャケットを脱いだ先輩がいらっしゃいました。手にはよく冷えたスポーツドリンクと赤い有名炭酸飲料の缶が握られています。冷たい感覚は、これが原因でしょう。


 「大丈夫ですか、ビギナー」


 先輩は有無を言わさずスポーツドリンクを僕に押しつけると、自分は炭酸飲料をちびちび飲み始めます。炭酸を一気に飲めないタイプなのでしょうか。また妙に可愛らしい……。


 「まぁ、今日は上出来でしたよ」


 「あ、ありがとうございます」


 「あそこで躊躇って刺せない新人も多いのに大したものです」


 少し離れた車止めに腰を下ろし、目線を合わせることも無く誉めてくれる先輩。この人の時はどうだったのでしょうか。驚くほど生気に薄く、目を閉じて横たわっていれば死んでいるのではと不安になりそうな――実際、夜間当直の時に仮眠室で寝ている姿を見て不安になりました――先輩が困惑したり、戸惑っている姿は想像できません。


 予言めいた確信ですが、今のように淡々としていたのではないでしょうか。まぁ、今後どうでしたと聞くつもりはないのですが。


 「飲みなさい。脱水で倒れますよ」


 「え? あ、はい……」


 「吐くと腸液や胃液も戻すので、胃の容量以上の水分が身体から失われているんです。しっかりメンテすれば死ぬまで使える身体ですから大事にするように」


 そしてこの物言い。割と真剣にこの人が人間なのか疑問に思えてきました。WPSの技術部が開発した対再起死体用アンドロイドなんですと打ち明けられても、二秒ほど困惑した後で納得してしまう勢いで。


 「ああ、そうだ、今夜暇ですかビギナー」


 とはいえ、流石にそんな失礼な感想を口にするわけにもいかないので話題を変えようと思えば、先輩の方から変えてくれました。急でしたが別に何か予定していたわけでも無く、明日は夜間宿直シフトなので暇といえば暇です。むしろ先輩なら知っていそうなものですが。


 とりあえず聞かれたので暇ですと応えると、僕としては意外な言葉が返ってきました。


 「では呑みにでも行きましょうか。歓迎会もしていませんでしたしね」


 一瞬言葉が出て来ませんでした。何があろうとそんなこと言いそうに無い人だと思っていたので。面倒見が良いのは一月以上一緒なので分かっては居ましたが、人付き合いが嫌いな性質だと思って居たので、意外としか言いようがなかったのです。


 「残念ながら班長はお説教が長引くと思うので欠席ですが、呑み代は絶対に引っ張ってくるので心配は要りません。ええ、絶対に引っ張ってくるので」


 何の恨みがあって、と思うも心当たりがそこそこあるので納得することにしました。


 「そこまで遅く拘束するつもりは無いので安心してください。ま、男二人で軽く引っかけるくらいの心持ちでいてくれれば……」


 「ん?」


 おや? 今この先輩はなんと言ったのでしょうか。男二人で? あれ?


 「どうしましたビギナー」


 心底不思議そうに此方を見返す先輩。僕が上げた声が何か分かっていないのでしょう。ああ、これはアレですね、普通に勘違いされていたという……。


 「あの先輩、僕の資料とかって見たことありますか?」


 「ん? ええ、はい、ざっとですけど。メンターなのですから当然でしょう」


 「……僕、生物学的には女なのですが」


 「……はい?」


 少しだけ口をぽかんと開け、何時もは眠そうな目を見開いた先輩。おっ、レアな表情と思ってしまいました。


 ええ、気にしていませんとも、慣れていますから。身長は170cmありますし、肩幅も割としっかりしていて名前だって今風に言えばユニセックスなものですから。カッチリしたパンツスーツの喪服で体型に合わせれば見分けがつかなくとも不思議ではありませんよ。


 不思議では……不思議……では……。


 「あ、あの、ビギナー? 大丈夫ですか? あの、その、いえ、本当に申し訳ないというか、経歴欄以外は殆ど見てなかったので、あの……」


 気にしていませんから、本当に。慣れたものですよ、本家様からアイドルになれると言われて喜んだと思えば、立派なジャニーズにとか続けられちゃう程度には、ええ、もうね、ええ……。


 珍しく声音が上ずっている先輩を余所に、僕はスポーツドリンクが妙に塩っ辛いなぁ、と青い空を見上げてぼんやり思うのでした…………。

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