邪馬台国東遷

シロヒダ・ケイ

第一部 倭国強靭化計画

邪(や)馬(ま)台(たい)国東遷(とうせん)    

              シロヒダ・ケイ 作




第一部 倭(わ)国(こく)強靭化(きょうじんか)計画



時は西暦237年。中国は魏(ぎ)呉(ご)蜀(しょく)の三国志時代。倭国では卑弥呼(ひみこ)擁する邪馬台(ヤマタイ)連合国が、その代表として、韓半島諸国、そして公孫(こうそん)氏が窓口となっている帯方(たいほう)郡(ぐん)との交易、外交を担っていた。この物語は、そうした歴史背景、公孫と魏の関係が微妙になり韓半島をめぐる情勢が流動化の兆しを見せてきた中で、スタートする。歴史の波に洗われ、様々な体験をして行く、倭国の青年、主人公トシを描いたものである。


― 第一章 伊都(いと)国(こく) ― 


「おてんとう様は笑ってくれんな。」

塩ジィが曇った空を見上げて難しい顔をしている。「ええい。やめだ。やめだ。」採取したばかりの藻塩(もしお)の原料となるホンダワラをポンと投げ捨てた。         

本日の製塩作業は中止と決まった。製塩は好天気の時にこそはかどる訳で、湿気の多い時、ましてや雨が降れば全てが台無しになる。 

  

「トシ坊、それは何だ?」首からぶら下げた皮袋に気付いて塩ジィがたずねた。

「人に見せれるようなシロモノじゃないんです。入っているのは刀子(小刀)なんだけど。あそこ、今山で拾ってきた石を仕上げた手作りなんで・・・」東に見える今津湾入り口の小山を指差した。或いは島と言うべきか。満ち潮では島になるが、潮が引けば砂浜づたいに歩いて渡れる陸繋(りくけい)島(とう)である。

 「あそこには玄武岩(げんぶがん)の塊がゴロゴロしているからな。今山には。肉だの魚だのさばくには結構重宝する。しかし、竹簡(ちくかん)を削るんだったら鉄製がいいだろ。お前の商売道具なんだから・・」

 「鉄のナイフは値が張るし、これは公務じゃなくて、私用で使うものだから・・」庶民には鉄は高嶺の花。当時、ナイフは、鋭い玄武岩か黒曜石(こくようせき)製が使われていた。

「給料が出たんじゃないのか?」

トシは邪馬台国の国立学校「一大率学園」の学生。とはいっても準公務員扱いで小遣い程度の俸給が支給されている。皮袋にはその俸給の中国貨幣、五銖(ごしゅ)銭(せん)も入れていた。

 「これで祖母への土産を買おうかと思って・・。いつまで生きてるかわからないし。今度帰省した時にでも孝行しとかないと。」皮袋をジャラジャラ鳴らした。

「お前はバアちゃんっ子だなあ・・ハハハ。」

息子を見るような温かい目で塩ジィが笑う。

塩ジィは国営事業である製塩の責任者。学生は学業以外にも、こうした事業にも手伝う義務があった。つまり塩ジィは仕事上は上司なのだ。が、学生達の中でも、特にトシには目を掛けてくれている。

「ようし、わかった。今日は仕事ナシで暇がある。お前の土産物ショッピングに付き合ってやるよ。で、何を買うつもりだ?」

「アクセサリーにしようかな。碧玉(へきぎょく)の管(くだ)玉(たま)か勾玉(まがたま)を見てみたい。」

「よっしゃ。俺に任せろ。顔の利くところがあるんだ。」


トシが東市場に向かおうとすると塩ジィは逆方向に歩き始めていた。「何処に行くんだよ。塩ジィ。」「まあ、いいから付いてこいよ。」

 彼等がいる一大率エリアの東側には一般個人向け市場があり、生鮮・食料品から衣服、日用品、アクセサリーの小売店が軒を連ね、商売人の掛け声で活気に満ちていた。普通ならこちらに向かう道のはずだ。

一方、今、向かっている西側は鉄鋌(てってい)や材木など素材そのものを扱う店や、穀物倉庫群、鉄や青銅の鍛冶場(かじば)、加工場が立ち並んでいた。流通業者や職人が多く、一般人は立ち入りにくいプロ向けの市場だったのだ。

二人は燃料の木炭の臭いを嗅ぎながら、加工場が並ぶ一角にやってきた。その中の玉造(たまつくり)工房の前に立つ。工房では砥石(といし)で石を磨く人、キリで穴を穿(うが)つ人が黙々と作業していた

 「大将は居るかね?」塩ジィが声をかけると、その声を聞きつけた恰幅(かっぷく)の良い職人が慌てて駆け寄って来る。ここの頭領らしい。

「これは久米のダンナ。お久振りです。こちらからご挨拶にお伺いしなきゃならないのに、お越し頂いて恐縮です。今日はまた何の御用ですかな?」

気難しそうな、クセのある顔立ちだが、塩ジィにはやけに親近感を見せ、低姿勢なのが何となく滑稽に感じられる。

 「いや、なに。この子が人間国宝級の腕を持つアンタの玉を買いたいと言うんでな。連れてきた。安う分けてくれんか?」

大将はトシの顔を見て一瞬ひるんだような表情をみせる。「親戚のお子ですかな?」

「いや、塩作りを手伝ってもらっておってな。」

 「ご予算はいかほどで?」大将が恐る恐る塩ジィに問いかける。

トシが皮袋から五銖銭取り出そうとすると塩ジィがそれを押しとどめ「まず品物を見せてくれんか」と、やや威圧的な口調で切り出した。

大将が恐れ入った風の腰つきで案内する。「いやあ、お世話になったダンナのことです。勉強しますよ。さあ奥へ・・。」

頭領の仕事部屋に入り、そこらあたりに座ってくれと言われて見回すと、あたり一面、石が無造作に転がっている。

「おう少年。よく見ろ。こいつら目の保養になるぞ。これも宝石、あれも宝石、上物の出雲(いずも)石(いし)だ。」これが碧玉の原石、出雲はその有名な産地なのだ。

大将には宝石と言われたが、トシの目には暗い緑色の石がゴロゴロしているだけに見える。光沢のある石を期待していただけにピンと来ない。

横から塩ジィが話しかけた。「宝石みたいには見えんだろ?だがな、こいつの腕にかかるとこれが変身するんだ。・・大将曰く、女達の垂涎(すいぜん)の的。輝く宝石にな、ハハハ」

「ダメな石は腕が良くてもタダの石ころ。上物の宝石になるかどうかは見立て次第。原石の見分け方が肝心だ。こいつらは俺の自信満々の原石さ。」そんなものかと思うが、トシにはイマイチ得心が出来ていない。

「最近は息子に任せているが、昔はよくダンナと原石仕入に出雲に通ったもんでね。花仙山で掘出しモン見つけては、儲け先取りの前祝。出雲の港町でドンチャン騒ぎをやらかしたものさ。」

「こいつ。腕は確かだが酒と女にだらしなくて。いつも事件を起こしては、俺に厄介をかけやがる。お互い若かったな。あの頃が懐かしいのう。」


いつのまにか酒が出され大人達の昔話に付き合わされていたトシ。あらためて辺りを見回すと碧玉の原石の中に、白っぽいが緑色を含んだいかにも堅そうな石が置かれているのが気になった。引き寄せられるようにその石を取り上げ、眺めると不思議に高貴な雰囲気が漂ってくる。

「この石も出雲石という碧玉なんですか?」と問うてみた。

「それはヒスイと云う石。出雲の市場から買ってきたが、もとは越の国、姫川から出た石だ。」

トシは越と言われても見当がつかなかった。だが、そこは信じられないくらい遠い国だという。その遠方から船を乗り継ぎ、出雲の市場に運ばれたモノだそうだ。

「こりゃ確かにヒスイだな。」塩ジィも関心を示して乗り出してきた。

「そうだ、少年。これは誰もがトリコになる石なのさ。こいつを玉に仕上げて女を口説けばどうなると思う?」ニヤニヤしながら頭領が話しかけてきた。だが答えを期待している様子ではない。

「答えは、どんな女でも落ちるという口説きの秘密兵器。イチコロのイシコロってヤツだな。ハハハ」その冗談が言いたくて問いかけたというわけか。

「ヒスイ・・か。不思議な石だなあ。何か吸い寄せられる感じ・・」トシは見とれながら思わずつぶやいた。何か意志を持っているかのような力を感じる。

「そうだろ。お前、見る目があるじゃないか。そう、良い石には何かが宿ってるんだ。最近は中国からきたガラス玉が流行っているが石の魅力は別格だ。鋳型に流し込むガラス管玉は形もよく作りやすいし、うちも商売だから息子達は手を出しているが、俺はいけねえ。石一筋で行くよ。とりわけヒスイにはゾクゾクするものがある。それを上手に引き出すのが俺の仕事ってわけだ。相手はめっぽう堅いから、苦労するんだがなあ。」大将が饒舌に喋る。

「おや、たまには人間国宝らしい事言うじゃないか」塩ジィがからかう。

「頭領さん。この石を勾玉にして譲ってくれるわけにはいかないの?」思い切ってトシが申し出てみた。

「イケン、アカン、ダメ!」途端に大将の顔色が変わって、その石をひったくった。

「冗談言っちゃいけねえ。これは王族・貴人だけが身に着ける高価なものだ。ボウズみたいな者にゃ無縁のモノ。いけねえ、いけねえ。この石はダメだ。碧玉かガラス玉にしな。なんならタダにしてやってもいいんだぜ・・」有無を言わさぬ迫力で、まくしたてる。

と、大将の視線が、気配を感じて塩ジィの方に注がれる。

太い声が響いた。「譲ってやれよ。高価なモノとは承知しているが俺のたっての頼みだ。その石、譲ってやれよ。」

大将はソッポを向いている。

ラチがあかないとみたのか塩ジィが「あーあ。思い出すなあ。酔っぱらって女を口説くのにヒスイの玉をチラつかせた男がいたなあ。結局、タダ取りされて泣きを入れてたのはどこのどいつだ。貴人だけのものというのが聞いて呆れるわ。」と一喝。

大将はふてくされたように下を向いてしばし無言だったが、観念したように笑みを浮かべた。

「塩ジィのたっての頼みとあれば仕方ない。物見櫓から飛び降りたつもりで譲ることにするよ。石の良さがわかるボウズのようだからな。」

「ただし、まるまる石は渡さねえ。」この原石の形状から、石を二つに割りその片割れで勾玉にした方が良いモノが出来るという。

「もう一つ条件がある」と言った。「俺も忙しいからな。ボウズには石磨きを手伝ってもらうことにする。自分で磨いて石と話すること。そうすりゃ有難味も倍増だ。どうせならケチな金はいらねえ。飛び降りちまったんだから、タダでいいよ。」

「ようーし。話は決まった。それでこそ俺のダチ公だぜ。人間国宝殿。今度、俺が一杯奢らせてもらうぜ。近くまた立ち寄らせてもらおう。」

スタスタと工房を後にする塩ジィ。トシはその背中を追いかけながら思う・・。

ホントにこれでよかったのか?でもあの石が自分のモノになると思うと喜びがこみ上げてくる。

さすが塩ジィの力。玉造工房を出て、トシはお礼を言った。「お蔭で考えもしなかった良いものが手に入りそうです。感謝、感激雨あられ。メシでも奢らせて下さい」

二人は一大率東側の賑わいに向かって歩き始めた。


一大率は伊都国志(し)登(と)地区にあるが、北方向に一見島に見える陸地がある。伊都国志摩地区だ。そことは一本道でつながっていて、志摩を見る形がスペード型になっている。

根本にあたるのが一大率と東西の市場であった。

左右には海が入り込んでいて西は加布里湾、東に今津湾。

それを分けている一本道に志登の常夜灯(じょうやとう)がワタツミ(海神)を祀る祠と共に建っている。両側の港に夜、船が入港する時の目印だ。

西北には狼煙(のろし)台(だい)のある火山があり、ここで焚かれる火と併せて船は自分の位置を確かめ、座礁(ざしょう)する事なく港に進入出来るのだ。遠くまで航海する大型船はこの目印を敬い、安全祈願をする。火山の炎が瑠璃(るり)色(いろ)に輝くと難破する事はないとの言い伝えがある・・と塩ジィから聞いた事があった。

二人は今津湾に面する東市場のとある飲食店の前に来た。

塩ジィは酒と伊都特産のハマグリを、トシは焼魚定食を頼み、手を使って食べ始めた。トシの故郷、邪馬台国内陸部では魚といえば干し魚だが、ここは鮮魚が荷揚げされる漁港でもある。焼き立てのアジはとても美味い。


「伊都国は倭国随一の貿易港、商業地区だが、それは今山のお蔭なんだぞ」と塩ジィが口を開いた。

「今山?この刀子の?」トシは首にかけた皮袋を見た。

「大昔のこと。今山玄武岩から切り出した石斧が大人気でな。倭国中から注文が相次いだ。北は一(い)支(き)、対馬(つしま)国。東は先の出雲国はじめ、いろんな倭人がやって来て石斧を買ったんだ。と、同時に自国の物産を持ち寄って商った。それが伊都国市場の始まりだ。」

その後、石斧人気は徐々にすたれる事になったが、なんでも手に入るという利便性で市場そのものは残った。

鉄の時代に入ると、この市場の賑わいは、更に増す事になる。韓半島の鉄鋌がこの地で陸揚げされて倭国各地に売られていく。つれて南の島からゴホラ貝に夜光貝、出雲の、めのうや碧玉。出雲経由で越のヒスイなど扱われる品物も多種多様に、取引量も増えていった。

のちに、一大率が鉄取引を一元管理するようになって他の市場での取引は密貿易として取り締まり、摘発を受ける様になった。そうなると、ますますここの市場の重要性が高まり倭国唯一の常設市場としてドンドン成長していった。

確かに伊都国は人口も少ない小国。しかし貿易がもたらす財力でヤマタイ連合国の中でも大国にひけをとらぬ発言力を持っていたのだ。

「もとはと言えば今山の石斧。伊都国繁栄も今山さまさまというわけだな。」

「それで今山側に市場があるんですね。」

「ああ、昔の市場は今山のすぐ近くにあったらしい。鉄鋌を運ぶ大型船が加布里湾の北、引津湾沖合に停泊することから今の一大率近くに移ってきたというのがここの歴史だ。」と塩ジィの講義が続いた。


そもそも、塩ジィは昔、貿易船の船長だった。足を痛め、引き摺るようになり、陸にあがって製塩業を任されるようになったという。今日は船長だった頃を懐かしむように話している。

「あちこちの倭国に行ったことあるんだよね。」

「ここらにある小舟じゃないぞ。引津湾にあるデカイ船でな。」加布里湾は浅瀬だから大型船は水深のある引津から出航する。積荷を満載して戻った時は、荷を小舟に積み替えてこの地に陸揚げする。大型船の船長だったのが塩ジィの誇りなのだった。

「デカイ船で何処に行ったの?」

「玉造の大将の話に出たように出雲には鉄鋌や青銅を積んで買付にいったな。越の国は遠すぎて行けなかったがな。北航路は瀬戸内航路と違って波が荒いんだ。」

「瀬戸内?」

「オカという国から出雲に廻らず、海峡を通って陸と陸の間の海を東に進む。島が多くて座礁しないよう海路を選ぶのに神経使うが、こっちは波が穏やかなのがやりやすい。」東方の国では絹と鉄鋌が交易品として利益となるそうだ。ともにヤマタイ国でしか手に入らない貴重な商材なのだった。

「瀬戸の海を東に行くと突き当りはどこなんだろう?」

「さあな。俺はアキやキビまでしか行ったことがないからわからんが、そこで会った向うから来た船乗りの話ではナニワやナラなどの国があるらしい。なんでもナラはえらく住みやすい土地と聞いたな。緑に囲まれ山には大木、川も多いし、近くに海みたいな大きな池があるそうだ。」

「ふーん。ナラ?」

「その南。山を越えたところにクマノという地があって海に面しているそうだ。その昔なんでも徐(じょ)福(ふく)さんが腰を据えたという。」

「えっ、徐福?」知ってる名前が、ふいに出てきたので思わず甲高い声をあげた。その名前は、おばあちゃんや村の長老達から繰り返し聞かされていた。トシの出身地、邪馬台国の伝説上の人物で、実在したかは不明だが農業の神様とされている。

「徐福のことは俺にはわからんがクマノの、そのまた東には、まだまだ倭人の国が続いているそうだ。どこまで倭国か見当もつかんなぁ。」

ヤマタイ連合国家以外にも倭国はいろいろあるとは聞いていた。しかし瀬戸の海やナラやクマノなど具体的な地名、国名を聞くのは初めてだった。倭国の果てはどこなんだろう?それにヤマタイから他の倭国に行った人はいるのだろうか?

トシのつぶやきが聞えていたようだ。「そういやナラにヤマトの旧王族が住み着いて、向うでいい顔役になっていると云うウワサは聞いたことがある。」と塩ジィが答えた。

ヤマト。今ではその地域は併合され、邪馬台国の一部になっているが、昔は独立した国で、王もいたのだった。


その時だった。ドドーンと大太鼓の音が鳴り渡り、同時に火山(ひやま)から狼煙がのぼった。

「おやっ。あれは韓半島から貿易船が入港した合図だぞ。この天候というのに珍しいことじゃ。」と塩ジィが怪訝(けげん)な顔になる。

普段、貿易船は好天で波が穏やかな日にやってくる。そうでない時は手前の末盧(まつろ)国(こく)で風待ちする。積荷は鉄鋌などの高価なもの。慎重に航海するはずだった。

「急がなきゃ」合図は緊急の集合の指令でもある。

一大率付属の学園生徒であるトシは、韓半島からの公の貿易船が着けば、学業や仕事を放り出して、積荷下ろしを手伝わねばならない。折角の美味しい食事だが、食べ残したまま、走って戻ることにした。

船着き場にたどり着くと学園の同級生にして親友、久米のケンが一足先に待機していた。ケンは塩ジィの甥にあたり体格はジィに似て屈強そのもの。見るからに体育系だ。日焼けした顔に海人族特有の黒い刺青(いれずみ)が目付きをより鋭く見せている。が、実は気の好い奴だ。

勉学は苦手にも拘わらず、中国研究会というサークルにトシがスカウトされた時、一緒に入会した。

トシとケンは並んで船の到着を待つ。

第一便の小舟がこちらにやってきた。第一便は貴重品と決まっている。銅銭の束や鉄鋌など重い荷物類が積まれていて、これが肩に食い込むので辛い。ケンは平気で担ぐが、柔なトシには苦手な荷役作業である。


小舟がいよいよ近づき、船上にいる人の顔が見えてきた。懐かしい顔。

「センパイ!」

「キクチヒコさんだ。」

二人は同時に声をあげた。キクチヒコ先輩は、昨年の春、学園を卒業して、エリートコースの韓半島駐在員に抜擢され、狗(く)邪(や)韓国(かんこく)に赴任している。

先輩の精悍(せいかん)な顔立ちがよりハッキリするまで近づいた。在学時から女子学生の憧れの的だったがますます男ぶりが増しているようだ。

先輩は中国研究会の二人の後輩を見つけて「よう久し振り。元気そうだな。」と舟から身軽な身のこなしで飛び降りた。

「波が立っているのに来られるとは。何かあったんですか?」

「おう、急ぎの使いだからな。韓半島の狗(く)邪(や)韓国(かんこく)長官の書簡を預かってきた。そうだ、今から一大率に報告するからお前等も同行しろ。」決めつけるように誘った。

「我々には荷揚げ作業が・・」と言い終わる前、先輩は、既に荷揚げ作業責任者の前に進み出ていた。

「韓半島より長官の重要書簡を届けにきた。直ちに一大率に報告の上、そのままヤマタイ本国への出発を予定している。ついてはこの二人に警護役を命じて頂きたい。」と談判している。

責任者は突然の申し出に困惑の態だったが、重大任務と言われては否とは言えず「そこの二人は作業中止。伝令役殿に随行し、しっかり警護せよ。」と命令を下した。

隣にいるケンはガタイ大きく、腕っぷし太く適任と言えたが。トシはみるからにひ弱そう。警護役と言われては、つい苦笑いが出てしまう。

一大率兵士の正装に着替えた二人は先輩と共に長官の居る建物に入った。外国からの賓客を迎える鴻臚館(こうろかん)も隣接してあり、大木を惜しげもなく使用した荘重なつくりだ。長官室の控えの間に通された。

伊都国王爾支(じき)も報告に立ち会うとのことで、国王が宮殿のある三雲屋敷から三雲川を下って到着するまで暫し待機することになった。


先輩は食事と水の饗応を受けながら「ところでチクシは元気か?」と訊ねてきた。

キターッ!。恐れていた言葉だ。前々から、うすうす感じていたがこのカッコイイ先輩も彼女に重大な関心を持っているのだ。チクシとは中国研究会の同級生、女性ながら会の部長の役にある。なにを隠そう、チクシの笑顔に釣られてスカウトに応じたのがトシ、ケンの入会の経緯であった。

先輩と自分を比較すればその差は歴然。強敵というより客観的評価で特大魚と雑魚のレベルの違いがあった。

「相変わらず元気印でトンピン跳ねてます。」

ナァとケンにも同意を求めた・・が、ケンの顔にも曇りが・・こいつも自分と同じことと考えているのかもしれない・・。

先輩は我々の曇り顔に頓着せず上機嫌の様子で「そうか、そうか。会いたいもんだ。」と頬を緩ませた。

笑顔の似合わない美男子っているものだ。いつものキリリ顔は百%の美男子だが、笑顔になると幾分落ちる。・・と思うことで少しだけ己の劣等感を和らげることが出来る。

話を変えるべく「重要報告って何ですか?」と聞く。

途端、先輩の表情に緊張が走った。

「長官に報告するまでは答えるわけにはいかん。」と返答を拒否した。ただならぬ役目で帰国した事が窺える。

ただ、先輩は「遼(りょう)東(とう)情勢の件だ。公孫(こうそん)氏の・・」と付け加えもした。

やはりそうか。遼東情勢については、魏と公孫の緊張関係が高まっているとウワサがあった。 

遼東情勢問題については中国研究会の顧問、徐(じょ)先生にたびたびレクチャーを受けていた。


その遼東問題をレポートしよう。

当時、魏の傘下ではあるものの遼東地域の実質支配を任されていたのは公孫氏だった。韓半島に隣接する遼東。当然、帯方(たいほう)郡(ぐん)も公孫の領内にある。

いにしえより倭国の代表たる国家は帯方郡に朝貢していた。

したがってヤマタイ連合国家は魏に朝貢する形はとるものの、実際の窓口は帯方郡を牛耳る公孫氏となっていた。

もっとも公孫氏の関心事は、あくまで遼東以西の中国本国。韓半島経営や倭国に向けられていない。倭国にとっては、朝貢さえしていれば特に何事もなく友好関係を維持できるやりやすい外交相手だったと言える。


次いで、公孫氏の成り立ちと魏との外交の歴史を振り返ろう。

後漢末期に遼(りょう)東太守(とうたいしゅ)だった公孫度(こうそんど)は周辺国の高句(こうく)麗(り)、鳥(う)恒(がん)を叩き、更に朝鮮半島にも地歩を築き独立した勢力になっていた。こうした中、魏との外交関係が展開されていく。

当時の魏や曹操(そうそう)にとって優先すべきは呉や蜀とのせめぎあい。その為、東部や北の異民族の抑えには、公孫氏との友好関係を結ぶのが得策として、公孫氏に官位を与え支配権を委ねてきた。

公孫側も官位の低さに不満を持ちつつも魏と友好関係を築かねばならない事情があった。背後から高句麗の領内侵入に悩まされる遼東事情である。魏に対抗するなど思いもよらず・・とシブシブ従っていた。

そんなドライな相互関係だったが、次の公孫康(こう)の時代に入って友好関係が深まり両国は蜜月モードとなる。ところが康が没すると関係に変化が訪れた。

弟の公孫恭(きょう)が地位を継承したものの康の子である淵(えん)が228年にその位を簒奪(さんだつ)し恭を幽閉したことからギクシャクし始めた。 


淵は、表面上は魏に服属しながら呉との同盟を画策、魏・呉を両てんびんにかける動きを見せたのだ。

呉がこの動きに乗って使者を送り燕(えん)王(おう)の地位を与える。公孫、ついに呉に接近と噂が流れた。が、淵は一方で、今度は使者の首を切り、その首を魏に送るという一貫性のない勝手放題の暴走外交を行った。

この裏切りに怒った呉の孫権(そんけん)は公孫討伐を決意する。しかし、側近が魏への対抗力として公孫に利用価値があることを説き、なんとか思いとどまらせるという一幕もあった。

魏もそんな公孫を信用するわけにはいかない。機会もみて懲らしめようとの思いを秘めながら、その思いとは逆に官位を引き上げて友好関係を維持する外交政策を採用していた。呉と公孫の関係を引き裂く方にメリットがあったからである。

魏も呉も、ねじれた思惑のもと公孫の暴走に振り回されていた。公孫側は魏と呉が睨み合っているのをいいことに両大国を手玉にとって、ニンマリ。ひそかに野心をふくらませる事になる。

公孫の態度は、両国からいつ討伐を受けかねないという危うさがあるのだが、淵は意に介さない。三国志に割って入り新たな主人公として四国志を夢みていたのだ。遼東情勢は何時、何が起こるかわからないキナ臭さが漂っていた。


そして今年237年、魏と公孫氏の関係には決定的な亀裂が生じることになる。公孫氏は魏の臣下という立場で、会計報告、貢物納付の義務が課せられていた。淵はこれをスッポかしたのだ。

そして咎め立てにやって来た魏の使者を、軍隊で包囲しながら迎えるという反逆姿勢を見せた。

堪忍袋の緒が切れた魏の皇帝曹叡(そうえい)は、若き頃の学友、そして今は側近として仕える母丘倹(かんきゅうけん)に相談する。

母丘倹は、曹叡(そうえい)が祖父曹操(そうそう)に匹敵する能力はありながら、これといった実績を残せていないことを指摘する。

「呉や蜀の制圧がままならない現状では東方を平定して、帝の後世に残る功績となさいませ。」とけしかけた。

そこで曹叡は母丘倹自身に討伐軍を統率させ、遼東方面に進軍・駐屯させてプレッシャーをかけた。東方制圧が出来れば母丘倹も大出世する事、間違いない。

これに対し公孫淵はいつもの、手玉にとるような外交姿勢で臨んだ。魏に申し開きの使者をたて、許しを乞う一方、これを迎え撃つ体制も整えたのである。

そして魏が、詔勅(しょうちょく)により淵を召し出そうと最後(さいご)通牒(つうちょう)を突きつけるや、魏との戦いを諌める重臣を血祭りにあげて旗幟(きし)を鮮明にした。母丘倹率いる討伐軍向けて出兵を決めたのである。


この結末がどうなるか周辺諸国にとっては重大事。ヤマタイ連合国家にとっても注視せざるを得ない事態である。もっとも前評判は国力でまさる魏の圧勝。仮に、ブックメーカが高配当を提示しても公孫に賭ける勇気は誰にもなかっただろう。先輩はそうした情勢に関する新情報を報告に来たのだ。倭国の出先、狗(く)邪(や)韓国の重要任務は鉄の入手と外交情報の入手だった。

 


一大率長官室。

控えの間に秘書役が入ってきて「長官殿と伊都国王の会見準備が整った。本殿に入るように」と告げた。先輩に続きトシ、ケンが部屋に入ると、長官と国王がなにやら親しげに話をしていた。

長官はヤマタイ本国が任命する。そして長官自身もヤマタイの名門の出身だ。しかし、母方は伊都の王族に繋がり爾支(じき)とは親戚関係にある。あの、卑弥呼様も、母方は伊都国の出という噂も聞いていた。

実のところ、ヤマタイ連合国は邪馬台国と伊都国がタッグを組んで創り上げたといっても過言ではない。それぞれの農業生産力、交易力を背景に共同戦線を張り、他国を凌駕(りょうが)して連合国を纏(まと)め上げたのだ。それだけ両国の結び付きは密接なのである。親しくするのは当然の事だった。

それにしてもこの二人、トシ達にとっては眩(まぶ)しい存在の二人だった。ヤマタイ連合国家で五本の指に数えられる大物の内の二人である。その二人に顔合わせ出来るとは畏れ多い。

もっとも、トシとケンは部屋の入口付近に待機しているだけだった。二人に近づくことが出来るのは先輩だけである。


「その方が伝令か。この天候の中、急ぎの渡海で大変であったな。」長官がねぎらいの言葉をかける。

「狗邪韓国長官より預かってまいりました。」先輩は竹簡を捧げ持ち、うやうやしく差し出した。

長官は封泥を解き竹簡に目を通すと驚きを隠さず「これを。」と隣の爾支に手渡した。

「なんと!公孫が魏との戦いに勝利し魏の軍団は退かざるを得なかったとある。公孫淵は燕王として君臨、百官を置いたとの事。」 

「魏から完全に独立したという事でござるな。」

「てっきり魏の勝利と思っておったのが想定外じゃ。これでは我がヤマタイの対処の仕方が難しくなったな。即断は出来ぬぞ。」

先輩は「韓半島の出先として狗邪韓国が事態にどう対処すべきか、ご指示を仰ぐよういいつかっております。」と付け加えた。 

「わかっておる。最終判断はヤマタイ本国になるが一大率長官として所見を出さねばならん。」

「帯方郡に属するヤマタイは公孫氏へ朝貢してきた。しかしそれは魏の代理としての公孫氏へのもの。公孫そのものに対してではない。」

両国が戦闘状態の今、これまでの朝貢先の公孫、本来の朝貢先の魏、どちらの側につくか選択を迫られる事が予想された。

「魏につくか公孫につくか、この選択は慎重にせにゃならんのう。」

長官・国王の会話が続いた後「狗邪韓国長官はどう考えているか?」と質問が下った。現地の考えを聞いて判断材料としたいのだ。

先輩は「性急な結論は得策にあらず。公孫の王位を承認するのを先延ばしして静観するのが良いだろうとの仰せです。来年6月の朝貢時までに・・」と返答した。

公孫の独立を承認し、祝いの使者を立てれば魏に敵対とみなされる。魏を支持すれば公孫に睨まれる。

「それしかないな。しかし朝貢時の情勢が今と同じく不安定のままだったらどうする?」この件、ヤマタイ連合国としては、先の先を読んで対処すべき事なのだが、今ある情報だけでは判断に迷うところなのだ。

長官と国王の会話が途切れたところで先輩が口を挟んだ。「中国の情勢に詳しい一大率学園の徐先生を呼んで意見を聞かれたらいかがでしょう」

「おう、そうだな。それが良い。」と二人も応じた。

徐先生は中国から船旅の途中、難破。倭国に漂着して、学園で中国語の教師をしている。しかも、めっぽう魏、呉、蜀の三国情勢に通じている得難い知識人だったのだ。


先生が呼ばれ先輩の隣に座った。

先生が「公孫と戦った魏の将軍は誰だ?」と尋ねた。

「母丘倹(かんきゅうけん)と聞いております。陣地に雨が降り続き、戦闘続行が不可能と判断して中国に逃げ帰ったとのことです。」

「母丘倹?ああ、曹叡(そうえい)の幼馴染(おさななじみ)。あやつ、出世のチャンスを得ようと帝にけしかけたんだな。」先生は魏の将軍の事を詳しく知っておられるようだった。

「おそらく母丘倹はチキンゲームで勝てると踏んで出兵したんだ。」

最終的には魏の威光に恐れをなして公孫はギリギリのところで引く、と読んで母丘倹は出兵した。ところが見込み違いの反撃にあった。それでアワ食って軍を引き揚げさせたのだろう。それが先生の見立てだった。

「兵を動かすという点で何の実績もない奴です。そこに勝機ありと公孫がタカをくくったのでしょう。・・魏は最低の将軍を準備したわけですな。しかし母丘倹が早々に敗北してかえって良かったとも言えます。膠着(こうちゃく)状態が続けば呉の参戦も考えられた。」呉が参戦すれば事態はより大きく流動化する。

含み笑いの表情を浮かべて先生は続けた。「魏は今回の敗北でこのまま遼東を捨て置くことは出来なくなりました。」

「また戦いがあると申すか?」

「誰か大物を繰り出すハズです。東の周辺諸国に実績のある田豫(でんよ)か、兵法にたけた司馬懿(しばい)のどちらかですな。共に老齢ですから生きていればの条件が付きますが・・。いずれにしろ公孫ごときになめられ続けるようでは、呉と蜀も魏に対する圧力を強めましょう。魏の存亡にも係るゆえ次は必勝を期すと思います。」

「それで大物が起用された場合はどうなる?」長官が質問する。

「公孫はお終いでしょう。公孫が呉や蜀と深く連携しているのならともかく、呉は本気で援護を考えていません。公孫とは状況次第で、互いに利用しあうだけの淡い関係ですから。」

「それでは公孫への祝いの使いは出さない方が良いのだな。それに来年の6月予定の朝貢もどうしたものか。それまでに決着は着くと考えるかな?」

「無論、公孫への祝いはするべきではありません。緊迫した情勢につき祝い事は遠慮させていただくと先延ばしするのです。また公孫が朝貢時まで持ちこたえるかについては現時点では判りません。最終的には公孫は滅亡するでしょうが、その間のことは、どちらに転んでもいいよう手配するしかないでしょう。」

「わかった。ご苦労であった。下がってくだされ。」

先生が退出した後、長官がまとめるように言った。「我々の所見は決まった。狗邪韓国長官の見解、先生のご意見はほぼ同じだな。今回は静観することとする。来年の朝貢は、事態の推移を見て判断する。ヤマタイ本国に出す書簡をしたためるので伝令役は暫し待機するように。」


先輩、トシ、ケンの三人が控えの間に戻って待機している時、伊都国王がひょっこり部屋に入ってきた。

「使者殿。今日はお疲れでしょう。うちに来ませんか。ヤマタイ本国には明朝旅立たれるはず。一大率に泊まられるより我が家から出発するのが近い。旅の準備も整えさせますし、お供の方の分も用意します。長官には私から了解とりますので宜しいですな。お供の方には船漕ぎを手伝ってもらう事になりますが、よろしいかな。」国王直々の申し出である。この親切な申し出を有難く受ける事にした。


伊都国王の飾り立てた専用船に乗って、いざ出発の時「おじい様待ってー」と突然小走りに乗り込んできた少女がいた。

学園のアイドル、ミクモ姫だ。今春から学園の巫女学コースで学び始めている。入学するやいなや周囲の視線を釘づけにする、まごうことなき美少女である。

国王の孫娘とあって原則全寮制の学園で唯一通学を許されている。クラブにも入らぬ帰宅部の特別な学生だった。

権力者の孫とあらば、男子も気軽に声は掛けられない。何せ、おすましやで笑顔を見せたことのないと評判だ。

その美少女が、おじい様たる国王、そして並んで座る先輩に向かって、こぼれるような笑顔で挨拶をした。

初めて見る笑顔、見せたことのない笑顔を拝謁する栄光に恵まれたトシとケン。これはこれは、学校の仲間に威張って話せるビッグネタを得ることになった。

ミクモ姫の笑顔はさらに美少女度を増やすことになる。ピンナップで売り出せば即日完売必至のしろものになるだろう。トシは「笑顔で落ちる美男子あり、笑顔で高まる美少女あり」と感じ入った。 


王と先輩が話を再開したのを機に姫は「あら、あなた方もいらしておられたのですね。」と振り向いた。こちらの顔ぐらいは一応見知っているとみえて声を掛けてきたのだ。

「そちらは中国研究会を卒業されたキクチヒコ先輩。今回、伝令の役目で狗邪韓国から帰国されこれからヤマタイ本部に報告にいくところだ。我々はその警護役で同行している。」「あら、そうなんですか。お名前はキクチヒコ様なんですね。あのお方、韓半島の駐在をされておられるんですね。お役目、ご苦労様です。」呟くように言うと、もう我々と話を続ける気は無いらしく向うを向いている。

「おじい様。私も韓半島のお話をお伺いしたいの。」と二人の間に割り込んで座る。淑女と思っていたが案外と案外なのだ。


船が動き出した。後部座席で櫂(かい)を手にしている二人。ケンは手慣れた動き。トシは懸命にマネをしながら櫂を動かした。ようやく要領が掴めて、やや余裕が出てきた。

「意外だな」と小声でトシが話かけるとケンも応える。「うん意外だ。うん可愛い。うんハンサムだ。」

先輩とミクモ姫。筆者の時代で表現すれば、往年のアランドロンとローマの休日のオードリーヘップバーンが目の前で共演してるが如きである。

スイングジャーナル、メガホンおじさんも完全脱帽する超五つ星のカップルである。わかる人にはわかる表現かな?

「うん、これは呉越同舟だな。これは。」ケンが珍しく中国の故事を口にした。

「はあ?呉越同舟とはイミが違うぞ。カタキ同士が船に同乗した時、こと水難に臨めば過去を忘れ一致協力して難局を乗り越えるというイミだけど・・」

「あ、そうか。うん、恋なんてカタキ同士みたいなところがあるんだろうな。仇も恋人も、会った瞬間、目が釘付け・・」

恋を知ってるかのようにわけのわからん言い方だ。いずれにしろ我々はこの空気の中で圏外のヒトになっている。

ケンはなおもこの話題を引っ張った。「これは大変な出会いだな。男なら誰でも引き寄せられる美少女と、女なら誰でも憧れる美男子の出会い。どちらが勝つのか、矛盾のモンダイだ。」

どんな盾でも刺し貫く矛にどんな矛でもガードできる盾。このケース、相思相愛になれば矛盾は溶解し、互いに無関心なら矛盾は消失する・・と思ったがケンにしては冴えたコメントをするので、乗っかって解説することにした。

「先輩が負けるとすれば身分の差。先輩は自分の事を言わないヒトだからわからんのだが我々より高い身分だろう。しかし相手は国王の孫娘。これは大きな隔たりだ。姫が負けるとすれば幼さだな。まだ十四、五歳。男盛りに入った先輩を誘い込む色気はこれからだ。」

 「賭けるか?」とケンが悪乗りする。

「俺は姫の勝。」

「じゃあ俺は先輩だ。」

トシはそう言ったものの、内心は姫に勝ってもらいたいと思っていた。なんせ先輩の帰国第一声がチクシのことなのだ。先輩の関心が別に移ればホッとできるというもの。


ヒソヒソ話の間、船は三雲川を遡上していく。葦の茂る川べりにところどころ船溜まりがあり中型の魚船が係留されていた。

「漁船なんだから海際に停めればいいだろうに。その方が便利なハズなのに」

船乗りの久米族出身のケンが即座に答える。「エッヘン。それは違うな。海に停泊するとフナムシに食われて長持ちせん。小型船なら軽いんで浜に引き上げるが、中型船は川に繋ぐのが常識デス。」

「大型船は?」

「大型は浅瀬に入れないので水深のある港に停泊する。時々皆で陸にあげて付着したフナムシと洗い落とす。この作業が大変なのだ。」

「さすが大型船を操る海人族。」

「当たり前、幼い時から遊ぶのは船と海だからな。」

「お前、塩ジィの若い頃のように船長として海を駆け回るのか?」

久米族は大型船を取り仕切る頭領を輩出する。現に塩ジィの跡目は弟であるケンの父が継いでいるのだ。当然、腕っぷしの太いケンは次期頭領の有力候補で間違いない。

「いや、俺は武人になる。先輩は、今は行政官として赴任されているが本来は武人だ。将軍としての素質はピカ一だ。俺には行政官のアタマはないが武人としてなら先輩のマネはできると思う」

真面目な顔で続けた。「俺は蜀で活躍した趙(ちょう)雲(うん)が好きだ。武人の美学を守り通す姿勢が良い。中国研究会に入っているのも船乗りの為ではない。倭国の趙雲になるのが目的なんだ。」とキッパリ宣言する。

「そーかあ。私欲持たずに勇猛果敢の趙雲。徐先生が話してくれた三国志のキャラクターでは孔(こう)明(めい)の次に好きだなぁ。俺も。」とトシは応じた。

しかし・・と塩ジィの顔が浮かんだ。「塩ジィはお前がゆくゆくは頭領として久米族を引っ張っていくのを期待しているんじゃないか?」

ケンはそれに答えず船の舳先(へさき)を見ていた。「もうすぐ屋敷だ。三雲桟橋(さんばし)に着く。」


三雲は伊都国の源である。北西に見える平原(ひらばる)の丘には大巫女様と呼ばれる現国王の曾祖母の墓と祭祀台、そして太陽をはじめ天体の運行を測量する天文台がある。日向(ひなた)峠(とうげ)に向かい、国王自ら、季節の変化を観察して田畑の種まきのタイミングを計り、民に指示を下していた。

「あの、大巫女様は、卑弥呼様の祖母にあたるらしいよ。」ケンが囁いた。

卑弥呼様の母が伊都国から邪馬台国に嫁ぎ、大巫女様が体系づけた巫女術をヤマタイ全体に浸透させた。それが今の、卑弥呼様のヤマタイ連合国家に繋がっているのだ。

となると、ミクモ姫は卑弥呼の遠縁と言う事になる。となると、卑弥呼様も美形なのかな・・と思うが、よく考えれば卑弥呼様は既にご高齢。昔はどうあれ、おばあ様に変わりは無いだろう。

ともかく、伊都国の繁栄は背振山系、高祖(たかす)山、平原の丘にいだかれた、この地から始まったのだ。

桟橋を上がり、屋敷に向かう途中、大きな半円形の塚がいくつか築かれており、それを仰ぎ観るように大きな祠が建立されていた。

「あれは国王の祖先の墓だ。市場を活性化して伊都国を奴国に優る大国にした功労者を祀っている。」とケンが解説した。

さすが立派な墓と祖先を祀る祠・・・そこは細石(さざれいし)神社と名付けられていた。そこを過ぎると大きな屋敷群がまもなくだ。

三雲にある国王の屋敷は、一大率にある外交使節用の迎賓館(鴻臚館)にも劣らない居館、いや宮殿だった。三人は国王家族が暮らす本館ではなく賓客接待用の別館に通された。

館内のあちこちに中国製とみられる青銅器の品々、南洋の貝や真珠の装飾品が陳列され、交易で栄える伊都国の栄華を一目瞭然で感じことができる。


宴席の用意が整ったと告げられ大広間に招かれた。国王が中央に座し、右手に先輩、末席にトシとケン。左手に国王の妃とミクモ姫が座った。

「これは伝令役殿を慰労するための、内輪だけのささやかな宴。ありあわせのものですまないが気取る必要はない。十分に飲んで食べ、ヤマタイ本国への旅の活力とされよ」と国王が口火を切り、妃も「皆様、お役目ご苦労様でございます。そちらのお二方も姫のご学友との事。いつもお世話になっておりますれば、遠慮のう召し上がってくださいませ。」

驚いた。学園では一言も言葉を交わしたことがないのに、我々はご学友になっている。これは?・・姫のさしがねによって行われる宴であることは明らかだった。

「国王に感謝します。」と三人は口を揃えた。

「伊都国の繁栄を祈念して・・」先輩が乾杯の音頭をとり宴が始まる。

ささやかとは言われたが我々にとっては御馳走の山。どこから手を着けていいものか。先輩や姫が口にするものにならって食べ始める。ここでは普段の手掴みによる食べ方ではない。中国式の箸を使うのが厄介だ。

「キクチヒコ殿は邪馬台国の伊支(いし)馬(ま)殿の推薦で韓半島に赴任されたのであるな。」国王が口を開いた。

「ハイ。伊支馬殿とは遠い親戚関係に御座いますので、お口添えを賜って貴重な経験を積ましていただいてます。」

「赴任する前は一大率学園におられたが年長での入学との事。それまでは何をされていたのであるか」

「ハイ。私は学問より武人として生きようと思い武芸の修行に勤めてまいりました。しかしだんだん考えが変わってまいりまして・・これからは韓半島はじめ広い世界を知る必要があると。それで伊支馬殿に無理にお願いし学園の門を叩いた次第であります。」

「念願叶って駐在になられたんですね。どうです韓半島でのお仕事は。倭国と違いありますか?」妃が尋ねた。

「私は伽耶(かや)の鉄の買付を担当しております。洛(らく)東江(とうこう)という大きな川がございまして川を遡上してその川沿にある梁山(りょうざん)という地域の製鉄所に参ります。そこの取引所で出来上がった鉄鋌を買い入れます。狗邪韓国と製鉄所を行ったり来たりの毎日ですが、風景などは倭国と変わりません。」

「伽耶(かや)は倭人の祖地と言いますからね。私も男だったら一度は訪れてみたいですわ。」

「伊都国に伽耶山がありますが向うにも同じ伽耶山があるんです。一度行ってみたんですが、全く似てませんでした。伊都国の方に軍配が上がります。カッコ良い、山の姿ですから。ハハハ」

「製鉄所とは鍛冶工房のようなところかな。」と国王。

「同じ様に火を使いフイゴと呼ばれる火力を上げる装置を使うんですが、鍛冶工房とは比べ物にならないくらい大きなものです。作業場はとにかく暑い。沢山の鉄鉱石と大量の木炭を炉に入れて、高熱で溶かしたものが鉄になるんです。」

「鉄鉱石?。鉄は石なんですか。」

「鉄分を含んだ石から不純物を取り除いて鉄を取り出します。梁山に鉄鉱石の鉱山がありまして、そこで掘っています。私は中国から流れてきた製鉄職人と親しくなりましたが、その者が言うには伽耶の鉱山は露天掘りが出来、埋蔵量も多い最高のものだそうです。中国では掘出すのに山に穴を掘り長い坑道を作って運び出さねばならず大変な作業だそうですから・・」

「ほう。」

 「製鉄所は面白い所です。取引所には様々な国からいろんな部族が集まりますからね。韓半島や中国の情報はここからもたらされます。公孫が母丘倹を退けたという情報もいち早く流れて来ました。」

「そうだったか。」


「国王。取引所で感じた事があります。鉄鋌を買う国や部族間のバラツキです。帯方郡を牛耳る公孫氏が軍備増強で買っていくのはわかりますが、辰韓や馬韓の数ある部族のうち特定の部族達がその国の規模以上に買っていく。農具用だけじゃない量です。ヨロイ、カブト、鉄剣等武具を作る為の調達じゃないかと思われるんです。部族間に軍事力の差が出てくるということは、そのうち馬韓、辰韓でそれらの地域をまとめる統一国家が出てくるのではとも考えられます。」

先輩の言葉に熱が入ってきた。

姫を前にした会話にふさわしくない気がするが・・

「一方で倭国と親しい弁韓はというと、鉄鉱山のお膝元なのに抜きんでた軍事力を持つ国が無い。鉄のもたらす権益を部族間で分け合い、そのことで得る比較的豊かな経済基盤が抗争を生まないんでしょうけれど・・。」

さらに先輩の熱弁が続いた。

「しかし北方の弱肉強食が当たり前の国家間対立の波が韓半島南部に押し寄せた場合を考えると弁韓の無防備は気になります。何かのきっかけで圧迫され領土を奪われるとしたらどうでしょう。弁韓が呑み込まれるのはともかくとして、倭国への鉄供給が難しくなったり、あるいは最悪のケースで倭国自体が侵略の対象になるのではと恐ろしくなるのですが・・。」

「韓半島駐在になって日も浅いのにそこまで考えるのはたいしたもんだ。ただ、現時点で馬韓、辰韓で統一国家を目指す者が現れて、戦乱があったとは聞いたことがない。部族連合がうまくいっている証ではないのか。あまり先回りしては杞憂と言う事になるぞ。ハハハ」ややウンザリ気味に王が応じた。

「しかし・・」と先輩が続けるのを遮って国王が言う。

「今日は姫がねぎらいの為、舞を舞うそうだ。さあさ、食べて飲んでうちの孫娘を観てやってくれ。」


舞が始まった。先ほどミクモ姫が席をはずしたと思ったら何時の間に衣装を変え、あでやかな舞姫姿になっている。笛や太鼓、中国伝来の琴の楽隊も従えて、神楽(かぐら)鈴(すず)を微妙に打ち鳴らす踊りは圧巻だった。

きらびやかな衣装と化粧は女性を変える。可愛らしさに妖艶さが加わり、これはっ・・とトシが感じ入った時に、ケンが肩を寄せ耳打ちしてきた。

「ミクモ姫に色気が出ては死角なし。賭けを忘れるなよ。」既に勝ち誇った言い方だ。

「素晴らしい!」とその踊りを褒めちぎっている。

舞が終わり、姫が酒を注ごうと先輩に向かい、満面の笑みでお酌する。

「お口に合うもの、ありましたか?」

「全て美味しい。有難う。そこの二人にも少し注いでやってくれ」

未成年飲酒禁止がない時代である。

「恐縮です。戴きます。」

「お二人ともキクチヒコ様の警護役でしょ。キチンと守って下さいね」

トシは「勿論ですとも。ご学友の頼みなら」と茶化して言ってみた。

姫はいたずらっぽく笑って声をひそめてささやく。「私に味方して下さいね。」

ケンも答えた。「勿論ですとも。ご学友ですから。」

三人で笑ったのもつかの間。ミクモ姫はキクチヒコのもとに足早に戻る。

「お話でおうかがいしました洛東江は大きい川なんですか?」

「ヤマタイ国のなかで一番大きいチクシ川よりもっと大きい。ただ、上流と下流の高低差が少なくゆっくり流れる川なんで、河口に土砂がたまって湿地を形成しているのが難点ですね。海から直接、川につながってないので船が使えず、陸路でモノを運ばないとならないのが厳しい。鉄鋌は重いんでね。」

「大変なお仕事ですのね。」

「鉄鋌はヤマタイに富をもたらします。宝を持ち帰るんですから頑張らざるを得ません。」

・・・会話はなおも続いている。が、姫が笑顔なのに先輩は生真面目に答えるだけ。姫の舞に言及することもなく、イマイチどうもノリが足らない。先輩には、あの妖艶さは届かないというのだろうか?

懸命に話を絶やさないようにする姫をさえぎって先輩は国王に礼を述べた。

「私どもの為にご歓待頂き有難うございます。もう十分頂戴致しました。明朝は夜明け前に出立したく存じますので、ここらで失礼させていただきます。有難うございました。」

宴はまだ半ばとも言える時間だった為、国王も一瞬憮然とした表情を見せたが・・

「おお、キクチヒコ殿は急ぎの長旅で疲れておられよう。この辺でお開きとするか。出立の用意をさせておくゆえ今日はゆっくり休まれるがよかろう。」とお開きになった。

寝室に入ると先輩はすぐに寝息をかき始めた。我々も久々の酒が効いてきたようだ・・・。


翌朝。まだ夜明けも遠い深夜に属する時間帯に先輩に叩き起こされる。我々が動きだしたのを察知してか、料理番が朝食を持って来てくれ部屋食する。

弁当は出立までに作っておきますので調理室に取りに来てくださいとのこと。兵服に着替え調理室に行ってみるとミクモ姫が待っていた。

「これはあなた方の。こちらはあの方の為の弁当と水筒です。」

竹の皮に包まれた弁当類を受け取った。

あの方の弁当箱には花飾りが施されている。学校で見るタカピーな姫からは想像もつかない言動に戸惑う、ここ一両日である。

姫は見送りにも出てくれた。「帰還される時にはまた、是非、当家にお立ち寄り下さい。国王がそう申しておりました。」

セレブお嬢様が深々お辞儀するのを背に我々は出発した。


程なく山裾に入ると木製の鳥が上にとまった鳥居が見えた。伊都国境界のそこにはに関所があり、左手は日向峠、直進すれば伊都峠と道別れしている。夜中でも篝(かがり)火(び)が焚かれ兵士数人が警備している。

こちらが一大率兵士の正装をしていたこともあり、難なくフリーパス。あとはケモノ道のような道を、伊都峠を目指してひたすら山登り。白々と夜明けを迎え、鳥のさえずりがやかましく聞こえて来た頃には三瀬峠に向かう道に出た。

先輩とケンは体を鍛えているだけあって急な坂道も、へでもなく歩む。トシには慣れない兵装と鉄剣が体に食い込むようにこたえる。弁当・水筒はケンが面倒みてくれているのにこのザマ。日頃、体を甘やかしている自分がうらめしく思える。途中すれ違う商人でさえ重い荷と護身用の剣を携え、疲れを見せずに歩いているというのに・・。

やっとの思いで三瀬を越え、北山に入った水場で休憩を取ることをトシが提案する。

二人は憐みの表情で渋々承諾してくれた。

例の花飾り弁当を渡しながらケンが言う。

「先輩はモテますねえ。姫の手作りですよ、これは。いやー、マイッタマイッタ。」これまでの愛の進捗状況は、姫だけが積極的で、先輩の反応が薄い。

ケン、このままでは賭けに勝ち目は無いと悟ったようで何かを狙う作戦に出たのか?

竹皮弁当の中味は蒸しおこわの握り飯にアサリの煮物と塩漬け野菜。美味しく頂いたが先輩の分にはアワビとハマグリの煮物が添えられていた。

「昨日は国王の評価もマズマズだったじゃないですか。お似合いですよ。いかがです。なんたって姫はあの卑弥呼様の遠縁にもあたる育ちの良さですよ。伊都国王の親戚になれば出世間違いなし。大夫(大臣)か一大率長官も夢じゃありませんよ。」とご学友として約束の「味方」を実践した。

が、「バカを申すな。俺はあんな小娘は好かん。笑顔を作って寄ってくる女は大嫌いだ。」と一蹴された。

「いや、それは先輩にだけ特別に見せる好意です。普段、学校では近寄り難いオーラで笑顔一つ見せたことはありません。軽い女じゃありません。気を引こうと精一杯のサービスのつもり。いじらしいじゃありませんか。」

トシも援護射撃するが「俺には関係ない話だ。どうでもいい女のことはもう話すな。」と撃沈した。


「俺は、本当は国王に倭国統一への理解をしてもらいたかった。」先輩の目があやしげな光を帯びてくる。

「国王が言われるように現時点では部族連合でもなんとか国の運営は出来る時かもしれん。しかし、いつかは統一国家にせねば後悔する時が来る。倭国は広い。東方にはイズモやキビ、その先どこまで伸びているかわからんと言うではないか。それらを統合して強い倭国統一国家を創り上げれば、何が起ころうと安泰な国づくりが出来るというものを。」先輩、韓駐在になって何か大きな事に気付いたようだ。どこまでも倭国統一にこだわる。

「部族連合では対外リスクに対応出来ませんか?」

「昔、今の馬韓沿岸部に浦上八(うらがみはっ)国(こく)と云う倭人の海人族が住んでいたのを知っているか。馬韓の連中が南下し領土を圧迫されて沿岸の島に逃れた。今では倭寇(わこう)と呼ばれて、逆に馬韓の連中に海賊行為や略奪を行って恐れられている。」

「海人族ですか?」自分も同じ海人族のケンが相槌を打った。

「昔は自分達の土地。それを奪われた者にとって仕返しするのは当然、と、暴力を正当化しているが、悪事を働く事をひとのせいにするのはならず者の論理だ。部族に安住し、外からの侵略に備えなかったのが問題だ。八国がまとまり、弁韓、辰韓と連携しておれば国を奪われずにすんだ。部族同士のゆるい連合など、用意周到な敵が牙を剥けば弱点を突かれて瓦解するのが当たり前。まして内乱が起こるような部族連合は恰好の餌食になろう。」

「内乱と言えば塩ジィが子供だった頃、倭国大乱があったと言っていた。今は卑弥呼様共立のもと平和が戻ったと・・」ケンが反応したが、先輩はこれを無視した。ピントがはずれていたのかも知れない。

「倭国を狙う対外勢力があるとすれば、それは誰でしょう?」

「いろんなシナリオがあるからな。俺が言いたいのは仮に今現在、外敵がいなくとも備えをすべしということだ。」

それに・・と続けた。

「侵略が無いとは誰も言い切れん。現に我々だって韓半島弁韓伽耶族が祖先というではないか。海を渡り倭国に来て、当時居た原住民の土地を乗っ取るかたちで定住している訳だ。もともとの原倭人、土(つち)蜘蛛(ぐも)族にとって我々は侵略者なのだ。」と先輩は言う。

そういう見方も出来るのだ・・とトシは新たな視点を教えられたように感じた。


「そろそろ行くか。」

歩き始めて「そういえば、ここから西に行ったところに温泉があるそうですよ。」とケンが言い出す。

「温泉?」

「徐福サンが見つけた、湧き出る生暖かい水のことで、そこに浸かるとたちどころに傷が治り病気が癒えるという不思議な温泉だそうです。キジが言ってた。」

キジとは今年中国研究会に入った新入部員である。

「ほう、面白そうだな。火を噴く山もないこの地に温泉が湧き出るとは。」こちらのケンの話は、ピントが合っていたのかもしれない。

「行ってみますか?」とケンが冗談を言い、トシが「寄り道している場合か。」とそれをたしなめる。

我々はヤマタイ本部がある神崎(かんざき)の地に急ぎ、歩き始めた。


有明海に注ぐ城原川沿いに急峻な山道を下りると、そこは神崎の関所。麓に本部があるせいかハンパないほど兵士が多く警備厳重。その兵士達に取り囲まれた。しかし一大率兵士の正装の効果はテキメンで本部に行くことを許された。日は暮れていたが、高官と面会が叶う段取りになる。

本部では我々の持つ剣でさえ窓口預かりとなった。いよいよ面会。高官とはいえ、この時間に会ってくれるのはせいぜい次席クラスと思っていたが、待ち受けていたのは、なんと長官、伊支(いし)馬(ま)様。

邪馬台国の冠(かんむり)として女王の卑弥呼様がいるものの、ヤマタイ連合国を実質的にきりもりしているナンバーワンである。


接見の間に呼び入れられた。中央の一段高いところ、眼光鋭い壮年の男が我々を見下ろしていた。相手はキレ者との呼び声高い、伊支馬様その人である。

「お久しぶりで御座います。その節は大変お世話になり感謝の言葉を言い尽くせません。お蔭様で卒業後韓半島駐在の大役を拝命することが出来ました。この度は伝令役を仰せつかり、こうして再びお会い出来る事を嬉しく思います。」

「おう。俺もお前と会えてうれしい。この日が来るのを楽しみにしておったぞ。」

「早速ながら一大率長官の書簡にござります。」手渡された木簡の封泥を解き、確かめるように文面を読んだ。

「やはり公孫は事を起こしたか。魏も甘く見過ぎていたな。」と呟く。

「ヤマタイとして公孫への祝いの使者は先送り。来年の朝貢時に情況をみながら対応すべしというのが一大率の意見じゃな。わしもそのように考える。」読み終えた伊支馬様の目が先輩に向いた。

「狗邪韓国はじめ各地の長官、伊都国王も同意見で御座います。」

「皆もそうか。判った。男弟殿に答申し卑弥呼様へ報告の上、最終結論を得よう。明日こちらに参った折、本部としての正式返書を渡すゆえ本日はゆるりと疲れをとるがよい。」と言ったあとで、思わぬ言葉が下った。

「とは言ったものの、既に男弟殿はお休みだ。明朝会う事になる故、今の私には時間がある。どうだ、おぬしと一杯いくか。」

「恐れながら、この供の者達、学園在籍時にいたサークルの後輩でもあります。御一緒させても宜しいですか。」

「ああ。わしは構わんぞ。」

驚きの展開だ。近くで話が聞ける機会など思いもよらない、ヤマタイのトップ達に連夜で会える。これも先輩のお蔭と二人の後ろについて別室に入った。


驚きだ。てっきり上座に座ると思っていた伊支馬様が、先輩と同格の座り方で対面した。

「のう。キクチヒコ。おぬしも相応の歳だ。嫁を取る気持ちはないか?」

「はあ。今のところその予定は御座いません。半島で学ぶことが山ほどありますので・・」

「そうか。急ぐ話ではないのだ。相手もまだ幼い年頃だろうからな。実は伊都国王爾支殿の孫娘にミクモ姫というのがいて・・」

「その娘なら知っております。」

「学校では入れ違いで会うはずはないがのう。」

「昨日伊都国王宅に宿泊させていただき、その折に会っております。」

「美人、美人とえらい評判でウワサがこちらにも伝わっておる。会っているなら話は早い。仲立ち致すがのう。」

ヤマタイナンバーワンが仲人を買って出る。一体、先輩はナニモノ?との思いがふくらむ。

「その話、ご勘弁下さい。美人であることは認めますが、あの手の小娘には興味ありません。嫁は自分で探しますので心配御無用に願います。」

「そうか。飲みたくない水を無理やり飲ますわけにはいかんなあ。まあ、こちらの水はイヤではなかろう。ハハハ」先輩の持つ杯に、酒をなみなみと注いだ

「ところで韓半島は面白いか?」と話題を転じた。

「ハイ、非常に面白く御座います。」

「だが公孫の独立宣言でキナ臭くなっている場所だ。製鉄所などお前が出入りするとこまで戦火が飛び火する事はなかろうが、お前の身体が心配だ。呼び戻して誰かに担当替えさせてもよいぞ。」

「お気遣い有難う御座います。しかし、だから面白いのです。半島情勢がどうなるか、それを受けて倭国はどうあるべきか。」

「大きなテーマに興味持つのう。それでは現場にいるお前の意見を聞こうか。」と伊支馬は満足気に耳を傾ける素振りを見せた。


先輩は公孫の独立に起因し、今後韓半島で起こり得る可能性として三つのシナリオを指摘した。

一つは公孫が魏に対抗する勢力として独立を維持した場合。公孫の真の狙いは中国・中原の地にあるが、魏からその地を奪うためには基盤強化が不可欠。韓半島を完全勢力下に入れて傘下の国から徴兵。軍事力を高める方向に行くとすれば・・。

これまで韓半島南部の経営にはあまり関心を示していなかった方針を転換、当然弁辰の鉄も公孫体制に完全に組み込まれてしまう。倭国にも同盟を強要する事だって無いとは言い切れない。

一つは魏が再び公孫討伐に進軍、公孫を滅亡させ楽浪、帯方郡を取り戻した場合。支配力強化が進めば、韓半島に対してもこれまでのようなゆるい支配では済まなくなる。

最後は、公孫が倒れた場合で、高句麗が公孫と同様に遼東・韓半島を狙って版図拡大に乗り出す場合。

先の戦いでは魏の母丘倹に援軍を送ったとのウワサがあるが、かねて公孫と高句麗は互いにスキあらば、と争い合ってきた。と同時に魏に対しても、同様に敵対を繰り返していた。援軍派遣は、あくまで敵の敵は味方との理屈に過ぎない。

考え方の根っこは公孫と同じ穴のムジナだけに、同じく魏に対抗する基盤強化を韓半島に求める可能性が出て来る。高句麗が帯方郡や韓半島南部の掌握を狙い、自国に味方するよう迫られたら・・。

次に言及したのは先の三つのシナリオで、いずれかの勢力が韓南部に本格支配の触手を伸ばそうとした場合に、それに対抗して何が起こるかだった。

今は馬韓、弁・辰韓とも多数の部族国家の連合体になっているが、他勢力の支配を嫌ってこれに対抗する軍事力を蓄え始める部族が出てくる可能性があると先輩は指摘した。

弁韓以外の馬韓、辰韓にはその兆候がある。どこかの国が圧倒的力を持てば無防備な弁韓は弱い部族から呑み込まれてしまう危険性があると。その結果としての弁韓崩壊。

弁韓崩壊となれば倭国にも大きな影響が出るだろう・・・と伊都国王に話した内容を伊支馬にも披露した。

・・ヤマタイのナンバーワンに臆せず自分の意見を披露するとは・・ホントに只者ではないなあ。この人は。


「なるほど。」相槌をうつ伊支馬相手に先輩の弁に熱が入る。

「こうした情況で我が倭国はどうあるべきか。」酒が手伝って声も一段と大きくなる。

「私は倭国を強靭化(きょうじんか)するしかないと思っております。韓半島がいかに動乱し、流動化しても対応できる力です。対外勢力に対して防衛するにしろ、対抗するにしろ、外交交渉するにしろ、背後に軍事力があれば選択肢は拡がります。」

そして・・と続ける。

「イザという時狗邪韓国に大軍を駐留させる能力があれば、鉄の権益が脅かされたにせよ、弁韓が窮地に陥った場合にせよ、それに即応して速やかな対応や支援が出来るでしょう。伽耶部族の弁韓諸国が無防備なままなら、我が倭国が故地弁韓への発言力を強め、或いは盟主となって君臨する事も可能です。」

おっと、火の粉を振り払う方策が韓半島への倭国進出の手段にも使えると言っている。奇想天外な発想をする人だ。

伊支馬も苦笑しながら聞いていた。

「ひるがえって今の倭国を見れば、その軍事力はお粗末そのもの。各国は小競り合いに備える程度の力しか持っていません。狗奴国を含めたオール九州で軍事力と統合すれば形は整うでしょうが、なお足りません。東方の倭国、例えばイズモなどを傘下に入れてオール倭国の軍団を編成すれば先の話が現実味を帯びてくるでしょう。」

「現実味を帯びるといったが、連合国家の枠の中で、そもそも諸国の軍隊を統合するなど不可能な事は分かっておろうに。」さすがに伊支馬様も話にブレーキをかけようとした。

しかし先輩は止まらない。

「オール倭国の統一国家を作るのです。もう部族連合、ゆるい連合国家では将来はありません。ヤマタイ国を中心に統一国家を作り、中国式に郡県制にすれば良いのです。軍事力のみならず農・工業の経済力が拡大し、国富も増え、民の暮らしも向上する・・そんな国家運営に切り替える、今はその転換点だと申し上げたいのです。」


伊支馬は腕組みしながら聞いていたが「実はな。わしも若い頃倭国統一を考えたことがあった。お前と同じく狗邪韓国に赴任して外の空気を吸えば今の体制で果たして良いのかとの疑問が出て来る。それは判る。」と応じた。

杯に酒を足しながら話を続ける。

「しかし、為政者とは正しいと思っても突っ走るものではない。正しい方向と思ったらどうすれば現実をその方向に舵取りできるか考える者なのだ。お前はこれからの倭国を背負って立つ人材。評論家や指南役ではない。さまざまな意見や考え方を調整し円滑に国を運営する要になってもらわねばならぬ。飛躍し過ぎてはならん。百年後、二百年後にはお前の考える潮流になるかもしれん。しかし、お前に期待されているのは将来を見据えて、今どう動き、その結果が自分の正しいと思える方向に動くか計算することにある。先読みは大事だが、し過ぎるのは感心せんぞ。」

「百年後のことなど考えてはおりません。今をどうするかです。」

「その性急さがいかんのだ。今の倭国を冷静に見てみよ。戦乱の時代を経て卑弥呼様のもとで一応の安定を得たばかり。今、各国の王に対し東方の国を含めて統一国家にしますので退位して下さいと言って誰を説得できる。内乱を誘発するだけだ。体制を変えるということは誰かの既得権を奪う事。万一、王が応じてもその取り巻きが黙っているわけは無い。」

「しかし。」

「もうそれ以上言うな。お前に必要なのはヤマタイの実情を知り、為政者としての能力を磨く事。お前をヤマタイに引き入れたのも先を考えての事。段階を踏んでこそチャンスは向うからやって来る。それを忘れるな。」

「条件が整うのを待っていたら目の黒いうちに志を遂げることは出来ません。」

「わからん奴だ。」伊支馬は不機嫌になって話を打ち切った。が、諭すように先輩に語りかける・・。

「冷熱表裏一体。ワシの造語だが物事を動かす為政者の構えだ。冷たく分析するだけなのも、熱く語るだけなのも所詮、評論家。熱い心情、志を有しながら、冷徹に思考して、その実現に取り組む者だけが何かを成し遂げられるのだ。お前にはそういう人物になってもらいたい・・」

「もう休んで明日に備えよ。返書の授与は明日の昼頃になろう。わしは忙しいゆえ暫しの別れになる。が、これだけは忘れるな。お前に期待してる。大事に思っている。だから性急に事を急ぐ前に、考える事だ。いろいろ学ぶ事だ。達者にしてろよ。再び会うのを楽しみにしておる。」と退席された。


三人は寝床に入ってアッと言う間に眠りに落ちる。返書を待つ間ゆっくり起床することが出来た。事務方より封泥された竹簡を与えられ次第、伊都国向けに出発する段取りになる。

「今日は昼過ぎの出発になる。となると、何処かで一泊せにゃならんということになるなあ・・。とすれば、なあ、ケンが言ってた徐福の湯とやらに行ってみるか。たまには命のセンタクも大事だからな。」

「マジッスすか。ヤッター。一度は行ってみた方んですよ。温泉に。かといって特段の病気はなし。勉強嫌いの病に効くなら心ゆくまでつからんとナァ」

ケンがはしゃいで、おどけた口調で応じた時、担当官が返書を持参してきた。さあ温泉に出発だ。 


道すがら、昨夜は暗くて見えなかったハミズハナミズ(ヒガンバナ)の赤い花が田んぼの傍らに咲き、そこに懐かしい勝ガラスが姿を見せていた。

ケンが「なんで毒を持つ赤い花を植えるんだ?」と聞くので、ばあちゃんが農家をしているトシが教えることにした。三雲川での船の蘊蓄(うんちく)のお返しだ。エッヘン。

「毒があるからネズミやモグラが田に近寄らない。おまけに、この根は、毒はあっても長時間水にさらせば食えないことはない。」

「凶作の時の備えに植えているのか。」

そんな会話をしながら北山を西に折れて徐福温泉を目指す。ちょっとした旅行気分で歩いていく。


温泉では大事な返書を守る為、二人が見守る中を一人だけが入浴する事にした。湯守りの話では鹿など野生動物も湯浴びにやってくると云う。トシが浸かっている間にも野猿らしき叫び声が聞こえた。いい湯だ。何らかの効能があるに違いないだろう。湯治客の為の宿泊所が隣にある。今日はその宿で三日連続の酒宴となった。

ケンが「それにしても先輩、ヤマタイの総帥に気に入られていますねえ。」

彼も先輩が何者なのか不思議に思っているに間違いない。

伊支馬の遠い親戚というだけで出自は謎のまま。学校でも皆よりはるかに年長で、学校では中国語研究会のメンバーを除き、親しく付き合う仲間もいなかった。

先輩はその話題に触れたがらず話を変えた。「それよりお前等は将来、何になりたいのだ?」

即座にケンが「武人になります。」と答える。

「ほう。武人か。それは良い。しかしお前は塩ジィの親戚。海人族の頭領として船乗りになるんじゃないのか?」

ケンの顔に彫られた塩ジィと同じデザインの刺青を見ながら応じた。

「武人がダメなら船乗りですが、第一志望はあくまで武人志願です。趙雲のような将軍になるのが夢です。」前に聞いた時と同じ、キッパリとケンが断じた。

「趙雲は良いねえ。軍人として良き人生を送る事のみ欲してきた。俺もそうありたい。伊支馬はいろいろ言っていたが、近いうちに倭国は大きく動き、軍事力が必要な時代がくる。小競り合いを指揮する武人頭ではなく大軍を引率する将軍が脚光を浴びる時代だ。勿論、戦いが目的ではない。戦わずして倭国統一を図るには軍事力が必要だからだ。」

「トシ、お前も武人になれ。」

先輩から急に話を振られたトシ。武人とは縁遠い自分に・・と戸惑いを隠せない。

「エッ。私は書記官コースですよ。夢は通訳として外交に携わってみたいのです。」

「当面はそれで良いがそれだけでは小さい。小さ過ぎる。倭国統一にお前は孔明の役割を果たせ。正直、お前は武人としては頼りない。が、武人というより参謀だな。戦わずに勝てるように、戦うにしろ最小限の被害で相手を降伏させるのだ。その役割を果たせ。」

「今はレベルの低い孔明だがな。」とケンが揶揄する。

うるさいな。お前だって趙雲と比べりゃレベルを語る資格なかろう。と思ったが、ここで言い争いを続けるのはみっともない。トシは切り替える為に先輩に話しかけた。

「それでは先輩は何になるんですか?」

「俺は曹操になる。変革せずに何の男子たるべきかだ。曹操といっても漢皇帝をないがしろにする曹操ではないぞ。卑弥呼様を頂点に担ぎ、倭国統一のエンジンとなる曹操だ。」曹操と言えば三国志で悪役のイメージがつきまとうが物事を動かす力では最高の人物。その点では曹操になりたいとの言葉も分からない訳ではない。

その時、宿の主人がデザートの桃を持ってきた。旬は過ぎているが美味そうな桃である。当時の桃は今の品種と違い晩夏が旬であった。現代と違いお尻っぽい形とは異なる、扁平な形をしていた。

先輩が桃を前に悦にいった表情になる。

「曹操(そうそう)、趙(ちょう)雲(うん)、孔(こう)明(めい)が揃ったな。これは面白い。桃園の誓いならぬ、温泉桃の誓いといこう。劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)のメンバーは全て入れ替わったが倭国統一を目指す三兄弟だ。」

「我は曹操。他国に負けぬ強い倭国を創る。」

「我は孔明。戦わずして倭国を統一する。」

「我は趙雲。戦わざるを得ない時には死力を尽くし勝利を呼び込む。」

桃にかぶりつき誓いの儀式は終了した。

「いやー愉快、愉快。めでたしじゃ。」

と上機嫌の先輩。珍しくノリノリに盛り上がって眠りについた。昨晩の伊支馬のアドバイスはどこへやら・・先輩は今にも倭国統一を成し遂げる・・そんな夢を見ておられるようだ。


三人は再び伊都国に戻ってきた。

「帰りに立ち寄るようにと国王の指示がありましたね。」

「うむ。早く一大率で報告を済ませたいところだが、国王の要請を無視するわけにはいかん。」

屋敷にて面会を求めると、ミクモ姫が小走りに出迎えた。差し出された汗をぬぐうオシボリ。

「お疲れ様に御座います。さあさ、遠慮のう。さあさ、おあがり下さい。」

気が利く所作に先輩の心は動かされないのだろうか。

別館に通され姫が手配した食事で小腹を満たした後、国王と接見する。

「ヤマタイの反応は?」

「皆様の仰せの通りにされると言われました。この返書にもそのように記載されているものと存じます。」

「ウム。ご苦労であった。」

「こちらこそ出立の折にはお心遣いいただきまして有難う御座います。」


「ところでキクチヒコ殿!」

国王が急に、声高に名前を呼んだ。

「そなたは伊支馬殿の遠縁と聞いておったが実は狗(く)奴(ぬ)国(こく)の王子というではないか。それは真実か。」

静寂が拡がり、間が長く続いた。

狗奴国?聞き間違いではないか。狗奴国はヤマタイの宿敵なのだ。先輩は伊支馬様の親戚。狗奴国とは関係無い筈だ。ましてや王子など・・。

先輩が口を開く「真実で御座います。しかし・・その事はどこでお聞きになられましたか。」

衝撃の事実である。

「慣例でな。半島からの使者の内容は伊都国から奴(な)国(こく)に伝えることになっておる。奴国王がこちらに聞きに来た時、おぬしの話題がでた。あくまでウワサとのことだったが・・」

「ここだけの話にしてもらいたいと存じます。昔から邪馬台国と狗奴国に諍(いさか)いが続いているのは御承知でしょう。但し、その一方で、水面下では関係改善の動きも続いておるのです。その一環で私がヤマタイに参りました。ただ、私の母は邪馬台国から嫁いでおり、伊支馬様と遠縁にあたるというのも、まんざらウソというわけではないのです。」


遡ること四年前。両国の架け橋になる若者として選ばれた先輩は伊支馬と会う事になった。それまで反ヤマタイの中心人物として武人修行をしていた自分に、架け橋などとんでもないと思っていた。が、伊支馬様からヤマタイの現状、韓半島の情勢の話を聞き、世界を広く知る事の必要性を感じ一大率学園への留学を決意したという。

「この学園留学、加えて、今の駐在経験で考えが変わりました。半島情勢を見るにつけ倭国は一つにまとまるべきと心に刻んでおります。いま暫くヤマタイで御厄介になり、時来たらば、私の想いを実現すべく、生死をいとわず懸命に働くことを考えております。」

「成程。伊支馬の奴、そんな布石を打っていたのか。判った。この件は他言無用。お前達が洩らせば打ち首を覚悟せよ。」

トシとケンの存在に気づいて二人を睨んだ。無言の時間が過ぎた。

 

「どうだ。わしの孫娘と結婚せんか。」突然耳を疑う国王の言葉。

「おじい様、そんな事」

ミクモ姫があわてて制止したが、その顔は輝いていたように見えた。

「キクチヒコ殿とミクモが結婚すれば狗奴国、邪馬台国のみならず、伊都国にとっても万々歳の慶事となる。それとも姫では幼すぎるかな?」

色よい返事を期待していた国王に笑みが浮かんだ。

先輩はニコリともせず口を開いた。「お話、光栄に存じます。私のような者に、かように美しき姫をと、おっしゃって戴き、まことに恐縮の至りで御座います。しかし残念ながらこのお話お受けできません。姫にはもっと相応しい相手が宜しいかと存じます。」

ミクモ姫の笑みが消えた。

「突然に持ちかけたわしが悪かった。かようなこと、順序を踏んで進めねばならん事だ。いろいろ事情もあろう。急ぐことではない。そのつもりでゆっくり考えて行こうではないか。」国王が場を収拾させようとした。

「いえ。この話はなかったことにして戴けませんか。私には既に心に決めた女性がいるのです。他の事はともかく婚儀の件は重ねてお断り致します。申し訳有りません。」

姫の表情が凍りついた。

そして、先輩はこの間、一度も姫を見ることもなかった。

トシは姫が可哀そうと想うと同時に心に決めた女性がチクシであることを確信した。自分も体が固くなって行く。格も能力も何をとっても勝ち目のないライバルがハッキリ宣言しているのだ。頭がクラクラしそう。

「国王、今から一大率に返書を届けねばなりません。これにて失礼致します。」

国王はメンツを潰された怒りを先輩に向けるが、先輩はそれに動じる事もなく、打ちひしがれた姫を背にしてスタスタ歩き始めた。


― 第二章 チクシ 


一大率に着き長官に本部の返書を渡す。

長官は、これが自分の具申通りの内容である事に満足して、先輩をねぎらった。鴻臚館での宿泊を勧めたが、先輩は久し振りに寮に泊まることを望み、これを断った。トシの部屋に転がり込む先輩。ケンの鼾がうるさくトシの部屋の方がマシという理由で・・。

部屋の中で先輩がソワソワしている。

「トイレだったら向うですよ。」

何気なく言った途端「お前が適任だ。あのなあ。お前・・。チクシ、チクシがいるだろう。できれば会いたいと言ってくれんか?」

ヤマタイのVIP連中の前でも気おくれしなかった男がしどろもどろになっている。この役目、できれば受けたくないのだが懇願する目が震えるように弱弱しい。切実さを訴えているだけに断り難い。

「言うだけ言ってみますけど・・イヤと言われたら知りませんよ」と部屋を出た。


女子寮のオバさんに呼んでもらうとチクシが現れた。

「どしたん?」

「実はキクチヒコさんが韓半島から帰って来てて、出来ればお前に会いたいと言っている・・・」

チクシはどう出るのだろうか?

「キクチヒコ?私は会いたくないよ。断って。話すことないもん。」とつれない。

「少しだけ挨拶だけでもしてくれないかな」

「あの人キライ。学校時代から私をジッと観るのよ。気持ち悪い。それにあたし、もうすぐ開かれる弁論大会の用意があるし・・。そう、あなたに手伝ってもらいたいけど時間取れるかな。明日の放課後。」

弁論大会?女性が弁士として登場するなど、過去にあったか?こいつ、また人がしない事を平気に思いつく。そして、それを実行するクセがある。

「それはいいけど。どうしてもダメかな?・・実は今日、知ったけど高貴な方なんだよ。あの人は。」

「高貴でもノンキでもあたしに関係ないわ。あの人とは合わないの。ニガテ。大事な椿油作りで忙しいと言っといて。・・明日の放課後忘れないでね。」

ケンもホロロに拒否されて気が重いのとホットするのが半分の自分がいた。


一応、足取り重く部屋に戻ると先輩が緊張の顔。

「ど、どうだった?」

「椿油作るのに大忙し。それに弁論大会の準備で時間が取れないそうです。会いたいけどゴメンナサイとのことでした。」

「弁論大会にチクシが出るのか・・。」驚いたように、感心したように言葉をしぼり出した。

「病気ですよ。まったく。無鉄砲なんだから・・」

「やっぱり嫌われているのかなあ?」と呟く様はとてもカッコイイ先輩には思えない。ベツジンである。

「今日はお前の部屋で飲ましてくれんか。」

こんなメンドーな先輩の姿は初めて見る。

仕方なく酒を調達して手渡した。

「私は付き合えませんよ。明朝早く、先輩の乗る船への積み込み作業があるんですから。」先輩に対する敬意は変わらないが、落胆の表情を見せる男には強い言葉が出せるものだ。

「ああ。それでもチョットだけ話を聞いてもらいたい気分なんだ・・。」メンドーは続くものなのだ。


「俺の出自を聞いて驚いたか?」

「敵国ヤマタイに留学するなんてたいした度胸ですね。万一の時は人質扱いでしょうに。」

「そうなったらそうなったで、運命と諦めるさ。俺はここにきて見る目が広がったのを感謝している。特にチクシ出会って、変わった。」

彼女の話がしたいのか?あまり聞きたくはない話だ・・。

先輩は長々と話始めた。

「俺は狗奴国で人間があまり好きではなかった。幼い頃、母を亡くして居心地がいい場所、というものを失った。王子といっても非嫡子の第三王子だからな。生活の不自由はなかったが兄弟の見る目も、家臣の接し方も兄たちとは違うし、楽しい時間などなかった。もがいた末に見つけたのが武術鍛錬だった。時間を潰せるしそれなりの評価をしてくれるからな。ただ、本当に楽しくて武術をやってはいなかった。強さを目指す事でどうにか居場所を確保していただけだからな。そういう点では淋しい人生を送ってきた。だから留学にも応じたとも言えるのだが、ここに来て初めて生きる面白さを味わうことができた。井の中の蛙大海を知らずと荘子の言葉がある。イミは違うが井の中の鬱屈した蛙も大海を知れば面白さに目覚める事が出来るのだ。その大海とは徐先生の講義とチクシだな。チクシとはあまり話すこともなく、ただ彼女の言動を観るだけだったがアイツは面白い。アレコレ手を出して最初は自己顕示欲の強い奴と思っていたが何か違うのだ。」

「それは買い被りじゃないですか」

「そうかもしれん。しかし一見、欲だらけの人間のようであんまり欲がない。普通、人間は良い言葉を並べても最終的には己が利益を目的に生きている。だがあいつは自分を手段として捉えているじゃないかと思われるフシがあるのだ。自分を目的にせず、何かの手段として生きる事は面白いぞ。チクシはその何かが、定まっていないのでアレコレ手を出すんだろうが、これから何をやりだすのか最後まで見てみたいと思わせられる。」

「その評価は、思い入れが強すぎるだけじゃあないんですかね。それ程の奴じゃないと・・」

「イヤ、青臭いことを言うようだが、俺はだから、自分を手段にする事に決めた。この倭国、お前等やチクシのいるこの国を守る手段として自分があるのだ・・とな。」

「先輩こそ大したもんですよ。と思いますけど。・・」と慰めると先輩も落ち着いたらしく「ちょっと飲み過ぎたか。寝るとするか。」と応じて、眠りに着いてくれた。


トシは寝床に入って自分の事を思い返していた。先輩と同じくここに来るまで、必ずしも楽しい人生ではなかった。

年少の頃まではヤマタイ本部にも近い久保泉の祖母のいる実家に家族と共に住んでいた。書記官の父の転勤により父母は日向の国に赴任して行った。最初は一―二年の予定での赴任だったが結局は長引き、今でもその地に住むことになっている。

数年は祖母の手で育てられ、ばあちゃんっ子になったわけだが十歳を超えると父母にいる日向に同居する事になった。

ところが言葉も微妙に違い、腕っぷしも弱いとあって悪童からは仲間はずれ。イジメから逃げるだけで精一杯の自分の姿が情けない。

悪童の中にも序列があって、下位の者は卑屈に上位のご機嫌取り。

それを「何だ」と思う自分にしたって同類だ。弱い者がイジメを受けても見て見ぬふり。その者がいれば自分が助かると安堵する己に自己嫌悪する。

人間は性悪だと自分も含めて好きになれなかった。父の蔵書に出て来る仁義礼智信、忠孝の文字が白々しく感じられる毎日。

今からおもうとイジメというより悪ふざけなのかもしれないが受ける側からすればイジメ以外のなにものでもない。

親にはヤマタイ恋しとだけ理由を告げたが、うすうす判っていたのか祖母のもとに帰されることになった。落ちこぼれ気分の毎日だったが、この逆境をハネ返すには引き込もっているだけで何もしないという訳にはいかない 

勉学に向かうしかないと猛勉強して一大率学園の入学試験に合格。入学して久し振りに生きる事が面白く感じられるようになった。それはチクシと会ってから。生きてればこんな奴とも出会える。その面白さ、加えてケンとの交友。なんだ、先輩と一緒なのだ・・。

眠りに落ちながらケンとチクシとの出会いの場面を思い浮かべていた。


入学ガイダンスの時、たまたま隣席にいたのがケンだった。周り、初めて見る顔ばかりで、緊張の時。トシのお腹からグーッと音が出た。新しい環境で、今朝の食事が咽喉を通らない。気持ちはイッパイ、イッパイ。胃腸は空腹だったのだ。

ヤバイ!感づかれたかと、隣の学生の顔を窺う瞬間、その学生が、今度はブー。例の匂いが漂う。

お互い顔を見合わせて「音鳴り同士だね」と笑ったのがケンとの出会いだ。

入学から数か月。新入生は志摩地区の二見が浦へ親睦遠足した。夫婦岩と言われる男岩、女岩が形よく並んで海に浮かぶ景勝地である。ケンと二人、どこまでも青い玄界灘を、胸に吸い込み、解放感にひたっていると、近づいてくる巫女学コースの女性がいた。

「あなた、書記官コースの人でしょ。漢字を習っているのなら、中国に関心を持つべきよ。」と声を掛けてくる。それが中国研究会、チクシとの出会いだ。

その時の研究会は部長が先輩のキクチヒコ。美男子目当ての巫女達が多数、入部していた。

ところが先輩は女と手加減せず、難しい研究課題を課して厳しく指導。一人減り、二人減りでクラブ存亡の危機に立たされていた。チクシが勧誘活動を命じられていたのだ。

「あなた、やれそうな顔してるじゃない。」と軽口をたたく。

それだけではない。

あろうことか、トシの額にデコポンをする挑発女だった。

小馬鹿にしたような言動に一瞬ムッとしたが、相手は仕草全体、顔の表情で、こちらにに対する、興味深々、好意を伝えて来ている。

惹きつけるパワーを感じる。・・よく見れば、ソコソコ可愛い女性である。

ここで断れば、逆にそのまま見下される気がしてこの挑戦を承諾する事にした。

受験勉強の時に父の中国の書籍を読んで、少しは知識がある。入部してから見返してやろう。

傍らのケンにも誘いの手が。「うちのクラブ、女の子一杯よ。あなたも、どお?」

ケンが首肯したのは言うまでもない。入部してみれば女性はチクシだけだったのだが・・。ケンは「そうやな。将来、韓半島行の船長を勤める事になるなら他国の情報も少しは知っとく必要あるな。」勉強嫌いから意外な言葉が漏れ出た。


翌日、先輩は見事復活し、凛々(りり)しい姿を取り戻した。先輩が書記官室で狗邪韓国長官宛ての書簡を受け取った時、トシとケンは積み込み作業に従事していた。米などの穀類、麻の布、ヤマタイ特産の絹を運んでいた。

昼には出航準備が整い、最後の船に高価な勾玉、管玉等、大将の工房で作られたかもしれないアクセサリー類が積まれ、先輩もその船に乗り込んだ。

我々が手を振り見送るのに、直立不動の姿勢で応える先輩。

学舎に戻ろうと振り返ると高台の校舎に領巾(ひれ)を振り続ける乙女の姿・・涙ぐむミクモ姫を見ることになるとは・・・。

「やれやれ。先輩も罪なことを。お似合いなのになあ。」

ケンが同情を口にしたが、そんな姫はその時だけ。

その後はいつものおすましや。いや、より高貴に、気高く、気丈な美少女になった。相変わらず笑う事も少ないが、トシとケンだけには微笑と共に会釈するので周囲の男子学生から訝られたものだった。 


授業が終って中国研究会の部室。と言っても中国の書物がおいてある図書室なのだが、部屋を開けると、チクシが机の上に木簡を綴った書籍を置いたまま、何やら想いに耽っている。

トシが入って来たのを見咎めると駆け寄って早口にまくしたてた。「二週間後の弁論大会。あたしエントリーしてるでしょ。だから相談。あたしはそこで夢を語る。そして実行を宣言するの。」

「ああ。」何を言い出すのか見当つかないので、曖昧に相槌を打つ。

「でも実現の方法や組み立ては不得手なのよ。だから教えてよ。あたしは将来、施薬院を作りたいの。皆に医療を施し、病を治す研究をする所。安心して暮らせる新しい制度を創りたいの。どしたら出来るかなあ。」

「施療院だって、お前自身に何か出来る事あるのか?」

「失礼ね。巫女学では薬学を学ぶのよ。クスリは私たちの商売道具。それにあたしには少しだけど超能力があるの。気功術でね。病気を診断するのに、気の流で体の悪い所がわかるんよ。クスリが効かない場合でも気のパワーを当てれば、楽になったり完治する例も多いのよ。」

当時、医療は巫女か祈祷師や呪術師など、シャーマンの領域だった。薬草とその調合の知識を持ち、神や祖先のパワーを加えて病を癒す。勿論小さな傷や病気は各人が周辺の雑草を利用して手当する。例えばケガにはドクダミを擦り込むなど。しかし、治りが遅いと専門家に頼まねばならない。それなりの金銭や品物を用意せねばならず裕福な家でなければそれらの医療を受けることはできなかった。その医療を一般家庭でも受けれるようにするのが施療院制度だ。その金を誰が出すのか。

「金の掛かる話だな。国の金を使うとなればどの国王もいい顔はしない。国の金を増やすには農業振興で収穫を増やすか交易で儲けるか。時間もかかる。」

「お金が出来てからやるってのはダメよ。お金が出来たら、皆、他の事に使っちゃうでしょ。こんな話はいつも後回しになるに決まっているわ。」

「うーん。それならヤマタイ国を統一国家にして国の規模を大きくする。他の倭国と併せて大国になる。統一すれば各国の個別の予算とは別に全体の予算が持てる。それで大がかりな公共工事も軍事力も強化できる。施療院だって各国に全てとはいかなくても一つ一つなら作れるかもしれない。そこの研究所で各国の医薬情報をまとめて一番効く薬を開発するのも良いな。それを売って儲ければ、その金を施療院の運営費の足しする事もできるだろう。外国にも売れればもっと儲かる。」

先輩の統一国家論を拝借して、それに味付けしてみた。

「おーっ。良いじゃない。明日にでも統一国家にすればいいわ。」

「ところがそう簡単には行かない。統一国家にすれば各国の国王・高官はリストラされちゃうからね。金をこれまでのように自分達の自由に出来ないとなると、抵抗勢力として反対するに決まっている。結局ムリってことかな。やっぱし。」伊支馬のコメントも利用した。

「何よ、それは。結論がムリなら聞かない方が良かった。役立たずね。・・とは言うものの、情報を集めて新薬を作り販売して儲けるってのは・・使えるわね。巫女学に学ぶ女性は各国から来ている。皆が薬効のある木や草を持ち寄って、付属の薬園に植えれば何か発見出来るかもね。」

チクシの機嫌が悪くないのをみて、先程聞いた気になる言葉を質問してみた。

「超能力って、お前にクスリを超える力があるのか?」

「ウソと思うなら試してみる?」

弁論大会が終ったら、お祭り、それが終れば昇級試験だ。優秀な成績で卒業出来るかが自分の将来を決定する。トシは考える事は得意だったが、覚えるのは苦手だった。

「なんなら、あたしのパワーで誰かさんのオムツを良くしてあげても良くってよ・・・」

「カミサマにお願いするしかないと思ったら誰かさんに頼む事にするよ。」


 弁論大会当日になった。

最後の弁士としてチクシが登場。初の女性弁士とあって興味本位の視線を集め、会場はザワついていた。

壇上に立ったその時。ドーン!と大きな音が室内に響き、講堂が静まり返った。すかさず「諸君!」とチクシのメいっぱいに振り絞った声が講堂を包む。

「あいつ、考えたな・・」

聴衆の耳目を集めるためにこぶしで壇の机を思い切り叩いたのだ。大声を出したのも、恥じらいを捨て、背水の陣を敷くことでシドロモドロになるのを避ける一手でもある。

 「告白しよう」「あたしの中に善人と悪人がいることを」「よからぬ事を考え利己的になる自分が居り、良いことを考え人に尽くしたいと思う自分が居る」「あたしの中に善人と悪人が戦う土俵がある」「肝心な試合では」「自分の善人の勝利を信じたい」「心の眼で善悪を判断」「その為に日頃から学びを積み重ねて来た」「だから負けずに」「負けそうになっても」「ウッチャリ!」と相撲の身振りのパフォーマンス。「自分の中の正義を手に進もう」「あたし達は若い」「だから前に進もう」「私達人間は、人間になろうとする志があれば希望の未来があります。」「黙っていれば善からぬ事を考えるもある。だからこそ、志を高く掲げて。」「後退より前進、現状維持より改革で倭国の未来に夢を創ろう」・・・

「あたしの夢は施療院。誰でも薬や治療を受けられる、そんな施設を作る事」・・

「此処に居る皆が卒業し、それぞれの国に帰るでしょう。そして将来皆が、それぞれの国を動かして力合わせれば、より良い社会を実現できます」「あたしは決してうずくまらない。そして夢を実現します。だから皆さん、あたしの夢に協力願います・・」

弁論が終ると予想以上の拍手が起きた。内容より「見世物」としての要素が強かったかもしれないが、弁士の中で最高得点となり大会優勝者になった。

後日談だがその後、巫女学の教室でホームルームが開かれ、各人が郷里に帰り学園に戻る時には、薬効ある、その地の植物を持ち寄ることが決議された。

「良かったじゃないか。おめでとう。」

「お蔭様で有難う。」部室に戻りお祝いを述べるとチクシも興奮さめやらぬ様子。

「まだドキドキしてるわ。ここが。見て。」

チクシ、小柄だが胸はボリュームがある。見てと言われて、まじかに寄って見るわけにもいかない。ただ、胸の鼓動は伝わってくる気がした。 


弁論大会が終わるともう十月半ば。穀物の収穫作業を手伝う。春の田起し、田植えと並び農業実地研修のカリキュラムが組まれている。それに並行して伊都国挙げての収穫大祭の準備がある。伊都国の守り神、高祖(たかす)神社の境内で様々な催しが行われ、神へ奉納する行事が行われるのだ。

学園の学生も、男子は朝の奉納相撲、昼は伊都国一周マラソンに参加。女子は舞踊で参加し、伊都国の祭りの盛り上げに一役かうのが慣例になっている。

学園でもマラソンや相撲の練習時間が多くなった。軍事訓練を兼ねているのでどうしても武人コースの学生が有利だ。運動オンチのトシには辛いがケンにとっては脚光を浴びる季節である。相撲、マラソン共に優勝候補の一人になっている。

今日は男子の授業は中止、マラソンの予行演習がある日だったが生憎の雨が降り始め、道がぬかるんだことから、自習時間に切り替わった。

誰かが、男全員が集まっていることで「美人投票をやろうぜ」と言い始めた。巫女学部の女子六十人ばかりの中からミス一大率を決めるのだ。

美人と目されるのは五―六人。トシの公正な判断ではチクシは投票対象かどうかのボーダーラインあたり。勿論、ぶっちぎりの大本命はミクモ姫で間違いない。二位との差がどれくらいつくかが見ものとトシは考えた。

トシは個人的にはチクシに投票したかったがビジンという選考基準に照らして姫に投じた。

縁起でもない事を言えば死人に美女ナシという。が、トシの公正な判断は、姫なら死しても美女の可能性があると判定していた。

使い古しの竹簡の投票札が集まり、言いだしっぺの学生が読み上げる。

ミクモ姫、ミクモ姫、チクシ・・おっ。誰かが投票している。

「お前に投票する奴がいたよ」とからかいネタが出来たと思った。

が、どうした事かチクシ票が続く。最後まで、その二人が二分する形で接戦が続いた。

結果は、僅かの差でチクシが一位に。

美人投票は、客観的美人度をはかるものではない事を知らされた。弁論大会でのパフォーマンスで知名度が上がったのが、人気投票の形で反映されたのだ。

傍らのケンに「美人を決めるのに姫じゃないんだ」というと「俺もチクシに入れたよ。お前は・・」裏切り者を見る目でトシを睨む。苦笑いするしかない。

この結果はチクシには言わなかった。

皆、チクシのブス顔を知らないんだ。愛想を振りまく表情と、機嫌悪しの時の顔、この二つの顔は真逆であることを・・・。


祭りの日。奉納相撲が始まった。ケンはシードされ、トシは一回戦から。ケンの指導で脇を締めることを覚えさせられた。

一回戦。言われたように胸にぶつかると相手の上体が崩れて伸びあがる。当時、明確な土俵は無く、観客の座っているところが土俵みたいな扱い。基本的に相手を地面に転がすか、手や体を地に触れさせなければならない。更に押し込んで相手がこらえる所に、外掛けを見舞って倒す事が出来た。一勝したので、もういいやと思った二回戦、ギャラリーが増えて中にチクシが居るのが見えた。

ここで勝てればと思うと体が硬くなり立ち会い不発、四つに組む事になった。しかし、相手の体重が重く徐々に不利な体勢に・・このままでは負けると、一か八かの足取りを試みると、不意を突かれた相手がバランス崩して二勝目。きれいな勝ちではないがチクシの応援に応えられた。

三回戦は諦めるしかない。師匠のケン、初戦相手がトシになったのである。あっと言う間に地面に叩きのめされた。

学生相撲決勝戦は前評判通りケンとウサツヒコ。体格はウサの方が優る。しかしケンの筋力が技能賞の投げを呼んで、熱戦を制した。

そして黒山の人だかりの中、最後の試合。伊都国社会人チャンピョンと学生チャンピョンの最終決戦と相成る。ここでもケンが見事勝利。ケンの父も塩ジィも誇らしげに久米一族のヒーローが賞品の新米一俵を持ち上げるのを眺めていた。

マラソンは番狂わせが起きた。こちらもケンが最有力視されていたが、用意ドン、と同時に、最後方からスタートした人影が風のように皆を抜き去った。中国研究会新入部員のキジが大会新を大幅に短縮するタイムで優勝したのである。


祭りは夕方からの舞踊の時間帯に入って一層盛り上がる。その前に高祖神社と国王の祖先を祀る細石神社を神輿が往復する儀式が行われた。伊都国王爾支が祖先と伊都国の守り神に対し豊作御礼の儀式を済ませると、いよいよ祭り本番。国王の大盤振舞で御馳走と酒が居並ぶ群衆に与えられた。

塩ジィ達、久米の海人族が朝釣ってきたばかりの魚を焼いている。栄誉を手にしたケンとキジの前には大きな目出鯛がデーンと置かれた。チクシの出る巫女達の舞を見ながら、美味しい時が流れて行く。

ミクモ姫が化粧をして舞台に立つと歓声が巻き起こり、その美しさを見てアチコチからため息がもれだした。先輩に披露したあの舞姿である。多分、今、美人投票が行われれば、きっと違った結果になっただろう。

華やかな舞が終り、変わって芝居が始まる。ひょっとこ面、鬼の顔したべしみ面、翁面にお多福面、入り乱れての演技に、笑いの混じったざわめきが最高潮に達し、総踊りと言われる全員参加の踊りでフィナーレを迎えた。


祭りが終れば山の木々の色付きも鮮やかに変化、学生の目の色も変わる季節となる。来春には昇級試験が待っている。落第すれば放校の憂き目。

初級、中級はそれほどうるさくないが、三年生にとって今回は大事な上級の卒業試験。この試験での成績により士官が叶うかが決まる。特に通訳志願のトシにとっては上位合格が必須要件になる。

貴人の子弟なら卒業しさえすれば、その後の人生に大きな差はないが、トシの家柄ではそうはいかない。将来の全てが、成績如何にかかっているのだ。

ケンは武人コースにつき、相撲優勝で上位合格を手にしたも同然。余裕たっぷりで遊びに誘って来るが、あいつとは置かれた立場が違うのだ。

学業に専念する前にトシにはしなければならない約束事があった。玉造の大将のところで手伝いする事だ。

トシは前もってアクセサリー店を回ってどのくらいの値段のモノなのか調べることにした。が、あのヒスイという石の飾り物は何処にも置いてない。

「ヒスイの勾玉は?」と聞くと「金はあるのか」と庶民の服を着たトシを胡散臭く見る。或いは「あるよ、これだ。」とどう見てもマガイモノを勧められる。

それでも目の玉飛び出る値段を吹っ掛けて来るのだ。どうやら大将にはとんでもない依頼をしてしまったようだ。


「おう、来たか。」大将が招き入れてくれた。

「これがお前の石だ。」割られた原石に深緑の高貴な色合いがのぞいている。一目でまぎれなく高級品である事が判った。

何と言おうか・・と、トシが押し黙っているのを見て「何か不足か。」と怖い顔になる大将。

「いや素敵です。素敵すぎて・・こんな高価なもの譲っていただいて・・ホントに良いんですか?」恐る恐る口を動かすと大将は大笑いした。

「値段付けたらお前の一生分の俸給を貯めても買えないシロモノだ。書記官ふぜいが持つモノとは違う。」

塩ジィからこちらの素性を聞いているらしい。

「いいんだよ。塩ジィには大変な世話になっている。女でトラブッて危うく殺されかけた時、命張って助けてくれたのがあの人なんだ。命の恩人が初めて口にする頼みとあっちゃ、こっちかお願いしてでも引き受けなきゃ男がすたる。」

「・・・。」

「いいんだよ。」酒に手を伸ばしながら大将が言った。

「塩ジィが何故、お前をヒイキにしてるか知っているか?」

「は?」大将は何かを自分に伝えようとしている。

「お前の顔だよ。あの人の死んだ一人息子にソックリなんだ。海人族のイレズミがあったらな。」

恋女房に先立たれ一人息子も亡くなっている事は聞いていた。塩ジィが家族に恵まれない独身生活なのは知っていたが・・。

「あの人はイカつい体で、肝っ玉も据わっている。だが息子は母似の優男で海の男とは違っていた。人に頼まれたら断れないタチでな。波の荒い日に火急の依頼があって、無理に船を出したのが運命になった。難破して船もろとも沈んでしまった。舟板一枚、下は地獄というからな・・。」

「そうだったんですか。」

「ま、そう云うことで、この石はお前のもん。その代り塩ジィを半分親と思って接してくれよ。」

そういえば塩ジィに他人と思えない視線を感じることがあった。


大将は酒好きを自慢するだけあってグイグイ飲み干していく。酔ったところで石談義が始まった。こちらは相槌を打つだけ。独壇場のおしゃべりが始まる。

「この石が採れたのは越の国。昔その地にヌナカワという姫が居た。磨いた石をジャラジャラすると、男という男が言い寄ったという。もともと美人なのだが石にも魅力があったんだろう。それで石の採れる川を名づけて姫川という。石は濁流に流され山から川下に流される。その間に砕かれ丸くなる。殆どが普通の白い丸石だが、中に飛び切りのこんなもんが混じっているんだ。」

「俺はね。偶然が好きだね。石がそこに在るのも、拾われるのも偶然。それがたまたま俺の元に来て俺が磨く。偶然が重なり、輝く石が表に出て来る。その瞬間がたまらネエ。偶然が必然の出会いになる瞬間だ。」

「なあ。女もそうだろ。偶然に出会った男女がホントに好き合えば必然の出会いに変わる。その瞬間は宝だね。その為にいままで生きて来た、としか思えねェ瞬間が。」

「俺はどうしようもない奴だがその宝を手に出来る幸せ者。神様に感謝しなきゃ・・ウィー。」

オット。酔いつぶれる前に言わなきゃ。「何を手伝えばいいのですか?」

「冗談じゃない。人に手伝わせるには惜しい石だ。俺がゆっくり一人で仕上げる。お前は試験があるんだろ。合格したら取りにきな。今日はもう寝る。帰れ、帰れ。」追い出されてしまった。


その後、十一月半ばからは受験勉強一筋の毎日になる。海も荒れることから韓からの鉄の入荷も少なく農作業の手伝いもない。

ただ、トシはその時、プレッシャーに苦しんでいた。漢文字、文書作成、中国語の発音、会話。倭国語と殆ど変らない弁辰語ですら上位合格の水準を満たしているかさえ自信がない。

将来は通訳を目指したいと先輩には語ったものの今のままでは大ぼら吹きになってしまう。

荷札を書き、積荷のチェックをするだけの書記官ではエリートコースに乗るだろうケンとも対等に付き合えなくなる恐れがある。不安がよぎると、なおさら書籍の字面を目で追っても頭に入って来ない。

昼休み。部室に一人、参考となる蔵書を探して書庫を眺めていると、ワッと突然、背中を押す者がいる。チクシだった。

「どしたん。浮かない顔をして・・」

「久ぶりだな。お前こそどうしたんだ。」

「巫女学漬けに飽き飽きしてね。誰かと話せればと、まかりこしたでござる。」

「うん。勉強に疲れた。俺も気分転換に本探しに来たんだ。」

「はー。さては自信を喪失しておるな。よーし、あたしの超能力を必要とする日が参りましたな・・」

「ハンドパワーで頭が良くなり試験合格ならいうことない。けどお前はどうだ。自分にパワー注入してみたのか?」

「ザンネン。自分には効かないのよ、これが。邪念が入ると単なるマジナイになってしまうの。自分の患った風邪なんかは治せるけど・・。」

「俺に掛けてもマジナイでしかないと思うけどなあ。もっとも今から授業あるから明日にしてくれよ。休みだから・・」

「明日?明日か。いっそ伽耶山に行ってみない?ハイキング。自然の中でパワー掛けると効果抜群よ。約束したからね。」といそいそ去って行った。


翌日は快晴で、暑くも、そんなに寒くもない絶好のハイキング日和になった。竹筒に水を入れ、オニギリ一個調達して待ち合わせの志登の常夜灯に行く。途中、支石(しせき)墓(ぼ)と言われる先祖の墓が並んでいる台地があったが、この支石墓はトシの実家がある川久保にもあるものだった。この地と邪馬台国は以前から関係があったのだろうか?・・と思いながら先を急いだ。

陽の光がふりそそぐと、凪(なぎ)の海は抜けるように青い。灯台からは今津湾、加布里湾、右も左も波が光を吸ってキラキラ反射している。

勉強を休んで一日ムダに費やしたとしても、最高の気分転換にはなりそう。イヤ、これは初の二人だけのデートだ。こそばゆいような幸福感がキラめく波と重なり合った。

「お待たせ。腕にヨリかけて弁当作ったからね。一緒に食べよ。」クリクリのどんぐり眼のチクシが息せききって現れた。

泊の漁港を廻って左手に見える伽耶山に向かう。歩くと、見る角度で山の形が変化していく。時に三角形で稜線広がる形良い山になった。途中、泉川という小さな川を丸木橋でわたる。

川の中のつがいの白鷺が、互いを見つめ合うように、脚を止めてたたずんでいる。あまりにじっとしているので、その間、時間が止まっているように感じられた。仲良しである事を確認しあっているような微笑ましい姿、川面のきらめきと共に美しい。

それから、けもの道の登山道に入ると、トシは倒木の枝で手頃なものを拾って杖とした。山には鹿、猿、猪などが生息しており危険な猪に対抗する武器にもなる。

「ほら、見て。ここには椿が多く植わっているのよ。」初秋に、ここの椿の実から油を搾ったそうだ。

その油を整髪料としてチクシ自身、使っていると見え、風が吹くとチクシから良い香りが漂う。この油は食用にも灯にも刀剣の砥油にも木製品のツヤ出しにも使われる。高級品だけに、普通は他の植物油を使う方が多いが・・。

「この葉っぱは止血剤にもなるのよ。」

「さすが薬学は合格点だな。」

「年明けて試験の頃には赤い花が咲き乱れて、きれいでしょうね」

「ああ。」

「でも椿の花になっちゃダメよ。ポトリと落ちちゃ。」チクシがわざとらしく逃げる。

「それを言うために・・。気にしていることを。」トシもわざとらしく追いかけて上に登った。

頂上には心地よい風が吹いていた。

眺望も良し。遠い末盧(まつろ)国(こく)が近くに見える。その北には一(い)支(き)国らしい島が海原に横たわっていた。

「あれが一支国なら、見えないけど、向うの方が対馬(つしま)国(こく)、その向こうに狗(く)邪(や)韓国(かんこく)があるんだなあ。」水平線を指差した

。狗邪韓国にいる先輩を思い、今チクシと居る事に対し少しだけ負い目に感じる。

「あっ。トンビ」青い天空に円を描いて滑空している。

「あたし、生まれ変わったら鳥になって大地を上から見てみたい。」

「「いいね。でもトンビは下界の野鼠を狙ってクルリと旋回しているんだぜ。あるいはこの弁当を狙っているかも。ノンキに大地を眺めてないさ。」

「じゃあ、さっきの白鷺がいい。」先程の、川に白鷺が羽を休めていたのを思い出す。

「サギだって小魚、虫を探してる。」

「つまらない言い方ね。」ムカついた表情をする。ホントつまらない言い方だった。

「ゴメン。俺も生まれ変わったら白鷺になるから彼等みたいに仲良しでいこうぜ。」

「そうね。食事にしますか。トンビにさらわれないように気を付けて。」と他愛ない会話が続いた。

本当に白鷺になって二人で生きていけたら・・チクシの顔を見ながらホントに思った。

「あーあ。気持ち良い。」食事の後、大の字になりチクシが草叢に寝転がった。

「あの雲カッコイイー」屈託のないその笑顔になぜか自分の娘のような愛おしさを感じる。食事の時には母親のように世話を焼いていた。それが・・今は娘になるのか。

トシもマネして大の字になった時、柔らかく、吸い付くような温かさが手の甲に触れた。

何が起きたのか確かめようとした時、チクシは何事もなかったように起き上がり「トシはこの春、何になるの?」と問うて来た。

何の根拠もないが、さっきの柔らかな感触、あれは唇ではなかったか?問いただすわけにもいかず、しかし根拠のない幸福感に包まれる自分が感じられる。これは妄想というものなのか?

「書記官になるさ。出来たら通訳になれる一大率外交部の仕事に就きたい。」

「おー。通訳?中国に行ったら死んだ孔明には会えないでしょうけど、司馬懿(しばい)くらいには会えるかもヨ。」

まさか中国など。

「まさか。帯方郡は公孫が握っているだぜ。」

「魏が帯方郡を取り戻したら洛陽に行けるかもよ」

「その場合でも帯方郡どまりだよ。それに司馬懿は高齢だ。もうとっくに死んでいる可能性が高いし生きていたとしても倭国の使いに興味は持たないよ。」

「何か、まともに答えるのね。夢はデッカく。」

「そうだな。」単に通訳になりたいと言っただけなのに、こいつにかかると司馬懿と会う事になっている。勝手に人の夢をふくらませる奴なのだ。

勝手なおしゃべりが続く。「あなたとあたしは同志ね。あたしも夢は実現させる。」「

「施療院の話?」

「あたしが卑弥呼だったらすぐに計画を実行に移すわ。マイゴッドがそうしろと言ってるの」

マイゴッドとはチクシが良く使う言葉。

いつもは間食をたしなめた時に、マイゴッドが食べろと言ってるの、という使い方をするのだが、今のは少々真剣味が漂っていた。

「そしてあたしは華佗(かだ)になる。女華佗に。」

華佗は中国の名医。飛躍の程度が尋常ではない奴だ。バカな妹のような奴である。

飛躍を封印する為「お前が言ってた、超能力とやらを試してくれよ。」と話を変える事にした。

「今日のメインエベント、目的はそれだったわね。」

トシを座らせてチクシは気を操り始めた。頭の両側に手を広げ何やら念じている風だ。

「気って何だ?」

「「目に見えないエネルギーよ」

「目に見えない?」

「目に見えるモノが物質とすれば、物質を支えるもっとちいさなエネルギー、物質になる手前のエネルギー、そのもの自体では物質にはなれないエネルギー、或いは物質を取り込み別次元に送り込むエネルギーよ」

「何だそれ」

「気にも色々あるってことよ。あなたに送り込むのは少なくともプラスになるエネルギーだから心配しないで。」手をかざすのはヒーリング効果を生み出す、気の注入技法なのだそうだ。

「感じるわね。ほうら、動き始めたわよ。脳が温かくなってきたでしょ。」

確かに暗示に掛かった様に頭が温かくなった気がするが、暗示に掛けてるだけではないのか?

「ホントかよ。大事な脳ミソ、ゆで卵のようにするなよ。」

「大丈夫。目をつむって・・」二十分近くそうしていたのだろうか?

「はい。終わりました。」異様に優しい声で目を開けた。

前より冴えわたる感じだが、それが超能力によるものか、瞑想のお蔭か、好天に恵まれた絶景に心を洗われたせいなのか。

「有難う。何か頭が生き返ったようだ。」

「これから迷うような事があれば、心の眼で自分の志を見つめる事ね」

そう言えば、チクシは弁論大会で志の大切さを強調していた。自分の将来を有利に導く為に頑張るのではなく、この倭国を良い国にするために、それが出来る地位を目指す。その為に頑張る気構えで試験に立ち向かおう。俺は志があるとはいえない生き方をしていた。チクシは志があるように俺を買い被ってくれている。それに乗っかり、志の高い人間と自分に暗示をかけてみよう。と思うと何か吹っ切れた感覚になる。

チクシは続けて、ヘンな事も言い添えた

「あなたに気を入れてわかったことがあるわ。あなたの守護霊は猿よ。覚えていてね。」

トシのこれまでの人生。猿と関わったことはない。

「あなたの未来に猿が大事なものをもたらす。と出てるわ。」

今度は占いか。それでも信じる者は救われる。

帰途の道、岩からしみ出した水飲場に寄った。この自然の水は井戸水より美味しい気がする。顔を洗って水しぶきを散らすと小さな虹が出た。これは吉兆?いずれにしろこの時の思い出はトシの宝箱にキッチリしまわれた。


突然の場面転換。トシとチクシが寮に戻る丁度その頃。物語の場面は遠く離れ、洛陽は宮廷の謁見の間に移る。


魏の皇帝曹叡(そうえい)は将軍司(し)馬(ば)懿(い)と向き合って、話をしていた。

司馬懿は生きていたのである。曹叡は三十三歳。床に着くほど長い髪を垂らしたイケメン皇帝。司馬懿は当時老齢とされた五十八歳。こちらは長い顎(あご)鬚(ひげ)を蓄え、眼光鋭く油断の無い目つきで皇帝と対面している。

「そそ、そなたを都に呼び戻したのは他でもない。公孫淵の件だ。」曹叡には少しどもるクセがあった。

「淵が母丘倹を退け、燕王として独立宣言したことですな。」

「母丘倹は淵を、チト甘く見過ぎておった。が、こうなった以上是が非でも淵を討伐せねばならん。それが出来んようでは呉や蜀に侮られ、引いては国も危うくする事になる。そ、その方、何とかこれを解決してはくれまいか。」

「たってのご指名とあらば、否は御座いませぬ。老体に鞭打ち、淵のクビを獲ってまいりましょう。ただ、確実に淵を打つには四万の兵と持久戦に備える軍糧が必要になりますが、宜しいですかな。」

「よ、よ、よ、四万!」

「公孫だけが敵ならもっと少なく済みましょう。しかし、周辺の呉など侵攻の機を窺う敵国の存在を忘れてはなりません。軍兵をケチれば思わぬリスクに直面する事にもなりましょう。また、四万の兵をもってしても、戦いのことですから場合によって互角に近い戦いになる事も考えられます。しかし、たとえ持久戦になったとしてもその内容が問題です。こちらが優勢で万全の戦をしていれば、例え一見膠着(こうちゃく)しているように見えても迂闊(うかつ)に手を出すことはありますまい。呉や蜀にスキを狙われる事も無くなるわけです。四万はその為に必要な兵力と申し上げておるのです。」

「な、成程な。それでは四万を都合するゆえ右北平に駐屯する母丘倹と合流し、淵を打ち取れ。」

結論は出たが曹叡はなお司馬懿に尋ねた。「我らの動きに対し、淵はどういう策で応じるだろうか?」

「三つの策が御座いましょう。まずは公孫が本拠地、襄(じょう)平(へい)を逃げ出し、我等を領内深く誘い込みゲリラ戦を挑む。これが上策。次に遼隧(りょうずい)に塹壕(ざんごう)を掘り、守りを固めて迎え撃つのが中策。襄平に立て籠もる籠城戦(ろうじょうせん)は下策。彼等に悲惨な運命が待ち受けましょう。」フムと耳をそばだてて聞く曹叡に更に説明を加えた。

「淵が優れた者であれば状況に応じて、プライドを捨て、本拠地を放棄する思い切った策も取りましょう。しかし、淵は呉と魏を天秤にかけ、大国を手玉に取ったつもりでつけ上がっている勘違い野郎です。自分勝手に年号を紹漢(しょうかん)と改め、百官を置いて皇帝のマネ事をする者が、本拠地を捨て逃げ出すという芸当をやるとはとても思いませぬ。」

「で、あろうな。」

「遠征軍は食糧不足に陥るのが常と思い込んでいると推察します、持久戦は取れまいとタカをくくる筈。まず、遼隧の防衛戦で迎え、戦況により襄平に立て籠もる・・中・下策を採るのがオチです。」

「討伐軍が出発して帰還するまで幾日かかるかな?」

「往くに百日、帰りに百日、戦闘に百日。休息日六十日と勘定して、丸一年あれば十分かと・・」

「判った。」納得の表情を浮かべた。

「そ、それからそなたに頼みたいことがある。駐留する母丘倹(かんきゅう)の事だ。実戦経験なしに送り出した私の落ち度もある。あやつを副将として鍛えてはくれぬか。奴とは幼馴染の仲だからのう。」と付け加えた。

「承りました。但し、恐れながら私めからも注文したき儀がありますが宜しゅうございますか?」

「は、話してみよ。」

「宮殿の造営工事のことで御座います。今回は遠征ゆえ戦費も嵩みます。暫くは中止して今の緊急事態を乗り切ってもらいとう存じます。」

当時の魏の都、洛陽では宮殿の大規模造営工事が行なわれ、人民はその負担にあえぎ苦しんでいた。

蜀の孔明が存命中の頃、魏・呉・蜀が激しく抗争を続けていた頃はテキパキ物事を判断し、賢明・果敢と称賛されていた皇帝だが、孔明亡き後は緊張が解けてか人が変わったように宮殿オタクと化していた。

「大臣連中も今のように造営工事を進めながらでは、新たに戦費支出する事には反対を唱えましょう。だからといって、その為に戦費を削って公孫討伐に向かわざるを得ないとなれば結果的に国を滅ぼす事にもなりますぞ。」

「そなたの心配は分かった。兵力と持久戦に備える食料。削ることは無い。心配いたすな。」

その後、朝廷に於いて公孫討伐とその戦費に関して正式に討議が行われた。

その席で大臣達は「四万の軍勢は多すぎる」「戦費を賄うのは困難」と反対論を合唱した。

司馬懿との約束をホゴに出来ない曹叡は仕方なしに一喝。「戦費を削ることはまかりならん」と強引に計画を承認させるしかなかった。かくして年明け早々の出兵が決定。遼東情勢は再び緊迫化を迎えることになったのである。


238年正月。司馬懿は将軍牛(ぎゅう)金(きん)、胡遵(こじゅん)ら騎兵・歩兵四万を率い、曹叡自らの見送りを受けて西明門を進発した。司馬懿進軍の知らせはまもなく公孫に届いた。

その知らせを聞いた公孫の対応策。

まず、呉に対してへりくだる「臣」の立場をとり使者を派遣した。呉が魏に対して軍を差し向け公孫を側面支援するよう依頼をかけてきたのだ。

これを受けた呉の孫権。かつて孫権が同盟の証として送った使者を斬り捨て、あろうことかそのクビを魏に贈って裏切った事を思い出した。その公孫がぬけぬけと支援してくれと申し出して来たのである。

怒りが再びこみあげて「使者を殺せ」と指示を出す。

あわてた臣下「いけませぬ。殺して当然の使者ですが、ここは国益を優先するところです。」と諌めた。

使者を手厚くもてなし、奇襲部隊を魏との国境付近に配置する、と公孫に対する支援表明するのです。その後、魏と公孫の戦争が膠着(こうちゃく)した時を待ち、侵攻させればいいのです。と具申した。

孫権は淵を弟と呼ぶ返書をしたためた。「戦況を知らせる便りを待っている。その指示に従うつもりだ。弟とは喜びも悲しみも分かち合い存亡を共にしよう」

「司馬懿は用兵の達人につき向かうところ敵なしだ。弟の事を心配している。用心して戦いに臨まれよ」そこには、心にもない文字が書き連ねてあった。


再び場面は一大率。


トシは書記官コースを首席で卒業が決まった。ここ一年で順位大きくあげたことになる。

あのハンドパワーによるヒーリング効果がもたらしたものなのかは今でも判らない。ただ集中力が増したのは事実だ。

受験当日にチクシが椿を届けて来たのもある。椿の花が椀に水が張られた状態で、浮いていた。

落ちる花が浮くという、冗談なのかマジナイなのか?・・・笑えるシャレで、リラックスして気分よく試験に臨むことが出来た。

首席とあれば一大率外交部の採用試験を受ける事ができる。面接する長官が「おう、あの時の警護役か」と覚えてくれたのも幸いし、採用が決まった。将来、通訳として仕事出来る道筋が開けたのだ。

卒業も進路も決まったからには実家に帰り祖母を喜ばすことができる・・そろそろ土産の勾玉を玉造の大将から譲り受けなければ・・。


今日はトシ、ケン、チクシ、三人の卒業祝いの宴が塩ジィ主催でセッティングされている。

ケンも相撲優勝の冠が効きエリートコースの部署に採用された。一大率監察官として武人のスタートを切る。密輸の摘発の仕事で危険もつきまとう。武力も操船技術も高度なものが要求されることでケンにはうってつけだろう。

チクシの卒業後の進路は聞いてない。通常は巫女の場合、郷里の神社等で神事に携わることになる。それからすれば卑弥呼の館になるだろう。

別れが近いなら何かチクシに言わなければならない。少なくとも未来に関係が途切れないよう、邪馬台国で会えるよう布石を打ちたい。

いずれ外交部の仕事が上手くいき将来を見通せるようになれば正式に申込みが出来るように・・。

宴では酒に弱いトシが攻勢にさらされている。皆から飲み干すはしから祝い酒を継ぎ足されるのだ。一方、ケンとチクシはいける口で杯を重ねてもヘッチャラ。

トシは赤い顔でチクシの隣に移動した。ヒーリングと椿の礼を述べ、進路について聞いてみた。ところがチクシは卑弥呼の館に帰らず一大率学園で修学を続け講師の道を歩むつもりと言う。

学園付属の薬園を充実させ、出来るなら施薬院を一大率から始めるというのだ。すでに学園の内定は取り付け、邪馬台国の実家の了解を取るだけと言った。

そうであるならラッキー。三人共この伊都国・一大率で仕事出来る事になりそうだ。そうなら何時でも会える。今日、あらたまって何か言う必要はなさそうだ。


チクシは近日中に実家に帰る事を口にした。海路にて西方を左回り。有明の海を経由して邪馬台国に戻る予定という。海路は波待ちを含め十日以上かかる事も多かった。トシは一―二日の行程で行ける、山越(やまこえ)で帰る予定だった。

「チクシさん。山越えしませんか。ねぇ、先輩。私達が守っていけば良いじゃありませんか。」横からキジが話に入ってきた。キジも邪馬台国出身。トシの隣村、金(きん)立(りゅう)に実家がある。トシと一緒に山越え帰省を予定していた。

「三人とも目指すは同じ邪馬台国じゃありませんか。」

それを聞いていた塩ジィも「それなら良いじゃないか。お前達が守れば・・」と勧めた。

チクシは「イヤダァ。山越えは山賊が出るっていうじゃない。トシは優しいのが取り柄だけど頼りないし、山賊がでたら、あたしをほっぽって逃げるんじゃないの?」とからかってきた。

聞き捨てならないその言葉。「そ、そんなことはない。」と言ったものの腕力に自信がある訳ではない。

どう返そうかと言葉を探していると、ケンまで話に加わって来た。

「トシじゃあ、やや不安だがキジは強いよ。体は細身だが意外に強い。同じ武人コースで一緒に訓練したからわかる。俊敏で剣さばきが鋭い。俺だってコイツをスピードに乗らせたら防戦一方に立たされる。なんせあの足の運びだ。マラソン大会で実証された筋肉は相当鍛えているよ。」  

トシはないがしろにされているが、キジにはベタ誉めのコメントをした。

結局、これが効いてチクシは二人の警護役を従えて山越えすることに方針転換とあいなった。


翌日、西市場の玉造工房を訪ねた。大将はあの石を仕上げてくれてるだろうか。挨拶で手渡そうと酒を買い込んできている。

「おう、来たか。これは気が利いている。」

酒壺を渡しながら「試験はお蔭様で・・」とお礼を言いかける。

「おう。聞いたよ。塩ジィがお前とケンの事を自慢タラタラ聞かせてくれた。孝行したな。おまけにお前、首席だっていうじゃないか。俺がすり寄っていくぐらいに出世しろよ。」と肩を、どんと突つかれた。

「ブツは出来てるぜ。ホラ。」

見せられた勾玉は感動モノだった。小ぶりだが中に魂が宿っているかのような凄みがある。品のいいカーブも魅力的だ。

「うわあ。ホントにこれ、貰っていいんですか?」

「いらなきゃやらないさ。」

「俸給の中から少し渡しましょうか。長期ローンで・・悪いですよ。こんな凄い品をタダなんて。」

「払いたきゃ、いっぺんで払ってくれ。出世払いでな。早く大臣クラスにはなってくれよ。」また叩かれた。

「これ、本当にばぁさんにわたすのか?」早くも酒が廻ったのか、大将がからみ顔になってきた。

「ハイ」

「嘘つけ。この玉ならどんな女でも・・。前に言ったよな。どの惚れ薬もかなわない。最強の武器を、ばあ様の冥途ののミヤゲにするなんて・・。惜しいと言うか怪しい、どうも怪しい。」笑いながらも探るような大将の視線が絡み着く。

「十六、七の可愛い、ばあ様じゃないのか?」

一瞬、チクシの顔を思い浮かべてしまった。

大将。それを見透かしたのように、立ち上がってトシをど突いた。

「わかった。わかった。ピチピチの、ばあさまに宜しくな。」と、工房を追い出された。ガハハハと大将の大笑いに送られて工房を出たトシだった。


帰省の日。

チクシは男物の服装に着替えた。皆、商人が持つ護身用の細身の剣を腰にはさみ、昼前に出発する。今日はチクシもいることだし、強行軍ではない。途中の三瀬あたりで一泊する予定だ。道中も休み、休み、話、話、の旅行気分。

途中休憩の雑談で徐(じょ)福(ふく)が話題になった。「お前がケンに紹介した徐福の湯、温泉に行って来たよ。気持ちよかった―。」

キジに話しかけるとチクシも「徐福の?温泉?」と乗ってきた。

皆、邪馬台国出身なのだ。徐福の名前を知らぬものはいない。

そうはいっても卑弥呼の時代から四百年以上遡る秦の始皇帝時代の人物。実在の人物かは誰も知らない。海からわたってきたエライ人。邪馬台国の繁栄は農耕・治水等の新技術の指導の賜物と敬われているだけだ。

徐福と言えば、キジの近所に古い祠があって、そこが徐福伝説のお膝元なのだそうだ。「徐福は仙人になる為に修行する方術師。有明の海に着岸し金立の地に住みついた。不老不死の妙薬を探しに周辺の山々の草木を探索、歩き回るうちに温泉を見つけたそうなんです。」と伝説を紹介した。

「温泉だけなの?クスリは?」薬学専攻のチクシはそちらの方が気になる。

「クスリも見つけました。蓬莱山とも呼ばれる金立山でフロフキ(カンアオイ)という薬草を・・」

「ハハハ、不老不死だから縮めてフロフキか・・」とトシが笑った。

チクシも「でもあれは咳止め去痰のクスリよ。あれ飲んでも不老不死にはなりっこないわ。クスリは反面毒でもあるんだから飲みすぎると腎をやられるのよ。」と異を唱えた。

「そういう事なら、徐福も不老不死の妙薬と違うとわかったんでしょう。しばらくして金立を立ち去り戻ってこなかった。」

「何処に?」

「皆目判らないんです。いろんな説があって。不老不死を求めてアチコチ行ったんでしょう。残された愛人が悲しみのあまり入水自殺したってことですがね。」

「結局、発見したのは温泉だけか・・。」

キジは徐福の名誉を回復したいらしく「それでも農業指導のお蔭で国力アップになんたんです。だから神様になってるんです。」とムクれた顔で反論する。

次いで「方術師とか仙人はどんな能力を持っているんですかねえ。空を飛べるんだったら自分も仙人の修行するんだけど・・」と話を変えようとした。

チクシはさすがに仙人にはついていけないと思ったか「温泉ねえ。温泉に浸かると何に効くの?」と医療に関連ありそうな方に話を戻す。

「温泉はどんな病気にも効きます。」

「ほんとぉ」と疑いの眼。

「美人にもなっちゃうんですよ。」

「美人?聞き捨てならない単語がでてきたわね。」

チクシは少し考えて「うーん。そこに行こ。行こうよ。トシもそこで泊まったんでしょ。」と言い出した。

「エッ。今からだと夜になっちゃいますよ。三瀬はそんなに遠くありませんけど・・・。」難色を示した。

トシも「お湯は良かったし疲れも取れるけど・・。不老不死の薬草がそうならないのなら、美人の湯も美人にならない可能性が高いんじゃないかハハハ。」と笑った。

「まあー。徐福をバカにして。なおさら行きたくなっちゃった。美人が正しいか私で実験よ。」

言い出したら主張が通るまでアレコレ言う、チクシのワガママ体質が現れた。

「へえー。行くんですか。じゃ急がないと。」と行先変更で脇道にそれ、西方向を目指す事になった。

道すがら温泉も悪くはないと思いながら、ついチクシの入浴シーンを想像してしまった。想像が妄想に変わる時、それを見通したようにチクシの声。

「あんた達。シッカリ見張るのよ。」

厳しい顔をしたかと思うと「ハハハ。ビフォーアフターが楽しみー」・・・いい気なものである。


川沿いに歩く景色がほの暗く変わり、星もその数を増やしていく。満月の明かり。それで、どうにか歩けるが歩くペースが遅くなる。もう目的地は近いとはいえ、あたりは暗く周りの草木が風に揺れガサゴソと音をたてる。夜行の野生動物が出てこないとも限らない。

と、明かりが見えて到着かと期待したが、それは少しずつ動いてくるタイマツの明かりだった。こちらに気付いて、歩みを速めたように灯りが近づいている。

「ちょっと見てきます。」ハッとした表情で飛び出したキジが慌てて戻ってきた。

「あいつら怪しいです。山賊かも。」その言葉に緊張感が走る。思わず護身刀に手を伸ばした。

「だとしたら私が奴らを引き付け、突破して向う側に逃げます。お二人は嘉瀬川の茂みに隠れてやり過ごして下さい。居なくなったら元来た道を引き返して下さい。こちらが三人とわかっていなければいいんですが・・」キジが危機を回避する作戦を口にした。

二人は茂みに身を潜め賊の動きを窺う。キジは身を屈めて灯に近づいた。

大丈夫だろうか。それでもキジは音を立てずに素早くタイマツの前に姿を見せ、即座に脱兎の如く逃げた。逃げる。逃げる。

賊連中は獲物が急に目の前に現れ、ビックリしたが、すぐに刀を振りかざしどなり声をあげて追いかけ始めた。しかし暫くして「ギャーッ」と叫び声。「何だこれは」「イテーッ」「あいつ何かバラマキやがった」

タイマツを近づけて確認した男が「こりゃヒシの実だ。殻を撒きやがった。」「バカ野郎、取り逃がしやがって」リーダー格の男が手下を怒鳴っている。これで引き揚げてくれれば・・と祈る気持ちになる。

しかし一人が「何人かいたように思ったんですが・・」と言い出した。背筋が凍るおもいとはこの事だろうか。「確かか?」「判りませんが。」「バカ野郎。まだ誰か残っているかもしれん。探せ。」「ヘイすみません。」

マズイ・・トシが護身刀の柄に手を掛けた。その時、近くの雑木林の上の枝が揺れる音。手下が「何かいるぞ」と走り出した。ウキッ、ギギギギギと甲高い叫びで木から木に飛び移る黒い影。「猿じゃねーか。バカヤロー」賊たちは諦めたよう元の道に戻って行く。タイマツの灯が遠ざかった。


「ふう。助かった。」

気が緩んだ途端、恐怖心が改めて襲ってくる。灯りが完全にきえて暫く。ようやく動く事が出来た。

「戻ろう」力なく歩き始めたが三瀬の宿まではかなりある。疲れか出てきたところに畑が開けた場所にでた。近くに人家は見当たらないが畑の中に小さな小屋がある。農具や資材を保管する粗末な納屋だった。

「仕方ない。今夜はここに泊まろう。」

「悪かったわ。あたしが温泉に行きたいなんて言い出さなきゃ良かった。」

「俺も判断を間違えた。まあ無事で良かったさ。」

「キジは大丈夫だったかしら。」

「あいつはすばしこいし勇気もある。なんてたってマラソンの足があるからな。」

小屋に入るとギリギリ二人のスペースがある。藁も積んであったので敷けば寝床になりそうだ。

「それにしても猿のお蔭で救われたよね。」

「木の上で寝てたんだろうが、タイマツにビックリして飛び出したのが、我々には幸いだった。」

「そうよ、サルよ。」あの時猿が守護神と言われたことをトシも思い出していた「猿には感謝しなくちゃな。」と頷いた。

「そろそろ寝るか。」と言ったものの先程の事件の興奮がさめず寝付けない。

チクシも同じらしくゴソゴソ手荷物の袋から水筒を取り出した。

「これは眠り薬なのよ。」と差し出す。ゴクッと飲むと酒の味。それでも効果はあって眠りに落ちることが出来た。


 その晩、トシは夢を見た。何とチクシに覆いかぶさり求めている自分の姿を。甘い体臭に誘われて・・チクシに「そこじゃないのよ」と手を添えて導かれ、ようやく果てるという夢だった。

夜が明け起きてみると下半身が汚れている。これが夢精というものなのか?夢とはいえチクシには知られたくない出来事。なんという失態と、当惑しているところにチクシが現れた。

「早くしてくださいね。私はそこの川辺で身繕いしてきたから。」いつもとは違う新しいチクシの表情が気になった。

あわてて川に下り顔を洗い、あたりと窺いながら下半身も洗った。服の藁屑を払落し小屋に戻った。

「誰かに見られると怪しまれるわ。早く行きましょう。」

歩きながら「昨日は眠り薬が効いたよ。」と照れ隠しの笑顔で話しかけたがチクシは「そうお。あたしはちょっと眠れなかったわね。」と寝不足を訴えた。

「あんな小屋で寝るのは滅多にない経験さ。」眠れなかったというだけあって今日のチクシはおとなしい。あまりしゃべらず歩いたせいか思ったより早く邪馬台国の関所に近づいた。


川の水で咽喉を潤しながら旅の最後の休憩をとる。チクシがポツリと言う。「おばあ様のお許しが出ないともう会えないかもしれないね。」

講師の道に進めば同じ一大率に居るのだ。「会えるさ。おばあ様も許してくれるよ。」。と根拠のない慰めを口にした。

「もし、万が一、おばあ様のお許しが出なくても、俺が書記官として一人前になったらお前に会いにいくから・・」結婚と云う言葉は出なかったがそれが伝わって欲しい。そんなつもりでチクシを見た。渡すのは今しかないような気がする・・。

「渡したいモノがある。」荷物の中に大事にしまっていた皮袋の中味。例の勾玉を取り出してチクシに見せる。

「わっ。これ?こんなもの、どうしてあなたが持ってるの?」塩ジィの紹介で工房の頭領に会い、祖母の土産として譲り受けた経緯を正直に話した。

「それじゃ、おばあ様に渡すものじゃない。」咎める口調で首を縦に振り「ダメッ。」と拒否される。

「今はお前に渡したいんだ。祖母は役人として正式採用された事で十分喜んでくれる。土産は次の機会でも良いのさ。」

「おばあ様は何処にいらっしゃるの?」ヤマタイ本部から少し離れた久保泉に居ると地面に地図を書き説明した。

「一人で住んでいらっしゃるのでしょう。大事にしないと。大事な方にはふさわしい贈り物で思いを伝えるべきよ。出来る時ににね。」チクシは受け取るのを逡巡しているように見える。

 「ホントにお前に渡したいと思っているんだ。受け取ってくれ。」なおも促すと。チクシは黙ってその勾玉を暫く見ていた。

「有難う。ではこうしようよ。あたしの持ってる鏡を渡して。それならこれを頂けるから。」取り出した鏡はコンパクトタイプながら漢代につくられた中国鏡。彫りも複雑で装飾が細かく連なっている。おばあ様の使い古しと言うが上等の品で間違いない。

「お前の鏡も立派じゃないか。お前のおばあ様も巫女だろ。普通の巫女が持てるものではないぞ。」そういえばチクシは巫女頭の孫というウワサを聞いた事があった。

「エッヘン。あたしのおばあ様は巫女の中でも高い地位なの。」

女王卑弥呼の下には千人もの巫女・侍女が居るという。「巫女頭なら持てるかも。ナンバー二か三?」

「エッヘン。そのあたりね。」

あまり高い身分だと将来申し込んだ時位負けする・・。

と、考えている時「ねえ。記念に何か一文字書いてよ。勾玉に。」とチクシが言い出した。「エッ。これに書くのか。これを作った頭領は自分を人間国宝と豪語してるんだぞ。国宝級の勾玉に書くって、彫る事だろ。もったいないのじゃ・・」

「イイの。一文字だけよ。」貰った以上、彫ろうがどうしようが、あたしの勝手でしょと譲らなかった。

 どうせ彫るなら好きだと伝えたい。トシは石ナイフを使って彫ろうとするが硬さに負けている。仕方なく護身刀の切っ先を用いて文字を書く事が出来た。好きという字のヘン部分「女」と言う文字である。

「何よ、これ。」

「女らしくなるよう願いを込めたのさ。」

「志とかもっと、らしい字を期待してたのに・・。」と口をとんがらせる。

「堅いからさあ、この石。簡単な字にしたんだよ。」

「ヘターな字。書記官として一人前になれるのかな」こいつはブツブツ。見えないツクリ「子」の字を、想像出来るタマではないのか・・。


 チクシは衣服を女物に変え、関所に向かった。例の如く多くの兵士に囲まれたが、学生証を見せて切り抜けた。

チクシはヤマタイ本部がある平野に至る前の坂道で、左に通じる小道に折れた。こんな道があったのか?

しばらくすると死角になって見えなかった門が見えてくる。驚いたのは門の前からビッシリ兵士が整列している事だ。こんな山の中に何の為の兵士なのか?

チクシが進み出て責任者とみられる男と会話を交わした。巫女頭とみられるおばあ様の名前を告げたようだ。しばらくして門が開き二人は中に入ることを許された。

門の中にも夥しい兵士が警備している。

「俺も入っていいのか?」

「いいの、おばあ様に会わせたいの。」

「ここは何処?」

「卑弥呼の宮殿よ。」言われてみればこれだけの厳戒体制は宮殿敷地に違いない。

「ここは裏門、正門も含めて人目に付きにくい所にあるの。」点在する建物を縫うように進むと奥まったところに大きい建物が高い木々に隠れるようにみえてきた。そこは更に柵で囲まれて、兵士が守る門がある。

チクシが門からでてきた若い巫女と言葉を交わした後、二人は中に入るのを許可された。そこは宮殿とみられる建物の、離れになっていた。

チクシは巫女頭とみられる貫禄のある女性と話して奥に消えた。あの方が、おばあ様かと緊張する。

トシが待っていると先程の若い巫女が手招きして中に案内してくれる。庭園に面したこじんまりした部屋に通された。おそらくあの貫禄の女性と面会するのだろう。、ただ、おばあ様にしては年齢が若そうにみえたが・・。

しかしチクシを伴って部屋に入って来たのは、別の老齢の女性だった。衣服の裾さばきも鮮やかにトシの正面、一段高い首座に着座した。長い白髪、目つき鋭いおばあ様は存在感強烈で圧倒される思いになる。

チクシはにこやかに、おばあ様の側に座り「こちらが学園で共に学んできた友達。トシです。将来はヤマタイの通訳になる夢を持っているの。」と紹介した。

トシも笑顔を作り「チクシさんには何かとお世話になっております。同級生でトシと申します。宜しくお願い申し上げます。」と頭を下げた。こんな自己紹介で良いのかと恐る恐る頭を上げて気が付いた。

おばあ様は、こちらを全く見てないのだ。チクシを見つめながら、こちらの言葉だけ聞いて頷いている。

何か声を掛けて貰えるのかとおばあ様の口元を眺めていたが「チクシの祖母です。」とチクシに向かって言葉を発しただけ。

「では、これで・・」と言い残して立ち去ってしまった。チクシも共に去り、再び、一人取り残されてしまった。

ショックだった。

気に入られたという手ごたえ度、ゼロ。取っ付き難いというよりハナから相手にされて無い。自分のおばあちゃんとなんたる違い。あの女性がチクシと血が繋がっている?

卑弥呼様に長年仕えておればああなるのか?チクシも?

宮殿では外部との接触を極力控えるとは聞いていた。これが当たり前の対応なのか?ハテナが渦巻く。大失敗した後の気分で待つしかなかった。

 二十分は待っていただろうか。チクシがにこやかに現れ「学ぶことが残っておれば、学園にしばらく居るのを許しますって。」と万歳した。希望の進路が了承されたのだった。

「それからね。これは、おばあ様からの贈り物。」

渡されたのは螺鈿細工の施された鉄製小刀。しかも刃先の光沢はあきらかな一級品だ。よくみると柄のところに「子」の字が。

「あたしも簡単に書ける字にしたわ。トシがうんと賢くなって、師と仰がれるように。子曰く・・と後世に名を残すように。」

 「しかし、おばあ様、俺の事、気に入ってないんじゃないか?」

「いつもああいう人なのよ。」

「でも威厳あり過ぎ!ビックリした。」

「ごめんなさい。気にしないでね。」

 別れの時が来た。チクシはこちらの用事をこなして一大率に戻るので遅くなるとのことだ。船便で帰るので新学期ギリギリかもしれないという。

「勾玉有難う。大事にするわ。」

「じゃあ一大率で会おう。」トシは兵士が居並ぶ門を出た。

巫女達、巫女頭のおばあ様、兵士達全て、卑弥呼の館は異空間だ。

それにしても俺の事、無視しているようにしか思えなかったが、あれは俺の事よりチクシの事を心配していたのか?それは俺がチクシを託せる程の男じゃないという事ではないのか?おばあ様の対応に疑問が湧く。

次に会う時には、おばあ様からキチンと見られて、品定めに叶うような一人前の男になっていなければ。と改めて自分を戒めた。

チクシが再び、この異空間に戻って、取り込まれてしまう前に申し込まねば。・・。そう思いながら、ここ卑弥呼のあるニイヤマの地から、久保泉に向かった。 


 当然ながら実家の祖母は顔をくしゃくしゃにして迎えてくれた。これで父子揃って書記官の道を歩むことになる。代々書記官の家柄なのだ。御先祖様にもいい報告が出来るというもの。張り切って食事の支度に取り掛かり、出てきた品数食べきれない程。その一つ一つに祖母の暖かさをかみしめる。

 鏡をわたすと「こがんもの、ぞーたんのごと。わたしにゃ用なかよ。」といいながらもしげしげと眺めている。「おいが顔みるとやなくて、こいば見てあさんのこつ、おもいだすごとすっと・・」ヤマタイ弁丸出しである。上等な品とはわかってもらえたようだ。

 上等な品物といえば、今日貰った小刀の事を思い浮かべた。素晴らしい刀だ・・そういえば・・と想像が拡がる。俺が渡したものに女、貰ったものに子。偶然の一致かどうか。

あるいは同じ気持ちを表す意味で子と書いたのか?。好きだ。・・とそう思うだけで幸福が満ち溢れてくる。勘違いでも何でもいい・・。


 実家は心地いいが、キジのその後が気になって金(きん)立(りゅう)を訪ねることにした。目印は徐福の祠。尋ね歩くとすぐにわかった。日用品、食料品、酒を商う商家がキジの実家なのである。商人に生まれ武人を目指し仙人に憧れる。ホント面白い奴だ。

 キジは元気良く飛び出してきた。

「無事でなにより、良かった。」

「先輩たちこそ大丈夫でしたか?」トシは事件の顛末を話した。

「賊がわめいて痛がっていたが、何したんだ?」

「あれですか。撒(まき)菱(びし)の術を使ったんです、へへへ。」

撒菱とは、ヒシの実の食べた殻を乾燥させた加工品。地面にバラ撒けば、三角のトゲのいずれかが足裏に刺さる仕組みを考え付いたという。

「初めての実地試験が成功で良かったです。ハイ。」とこともなげに言う。

ヒシは邪馬台国の農業生産を飛躍的に高めた治水システム、クリークや溜池に生える水草で、その実は栗に似た味がする。それを武器に転用する発想が面白い。

「マキビシがダメなら護身刀を投げつけるしかないと思ったんです。もったいないし刀は一つ。ま、あの時は使わずに済みましたけどね。・・そこで今、刀に替わる護身用武器を考え中です。小さくて持ち歩けるものを考案中です。魔除けや装飾に使う巴形銅器や四葉型金具があるでしょう。あれを改良して尖らせれば致命傷はムリでも手傷負わせて逃げることが出来るのではと・・」

「お前は人の考えない事を思いつく奴だなあ。」

「へへへ、金立に伝わる教えに大事なものは葉隠(はがくれ)に有り・・てのがあるんです。」キジは葉隠について説明し始めた。

「徐福が不老不死の薬草を探す時の指針です。葉に隠れ、忍んだ場所に新種の植物があると、人目に付かない所を探したことから来てるんです。転じて、人が考えもしない事を思いつけば大きなメリットが得られる。大事なものを手にできる・・て事になります。我が家の家訓でもあります。」

「ほう、さすが商売人の家訓だな。皆が気付く前に売れそうなモノを手掛ければ大儲け出来るってことだな。」

「もう一つの家訓が商いは飽きないと云うのがあります。」

「ハハハ。どうしたら儲かるか考えるのは飽きない事だろうからな。お前は商売人にも向いているんじゃないか。新しい事考えるのが得意なんだから・・」

「チクシさんにも言われたことあるんです。そうかなあ。私は武人として新型武器を考えているだけなんですけど。」

「チクシといえば一大率学園に残れるそうだ。ただ帰りは今回のことで懲りたのかなあ。海路にするという。我々は一緒に山越えしよう。」一大率に戻る日取りを取り決めた。


トシとキジが戻ったのは三月も下旬。ケンとも再会し新しい仕事に負けないようお互いを励まし合った。 


その頃、中国遼(りょう)東(とう)地区では・・。

司馬懿(しばい)の大軍と母丘倹(かんきゅう)の駐留軍が合流し、来るべき戦いに備えてしばしの休憩をとっていた。高句麗等の周辺国も援軍を出しており、これらも軍団に加わっていた。公孫討伐の体制は整ったのである

・・こうした遼東情勢の情報はヤマタイ本部にも届いていた。予(あらかじ)め決められている帯方郡への朝貢の時期が近付いている。本部は朝貢団の人選を進めていた。


トシが一大率に初登庁する日になった。これまでも公務員扱いだったとはいえ、学生は学生。社会人としての大本番が始まった。未知の仕事を一刻も早く覚えるのだ。

祖母から言われた事を改めて胸に刻む。「どんな雑用でも進んで受ける事。早く顔を覚えてもらう事。大きい声で挨拶なさい。」

心して一大率事務所の門をくぐり書記官室外交部に入室する。

とたんに「お前がトシだな。長官がお呼びだ。長官室に急げ。」と室長の大声が飛んできた。

しまった。先に挨拶すべきだった。後悔しながらも口を動かした。出来るだけ大きく「ハイ。私が新任のトシであります。今後とも宜しく・・」と言いかけるも、一喝された。

「挨拶はいい。先に長官室だ。」

戸惑うばかりだ。新任挨拶は長官に先にするものだったのか?

ともかく、言われたことを済ませねばならない。扉を開けて「失礼します。」長官に向かい丁寧なお辞儀をする。

「おう、お前か。仕事を言い渡す。六月の帯方郡への朝貢団に通訳として参加せよ。以上だ。」

「えっ。」新人がこんな反応するのは不適切。だが何かの間違いではないかと思わず声がでた。

「帯方郡へ派遣する朝貢団の人選が決まったのだ。正使は邪馬台国の難升(なしめ)米殿、副使は奴国ズバコ殿、長官兕馬觚(じばこ)殿の息子だ。通訳がお前だ。」

キョトンとしているトシにかまわず長官は続けた。

「通訳は難升米殿の秘書役でもある。朝貢品の準備責任者でもある。前回に習い万端遺漏なく遂行せよ。」

繰り返して通訳と言い渡されたのだ。間違いはなかろう「ハイ、謹んで拝命いたします。」としか言いようがない。

「よし。」と長官の表情が少し緩んだ。

しかし納得はいかない。思い切って「長官、質問をお許し頂けるでしょうか?」と言ってしまった。

「なんだ?」

「何故、私のような者が人選されたのでしょうか?」

異例というよりムチャクチャな人事である。通訳実績もなく、実務経験でさえ無い人間が外交団通訳とは・・

「こっちが聞きたいくらいだ。ヤマタイ本部から何の相談もない命令で来たからな。これまでは通訳の選任は一大率に一任されていた。しかし、命令は命令。否とは言えぬ。」憮然とした表情で長官が答える。

続けてトシに鋭い視線を向けた。「この仕事で失敗は許されんぞ。俺にも迷惑が掛かる。仮に失態あれば打ち首も覚悟せよ。」厳しい言葉がトシに突き刺さる。

「書記官室にはお前に他の仕事をさせぬよう指示してある。言われてもそう断るのだ。この仕事に専念せよ。通訳として技量未熟は言訳にはならんぞ。学園の中国人講師からの学習は長官命令で協力要請しておく。以上、下がってよし。」

初登庁そうそう、トンデモナイ命令が降りてきた。目の前が真暗になる思いで書記官室に戻った。


― 第三章 朝貢団 ―


書記官室では前回、朝貢団通訳を担当したソシアオの隣に席を与えられた。新任の分際で、大それた仕事を与えられるなど生意気千万、と手ぐすねを引いて待ち受けていたソシアオだが、イジメがいのない相手を見て気持ちが変わった。顔は真っ青。手の震えを隠すように引きつった笑顔で挨拶するトシは、自分の息子とたいして変わらない年齢なのだ。同情を禁じ得ない。

「どうして私が指名を受けたか見当がつかないんです。私と似た名前の方がいらっしゃるのではないですか?その人と取り違えされたとしか・・」震え声のトシに、ソシアオが肩を叩いた。

「命令を受けたからにはやるっきゃない。なあに俺が何とかこなせるよう仕込んでやる。厳しくするがついてこいよ。」と激励してくれた。

前回の朝貢外交を記録した竹簡の束を書庫から取り出し、トシの前にドンと置いた。

「これを読み込んで朝貢の事務の流れを頭に叩き込む。後は前例を踏襲して逸脱する事なきよう手配するだけだ。」

なおも緊張解けぬ新任書記官に、慰めるよう言い聞かせる。

「心配するな。朝貢は相手を敬う気持ちを伝えることだ。公孫配下の帯方郡太守と、直接の担当窓口者への個人的贈り物さえうまくやればスムーズに行く。それほど難しい奴らじゃない。俗人だし、そもそも倭国に対してあまり関心を持っていない連中なのだ。ま、それだけ軽く見られているとも言えるがな。」

このソシアオ氏にはトシは随分助けられた。

面倒見がいい。トシが下戸と知ると「それでは外交団の一員にはなれん。相手の好意に応えて飲むのも仕事」としきりに市場の飲み屋に誘う。

たまに支払は「教え賃」とトシが受け持つ事になるのが困ったことだが、それ以上にトシをサポートしていてくれる。通訳がそんなに飲まされる事はなかろうが、お蔭で少しは酒に強くなった気がする。

ともかく、やるっきゃない。そう思って、朝貢準備作業を進めた。ソシアオ氏の几帳面な記録は大いに役に立つ。前回の公孫氏への朝貢団が用意した品々、贈り物は前例通りのモノを同じ業者で手配。同様に渡海に必要な資材や食料も各地の業者に連絡して寄港の折に調達しなければならない。立ち寄り先の各国長官への手土産も用意した。

朝貢する生口は中国系難民だった。

ヤマタイ連合各国の海岸線に流れ着く難破船の漂流者が主で、彼等は一大率難民施設に集められ、時がくるまで伊都国農園などで働いてもらっている。

基本的には全員を引き渡すのが後漢時代からの難民返還協定で決まっているが、技術者や知識人の中で倭国での生活を望む者は徐先生のように講師や技術指導員として中国には内密でその対象からはずす事もある。

そうした生口との面接は生きた中国語を学ぶいい機会だった。

出身地や氏名、経歴などを聞き取り帯方郡に名簿を提出する。同じ中国でも出身地により言葉の発音が異なり、時間を取られるのだが広くて深い中国を知る事が出来た。

中国語といえば、お世話になったのが、勿論、徐先生である。

長官の口利きでマンツーマンの特訓が出来た。中国式儀礼のイロハも教わって後々助けられる事になる。

最初は役目の重さに押し潰されて落ち込んだトシも、プラス思考が出来るようになっている。そもそも夢は通訳だったのだ。大チャンスが早くも転がり込んできただけ。喜ぶべきことなのだ。


四月中旬、準備が進む最中にも韓半島からの伝令が来て遼東情勢を知らせてきた。トシも役目柄、その情報に接することが出来た。その情報とは次のようなものだ。


魏の将軍は司馬懿。司馬懿は四万を超える軍勢を率いて国境に向かっている。迎え撃つ公孫側も、先に母丘倹討伐軍を打ち破ったヒーロー卑衍(ひえん)を大将軍に二‐三万の兵で遼隧(りょうずい)に向かっている・・との事である。

先生が長官室で見通しを述べた事が起きていた。

やはり司馬懿が登場してきたのだ。先生の先読みが当たれば魏の勝利となり帯方郡は魏の支配下に変わる。今回の朝貢準備はどうなるのか、また、朝貢団が巻き込まれる可能性はどうなるのだろう。


トシは今日も徐先生の部屋を訪れていた。情勢分析で意見を聞くためである。

「公孫は何処にいる?」

「襄平です。遼隧にて迎え撃つのは卑衍将軍だそうです。」

「ウム。司馬懿の大軍に対して母丘倹と同じ戦い方を採ると言うのだな。それでは勝負はハッキリしている。魏が勝つ。」

「ただ、公孫軍も昨年の勝利で戦意は高揚しているとの事。司馬懿とはいえ、そう簡単に打ち取れないのでは?」

「すぐに勝負が着くとは言うてないぞ。戦いは長引く可能性が高い。」

「えっ。」

「ワザと苦戦をするフリをするかもしれない。公孫淵から見ると大軍を相手に膠着状態に持ち込み自軍が善戦してる・・と自惚れさせるように。しかし、呉から見れば膠着状態ながら、実は周到に時間を掛けて公孫を追い込んでいるかもしれないと思わせるように演出することだ。」

「何の為に演出を?背後の呉が心配ならば一気にカタつけて呉のつけ込むスキをなくすのが良いのでは?」

「呉には心を配らねばいけないが、前にも言ったように公孫とは互いに利用し合うだけの関係だ。戦いで明らかに魏が劣勢の時しか、呉が、本気で仕掛けてくる事はあるまい。」

「では公孫の為にフリを・・」

「そうだ。公孫に勝てるかも知れないと夢を持たせることだ。勝てると思う者は逃げないからな。逃げることが出来ない自縛のオリを用意する事。完全に仕留める方法は夢を見させて自縛のオリに閉じ込める事。本拠地襄平にな。」

「逃がすことはそんなにマズイんですか?」

「中国はこれまで匈奴等北方騎馬民族との戦いでイヤというほど苦汁を嘗めている。遠征する大軍が地理に不案内なまま敵国の奥深くに引きずり込まれれば、ゲリラ攻撃を受けると不利だ。気候が変化したり兵糧に問題が起これば、例え勝っていたとしても撤退を余儀なくされる。司馬懿ならそこまで想定するだろう。」

それが戦争の駆け引きというものか。しかし、一番気になる事への解答は出ていない。

「となると、六月に予定されてる朝貢の時には、勝負はいかがなっておりましょうか?」

「長引くとなれば予想するのは困難だな。その時、帯方郡がどちらの手中にあるのか・・」

結局、肝心なことは判らないのだ。

「もし仮に、魏が帯方郡を支配下に入れてる場合、我が国の朝貢内容はこれまでより充実したものにすべきでしょうか。」これまでの公孫氏への朝貢品では、魏という大国向けでは貧相過ぎるように思われたのだ。

「魏のものなっていると断定できる情報がそれまでに手に入るかな?朝貢品を前例から変更するのは用心した方が良い。公孫だと異例の朝貢を怪しむことになる。どちらに転んでもいいよう、今まで通りでも構わんのじゃないか。」

それが無難だし、仕事を増やす事もない。前回通りの準備で進める事にした。


五月中旬、邪馬台国から正使、難升米が到着した。軍を統括する将軍職にある大夫の一人である。

朝貢準備も大詰めになった。本来なら正・副の使いが揃い、本部にて卑弥呼の書簡を託された後に一緒に到着すべきなのだが、副使が体調を崩し一大率で直接合流したいと連絡があったそうだ。

そうなら副使、奴国のズバコ殿は早めに一大率に来て難升米様を迎えるべきなのだが未だ姿を見せていない。快方に向かっているので出航までには必ず合流しますと奴国から使いが来ただけだ。

「ただでさえ海難リスクのある朝貢だ。今回は戦乱に巻き込まれるとのウワサが広まっている。本来は俺たちが通訳として同行すべきところだ。だが今回は何故だか選ばれたのがお前。戦乱リスクを見越して人選されたと言う者もいてな。何と言っていいか・・」

ソシアオ氏がすまなそうに神妙に話しかけてきた。

「いいえ、ソシアオさんにはいろいろ面倒みてもらって助かりました。お蔭で無事出航出来そうです。有難う御座いました。」

「それはそうと」とソシアオは声をひそめて耳打ちした。

「あのな、副使は来ないぜ。仮病とのウワサだ。以前から、ハクが着くと自ら売り込んで副使になったくせに。臆病風に吹かれたんだ。」

「ホントですか?」

「「まあ、公孫相手なら正使だけでも問題なかろうが、副使の分の仕事がお前に加わる。大変だろうがシッカリやれ。」

副使のドタキャンは大変な出来事だ。だが、もう一つの問題も起きた。予定していた持衰(じさい)が突然体調を崩し、とても航海に同行出来ないと言い出したのだ。

持衰とは朝貢団に随伴する祈祷師で航海の安全や大夫の無事を祈願するのが任務。無事に朝貢団が帰還出来れば多くの財物を与えられるが、海難事故や大夫が病気で倒れるような事態が発生すれば責任をとらされて殺される。随行中は航海の安全を祈る事だけを強いられ、肉食、色事も禁止。もっとも衣服を洗う事も出来ないので身体からは臭気プンプン、近寄る女性もいない道理だ。

しかし、持衰随行はこれまで欠かされた事がない重要行事の一つ。出来ないでは朝貢準備の責任者であるトシの落ち度になる。トシは思い余って塩ジィに相談した。

塩ジィは心当たりが一人いると言う。呼んで面接するとこれがとんでもない酔っ払いで泥酔状態で現れた。

「お、俺に、な、何か、よ、用事・・・」オイオイ、これじゃ持衰の任務は全うできそうもない御仁(ごじん)だ・・。

塩ジィの船長仲間で名はムナカタ。今は引退しているが、その昔は朝貢船団を指揮した事も何度となくとのベテランとの事だった。

塩ジィと同じく腕や足を折る事故で引退してからは身を持ち崩し、呑んだくれているが腕は確か。「あいつの天候を見る目は俺を上回る」と太鼓判を押していたが・・。

「今回も難升米殿が行かれるんだ。お前、前回の朝貢時には船長として可愛がってもらった恩があるだろ?」塩ジィも同席してムナカタの説得に当たる。ところがその酔っ払い

「も、もう、ふ、船には乗らないと決めたんだ。そ、それに俺は、き、祈祷のキの字も知らないし・・」断固断る姿勢を見せた。

「そんなのは適当に呪文みたいに口をモゴモゴさせてりゃいいんだ。なあ、兄弟、俺の息子と思って、この子の仕事を助けてやってくれ・・」

「む、息子?」酔っ払いが虚ろな目線をトシに移した。途端にビックリした表情になって考え込んだ。玉造の大将と同じ反応だった。

「兄弟に息子を守れと言われりゃ断れんな。その代わり塩ジィ、俺に酒を奢ってくれ。今日はトコトン付き合ってもらうからな。酒は当分、口にできねえ事になるからな・・」

持衰を引き受けてもらえる事にはなったが、果たして大丈夫だろうか?この人 


出航前日、トシは徐先生に挨拶する。

「何でも経験、人生に肥やしを与えるつもりで行って来い。お前の中国語もだいぶサマにはなってきたが一緒に渡航する難民たち相手に仕上げするのだぞ。元気でな。」と激励してくれた。

「それから・・」と一巻の竹簡を取り出した。「ムダな荷物になろうが・・万一、帯方郡が魏の支配下なら洛陽に行くことも考えられぬ事ではない。その時は洛陽にいる友人にこれを渡してくれ。」

そこには・・自分は海難事故にて漂流の末、倭国に流れ着いた。今回の外交団と共に帰国するつもりでいたが病を患い余命幾ばくもない。心残りは郷里の母の事。宜しく伝えてくれ。この書簡を託す者は倭国での教え子である。以下に記す書物をこの者に持たせてやってくれまいか。倭国の為になろう。また、この者にお前の近況を話してやってくれ。墓の中で話を聞くのを楽しみにしている。・・・とある。

「これは?」

「帰国できるのにしないのは、国外逃亡の罪になるのでな。用心の為、したためた文章さ。」と種明かしをした。

了解したトシは洛陽の友人の住所を記した布にくるんで、懐に入れた。

「先生の御母堂はどちらにお住まいですか?」

「徐州だ。洛陽とはかなり離れておる。」ふと徐福の事を思い出した。

「突然ですが、邪馬台国には海から渡来した賢人の伝説があるのですが徐福という名前をご存知ですか?」先生は思わず身を乗り出した。

「徐福が倭国に来たのか?」

「イヤ、伝説ですから・・。」

「子孫がいる訳ではないのか。」

「伝説では邪馬台国に滞在した後、何処かに旅立ったそうです。いろんな説があると言う事で中国研究会に居るキジが詳しいです。遠く東にあるクマノに居たというウワサもありますが・・」先生が関心を持っている様子なので塩ジィの話も付け加えた。

「それは面白い。実は徐市、またの名を徐福は、私の先祖と言われているのだ。」

驚いた。徐という名前は珍しくないと思って気にも留めていなかったが、同じ徐でもご先祖サマとは。

いつも沈着冷静な先生が興奮気味の表情を見せている。初めて見るニンマリ顔で「早速、キジに聞いてみよう。」と呟いた。

別れ際にもう一言あった「忠告しておく。洛陽の友人は偏屈で有名だ。会う機会があったら気負う態度を示すでないぞ。仮面を被った人間が大嫌いなのだ。おもねる、足元を見る、ヒトを陥れる、下心を持った奴には白目を剥いてピシャリと門を閉ざす。お前なら心配ないだろうが自然体で接する事だ。蘇門山で仙人と会ったと豪語する奴だ。面白い話が聞けるかもしれん。ハハハ」

まあ、洛陽に行く事はあるまいが、万が一の時には是非とも会う機会を作りたいもの・・と思った。


出発当日。晴天に恵まれ朝貢団は船出の儀式を迎えていた。案の定、副使が姿を見せることはなかった。

快方に向かうやに見えた病状が、ぶり返して急激に悪化、任務に耐えられず断腸の思いで辞退させていただく・・と言われても今更、他を人選する時間はない。

持衰のムナカタは意外にしゃんとしてやって来た。服装はヨレヨレの祈祷師風の装束だが先日の酔っ払いの表情とは打って変わって神妙な面持ちでたたずんでいる。

隣の難升米が「おい、お前・・」と声を掛けようとするが、全く気付く気配もなく御幣(ごへい)を手にしてなにやらお祓いを始めていた。傍らにはやけに大きい祭器を入れる道具箱を置いて・・。

小舟に分乗し、引き津湾に停泊中の二隻の大船に向かうのだ。

儀式に参加した一大率長官、伊都国王、ミクモ姫の見送りを受ける。勿論、塩ジィ、ケン、キジの仲間達も手を振って見送ってくれていた。

乗船に先立ち塩ジィはお守り袋を渡してくれた。中には葉っぱが一枚。

「これはナギの木の葉じゃ。我等、海人族の神木でな。魔除けの意味がある。ナギのゲン担ぎで海が凪ぐというわけじゃ。ハハハ」と笑顔で手を握った。

それにしてもトシにとって一番大事で会いたい人の顔がいない。チクシの帰還が遅れていて、おまけに何の連絡も来ないのだ。会えたなら、通訳として赴く自分に、どんな言葉をかけてくれただろう・・・と、それが唯一の心残りだった。


持衰のムナカタが乗り込み、道具箱から瓢箪(ひょうたん)を取り出した。この中にに入れた灰を海上にまき散らすのだ。ワタツミの神に安全祈願する儀式が終り、船が動き始めた。

祭りのあった高祖山が遠のき、チクシと登った伽耶山に近づく。山は新緑がモコモコと盛り上がって、船出を飾り立てているかのようだ。

その伽耶山を身近に見て旋回、引き津湾で大船に乗り換え、陸づたいの航路を末盧国へ進むのだ。

あの伽耶山が遠のいていく。狼煙(のろし)台(だい)のある火山も・・。そう言えば火山・・ムナカタがしたように山頂に向かい礼拝をする。

と、山頂で焚かれている炎が一瞬、瑠璃(るり)色に輝いた。

吉兆である。塩ジィの話が思い出された。瑠璃色の炎を見て、礼拝した者は絶対、難破する事はない・・と。


外交団団長、正使難升米は浮かない顔をしているが、トシは吹っ切れている。初の韓半島への旅を楽しむ気分だった。副使がいない分、気を使うことが減ると前向きに考える事にした。

どこまでも青い海を見つめるうち、難升米の表情も和らいできたようだ。海人族出身者にとって、美しい海の景色は、なによりの気付け薬になるのだろう。副使もいない手持無沙汰からトシに話しかけてくる。

「のうトシ。お前も俺も貧乏クジの渡航仲間だ。腹くくって旅を楽しもう。生きてある限りな・・ハハハ」

普通では隣に座って話すことなど有り得ない大夫の難升米様。なぜか身近な存在に感じられる。

「はっ。難升米様とこうやってお話出来る事。楽しみにさせて戴きます。」と恐縮する。「ハハ。楽しみが冥途の土産にならんといいがな。ま、俺は年が年。何があろうと運命で済ますこともできるが、お前は若いのう。幾つだ。」

「はっ。十七になります。」

「若い、若い。驚いた。して彼女はいるのか?」

「はっ。想っている女性はおります。向うがどう思っているかは判りませんが。」

「そうか、ならば生きて戻らねばのう。」

「勿論、生きて戻ります。楽しんで、学んで倭国に帰りたいと存じます。」

「そうじゃ、それで良い。」案外、付き合いやすい人物なのかもしれない。

難升米様は楽しもうと言った後は、その言葉通りの行状を続けた。

夜は必ずドンチャン騒ぎ。潮待ちで停泊する港町でも盛り上がって酒浸りの毎日となった。

「俺は有明の海人族。魚にはちょっとウルサイぞ。生きの良いのを持ってこい。」と注文つける日々が続き、末盧国、一支国、対馬国にたどりつく。

難升米は前回も公孫氏への朝貢団の正使を務めている。酒を飲んでの友好外交は必須だと経験談を聞かせる。

帯方郡で飲まされる中国の酒は、倭国のものより数倍強いという。「外交の為の修行と思ってお前も呑め」ソシアオ氏と同じことを言われ、飲む事を強いられる。吐いては呑み、呑んでは吐くのを繰り返す。

「お前もようやく半人前になった。お役目はつらいもの。つらい修行を乗り越えようぞ。」と叱咤激励が続いた。

 持衰のムナカタが祈祷師として先導役の船に乗船してくれたのはアタリだった。

一支国から対馬国に向かう時、ベタ凪の海でありながら神のお告げで出航はまかりならんと言い張った。

同じ海の男の正使、難升米ですら「出航すべきだろう。」とむくれたが、数時間もせぬうちに急に白波が立ち、みるみる暴雨風になった。・・台風である。

難升米はあらためてムナカタを見直したように感謝し「まあ、いいじゃないか。内密にしてやるから」と酒席にさそったが、ムナカタが頑としてこれを断った。やる時はやる人なのだ。


五月下旬。いよいよ大陸の一部、韓半島、狗邪韓国に上陸した。会えると期待していた先輩は鉄の買付で、あいにく出払っていた。長官から半島情勢のレクチャーを受ける。

「梁山の製鉄所に駐在する公孫関係者によりますと、遼東で川を挟み、睨み合っていた魏軍と公孫軍が小競り合いを始めたそうです。魏は川を渡って攻め込む為、川の中央、北、南と突破口を探しているようですが、卑衍将軍率いる公孫の守りは堅く魏軍を寄せ付けていません。南側を攻める回数が多いとの事ですから狙いは南ですかな。」

「南側とは帯方郡に近い方じゃな。」

「そうなります。しかし突破口を見つけられず、睨み合いが続くようだと、間もなく雨期。昨年の母丘倹と同じく川が氾濫して魏軍は立ち往生になるでしょう。しかも今回は呉が動き出すとも伝えられています。そうなれば魏軍は挟み撃ちにあって予断を許さぬ厳しい事態に追い込まれます。」

「公孫は今のところシッカリ守っているのだな。」

「従いまして、難升米様が心配される帯方郡の事ですが、朝貢時には依然として公孫の支配下にあると推察されます。」

「ナルホド。しかし、この度は名将司馬懿が率いているとの事。今、聞いた話は司馬懿らしい戦いではないのう。」と難升米が思いめぐらすように呟いた。

トシは思わず「魏軍がわざと苦戦していると言う事はありませんか?」と口をはさむ。通訳風情(ふぜい)が何を言い出すと長官の眉間にしわが寄った。

「それはない。魏軍は遠征軍。攻略が遅れれば不利になる立場だ。自ら不利を招くことは有りえんな。」と強く遮る。

「そうか、それではこれは不要かな。」

難升米は二つの書簡を取り出し、一つを投げ出した。「こちらは公孫の燕(えん)王(おう)向け、それは魏の皇帝向けの挨拶文だ。」

「さすが難升米様。どちらでも良いように抜かりはありませんな。ハハハ」後はいつもの宴会が始まる。


さて、話は遼東での両軍の睨み合いの場面に移る。


その頃、遼隧(りょうずい)では。

魏軍と公孫軍の睨み合いと探り合い。その膠着に決別して魏軍が動いた。夥(おびただ)しい旗指物を林立させ、南部に向け行進して行く。

公孫軍は南に狙いを絞った魏軍が本格的に攻めてくると踏んで精鋭部隊を南部に集中させた。南進に先立ち、魏軍が海側からも軍船を多数南下させているとの情報が公孫軍にもたらされていたからだ。

公孫側の動きを確認した司馬懿はニンマリ。動きを始める前に軍勢を二つに分けていた。一つはいかにも大軍・・を装った見せかけの軍隊。情報工作員がさとられないよう南進や海軍南下の噂を流していたのだった。

残る本隊を速やかに北に移動、予(あらかじ)め用意させていた川船で遼水を渡河した。南と見せかけて北から相手の領内に入る事に成功したのだ。

うまくいったからには川岸に陣取る公孫軍の残りと決戦・・そう部下がはやる中、司馬懿は方向違いの襄(じょう)平(へい)への進軍を命令した。

ビックリしたのは将軍卑衍(ひえん)。軍団の殆どを決戦地遼隧に集結させているのに手薄の本拠地を狙われてはたまらない。

南に向かわせた精鋭を呼び戻してからでは間に合わないので残る軍勢で魏軍を阻止すべく行く手を遮った。

しかし、深い塹壕と川を味方に、堅い守りで立ち向かうこれまでの戦いとはまるで勝手が違う野戦である。

あわてて出て来る公孫軍は魏軍の敵ではなかった。三度戦い三度敗北。

ようやく南部から引き揚げてきた精鋭軍と合流して本拠地襄平に逃げ込むのが精一杯となった。かくて司馬懿は襄平を取り巻き、公孫が対抗策として採りうる策の「下策」に追い込む事が出来たのである。


これで公孫淵は万事休す、と思われたが雨が味方した。この時期の長雨が平地にいる魏軍の陣営を水浸しにしたのである。包囲網もぬかるみに寸断された。

一方、帯方郡は魏の別動隊がこれを急襲。先に遼隧を突破された公孫軍の士気は低く、呆気なく魏の手中に落ちた。太守には劉夏が任命されていた。


難升米朝貢団は、まだその事を知らぬまま狗邪韓国を出発する。警護の兵も増え、船員もこの海域に詳しい現地の者に替わった。兵士が増えたのは倭寇(わこう)対策の為。

「この辺には浦上八国の倭寇が出没するのです。用心して遠回りしましょう。」また、沿岸部には多数の隠れた岩礁帯があり大船では座礁の危険性があると現地の船長が説明する。

難升米が「同じ倭族の海人族に狙われるとは情けないのう」と呟いた。先輩が言っていた浦上八国の話を思い出す。難升米様も何か感じる事があるらしい。

そうこうするうち南に大きい島影が見える。あれは・・と首を傾げていると「州(しゅう)胡(こ)といって広いイミで倭族になる海人族が住んでいるという。風俗は南方の倭人、貝輪をもたらす海人族に似ているらしい。」と説明を受けた。州胡とは現在の済州島である。

倭人、倭種、同じ倭でも様々な国や民族があるものだ。倭国統一と、一口に言っても何処までがその範囲なのだろうと思ってしまう。


帯方郡が近付いた。最後の寄港地、海(かい)宴(えん)の港に着く。ここで船は停泊し修理しながら我々外交使節団の帰りを待つのだ。港には中国の軍船や周辺の馬韓の船など、多種多様な船が行きかっている。伊都の港とは比べものにならない規模の港だった。

朝貢団は港町にある馴染みの宿泊所に泊まった。前回も難升米が利用している。

「これは難升米様。お久し振りで。お元気そうでなによりです。長い航海、ご苦労様でした。」店の主人が挨拶に来た。

「また帯方郡にまいるのだ。公孫の太守は同じ人かな?」主人は怪訝な顔になる。

「難升米様も時代遅れだねえ。今の帯方郡太守様は魏の劉夏殿です。劉というからには漢王室の血筋かねえ。」

「エッ。帯方郡がもう魏のものか。公孫は滅亡したのか?」

「滅びてまではいねえ。が、淵は本拠地に籠城中で司馬懿の軍が取り囲んでいる。だから帯方郡の公孫の連中は何も出来ず逃げ帰った。」

「そうだったか。情報が遅いな。」

「遅すぎですよ。てっきり魏の太守様にお祝いに来られたと思ってました。」

「もう誰か来てるのか?」

「ああ。各地のオエライさんが祝辞を述べに来てますよ。馬韓の首長が多いですけどね。」「そうか。」

「引き出物が貰えるてんでホンモノ、ニセモノがゾロゾロ。難升米様も早く行かなきゃ引き出物が無くなって手ぶらで帰国することになりますよ。ハハハ」と軽口叩いて店の奥に引っ込んでいった。

「何と。予想外の展開になっているのだな。」難升米は顔を曇らせた。その日ばかりはドンチャン騒ぎはおあずけ、トシ相手に善後策の相談とあいなる。 


公孫なら経験もあり勝手知ったる外交窓口だが、異なる魏にはどう対応すべきか?この悩ましい問題を考えねばならない。

「こっちが必要になった。」と書簡を取り出し、今度は公孫向けを投げ捨てた。

また、もう一つの木簡をトシの前に差し出す。原本は封泥済みのため、予め写本を作らせていたと言う。これを読んで朝貢の段取りを共に考えろと言う訳だ。


そこには念願かなって魏皇帝に朝貢出来る事を慶び、今後のよしみを通じる事を願う内容が記されていた。

「太守との会見でも同様な事を申し上げなされれば宜しいかと。」

「持ってきた朝貢品、あれは皇帝への献上品としては貧弱すぎないか?」

「そう思いましたが、公孫だったのなら前例のない品物では奇異に受け取られます。魏への朝貢になりましたが、それは取り急ぎの朝貢と言う事で勘弁してもらいましょう。

相手の反応を見て必要があれば、近い将来に皇帝献上品にふさわしい物を用意すると。今回は間に合わなかったと弁明されればどうでしょう。」

「そうか、そうだな。他に打ち手があるわけでもない。」

「なんとかなりますよ。」

「それにしても狗邪韓国の情報はアテにならん。」とブツブツ文句を言った後「しかし、これで戦局は見えた。我々も戦乱に巻き込まれず生きて倭国の地に帰れそうだ。」と元気を取り戻した。

「シマッタ。美味い酒を飲み損ねた。店の主人に分けて貰ってこい。」といつもの難升米様が甦った。中国酒と酒の肴を調達すると、うまそうに酒を啜り、トシに囁く。

「お前が頼りだ。俺がヘンな事言っても中国語で修正するのが通訳の役目だぞ。」と注いでくれた。

「お前、若いのに意外とシッカリしてるではないか。長官意見に疑問を呈するなどいい度胸だ。ハハハ。お前の見立ての方が正解だったし・・・」

あれは先生の受け売りなのだが・・。

「初対面の時はキレ者風でもなく牛のように鈍くさい奴だと不安に思ったが意外と使えるな。牛はああ見えて賢い動物というからな。ハハハ」褒められているのか微妙だが好意は感じられる。

「無事に戻れば、この俺が引き上げてやる。引退間際かもしれんが、まーだ、それくらいの力は持っているからな。ハハハ」難升米様が付き合いやすい人物で良かった。


朝貢団は陸路六十キロの道のりを帯方郡に向かった。途中一泊して翌日に備え、当日の昼過ぎに町に入る。そこで休憩し中国風の礼服に着替えた。いよいよ郡の入口だ。緊張が高まる。

門前にて太守への会見を申し込むと、まず担当官に面会するよう言われた。ところが物事にはスンナリいかない時がある

担当官は見下した態度で「太守がお会いなさる事は無いと思うが、受付だけはワシが行っても良い。」と高飛車に出たのだ。難升米様も相手の顔付を見て、不測の事態を感じ取ったようだ。

「この地には魏をたぶらかそうとする輩が多い。最初は信じて対応していたがエセ王族、エセ首長ばかりやって来る。この地域にはいくらの国があると言うのか見当もつかない。お前達もその類だろうが、間違いなく国を代表して謁見を願い出ているのなら、確たる証拠を見せよ」と迫る。そこまで言うかとトシはカチンときたが、難升米にその通り訳すわけにはいかない。

トシはチクシから貰った刀子に手を触れ、チクシの顔を思い浮かべた。怪しい雲行きの局面打開を図る為にチクシを召喚したのだ。

チクシは美人投票でナンバーワンの女。俺はそのチクシと一夜を共にした(共にしただけだが)ほどの男だ。ここで気後れしてはチクシに合わせる顔が無い。と、気合を充填する。思いっきり腹に力を込め、目を見開いて、これまで発した事のない大声を出した。

「控えている者達をご覧あれ。」後列にいる生口を指差した。

「漢代からの協定に基づき貴国の難民を連れて朝貢に来ているのだ。公孫の外交資料が残っているならそれを見て確認戴きたい。我々は誇りを持って遠路はるばる朝貢に来た者である。失礼な態度は遠慮いただきたい。」

このコトバが何をもたらすか判らないが、とりあえず言うべき事は言った。担当官は顔を紅潮させ「そこまで言うなら取次するが、虚偽がわかればタダじゃ済まんぞ。」半ば脅すような捨てゼリフを吐いて奥に引っ込んだ。

トシは我に返って、難升米様にこの顛末を説明した。難升米は腕組みしながら目をつむっている。

時が過ぎ外交部の責任者を名乗る者が現れた。今度は丁寧な言葉使いだった。

「先程は失礼致した。韓半島から訪問する者に食わせ者が多くて困っている為、担当官が無礼を申し上げた。ここに謝罪するゆえ、私に免じて水に流してもらいたい。」深々と頭を下げる。

「太守は是非に会いたいと申しておられる。面会時間まで客室で過ごしてもらいたい」と二人を案内した。

待機の間、トシは改めて自分が出過ぎた対応をした事を詫びた。考えてみると明らかに通訳の分をわきまえぬものだったからである。

「まあよい。こうして太守と面会が叶うのだ。それにしても、ここには、すばしっこい連中がウヨウヨしているってことだな。ハハハ」と言われて緊張が少し解きほぐされた。

太守の劉夏は知的で紳士的な人物だった。帯方郡を任される時、父の引退で代わりに太守の地位を受けたのだが、それまで側にあって父を補佐していたので新任の気負いはない。

難升米の渡した卑弥呼の親書を押し頂いて、次に受け取った朝貢目録に目を通す。「遠隔の地よりお越し頂き、謝意を申し上げる。」と深々とこうべを垂れた。

難升米はこれを受けて「とんでも御座いません。魏がこの地に戻られた事、倭国にとりましても、この上ない喜びとお祝い申し上げます。韓半島が安定し、平和になる事は倭国の国益にも適うもの。今後とも幾久しい貴国の繁栄を願う次第です。」

ナシメの挨拶が無難に終わり、ホッとした。

その時、劉夏が「倭国からの使者とあれば、今後私共が洛陽へとご案内させていただく事になります。しかし、ご案内のように、今は未だ遼東の情勢が片付いておりませぬゆえ、しばらく帯方郡にて滞在いただくことで宜しいかな。」と言い出した。これにはビックリ。

驚いた難升米は「洛陽など滅相も御座いません。公孫の時にはこちらで代理受領していただいております。皇帝には太守様より宜しくお伝えいただければと存じます。今回は十分な準備もせず、取り急ぎまかり越した次第。恐縮するばかりで御座います。」と、打ち合わせ通り返答する。

「そうはいきません。漢代より倭国からの使者は都にてお迎えするのがしきたり。品物云々より、遠方から直ちに参られた事がなによりの喜び。帝もそう思われることでしょう。」劉夏は漢代の記録を知って発言しているのだ。

「しかし、皆様を安全にお送り出来るか確認する必要が御座います。先ず、我が国の大将軍司馬懿殿に伺いを立てねばなりません。返答次第ではやむを得ずこちらで代理受領と言う事もありましょう。その節には非礼をお詫びしなければなりませんな。」もはや否を返すわけにはいきそうもない

難升米は謁見を終えて、フーッとため息をついた。「何か妙な成り行きになったぞ。お役御免で帰国できると思ったのに・・次のステージがあるとは面倒な。」とブツブツ。

「昔、そう云えば何処かの国が中国の都に行った事があると聞いた気がする。あれは奴国か伊都国、どちらだったかのう。」と言ったかと思うと、また別の事を考えている様子である。

「司馬懿が安全確保に自信がないから我等を帰国させようと言うかな?」ブツブツ。

自信家の司馬懿がそう言うとは思えない。

しかし、万が一、司馬懿が負けないとしても昨年のように遠征を続けられずに撤退することになったら?

この帯方郡は孤立する事になる。まだ勝敗は決していないのだ。従ってここに滞在する事は戦乱に巻き込まれる可能性も残っている。

「ここで、おさらば、と行きたかったのになあ。」難升米が、再び、ため息を着いた


その頃、魏の朝廷では公孫討伐軍の撤退を主張する廷臣達が多くいた。長雨で襄平攻略が長期化するのを憂慮していた彼等は、終わりの見えぬ遠征が戦費支出を増やすだけでなく呉や蜀に侵攻のスキを与え、都・洛陽を、引いては自分達の身を危険にさらすという思いがあった。宮殿の造営工事が減らされたと言っても、なお続いているのも原因だろう。

「撤退命令を下すべきです」との上奏に対して、曹叡はまたしても強引に判断を下す事になる。

「き、却下!」大声で皆を黙らせた。

「司馬懿なら危険にさらされても千変万化に対応して切り抜ける。か、必ず淵を捕まえてくる。」


一方、戦場の現場でも襄平包囲作戦に異議を唱える者が出始める。陣を移動したい、攻城戦に踏み切りましょう・・と、はやる者が多数いたが、司馬懿はこれを許さない。指示を破る者は軍律違反で斬り捨てた。

しかし、朝廷で撤退論が沸騰し上奏が行われたとの情報には、武将達にも動揺が広がった。そこで司馬懿も、動揺を抑える為に戦略を打ち明けた。

「相手は、人数は多いが、住民や訓練の足らぬ少年兵を加えてのもの。人数分、食料不足になっているハズだ。一方、我が軍の包囲網も完全ではない。ヘタに攻城戦になれば折角追い込んだ敵が包囲の弱点をついて逃げ出すことになる。こっちが長雨に悩み撤退寸前であると思わせて、油断させ、相手の自滅を待て。雨が上がって包囲網が完成するまで待つのだ。」

さらに、相手の物見に、わざと兵士の士気が落ちているよう見せつける。加えてスパイを使って、朝廷での撤退論の沸騰の様子をリークさせた。これらは、一面、事実でもあるので、公孫淵側に望みを繋がせ、期待を膨らませる結果をもたらした。

そんな折、司馬懿の陣中に帯方郡からの伝令がやって来た。「倭国の使者が朝貢に来た。漢代の事例にならい洛陽に送るべきか、戦時につき太守が代理で受領し使者を帰すべきか判断いただきたい・・」との内容である。

「ほう、倭国が来たか。」司馬懿の頭に漢の歴史書のページが繰られる。その国は漢の皇帝が金印を授けた国。倭国の使者が洛陽に行けば、公孫討伐の成果をアピール、周辺国が早くも魏の勝利を祝福している・・としてPR出来る。と計算が成り立つ。

「即刻、都へ護送せよ。呉の動きに気を付けて時間が掛かっても確実に連れていくのだ。ワシからも、帝宛てに添え状を書こう。」 


難升米とトシは客室で竹簡を作成していた。帰国すれば朝貢団の行程や外交内容をヤマタイ本部に提出しなければならない。

難升米がその外交成果を誇大に表現するように注文して、修正に苦労していた折、「難升米殿は居られるか。」と声がする。

部屋に入って来たのは太守、劉夏だった。「御用があれば、こちらから参上致しますのに。」

「今、良い知らせがあった。一刻も早く報告しなければと思ってな。」

「何で御座いましょう。」

「司馬懿殿から洛陽へ護送せよとの仰せがあった。自ら帝に口添えされるそうだ。公孫討伐に自信を持たれているのであるな。」戦乱に巻き込まれず、早々に帰国する・・との難升米の思惑は、やはり期待通りにいかなかったようだ。

「洛陽にて皇帝にまみえる事。この上ない光栄と存じます。」と答えるしかない。

劉夏は「私からも洛陽に報告致さねばなりません。正使は難升米殿、そちらのトシ殿が副使でしたな。」

トシは慌てた。「私は通訳に過ぎません。副使は旅立ちの前に体調を崩して共にくる事が出来ませんでした。何か不都合がありましょうか。」

「フム。皇帝が直接謁見されるのに正使一人では恰好つきませんな。どうでしょう難升米殿。この方を副使としては。朝廷にいる連中は何かと肩書きにこだわります。」

「それは。」無理な申し出・・とトシが言い掛けるが、劉夏は構わず、トシの側に近づいてくる。

「トシ殿が持たれている刀子は立派なものですなあ。これ程のものは中国でも高い身分の者しか持てません。」

「はあ?」

「これほどの逸品をお持ちとは、貴国でも高貴なお方の子弟でしょう。見るからに若いトシ殿が、こうして重要な任務に就いておられる。それなりの方とお見受け致す。」

「チョットお待ちください。」

躊躇(ちゅうちょ)するトシの側で太い声がした。「判りました。劉夏殿の提案をお受けしましょう。私の責任にてこの者を副使と致します。」

オイオイ。そんな事、勝手に決めて良いのか?

「お名前はトシだけでござるか?」劉夏の質問のイミが判らない。

「何か字(あざな)のようなものは御座らぬか?」当時の中国では字をもつのが当たり前。諸葛亮の字が孔明、司馬懿の字は仲達という具合だ。

「難升米殿から見てトシ殿はどのような人物に見えますかな。」

「こいつは何時も牛のようにおっとりしてますが、ここぞとの時には利発な面がのぞきますなあ。」と笑って答える。

「そうですか。でしたら、この様な名前にされてはどうです。正使、大夫の難升(なしめ)米殿。副使、都市(とし)牛(ご)利(り)殿。」

難升米がトシを小突きながら「結構な名前を戴き、有難う御座います」とトシに代わってお礼を述べた。

 劉夏が立ち去った後、トシは難升米に尋ねた。「大丈夫でしょうか。勝手に副使を名乗っては問題が生じませんか?」

「そりゃあ問題だ。だがワシはヤマタイの外交全権を任されている身。やむを得ない場合には、正式了承を待たずに決定できる権限を持つ。」と胸を張った。

「だがな。あくまで副使代理だ。お前を引き上げてやるとは約束したが、副使に見合う地位や俸給にはならんぞ。」当たり前である。副使は国の要人身分。

「それはもう。新任の木端(こっぱ)役人で御座います。国に帰れば元の身分で結構です。」

「ナンダ。欲のない奴だな。そういう所は処世する上でマイナスだ。欲張りは論外だが、控えめな欲なら持たんとイカンぞ。」

「有難う御座います。それではチョッピリ期待させていただきます。宜しく願います。」

帰国後の将来に光が差してきた。チクシの祖母との対面、その様子から、身分差が気になっていたが、堂々とチクシを娶(めと)るとの申し入れが、出来るかもしれない。


 直ぐに出立・・との話だったが、洛陽行の準備にはある程度、時間を要した。六月末に帯方郡を出る。劉夏は護衛の兵の他に、案内役の文官をつけてくれた。港町、海宴に戻り、倭国の船には、来春に迎えに来るよう指示を出して帰還させる事にした。

これまで航海の安全を担当してくれたムナカタにお礼をした。「よくお酒を我慢されましたね。感心いたしました。」と言うとニヤリと笑って祭器の道具箱をチラッと見せた。

そこにはお神酒を入れた壺がズラリ。殆どカラになっていたが「チビチビとはやってたんだ。早く帰って存分に飲みたいよ。」と笑った。

「これは酒代です。」トシは特別手当をはずんだ。


トシと難升米は中国軍船に乗り、本土を目指す。

遼東半島に沿った航路から山東半島の付け根、黄河近くの港に上陸、陸行で再び船が動ける地点まで移動する。黄河の河口は、洛東江と同じく湿地帯で、船が直接海から河に出入りできない為だった。黄河を遡上しながらの旅が続く。

呉の侵攻が噂される中での旅は、慎重に時間を掛けてのものとなる。事実、魏の領内に呉が出没し、略奪を繰り返しているとの情報がもたらされていた。

早く帰りたいと願っていた難升米もいつの間にか腹をくくったようで、カタコトの日常会話を覚えようとトシに教えを乞うてくる。

さすがヤマタイの重鎮と呼ばれる人物。トシの教えた「これさえあれば話せる基礎会話100」をマスターして周囲の中国人にも話かけるまでになった。

難升米のお世話から解放されたトシは付き添っている文官に中国史や風土の話を聞く。途中、川が分岐していたので、支流の川の名を問うと、人工的に作った運河という。「向うの遥か彼方にまで、人工の運河が通っておりまする。」これが人の手でつくった川?壮大な治水工事に驚くことしきりだった。


七月に入り襄平は大詰めを迎えていた。

長雨が上がり、公孫包囲網は万全になった。司馬懿が動く。

土を盛りやぐらを立てて、襄平の城に、矢を雨あられと浴びせる。城攻めの投石器が城壁の公孫兵を打ち倒す。地下を掘って敵陣に達する潜入ルートを作るなど、など。

公孫淵は、手も足もでない状態で、一方的な攻撃に耐えるしかない。イジメにあった亀の如く、首を引っ込めたままで籠城するしかなかった。魏軍撤退のウワサは何だったのか。・・と歯ぎしりするのみだった。

八月。食料も尽きた。淵や取り巻きの高官は、軍馬を殺し解体して飢える事はなかったが、一般兵士や民は悲惨である。

土壁を崩し補強材として埋め込まれているワラを食すのはマシな方で、飢えや病気で亡くなった人間の死肉を口にするに至っては、さながら地獄絵図の様相である。士気は地に落ち、戦うどころではない。密かに投降する将軍達も目立ち始めた。

強気一辺倒だった淵も、もはやこれまでと思ったのだろう。

相国(首相)と御史大夫(司法長官)を降伏の使者とし「包囲を解いてもらえば自ら手を縛り謝罪します。」と申し出た。

司馬懿は許さない。謝罪して臣従するとはイタズラ小僧が二度としませんと言うのと同じ。とぼけた言い方だと、即刻二人を斬り捨てた「ボケ老人が汝の言葉を誤って伝えたので斬り捨てた。今度はボケてない若者を寄こせ。」と伝えた。

そこで、淵は側近を使者として「息子を人質に出すので包囲を解いてくれ。」と申し出た。

ボケてない若者とは、淵自身のイミ。自ら降伏せよと伝えたつもりが人質云々との回答。「勘違いの好きな主人に伝えよ。戦いとは攻撃か防御。それが出来ねば、逃亡だ。それも出来ぬなら、降伏か討死しかない。この度、降伏の機会すら捨てたからには討死を覚悟したと見なす。」

公孫淵は震え上がった。これまで呉も魏も恭順の意を示せば許してくれた。なのに、司馬懿は、なんと猛獣のように襲い掛かるではないか。

「逃げるしかない。」

息子の公孫脩と共に数百騎を引き連れ包囲網を突破した。しかしこれを魏は待っていた。行く先々に待ち受ける魏軍を避けながら落ち延びようとするも、遼水のほとりで追いつかれ最後を遂げた。クビは洛陽に送られた。

襄平に入城した司馬懿は逆らった公孫勢力を容赦しなかった。淵が任命した百官、役人、武官はもちろん、十五才以上の男子七千名を皆殺しする。

死体を埋める場所もなく山積みして土を被せ塚となした。「京観」とネーミングして見せしめのシンボルとしたのである。


かくして公孫は滅び、難升米もトシも戦乱に巻き込まれる事態は避けられた。

難升米一行は、旅の途中の宿で、その話を聞いた。ホッと安心。

トシは、宿の隣部屋で、魏軍の高官が話していたのを漏れ聞く事になった。。

「それでな。洛陽にいる淵の兄、公孫(こうそん)晃(こう)だが、処刑されたそうだ。」

「晃と言えば洛陽で官位をもらい、魏のために働いていたではないか。」

「そうだ。弟の淵が叔父の恭から権力を奪った折、晃は淵を討伐させてくれと皇帝に申し出たが結局ウヤムヤになってしまった。淵が既に国内を掌握していたから、魏も深入りしたくなかったのだ。」

「だったら晃に罪はないのでは?」

「帝は助けても良いと考えていたが臣下が皆、反対した。法律では謀反人の身内は同罪だからな。」

「うーん。そうなるかな。」

「殺され方が可哀そうだ。鉄釘や金属屑を飲まされたというからな。」

「ひぇー。怖い。酷い。」

「生かせば晃にそれなりの処遇をせねばならん。戦費や論功行賞の原資を得るには、公孫の領地全てを、魏のものにする必要がある。」

「しかし、公孫恭(きょう)は復権したと聞いているぞ。」恭は淵の父公孫康の弟で先の太守である。

「恭はいいんだ。名目だけのお飾り太守。領地はいずれ魏のものになる。」

「なぜだ?」

「知らないのか?恭はインポテンツなんだ。生かしていてもお家断絶だ。晃だってインポだったら、死なずに済んだかも。」

トシはゲンナリしながら公孫滅亡の話を聞いていた。徐先生から聞く魏・呉・蜀の戦いはヒーロー物語だった。しかし、生で聞く中国の戦争の実態は、それと違って陰惨そのものだ。孔子の教え、徳や仁、和・・といった言葉から想像していた世界とは何か違う。

倭国でも国と国の争いで死者は出る。トシが生まれる前には大乱があったと聞いている。しかし、一回の戦いで千名も死者がでるのは稀な事。

しかも戦いの優劣が決まればそこで戦いは終結する。相手の降伏を受け入れるのが当たり前で、戦が終って一般兵士を殺す事は皆無だ。

大陸に於ける国と国の争いは凄まじい。

こんな完膚無きまでに相手を打ちのめし、息の根を止めるようなやり方で大軍が倭国を襲ったら?

魏が倭国を狙うとは当面考えられないが、先輩が危惧した高句麗や馬韓、辰韓でそんな勢力が生まれたら、今の倭国の軍事体制ではひとたまりもないかも知れない。


公孫滅亡の話を難升米と話した。

「我が国も軍事力強化が必要でしょうかね。」

「そうだのう。そろそろ倭国統一を考える時がきたかのう。」おおおっ、難升米様も倭国統一の必要性を感じていたというのか?

「それではヤマタイと狗(く)奴(ぬ)国が連合して東方の勢力に呼びかけ、倭国統一を果たすべきでしょうか?」

「バカを申すな。狗奴国と連携するなど。お前、倭国統一を何と心得ている。倭国の九州はヤマタイ連合に狗奴国の支配領域を加えたものなのだぞ。」

中国では国の中核になる地域を九州と呼んでいる。他の地域は夷(えびす)と称される未開の後進地域なのだった。その意味で倭国の中核を形成する地域、即ち九州は、ヤマタイ連合国と狗奴国の支配地域を指すものなのだった。

「ヤマタイ連合をヤマタイ統一国家に仕上げるのだ。そして、憎っくき狗奴国を殲滅する。さすれば倭国の九州を制覇したことになる。それが倭国統一だ。その余勢を駆って、夷の東方に進出すれば、もっと広いイミでの倭国統一国家が出来上がるのだ。」

エエッ。伊支馬殿とキクチヒコが、将来を見据えてヤマタイ・狗奴国連合を画策してるかもしれないのに?

難升米様の考え方は、少し違っているようだ。国論を一つにして纏めるのは容易ではない。キクチヒコの戦略の前途には、反対論が、根強く立ちはだかる事になるかもしれない・・。


― 第四章 洛陽 ―


難升米の一行が洛陽に着いたのは既に十一月も末になっていた。

外交団は洛陽市内から洛水をまたいで橋のたもとにある、異民族が逗留する大きな宿舎、迎賓館に入った。

そこからは洛陽を取り囲む、頑丈でぶ厚い城壁、向うには壮大な建物群がどこまでも林立していた。倭国の都市とは次元の異なる別世界に来たと感じる。

その宿舎にはシルクロードを通ってやってきたペルシャ人、駱駝(らくだ)等、想像を超えるヒト、モノ、動物がいてトシ達を驚かせる。


翌日、洛陽の門をくぐり外交を管轄する大鴻臚(だいこうろ)という役所に案内された。係官がにこやかに出迎える。

「長旅でお疲れになったでしょう。日のいずる東方の彼方よりおいで頂いたこと、感激と同時に喜びにたえません。ここの長官であります鴻臚卿から挨拶が御座いますが、その前に確認させて頂く事がありますので、暫く私とお付き合い下さい。」

帯方郡・劉夏から送られてきた報告書の内容につき、改めて確認作業が行われた。

中でも女王卑弥呼に関する質問が多かった。卑弥呼については難升米に答えてもらうしかない。

「倭国の祭祀は、太陽をその中心に考えております。卑弥呼様は祭祀をつかさどり、国を導く存在であられます。円い鏡は太陽を表すものとして大切に扱われ、卑弥呼様のまつりごとには欠かせないものであります。」

「成程、倭国は太陽が昇る地。それゆえ、女王殿が、太陽を重くみられるのは、道理にかなっておられますな。」

「はい。卑弥呼様のおそばには、多数の銅鏡が置かれています。」

「女王であるからには、衣服やアクセサリー、化粧品の類もお好みでありましょうな。」

「はい、卑弥呼様の宮殿には多くの巫女や侍女が仕えています。貴国におかれてもそうでしょうが、女性であってそうした物を好まぬ者はおりません。」

係官とのやり取りでは、帯方郡でも聞かれたヤマタイ連合国の国名、その戸数など改めて聴取され、その戸数の数字には、やや驚きの表情が走った。確認作業が終り、鴻臚卿と対面する宴席が設けられた。

「詳しいことは司馬懿殿と帯方郡太守の書簡にて聞いております。堅い挨拶は抜きで友好を深めましょう。」早速、酒が注がれ、難升米の頬が緩む。

「皇帝も司馬懿殿の書簡を見られてからというもの、貴殿達が都に着かれるのを今か今かと心待ちにされておられました。明日にも奏上いたしますので二―三日後には皇帝謁見の運びになりましょう。」

もうすぐ皇帝にまみえる機会が訪れるのだ。そう思うとこの半年にわたる旅への感慨がこみ上げ、同時に謁見に向けた緊張が高まる。

「それまでの間、係官が洛陽宮殿内をご案内致しますので、ゆっくりご見学戴きたい。」

案内を受けて見学した宮殿は、やはり壮大そのものだ。中央の道幅はゆうに百メートル以上。西北には防備の要、金墉城が聳え立ち、それに守られるよう北側に皇帝関連施設、大極殿、昭陽殿等が限りなく建ち並ぶ。

総章観は高さ十丈もあり、屋上に飛翔する鳳凰の像があった。九龍殿には人工の川を配し、白玉で飾った美しい手すり、神秘の龍の彫像に水を吐き出させ、これまたヒキガエルの彫像に水を受けさせる趣向が凝らしてあった。芳林園には池に、築山、松や竹、山鳥や獣達も放って季節と自然が楽しめる。

これらの造営の為には、多くの民衆が膨大な時間、駆り出された筈だ。聞くと、皇帝自ら鍬を持ち、側近の高官達も工事を手伝わされたという。

一体、いくらの資金をこれらの工事の為に費やしたのか。とにかくため息が出るような、建物群には魏の国力の凄さが感じられる。

案内役の係官に対し説明を受けるたびにそれぞれの素晴らしさを褒めるのだがその顔色に笑顔がないのが気になる。ホメ方が足らないのかと、大げさに表現するが苦笑いが返ってくるだけなのはどうした事か。

洛陽見学も一通り済んだところで、いよいよ皇帝謁見の日取りの告知があると思われたが三日過ぎても四日過ぎても、その沙汰はなかった。

難升米達が宿泊する迎賓館に大鴻臚の役人が尋ねて来たので、勢いこんで迎えたが、使者の顔付は冴えない。

皇帝曹叡の体調がすぐれず、ここしばらくは謁見の儀式が行われる見通しはないという。難升米様も拍子抜けしたようだが、迎賓館の接待には満足している様子。トシは丁重にお断りしたが、難升米はあてがわれた遊女の踊りや、宴席でのお酌に気持ちが向かっている。

トシは難升米のご機嫌を確認して、一人で洛陽の町を見て回りたいと願い出た。勿論、快く許可が下りた。

「倭国に持ち帰るお土産が必要。そなた、洛陽の市場でめぼしを付けておいてくれ。」これで徐先生との約束を果たす事が出来そうだ。


トシは徐先生の書簡を取り出した。宛名には阮(げん)籍(せき)という名前と、その住所で洛陽郊外の地が記されていた。

尋ね歩いて近所の人に、その場所を教えてもらった。

その際「気難しい人だから気をつけなさい」と忠告を受けた。奇怪な顔の変わり者との事だ。先生もそれらしい事を言っていた。どんな人なんだろう?教えられた道を歩くと、目印の竹林が見えてきた。奥に屋敷があるはずだ。

向うから若い二人連れの男が歩いて来た。念のため聞いてみるか。

「阮籍殿のお住まいは此方ですか?」

「我々は今、お会いして帰るところだ。」

思い切って訊ねてみよう。

「阮籍という方はどんな方になりますか?」

「知らないでお会いなさるのですか?」

不審に思ったのか、一人の男が聞いて来る。「あなたはどなたです?私は王済、こちらは孫楚君です。」

「私は倭国から来たトシといいます。知り合いに頼まれて面会を希望する者ですが・・」「倭国?中国人ではないのですね。」

「帯方郡の南。海を渡ったところの国です。」

「それなら阮籍先生を知らないのは当たり前だな。」

「先生は当代一の詩人、知識人ですよ。」

二人によると、父君の阮(げん)㝢(う)も曹操にみこまれ、その側近として檄文を書いた名文家で、建安の七子として名高いという。だが、阮籍が幼い頃に亡くなっていた。いずれにしろ、洛陽では名家の家柄の人物のようだ。

「父君の文章力のDNAは確実に伝わっていますね。」

「気難しい人と聞きましたが。」

「いろいろ言う人もいるけど我々のような若輩者にも気さくに話してくれる、良い方ですよ。つむじを曲げると怖いけど・・なあ。」

大体、雰囲気は判った。

二人にお礼を述べて先に進むと、竹林に囲まれた広い庭のある家の門に出た。

誰が奏でているのか、琴の音色が聞こえて来た。緊張感がほぐれる、この自然と一体になった良い音色である。

家の前で二歳に満たないと思われる幼い女児が遊んでいた。小さな口元が愛らしい。

「お父さんは阮籍さんですかア?」

「アアア」まだ言葉も満足に出ない幼さ。この子に面会を申し出ても通じる訳はないな。

その時、人の声を聞きつけて家人が現れた。「阮籍先生の友人の徐さんから書簡を預かってきた者です。お取次ぎ願えませんか?」

しばらくして琴の音色が止まり、体格のよい大男が出てきた。いかつい顔だが決して奇怪とは言えぬ、むしろ見方によってはカッコイイ男だ。胸をはだけたゆったりの服に足元は靴ではなく下駄を履いている。

阮籍は訝しげに「そなたが徐さんかな?」と訊ねて来た。

「いえ、徐先生に頼まれて書簡をお持ちしました。徐先生は中国から倭国に渡られ、私は先生の教えを受けたものです。このほど外交団の一員として洛陽に訪れたのでおうかがいした次第です。」

書簡を渡すと筆跡を見るなり「おう。あの徐が生きていたか。」と大声をあげた。

「早く入りなさい。君に奴の事を聞きたい。」とにこやかな表情で招き入れられる。

「ほう。」読み終えた阮籍はトシに向き直った。

「君は、ここに記載されている書物がどんな内容のものかご存知かな?」

トシは困った顔になる。

「徐はピンピンしているのであろう。これには余命ナシとあるが、これらの書物は徐の好きな物ばかり。自分が読む為と違うか?」

言い当てられて当惑するトシに、阮籍は笑顔で続けた。「あいつには全て承知したと伝えてくれ。ちゃんと徐州の母殿には元気に暮らしていると伝えると・・」

トシはもう憚(はばか)ることもないと、事実を話すことにした。

そして、先生に関する疑問をぶつけることにした。

「「私にはわからないことがあります。何故、倭国に来られたのか。ただの漂流民とは思えないのですが・・」

「あいつは魏を捨てたのだ。私は国事に背を向けて暮らしているが、あいつは国の体制に思う事があったらしい。もともと蜀のファンだったからな。見限って倭国を目指したのだろう。」

阮籍の話では徐先生は、曹叡の事は当初評価していたらしい。だが、孔明亡き後、宮殿造営工事にのぼせ、民の苦しみを顧みない政治に失望した。仕官に誘われたが断って徐州の実家に戻っていたという。

曹叡の宮殿オタクは、皆にひんしゅくをかっているらしい。誰が諌めても態度を変えることはないのだ。

トシは宮殿見学の折、案内役がいい顔をしなかったのを思い出した。あの建物群を見て豪華さに圧倒される思いだったが、実は国内的には批判の方が多いのだと感じた。

「それに、もう一つ理由がある。秦時代の方士に徐福がいたが、あいつは自分の祖先が徐福だと考えていた。」

「「そういえばそんな事を言われてました。」

「徐福は始皇帝に不老不死の妙薬が東方にある・・と信じ込ませ、探検に必要として膨大な財を引き出した。そして童男童女、職人、五穀の種と共に海中にわたり新天地で暮らしたと言われている。徐は始皇帝をたぶらかして向かった、その国は倭国ではないかと推定していた。わざと海難事故を装い漂流民として倭国に到達したのではないかな。」

そうか、それで徐福伝説に興奮していたのだ。目的は徐福の足跡をたどることにあるのか?

「俺からすれば、共に酒を飲む友達を倭国に取られたってところだ。」と笑った。

「まあ、元気ならそれで良い。友の友、遠方より来る。また、楽しからずやだ。今日は君と飲み、語ろうではないか。」

トシは、洛陽に来たからには、儒教をはじめとして、諸子百家の教えを学び、書籍を購入して倭国に持ち帰りたいと希望を述べた。

「学ぶ事は大事だ。だが、儒教はあまりお勧めはせんぞ。今の中国、いや昔から、この国では教えを学んでも自分の生き方の為には使わない。出世や自分の利益の為に利用する輩ばかりだ。巧言(こうげん)令色(れいしょく)の巧言ツールにしている。特に礼は好かんな。」

「はあ。」

「権力者が反抗する者を抑え込んだり、邪魔者を粛清するのに、口実として使う。礼に反する奴だとな。・・出世を求める人間、こざかしい事を考える。立派な教えを、裏に廻って相手を陥れる道具として告げ口するのを何度も見てきたよ。哀しい事よ。」

「はあ。」

「君は、儒教だけでなく、いろんな教えを学んで帰る事だな。例えば、最近のものには仏教と言うものもある。老子が西方の国に行き、化身となってシャカという人物になった。そのシャカの教えが仏教と言われるのだ。ホントかウソか判らん話だが・・」

「老子がシャカですか?」

「戒律や難しい修行があって俺の肌には合わんが、今までにない教えと言うイミで注目している。人を傷つけず、自分で悟りを開く教えだからな。」

「何処にその教えを広めているところがあるのですか?」

「俺が仙人を探して長江あたりをウロついていた時は寺がアチコチにあった。洛陽には・・おお、白馬寺というのがあるぞ。」

仙人の話がでた。その後は阮籍先生の仙人談義とあいなった。こちらの方が面白い。


なお、本日出会った孫楚(そんそ)君。後に夏目漱石が漱石と号し、流石(さすが)の語源となった人物である。父は曹叡の側近孫資。

なお、本日出会った阮籍先生。後に竹林の七賢人のリーダー格として清談の第一人者になる。

なお、本日出会った阮籍の娘。後に司馬昭(司馬懿の二男)の息子、炎(後に魏に代わって晋の初代皇帝となる)との結婚話を持ち掛けられる。権力争いを好む司馬家との姻戚関係を望まぬ阮籍は、ワザと大酒を飲みグデングデンになって、その話に取り合わなかったという。


昨日の宿題が残っていた。

阮籍に付き合って酒を飲み、難升米様から言われた土産探しが出来なかった。今日は洛陽の市場を見てみようと街中をブラブラしていた。

と、向うから、やけに白い顔をした男が高歯の下駄を鳴らしてヘンな歩き方でやってくる。

年は既に五十を超えているかも知れないのにハデな男だ。ピョンと跳ねるような歩き方。顔には白粉をつけて化粧している。しかも神経質で警戒心の強そうなタイプ。

洛陽にはホント、様々な人が居ると思ったが、インネンをつけられてはたまらない。スタスタ足早に通り過ぎようとした瞬間、甲高い声が飛んできた。

「チョット待て。お前は俺の影を踏みつけにしているぞ。」

影?ヤバイ。影を踏みつけたと文句を言われるとは。ヘンな奴に捕まってしまった。どう、遣り過ごしたものかと思案する。

「お前は・・お前はこの地の人間ではないな。ど、何処から来た?」

甲高い声が追い打ちをかける。言葉は少しロレツが回っていない。酒を飲んでいるのか?

「倭国から参りましたが。」

相手の着衣を見ると、いかにも高級なシルク製のハデハデ。身分の高さが窺えるので答えないわけにはいかない。しかもその服から良い芳香が漂って来る。しかし、酔っ払いにしては酒臭さが無いのが不思議だ。

「ほーほっほ。倭国?女王国から来たものがいると聞いたが、お前か?」その時、背後を誰かの影が通り過ぎた。

この男、女王国という事を知っている。ナニモノだ?・・

相手がどう出るかわからず、顔色をうかがっていると男はニタッと笑った。

「異民族ではとがめだてしても詮方ないのう。」やれやれ、なんとか無事に収まり、解放されそうだ。

と思うまもなく「少し、話が聞きたい。ついて来てくれ。なに、この家が俺の屋敷だからな。スグだから。」困ったことになった。

が、この屋敷はどこまで続くのか・・というほど広くて、門や塀には装飾だらけ。かなりの身分であることは明白だ。相手の素性が判るまで、低姿勢で応じるのが無難だろう。

「先程は足がご不自由な事を知らず、失礼致しました。」

ところが大声。「失礼な!」と一喝される。

「これはウホだ。足が不自由ではないぞ。」

引き摺るように、飛び跳ねるように歩くのがウホ?

「ウホも知らんのか。これだから異民族は困る。我が中夏(中華)の創始者を。」

中華の創始者は「㝢(う)」である。徐先生の中国歴史講座で学んだ。

卑弥呼の時代を遡ること二千二百年ほど前、禅譲により帝の位を受け夏王朝を打ち立てた伝説の人物である。治水事業で国を豊かにした徳の高い帝と言われている。

「夏王朝の㝢の事ですか?」

「その事は知っているのか。ならば教えてしんぜよう。」

㝢は自ら先頭に立って土を運び治水事業に取り組んだ。手足はヒビ、アカギレだらけになったばかりか、頑張りすぎて半身不随の身になり、不自然な足の運びにならざるを得なくなった。・・と解説する。

「それがマサにウホなのだ。だから㝢の徳をしのぶと共に、国家が災難を避け、万事上手く(うまく)行くよう、こうしてワシがマネをしておる。影を踏まれると、その効果が薄れるのじゃ。」

咎め立てされた理由が判った。

それにしても、この人の服装は治水の作業着とは無縁の高級品。化粧した白い顔も㝢とはかけ離れているように思える。

が、面と向かって言える事ではなく「わかりました。ならば影を踏まぬようついてまいります。」と応じた。

立派な門をくぐり、これまた立派な屋敷に入る。

何人もの家人が駆け寄り「ご主人様、お帰りなさいまし。」と声を掛けてくる。

客間に案内されると超豪華調度品がそこら中に配置されている。応接テーブルの中心に香炉が置かれ、あの服から漂っていた香りが部屋中に充満していた。

「ワシは何晏(かあん)という者じゃ。お前は名を何という?」何晏と名乗る男はハタキのような払子(ほっす)を振りながら口を開いた。

「都市(とし)牛(ご)利(り)と言います。」

「それでは都市牛利殿。倭国は東海の海中にあると聞いたが、それは真か?」トシが肯いてテーブル上に地図を作り、ここが洛陽、ここが帯方郡、ここが邪馬台国と説明した。

「ほう、ワシは未だ海を見た事がない。都を離れた事がないのでな。一度は見たいが、なんせ遠く離れておる。」

「倭国は四方を海に囲まれております。もっとも離れた内陸部からでも数日歩けば海に出ます。」羨ましい様子でトシを見る。

「今から七百年以上も昔、孔子という偉人がおってな。山東半島にある連雲港の孔望山に登り、東の海をあかず眺めていたという。東の彼方に君子国あり。自分も筏に乗ってそこに住みたい。・・中国の政治に絶望していた孔子は、その国ならば徳による政治という自分の理想が実現出来ると憧れておった。君子の国とは倭国の事ではないのか?わしはそう推察するがのう・・」

おっと。君子国ときた。七百年前となると我等の先祖が韓半島から渡来する前の原倭国人かもしれないが、ちょっとは嬉しい誤解だ。

「君子国と持ち上げられると恥ずかしくなります。中国の豊な文化と比べれば、何事も足元に及ばない国ですのに。」

「文明の発展具合と君子国は関係ない。孔子は春秋で、我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと言っている。中国国内に徳や礼に基づかない政治が行われた時には、周辺の異民族に立派な政治をする国があれば、それをマネて立て直せと言う事だ。」

「孔子はそんな事も言われていたのですか?」

「孔子を知っているのだな。結構、結構。」孔子の言葉でどんな事を知っているかと尋ねられ、答えていくうち、何晏はニッコリし始めた。

「実はな。私は孔子を研究する学者なのだ。」

「ホントですか?学者先生なら本も沢山お持ちでしょうね。」

「当たり前だ。孔子だけではない。様々のジャンルの先人の書いた書籍がうなっておる。俺の書いた孔子の研究書も幾つもあるぞ。」

「エッ。本を出しておられるのですか?」・・うーん。門の外で出会った印象がえらく違ってきた。

「後で自慢の書庫に案内してやるから見てビックリするなよ。いまから食事でもしよう。と、そうだ。妻も紹介しておこう。」通りがかった夫人を呼び止めトシを紹介した。

「今、魏国と倭国の民間親善外交をしておるのだ。」

何晏夫人は「あら。お若い外交官でいらっしゃること。」と興味を示してきた。

「あなた。このお方はお若いんだから五石散を勧めちゃダメですよ。」

「五石散?」

「そのクスリはな。不老不死とまではいかんが、それに近い効果が見込める妙薬だ。飲むと、こう、体中が敏感になる。頭も冴えわたってくる。但し、身体に籠ったままだと毒になるのが厄介でな。身体から発散させるため歩く必要がある。まさにその時お前と会ったのだ。ホッホッホッ。ものは試し、飲んでみるか?」

五石散とは水晶など五種類の鉱物を調合したもので麻薬の効果があり、中毒するリスクもある。しかし、当時は神仙薬の一つとして体質改善・不老不死が謳われていた。

なお、散歩と言う言葉はこの事が語源。このクスリを使った後の、歩く必要性から出てきたのだっだ。

「ダメですよ。私はアヤシイ薬だと思っているんです。それなのにこの人は妙薬と言い触らして勧めまくっている。年寄ならともかく若い人にはダ・メ・デ・ス。」

夫人は倭国が女王国である事にもいたく関心を寄せた。

「その点、中国より進んでいるじゃありませんか。中国にも女王がいたって良いと思いますよ。冗談ですけど、私が魏の女王になったら、あなたは何と呼ばれるんでしょうね。ホホホ。」オッ、大胆な発言をする奥様だ。

「妻は曹操の娘でな。金郷公主というんだ。ワシも曹操の息子には違いないが養子だからな。実の娘にはとても敵わん。」

曹操の実子に養子?・・・何か大変な家に来てしまったようだ。

食事が終わり、「そろそろ書庫に案内するか。」と何晏が促した。

なんと図書館並の蔵書の量である。孔子、老子、自ら執筆した研究書と並んで目立つ場所に立派に飾られた書籍があった。

「これは、父曹操が書いた孫子の注釈本だ。」

曹操は孫子の研究書以外にも漢詩を沢山残していた。徐先生の講話では冷徹、非情、力任せのイメージだったが、曹操の子供に歓待を受けた今、そのイメージも少し変わっていく。

「これだけの本があるとは。時々、お邪魔して読ませていただいても宜しいですか?」「結構、結構。毎日にでも来て、好きなだけ読むと良い。屋敷の番人にはお前をフリーパスにするよう言って置く。」

何晏は帰りしな「市場で買い物をすると言ってたな。買うなら良い物を買えよ。」と小さな袋を渡してくれた。後で、開けてみると、そこには金や銀の塊が・・。神経質に見えた男は、うちとけてみると気の好いオジサンだった。


何晏の屋敷を出て、本来の目的地、市場に赴く。今日は買い求めるのではなく、あくまで下調べである。

まず、西側にある大市だが伊都国市場とは全然比較にならない賑わいだ。店舗面積も店舗数も品物の数も種類も人通りの多さもケタ違いもケタ違い。それも、どこまで行っても店が続いている。

さすが洛陽、さすが中国だ。衣服、陶器、工芸品、鉄や銅の金属製品。全てが目を見張るモノばかり。宝石店では玉(ぎょく)と呼ばれるヒスイに似た石が売られていた。大きく精緻な彫りの技術が素晴らしい。

しかし、石そのものから出るパワーは大将に作ってもらった、あの勾玉に軍配が上がると思われた。チクシへの土産は何が良かろうかと表通りをザッと見回るだけでもかなりの時間を要した。

裏通りに入ると日用品、食料品、飲食店の外、品質の劣る衣料品を売る小さな店や露店が並んでいる。ここにも人の波、波だ。

さらに路地に入ったところに骨董を扱うリサイクルショップを見つけた。ここなら安い掘り出し物があるかもしれない。

店内をグルリと巡ってはみたものの、余り惹かれるモノは無い。商品に埃をかぶっているものが多く、主人の眼つきも怪しい。買いたいモノがあっても吹っかけられそうだ。

唯一、気になったのは隅に大きな鉄くずや、ガラクタと一緒に無造作に置かれている薄汚れた羽(う)扇(せん)。

羽扇といえば孔明。こんなものを使っていたのか、と思いながら主人の顔を見た。

主人は「これは売り物じゃないヨ。今仕入れたばかりだから・・」こちらの顔を窺いながらダメの手振りをした。

ところが脈があると思ったか、欲に歪んだ笑いを浮かべて言い直す。

「なんだったら千文、いや八百文なら特別に譲ってもいいがね。」

その時、何時の間に背後にいたのか、汚れた身なりの男が言葉を発した。

「それらは盗品だろう。さっきおかしな連中がこの店にそれを持ち込み、何も持たずに出ていくところを俺は見てた。」

「何を言い出す。ヘンな言いがかりつけやがって。叩き出すぞ。」主人が怖い顔をして傍の棍棒(こんぼう)に手を伸ばした。

「場合によっちゃお上に投書してやってもいいんだがね。この店と盗賊シンジケートがつるんでいると。」

「なにを!」

主人が顔を紅潮させたところで「まま、まあ。ものは相談だ。盗品とわかって売るのは罪。盗品とわかって買うのも罪だ。だから俺が罪人になろうじゃないか。俺が買えばあんたと同じ罪人仲間。お互い、秘め事にして公にならない方を俺なら選ぶがね。」

「いくら出すんだ。」主人が計算するように男を見つめる。

「鉄くず含めた全部で二百文だね。」

「冗談じゃない。錆を取り、キレイに仕上げりゃ、売れる骨董品になるかも知れないのに。」

「話をややこしくするのか?」

「五百文出せ。」

「わかった。三百文だ。それで罪も買うんだ。決めなよ。」

「いまいましい奴らだ。お前等、グルで脅しやがって。」

だが、商談は成立したようだ。

男は金を投げ出し、羽扇と鉄くずを取り上げ、大きな麻袋に放り込んだ。

「オイ、引き揚げようぜ。」とトシの脇腹を突いて外に連れ出した。

いつのまにかグルにされてる訳だが、この場に残るのもマズイ。羽扇の事も気になって男の後を追う。

店から遠く離れ、東側の小市の裏通り、古ぼけた飲食街までやって来た。人けのないところで腰を下ろし、男はやはり切り出してきた。

「この羽扇、気になるだろ。こいつは汚いが値打ちモンだぜ。俺は孔明が使っていた代(しろ)物(もの)と踏んでいるんだが・・」と耳元で囁く。

博識老人に化身して、孔明に勉学を教えていた知恵の権化たる鷹がいた。その鷹が死ぬ前に、自分の羽で扇を作るよう孔明に遺言した。こいつは、まさにその羽扇なのだと男は言う。

「羽扇をくゆらせば名案が浮かぶ・・特別な御利益(ごりやく)があるんだよ。」ニタリとウインクした。

この男も高く売りつけようとしているのだ。

「孔明の物なら墓の中か諸葛(しょかつ)家の家宝として蜀にあるに決まっているだろう。」

「お前。追えば追うほど遠ざかる四輪車に座る孔明・・を知っているか?」

孔明は多数の影武者を使い、予め一定距離にそれぞれを配置、敵に近い孔明が見えなくなったところで、その先にいる孔明を敵に見せた。それを繰り返すと、敵の目には孔明が凄いスピードで遠ざかるように見える。鬼神と思わせるマジックだ。

「あの時、同じ羽扇の模造品を幾つも用意したんだ。これが孔明が手にしていたモノとは断定できんが、汚い手垢がついたのが本物、蜀にあるキレイな品が模造品ってことも考えられるんだぜ。」

羽扇をくゆらせ「コイツに何か感じないか?」トシの鼻先をくすぐる。

そう言われると何か引き寄せられる感じがする。それでもアヤシイアヤシイ。

「自分がそう思うんだったら、何で自分で使わない?名案が浮かぶんだろ?」

「ところがコレ、正しい心と志を持つ者でなければ効果が得られないのだ。孔明みたいにな・・。生憎と、俺は邪心が多くてな・・」

自分の事を邪心があるとは正直な事をいう。ただ、これを買ったとしてだ。効果が無ければお前の志が薄かった、正しい心の持ち主になるまで修行する事だ・・とケムにまくような弁解をしそうな気がする。

「そうやって作り話で高く売りつけるつもりだろ?」

「俺が欲しいのはこの鉄くず。錆びた剣だろうが、磨くとスゴそうだ。だから四百文でいいよ。さっき払った三百文にこれから食うメシ代百文。」

こいつはタダで鉄くずとメシを手に入れようとしているのだ。

が、作り話をするにしては良心的?な値段を言う。孔明のお宝が四百文とは安すぎる。こいつも由緒あるモノとは信じてないのだ。ヤッパリ。しかしこの値段なら・・。

「お前、八百文で迷っていただろ。半額にしてやったんだぜ。」

中国に来た記念品として自分用の土産にしよう、と考えたトシの思いを見透かしたように「商談成立。一緒にメシ食おう。」トシの肩を叩き、或る店に入った。 


「ところでお前の国は女王国だそうだな。」

急に言葉を突きつけられて「どうしてそれを?」と危うく食べたものを、咽喉に詰まらせそうになる。

「お前が何晏と会った時、その会話を聞いていたんだ。」

あの場面に、この男がいたんだろうか?

そういえば、人影がいたような、いないような・・改めて男の顔を見る。

奇妙な顔立ち。ケモノ、そう、猿顔なのだ。警戒心が湧き上がる中、男はわけのわからん話を持ち出してきた。

「クレオパトラのような女王か?」

「クレオパトラ・・」

「エジプトの女王でな。三百年前の絶世の美女と言われる女王さ。」

「エジプト?」

男は食事の器と食べ物を地図に見立てて並べ、ここが魏。ここがローマ、ここがエジプトと説明する。

ローマという新しい地名も登場させた。

ローマ帝国がエジプトに進攻した折、クレオパトラは国を守る為、その美貌と色仕掛けでローマの将軍を次々籠絡(ろうらく)したと言う。最後は、それが叶わず毒蛇に身を咬ませて自害したと・・。

トシは中国より西があるなど夢にも思わなかったのでビックリ仰天。事実なら世界は驚くべき広さだ。

地図で示されたローマ帝国は魏・呉・蜀を合わせた中国より大きいように見えた。

「ウソでしょ。」

「嘘?市場を見て廻ったんじゃないのか?駱駝を連れてターバン巻いた商人が一人や二人は居たハズだ。そいつらは中国の絹を買っては西に戻って交易で儲けているんだぞ。」

確かに洛陽には倭国では想像もつかない異民族が行きかっていた。

「そのローマとかエジプトには実際に、行かれた事があるんですか?」

「ローマには行った。その話聞きたいか?」

「ハイ。」

「俺の先祖。といっても何百年も昔の話だが、西方に旅立って行方不明になったという言い伝えがあった。その先祖は乱暴者だが特殊な能力を持っていたと云う。俺も西に行けば何か痕跡や手がかりが見つかるかもと思って旅に出た・・・」

男の旅の話はこうだった。

中国の西の果て、レイケン城という国境警備隊の居る所までやってきたが、何の手掛かりも得られない。しかし、そこで出会った人々はなんと青い眼の中国人だったんだ。付近の村には髪の毛が赤や金色の者がいて、これもビックリ。

聞くと祖先はローマの軍人ではるか西にいたところを匈奴の連中の捕虜になった。後の漢代の頃、中国の警備兵として雇われ、ここに定住するに至ったという。そこでローマという名前を初めて知ったという。連中も祖先が住み始めたのは三百年前というからローマについて聞いても何もわからない。こうなったらご先祖様よりローマ人はどんな奴か、どんな国かと、行ってみたいと考えた。

「関所は通れたのですか?」金色の髪など作り話にしても奇抜な発想だ。

「ほら、ターバン巻いた商人がいるだろ。商隊の一員となって、駱駝と共にペルシャの市場に、そこからローマに向かう商隊に潜り込んで目的地に着いたんだ。」

道はなく、見渡す限り砂漠が広がっていて、炎天を避け夜に移動すると言う。全く想像が出来ない・・・砂といえば、倭国にはせいぜい海に面した砂浜しかないのだ。


「ローマってどんな所?」面白ついでに作り話に付き合うことにした。

男によるとローマには壮大な建物が幾つもある。土木・建設技術は中国を上回り、洛陽を上回る大きな建物があるのだ。

ローマにも皇帝が居るが、多くの建物は皇帝の為のものではなく市民の為のものという。

そんな国があるのかと、トシにも興味が湧く話である。

市民が元老院議員を選び、元老院が皇帝を選ぶ。選挙権がある市民に人気がないと政権の座が危なくなるから市民への人気取り政策が必要だ。

コロッセウムという闘技場や劇場、公衆浴場がアチコチにある。穀物から作ったパンという食べ物も市民に無償で配給されるというのだ。

エッ?一般の民衆には食料が保証され、遊ぶ施設が提供される?おまけに、徐福の湯のような温泉三昧に日々を送るとは?夢みたいな話だ。

「カラクリはあるさ。奴隷制度と属国による朝貢品がその経済を支えているのだ。もっとも、他国を侵略する事で成り立つ仕組みだから、限界はあるな。侵略の自転車操業が止まればコケて当然。侵略対象が少なくなり、むしろ帝国防衛コストが嵩んで、もう翳りが見えてきている・・」ただ、面白いのは侵略して属国をイジメるだけでは無い仕組みもある事。デキル人間はローマ市民になれるのだ。

支配された地域からもローマ市民に抜擢され、皇帝になる者もいるという。そんなことがと、信じられない話に、つい引き込まれる。

「何でそんなローマに居続けず、帰国されたのですか?」

「人間が傲慢なのだ。欲望に忠実と言えばそうだが、恥も無ければ高貴な思想もない。人間同士に殺し合いさせたり猛獣と戦わせたり、それをショーにしている。中国も自己中だがローマも自己中心的だな。」

「殺し合いのショーですか?」

「ああ。皆が熱狂して観てる。民主主義の発想、技術力は面白いが、知恵をコントロールする文化が無いのは残念だ。これでは遠からず衰退の道を辿るだろう。だから、他の文化を探究しようとローマを去ったということさ。」

ヘンな国だが、それでも夢みたいなところもある国だ。何かいい所があるだろう。

「それでも、取り入れたい文化はあったでしょう。」

「図書館でむさぼり読んだギリシャ哲学かな。向うにも中国でいう諸子百家が居て、色んな事を考えている。それに浴場と水洗トイレだな。浴場は心地良いし、用を足した時に下水道の水が汚物を流してくれて清潔だ。後はローマの食事。海が近く鯛のマリネは絶品だ。洛陽では食えないからな。うーむ。喋っているともう一度食べたくなってきた。」

「鯛なら倭国にはドッサリいますよ。」

「倭国は海に面しているのか。鯛が食べれるんだな。」と想像を働かせている様子。

「おっと。俺の最初の質問に答えてないぞ。」

そういえば、男の質問は女王が美女かというものだった。

トシはチクシの祖母の巫女頭を思い浮かべた。

とても色仕掛けで男を惑わすタイプではない。むしろ刺すような視線で萎縮させるタイプだった。そんなおばあ様が仕える卑弥呼。輪をかけた老婆に違いない。少なくともニッコリ愛想は想像出来なかった。

「倭国では女王卑弥呼を見た者は殆ど皆無です。私もみた事は有りません。高齢者につきクレオパトラとは似ても似つかないでしょう。」

「ふむ。人前で演説したり、パレードする事はないのか?」

「考えられません。」

「若い頃は美人だったのだろう?」あくまで美人に拘る奴だ。まあしかし、ミクモ姫と血縁関係があるのだから美人じゃなかったとも言い切れない。

「ひょっとしたらそうかも知れません。が、見た人が居ない以上何とも・・」

「じゃあ行って確かめるしかないな。久し振りに鯛も食べタイし・・。お前が帰国する時連れていってくれ。」

「できっこないでしょう。こっちは正式な外交団だし、第一、あなたの名前すら判ってない。」

「俺はソンゴエン。皆はおれのサル顔を見て孫猿と言うがな。孫円か孫縁と言って貰いたい。」

「私はトシと言う。」

「また会おう。」とソンエンは町の中に消えて行った。つくづくヘンな奴だ。


 それから数日後。再び大鴻臚の係官が顔を見せた。何故か疲労困憊の様子である。

「現在、宮殿内はゴタゴタしております。お待たせして申し訳御座いません。帝の体調の改善が見られず、むしろだんだん弱られていく一方なので、我々も心配しているところなのです。」

「私共はどうなりますか。謁見予定はキャンセルになるんでしょうか?」

「既に貴国の朝貢に対する詔書は下されています。ただ、肝心の天子様の容態が回復しなければ謁見の予定が立ちません。その場合代理の者が詔書を読み上げる事になるでしょう。ま、ここ一週間程様子を見て下さい。」

難升米とトシは顔を見合わせたが如何ともし難い。

「判りました。何か進展があればご連絡下さい。」と答えるしかなかった。

「朝貢に対して何の返礼も無いならともかく、詔書が既に発行されておれば、我々の役目に問題は無いと思われます。」トシの言葉に難升米も安心はしたようだった。

「今回、想定外の連続じゃな。ま、待たされる間は洛陽を堪能しよう。お前も町に出かけて学んで来い。」


 トシにとって時間潰しは何晏宅である。

書庫を見て、良い書物があればメモして市場の本屋で買って帰ろうとせっせと通った。門番も顔を覚えていてくれてフリーパス。いい人に出会ったものだ。

或る日。書庫で書物を漁っていると隣の客間から話声が聞こえてくる。それは驚くべき内容だった。

「聞いてるか?曹叡様はもうダメだって。」

「ダメ?」

「もうご自身で判断する力を失っているそうだ。」

「ほう、病状はそこまで悪化しているのか?」

「ああ。側近の言いなりだって。」

「側近と云うと孫資殿か劉放殿?」

「いや、曹一族が、次の帝の後見人選びで攻勢をかけているらしい。」

「次の帝というと太子の曹芳様のことか。八歳の少年だからな。後見人がいる訳だ。」

「秦朗や曹筆、夏候献らが後見人は燕王の曹宇殿が最適と、口を揃えて曹叡様に推薦しているそうだ。」

「曹字殿は人格者だし、曹操様が後継にと期待をかけながら夭折した俊才、曹沖の全弟でいらっしゃる。・・。しかし待てよ。今、曹叡様を支えておられるのは司馬懿殿と曹爽殿ではないのか?」

「司馬懿をこれ以上のさばらせては魏が乗っ取られると心配した曹一族が自分達の新体制を作るチャンスと動き始めたのだ。」

「曹操様は司馬懿には狼顧(ろうこ)の相がある。臣下で満足する輩ではない。乗っ取られぬよう警戒せよと息子の曹丕に言い残したと言うのは有名なウワサだ。その為、司馬懿は何回も、曹叡様にも一度、遠ざけられた過去がある。」

「蜀や呉の脅威を考えれば司馬懿の能力は不可欠。しかし、曹一派は公孫が滅んで、司馬懿の役目は終わったと考えたんだ。むしろ戦地から戻っていない今がチャンス。宮廷を固めて、戻った時には隠居いただく算段だ。曹一派の動きはその戦略に沿った動きをしているのだ。勿論、そうなれば孫資や劉放の側近も排除するだろう。曹叡様が帝の座を譲られる機会を利用した、身内によるクーデターだな。これは。」

「ヒャー。そんな動きが・・。」

「怖い噂もあるぞ。聞くか?」

「何だ?」

「曹叡様は毒を盛られている・・。とのウワサ。あれだけ賢明だった帝が短期間に判断力を失うに至ったのはどう見てもヘンだ。謎は誰が何の目的で毒を盛ったかだ。」

「そういう事ならタタリのせいかな。あの毛皇后の亡霊が・・。」

曹叡は昨年237年9月、母丘倹が公孫討伐に失敗してイラついていた。そのせいか、皇帝になる前から寵愛していた皇后に手を掛けた。郭夫人に愛情が移り、その事を嫉妬した皇后に激怒、お付の女官達ごと縊(くび)り殺したのだった。

「毛皇后の息がかかった者が恨みを晴らす為に・・というのが第一の説。」

「しかし公孫滅亡のこの時期に急に弱られたのは何故か?との疑問が残るがな・・。」

「そうだ。第二の説は先の曹一派が毒を盛ったとの説。クーデターを起こすには今しかない、司馬懿が凱旋する前の・・との計算がある。新皇帝擁立を急がねばならないのだ。廷臣達が、諫言に耳を貸さぬ曹叡への不支持を口に出し始めたのも大きな背景だ。それで自分達に都合のいい新皇帝、その後見人を担ごうと画策する動機がある。」

「第三の説は司馬懿の一派。曹叡殿は何と言っても先を読む力がある。操り人形にはなり難い。幼帝を迎えれば司馬懿は更に力を蓄えることが出来る。」

「うむ。第二説がちょっとだけ有利かな?」

「まだある。第四の説が曹爽一派だ。」

「チョット待てよ、曹爽も曹一族だろうに。」

「曹一族のリーダーは曹字殿だ。この方が後見役から外れれば、候補は曹爽、司馬懿に絞られる。曹字殿がはずれた段階で、曹一族の支援を取り付ければ曹爽殿に天下が転がり込む。そう計算してもおかしくない。」

「そうか。曹爽殿の側近には丁謐(ていしつ)、鄧颺(とうよう)、晃軌、季勝の面々が揃っているからなあ。いずれ劣らぬ策士集団だ。」

「ハハハ」

「ちょっと待て。曹爽一派の中には、ここの何晏様もいるぞ。あの人は策士じゃないがな。ここで話するのは憚(はばか)られる。」

「ハハハ、そうだった。」

「いずれにしろ宮廷には魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)が跋扈(ばっこ)しておるなあ。」

「違いない。魏の先行き、見極めが肝要だなあ。我々にとっても・・」


 トシはうめいた。魏は安定した大国と思っていたが、真偽は別に、こんなウワサが飛び交っているとは・・・。大国の権力中枢には想像以上のモノがうごめいている・・。 


 気を取り直して書庫をチェックする最中に何晏が戻ってきた。

「おう都市牛利殿。来ておったか。ワシの部屋に来てくれんか」何晏と共に居間に座った。「曹叡が弱っているそうだ。知ってるか?」

「ハイ。我々との謁見予定が延び延びになって心配しているところです。早く回復なさると良いのですが・・。」

「詔書は用意されてる筈なのだが。」

「既に下りていると聞きました。」

「それなら心配ない。誰かが代読すれば良いだけの事だ。」ホォーホッホと笑い出した。

「曹叡め。バチが当たったのだ。」

「そんな言い方されて良いのですか?」

「俺は曹叡に干されていたのだ。少しは悪口を言ってよかろう。そなたは告げ口する輩とは違うし、外国人だ。他にこういう事を言える相手はいないのだから付き合ってくれよ。」「ハァ。」

「あいつは俺の事をうわべだけの中味のない人間と評しよった。」

「ハァ。」

「だが自分はどうだ。宮殿造営に血道をあげて国家の金庫はカラッポ。不足分を民から巻き上げていてばかりでは国は滅び、民は飢え、苦しむ。」

徐先生も同じ思いで魏に見切りをつけた・・と阮籍殿が言ってた事を思い出した。

「㝢は戦争を止め、宮殿造営を中止して、行政を簡素化した。農耕を盛んにして国を富ませた。曹叡は真逆の策を採っている。」

「あいつはケインジアンを自認し、公共事業は景気浮揚を生むと唱えるだけだ。不要な経費が国政の足かせになる事に目をつむっている。」

「儒教を弾圧した始皇帝に自分を重ねている。魏の阿房宮を作ろうとしているのだ。」何晏の熱弁が続き・・ああスッキリした、と息を入れた。

トシは思う。この人はヘンな人だが、吐きだしてスッキリするだけの人だ。魑魅魍魎の策士でない事が救いだった。

それにしても、中国の政権中枢には恐ろしい魔物が住み着いている。見習うべき事とそうでない事を見分ける必要がありそうだ。一大率で中国を学んでいた時には文化レベルから見習うべき第一等国と考えていたが、どうもそうでない部分もあるようだ。


それから数日して曹叡による謁見が絶望との最終判断が下り、代わりに鴻臚卿による天子詔書の代読の儀式が行われた。

「親魏倭王の卑弥呼に詔書を下す・・・・」「皇帝が汝らに深く心を注いでいる事を知らしめる為・・・汝に良き品々を下賜(かし)するのである。」

卑弥呼には金印紫綬が授けられ、朝貢の見返りの品に加えて絹、錦の布地多数、金塊、刀剣、真珠、鉛丹の外、銅鏡が百枚も与えられることになった。

この下賜品の多さは異例な事である。授ける相手が、当時珍しい女王である事、司馬懿の添え状に応えるイミがあったのだろう。

それにも増して、トシがビックリしたのは自分にも中国の官位が与えられた事だった。大夫の難升米が率(そつ)善(ぜん)中郎将になり、銀印青綬が与えられたのは当然だが、自分にも率善校尉の位が授けられ、銀印青綬を与えられたのだ。

二人は与えられた銀印青綬を身に着け、宴席に臨むことになる。

これは服の腰部分に巻き付け、自分の身分を明らかにしながら歩くもの。宮中において周囲の者が一目でその位が判るようにする為だ。自分が難升米と同色の帯というのは如何(いかが)なものか・・。

「いかにも畏れ多いのですが・・。」難升米に気を使いチラリと視線を向ける。

「まあそうだが、向うが勝手に決めた事だからな。仕方あるまい。」やや不服そうに返した。

係官に聞くと、中国の軍制で将は千六百―三千二百を束ねる。校尉は八百人を指揮する大隊長の立場になる。難升米は相応だが、自分は明らかな身分違い。

ヤマタイの新入社員が中国で破格の出世となった訳だ。

「私如きが、大それた官位を頂戴していいものでしょうか?」

「ウム。良くない。が、辞退する訳にもいくまい。成り行きとはいえ、困った事になった。後で考えるしかないな。」


「思いもよらず多数の下賜品を頂く事になり恐縮しております。我が国の女王卑弥呼も感激致すことでしょう。誠に有難う御座います。」宴で難升米が感謝の意を表した。

鴻臚卿も「本来は、ここに多数の高官が列席して歓待すべきところです。天子様の容態がすぐれぬゆえ、宮殿内が落ち着きません。こちらこそ失礼をお詫びする言葉もありませぬ。」と返した。

宴が進み、卿が帰途のスケジュールに言及してきた。

「難升米殿に相談ですが、副使の方を暫く洛陽にとどめておく事は可能ですかな?」

理由は卑弥呼への下賜品がすぐに整わず、特に百枚の銅鏡が出来上がるのに時間がかなり掛かる見通しという。

「副使殿が残る事が出来れば、難升米殿をすぐに帯方郡までお送りできます。そうでなければお二方とも、品々が出来上るまで洛陽でお待ち頂く事になりますが・・。」

難升米は二者択一を考えた。この半年の中国滞在でカタコトの日常会話は出来るようになっている。トシがいなくても帰路の旅に大きな支障はなかろう・・。

「私には国元の仕事が有りますので、なるべく早く帰る必要が御座います。副使をこちらに滞在させることにしますので、その間貴国の文化、政務等を学ばせてやっていただけませんか?一年帰国が遅れることになっても構いません。」

「そうですか。そう言っていただいて有難う御座います。職人に時間をかけても良いモノを作るよう指示しておきましょう。」

「それと、難升米殿にはお国に持ち帰られる土産類が必要でしょう。率善中郎将の官位に見合った俸給を用意させますので、市場にて気に入った物を手当されたら宜しいでしょう。」

トシの洛陽滞在延長、難升米の早期帰国が決まった。


難升米の洛陽最後の夜。トシを呼んで二人だけのお別れ会を催した。

「倭国の米が食べたいのう。」

「そうですねえ。」

黄河流域の中国内陸部では米のある食卓にはありつけなかった。穀物といえば粟や稗、麦などの粉ものだった。

「俺はもうすぐ食べられようが、お前は一年待たされることになる。辛抱してくれな。」いつものおどけた調子ではなく真顔で難升米が切り出した。

「おぬしが倭国に戻った時の事だが・・」

「ハイ。」

「処遇の事だ。魏から率善校尉の官位を授かったからにはヤマタイ国内でもそれなりの地位につけねばならなくなる。」

「その事なら、以前に話しました通り、いかなる処遇でも構いません。チョッピリ期待はしますが、あくまで方便としての仮の副使。校尉の位は中国だけの事と存じております。」

「俺もそう考えていたのだが、魏の正式の官位を受けたとなれば、もはや形だけの副使と言えなくなった。俺の責任で副使にしたのだから、ヤマタイに戻れば何が何でもお前をそれなりの地位に取り立てるよう働きかけるまでだが、問題はその後だ。」

「はあ。」

「貴人の家柄でもない者が異例の出世を遂げると大変だ。やっかみだけでなく引きずりおろしたり、窮地に追い込もうと画策する輩が出てきたりする。未だ、ヤマタイの行政組織にうといお前だ。上手く対応出来なければ、追い込まれて将来を失くす。」

確かにそうだろう。

「お前が帰国して処世して行く方法は一つ。洛陽で出来る限り学ぶことだ。倭国に持ち帰れそうな技術や行政ノウハウを叩き込んでおけ。まあ、まずは俺の配下として軍の事務を担当してもらうことになるだろう。俺が後ろ盾になれば、なんとかなるだろう。」

「有難う御座います。」

難升米が親身になって心配してくれているのが嬉しかった。

難升米は酒を注ぎ、笑顔を見せ始めた。

「まあ、用心は必要だが、前向きに考える事の方がもっと大事だ。俺たちは仲間。今回の外交成果で手にしたのは品物だけではなくて俺たちの運だ。俺は運を取り戻し引退の時期は延びた。お前は運を手に入れ飛躍のチャンスを得た。運は最大限活用しないと手にした運に申し訳ないのだ。用心を怠らずに利用すべき時だぞ。」フーッと飲み干して、難升米の目がキラリと光る。

「俺はヤマタイ連合国を解体し、中央集権の強いヤマタイ国に作り替える。」

「ハイ。」

「お前は洛陽で中央集権の仕組みを学び、倭国に合った体制作りを考えろ。」威勢が良くなってきた。

「そして、狗奴国を撃破し東方の倭国も組み込んで名実共にヤマタイを全倭統一国といたすのだ。」狗奴国撃破は違和感があるが、統一国家を作るの事自体は必要な事だ。

「それでは、統一国家の大将軍難升米様、私は鴻臚卿になりますので未来に乾杯といきますか。」

「おう。ただ中央集権体制には反対論者が多いのだ。奴国や伊都国、ヤマタイ本部にも今の体制にしがみつく保守派の輩が多い。どうしたらこの壁を突き崩せるかだな・・」難升米様は本気で考えているようだ。


難升米は警護の兵と共に帯方郡経由、ヤマタイ目指して出発した。難升米は自分用に魏の武具一式、土産用に中国製の靴、倭国にはない堅く締まった陶器、妻や愛人向けのアクセサリーを買い込んでいた。

トシは阮籍から届けられた徐先生に渡す書籍も難升米に預けた。無事の旅を祈った。もうすぐ年号が変わる年の暮れである。


時間を少し巻き戻す。

倭国朝貢団への授与式が行われる前。洛陽の宮殿ではいろんな動きが渦巻いていた。

曹叡亡き後を想定した、幼帝の後見人選びが二転、三転する。

当初、曹叡は曹字に後見役を依頼していた。当然、曹字は断る。それが古来からの礼儀であり、直ぐに受諾すればあらぬ疑いを持たれるからである。二度目の依頼を断った時点で曹叡は側近に相談した。孫資と劉放である。

この二人は公孫討伐時、他の廷臣達が慎重策を唱えた中で曹叡の意見を支持、遼東平定に貢献したとして侍中、光緑大夫に昇進していた。

ところで劉放は、相談を受けるのに先立ち、丁謐(ていしつ)からこんな話を聞かされていた。

「曹筆や秦郎に気を付けなされ。彼らは曹字殿をかつぎあげて宮廷の中枢を我がものにしようとたくらんでいる。曹叡殿が宮殿造営を強行し、国を疲弊させた。その責任を側近のお二人に負わせるつもりですぞ。帝が亡くなられた時には身の安全を図るべきでしょう。」

それを聞かされた劉放は孫資に耳打ちする。

「後見役としては曹字殿は適任でしょうが、取り巻きが危ない。宮廷が彼等の手中に入れば、我等は罪をきせられて放逐されるか、悪くするとコレモンですぞ。ここは我々に近い曹爽殿を推した方が良いかと・・」クビに手を当てられて、この話を吹き込まれると孫資も身構えざるを得ない。

「しかし、曹爽では能力的に心配なところがある。魏の運営を安心して任せられるかな?」

「そんな事を言っている場合ではないでしょう。我々の命運が掛かっているのですぞ。曹爽の足らないところは司馬懿に補うようさせれば宜しい。」

「司馬懿は野心家だぞ。」

「司馬懿も既に年です。野心家でも老いには勝てますまい。それより我等もはや六十代半ば。ここを乗り切って天寿を全うする事を図りましょう。」


曹叡は孫資と劉放に問うた「こ、後見役を叔父が承知してくれぬ。どうしたらよいものか?」

「曹字殿は自らの不才を知り、仰せをお断りになっておられるのでしょう。」「だが、ほかに誰がいる。誰か適任者がいるかな?」

「ここは曹爽殿をおいて他におられませんでしょう。今現在、陛下の体制を助けられているのですから。」

「そ、曹爽か。ちと不安があるが・・」

「足らぬ所は司馬懿に補佐させれば宜しいでしょう。」

「そうか、司馬懿がバックアップすればなんとかなるか。」

「曹爽殿を用いるなら、曹字殿を洛陽から本国へ帰らせた後でなければなりません。」「そ、そうか。わかった。」と一件落着にしたかに見えた。


しかし、その直後に曹字派の巻き返しが起きる。

曹筆らが曹叡の寝室に入り込み「やはり曹字殿にお願いすべし」と懇願し「曹爽では力不足、曹字殿のもとで修行させてからになさいませ」と説得した。

皆が野心家の司馬懿を中枢に入れるのは太祖曹操様の遺言に反します・・と脅すと、判断力が弱まっていた曹叡は、その言葉に肯いた。

孫資と劉放を再び呼び「司馬懿を呼ぶのは待て」と心変わりしたのだ。

慌てた二人は最後の手段に出た。

「お気を確かに」と既に用意していた詔勅に曹叡の手を介添えしながらサインさせたのだ。

その詔勅には曹字一派を免官させる旨も書かれてあった。さらに二人は曹叡の寝室まわりの通路をブロック、一派が近づけないように計らった。

その後、詔勅を公開、曹字・曹筆・秦郎・夏貢献の免官と郷里への即時帰国を言い渡したのである。

一方、二人は曹爽を宮殿に呼び寄せ、曹叡に謁見させた。曹爽は大役を受ける緊張から萎縮した様子を見せたが、劉放はすかさず曹爽の足を踏みつけた。

先に言い含めた如く「お受けなされ」と促し、ようやく後見人問題は決着をみたのである。かくして司馬懿を召し出す伝令が走ることになった。


正月。詔をいただき、司馬懿が洛陽に到着した。

これより先、曹叡は「西方の関中の情勢が不穏につき都に立ち寄らず向かうように」との詔書を司馬懿宛てに送っていた。曹字一派が進言し、そのような詔書をしたためさせたのだ。それが「直ぐに参内せよ」との詔書に変わった。「何かある」司馬懿は馬を走らせ、予定より早く到着したのだ。

曹叡は郭皇后、太子の斉王・曹(そう)芳(ほう)、大将軍となった曹爽(そうそう)や孫資、劉放らを枕元に呼び、司馬懿の手を取った。

「もう会えぬと思っていたが、このまま死んでは死にきれぬと待っていた。後事を託したい。曹爽と共にこの幼い太子を補佐して盛り立ててくれ。こうしておぬしと会えたからにはもはや思い残す事はない。」と曹芳を傍に呼ぶ。

「司馬(しば)仲(ちゅう)達(たつ)のことをワシと同じく敬うように。」と諭した。曹芳はそのまま司馬懿に抱き着いたまま離れなかった。

「この子を見守り、間違いないようにしてくれ。」と太子を指差したまま曹叡はこと切れた。司馬懿はひれ伏し、涙に咽(むせ)た。嘉福殿にて崩御。齢三十六歳、位にあること十三年の皇帝の最後だった。曹叡は明帝との称号を贈られた。


これらの知らせは何晏宅にも届けられた。何晏は曹爽と親しくしていたからである。

曹叡の事はあれだけ悪口を言ってたにも拘わらず、その死を深く悼んだ。

ただ、秦郎の免官のニュースには小躍りして喜んだ。何晏と秦郎、二人は同じく曹操の妾の連れ子でありながら共に養子として育つという、境遇が同じライバルだった。無能で媚びへつらう事で明帝に愛された秦郎、才能はあるが中味がないと遠ざけられた何晏。二人の人生が逆転したのだ。

「これは運が巡って来そうだ。」トシは聞かなくてもいい話に付き合わされる事になりそうだった。

難升米が帰国の旅立ちの後、トシは、将来、帯方郡で韓半島・倭国を担当する事になるであろう若い官吏に倭語を教えながら、魏の政治体制や文化を学んでいた。

ヒマな時は何晏宅に行き、書籍をめくるのを楽しみにしている。


その日も何晏宅に立ち寄ると、顔見知りになった門番が「この頃は連日お出かけで忙しくしておられます。何か若返ったようにキビキビされて別人かと思いますよ。」と話かけてくる。

いつものように書庫に行くと、一人の男の子、年の頃十一―二才が熱心に書物を読み耽っている。少年の目の前の書籍が閉じられ、一段落したようなので話かけてみることにした。

「よく来るの?」

「はい、一週間前から毎日数時間、ここで勉強する事にしました。」「名前は?」「王(おう)弼(ひつ)と言います」

「何を読んでいるの?」

「私は老子が好きなのですが、孔子は官吏になって出世する為には必須項目ですから、孔子を読んでいます。ここの何晏先生は孔子の専門家で蔵書が揃っていますから。」

「若いのに偉いねえ。でも孔子は難しくない?」少年は何を聞いているんだという目付きになった。

「あのー。あなたに時間があるなら、この書籍を全部覚えられたか確認したいのですけど、手伝ってもらえますか?」

王弼が暗誦し、トシが本を見ながら間違いをチェックする。ところがビックリ。間違える事無くスラスラ・・というよりトシが目で追う以上のスピードで暗誦するのだ。

「もっとゆっくり言葉を出してもらいたい。」と頼むと「それなら結構です。」と言い捨てる。

「スゴイね。今迄は全部正解だったよ。この本何回読んだの?」

「今、初めてですよ。」面倒臭そうに答えた。スゴク可愛げの無い奴だ。だが、この子の頭の構造はどうなっているのだ?

呆気に取られている時、何晏がヒョッコリ顔を出した。パリッとした身なりはこれまでの先生とは大違い。「おや、トシ。来てたのか。王弼も熱心だな。そうだ、トシに話があるんだ。」と別室に誘われた。

「やはり、運が巡って来た。ようやく俺が持つべき、本来の官位を貰えそうだ.」おめでとうございますと応じると、払子(ほっす)を振り振り喋りだす。

「それでな。任官採用の権限を持つ事になりそうだ。人事責任者に。」ニンマリ笑った。

「お前は登竜門という言葉を存じておるかな?黄河上流にある滝を、鯉が逆登る事が出来ると龍に化身するという。ワシはその登竜門になるのだ。・・言いたい事が判るかな。即ち、ワシに認められると立身出世が約束されたも同然なのだ。フォーホッホ。」

「はあ。」

「トシ。中国は懐が大きい国だ。優秀な者は異国の者でも官僚として取り立てる。お前、この魏で仕事をして、中国の全てを学ぼうという気持ちはないか?この何晏という登竜門をくぐってみんかな?」トシに魏の官僚になれと勧めているのだ。

「とんでもない。私は倭国の外交団の一員です。明帝が下賜された品々が整い次第、持ち帰る役目がありますので・・」

「そんな事はワシが掛け合えば何とでもなる。挑戦する気にならんかのう。」

トシは先の少年の頭脳に度肝を抜かれたばかり。あのような人材が中国にはおそらくゴロゴロしているのだ。その中で揉まれるなど、とても出来そうにない。ここは笑いで誤魔化すしかない。

「冗談にでもお誘いいただき光栄で御座います。学びたい気持ちはありますが、それは中国の文化を倭国に持ち帰って役立たせたいからです。こちらで仕事など思いもよらぬ事。それに、そんな実力は持ち合わせておりません・・ご勘弁下さい。」というのが精一杯だった。

「ただ、何晏先生にお願いしたい件があります。」

倭国にはない公共事業の技術を学びたい事を伝え、協力を依頼した。また、難升米から与えられた宿題、中央集権に関する情報を得たいとの要望を申し出、アドバイスを求めた。

「おう、それなら管轄の役所を紹介しよう。工事現場を実際に見て学ぶが良かろう。それから中央集権に関しては秦帝国や前漢あたりの歴史書を見る事だな。例えば、司馬遷の史記を見るがいい。」

それを聞いて図書室に赴き、史記を探した。全百三十巻の大著である。早速、数巻を借り受け、帰ることにした。

その帰り。トシは倭国にもあの少年のような頭脳を持つ者が何処かに隠れているのでは?と思った。

倭国統一がなれば全国の優秀な人材を発掘する制度を作らねばならない。

たとえ、それで育った彼らが、自分を追い越し、自分がはじかれることになっても・・。対外勢力と伍して行くには軍事力のみならず学問や文化・技術の面も強化していかねばならないだろう。


その後、何晏の口利きで担当官を紹介してもらい、洛陽周辺の工事現場を見学したり、歴史書を読み漁って、日々を過ごした。歴史書を読むと、中央集権に関するヒントが得られた。特に、高祖劉邦の手で漢帝国が成立した以降の統治過程は興味をそそられた。


漢は秦のガチガチの中央集権に抗した勢力を結集して政権を奪取した国家である。秦打倒に協力した諸侯や、功績を挙げた重臣達に領土を与え、秦とは異なるゆるやかな支配体制でスタートしたハズ。それが何時の間にか劉一族による中央集権に変貌していったのは何故か?どこに秘密があるのか?

漢王朝が、手掛けたのは建国にあたっての中枢で活躍した側近や功臣達の粛清。まずは、将軍職や参謀としてヤリ手だった韓信がターゲットになった。

韓信は謀反の嫌疑をかけられ、先人の諺を引用して「狡兎死して走狗煮られる。」と憤慨した。獲物のウサギを獲りつくせば、頑張ったはずの猟犬は、もはや不要、簡単に捨てられるとの例えだ。それ以降、理由を見つけては功臣達を次々に殺して、後には劉一族を王にあてたのである。

更に諸侯の領土の分割も狙った。相続が発生すれば長兄だけでなく弟達にも分け与えて国を細分化していく。世代が代われば、親族同士、お互いがライバルになる関係ができるよう、誘導する。結果的に帝国の基盤が固まり、対抗出来るだけの大国がなくなるように仕向けた巧妙な政策だった。このやり方は、倭国を中央集権化するにあたっても、使えると思えた。

中国の歴史書は面白い。特に、歴史家、司馬遷は同じ漢の世を生きながら、劉王家のスキャンダルを、臆することなく記録する、漢王朝の視点・視線より、事実を大切にするのだ。

例えば高祖の妻呂太后。高祖が亡くなるや、かねてから因縁関係のある高祖の愛妾、戚夫人を抹殺する。それも、手足を切断するだけでなく、眼も耳も声も潰して便所に置き、「人豚」と呼ばせたというからオソロシイ。夫を皇帝にのしあげたヤリ手の女傑でもあったが、実権を握るとえげつない悪女と変貌した。自ら後見をしていた幼い皇帝も暗殺、その悪魔の所業は枚挙にいとまがない。それを漢代に書き記す度胸は、素晴らしいとしか言いようがない。


かくして、月日が過ぎ、トシに帰国の時が迫ってきた。もうすぐ明帝崩御から一年。喪があけると、新皇帝曹芳の即位を、改めてお披露目するお祝いのパレードが行われる。それに参列した後、洛陽をたち、帯方郡経由で倭国に戻る段取りになった。

帰国を前に、その準備を済ませておかねばならない。何晏殿と阮籍先生には挨拶に伺う必要がある。が、何晏は人事責任者になってからというもの、忙しくて顔を合わせる事も少なく、ましてや話を交わす事も稀であった。面会のアポと取らねばなるまい・・。それから阮籍先生・・。そういえば先生に勧められていた、白馬寺に行きそびれていた。・・のを思い出す。

何晏宅に行くと、表門にはいつものように行列ができていた。猟官の為、何晏に取入ろうとの考えを持って、手土産とみられる包みを持った人たちの群れ・・。

権限を持つと、蜜に集まるアリのように、人々がそこに行列する。列の順番を巡っていさかいも起こって騒がしいことこのうえない。

そこで裏門の門番に面会のアポを依頼した。そこにも何やら運び込まれた荷物が積まれている。

「人の世はゲンキンなもの。もう倉庫も一杯になってね。権力のもつ凄さ、いや有難さがよくわかるよ。」と、ニッと笑った。以前の、来客も少なく手持無沙汰だった頃が懐かしいねえ・・・。

さあ、お次は白馬寺だ。

どう行けば良いものか・・と歩き始めた向うに、見知った顔がやってくる。例の古物商で出会った男、孫だった。

行き先を告げると「仏教寺の白馬寺だな。俺が連れてってやるよ。詳しいんだ。仏教は。」と言う。案内役が現れるとは渡りに船だった。


白馬寺に向かう途中休憩の時。詳しいという孫に、仏教に関する事前知識を仕入れておく事にした。

「仏教は天竺(インド)に渡った老子が、シャカという化身になって始めた教えと聞いたが・・」少しは、知ってる所を見せようと切り出した。

「それは違うね。」とあっさり否定される。

孫によると祖はシャカ、ゴウタマ・シッダルタという男。元々シャカ族の王子だった。妻もおり子供もいた。シャカは後継となる息子が生まれたことから、王子として最低限の義務を果たしたとして、念願だったバラモン教に出家し修行の旅にでる。世知辛い現世を生きるのがイヤで、この世の真理を探究しようとしたわけだ。結果、悟りを開くと、その教えを乞う信者が多く現われて、仏教が誕生した・・という。いまから六百年以上前、紀元前、紀元前五、六世紀頃の話と言う。

倭国では王子が国を捨て、家族を捨て旅に出るなど考えられない事だ。天竺ではそうした事例が多くあった・・とはいえだ。おまけにその後、シャカ族は他国に滅ぼされたというから、そんな人物の教えが広く受け入れられるというのが不思議千万である。


再び歩く事しばし、ようやく白馬寺が見えてきた。北に邙山(ぼうざん)、南に洛川が流れる広大な敷地に伽藍がのぞき見える。大木がそびえ、静寂につつまれた参道の先に朱塗りの山門が待ち受けていた。金剛崖寺と号してある。

後漢時代、今から百七十年前に建立されたもので、当時の皇帝が使いを出し、天竺から修行僧と共に、経典、仏像を白馬に積んで持ち帰ったことから、通称を白馬寺というらしい。魏の時代になっても一部の知識人の庇護を受けて寺は存続していた。曹操の息子で後継候補とも言われた曹植も援助者の一人であるという・・。

山門の入口から、御影石造りのトンネル状の石壁を抜けると、お堂や石塔が建ち並ぶ境内となる。その一つ、大仏殿には倭人とも中国人とも思えぬ彫りの深い人物像がシャカ仏像として安置されていた。孫が「ギリシャ彫刻のようだな。フウム。」と眺めている。

トシの目からも、この人物が老子とは思えなかった。孫が言うようにシャカというのは天竺という異国の人間に間違いないのだろう。

丁度、その時、法衣を纏(まと)った僧が歩み寄ってきた。自己紹介をおこない「評判を聞いて訪問させていただきました。」と挨拶をする。

「ほう。倭人の方ですか。仏教は良い教えでござるよ。ゆっくり、見て廻られるがよかろう。」僧が、応じてきたので仏教、とはどのような教えか聞いてみることにした。

「諸行無常。一切は空(くう)であるとの実相真理を理解し、悟りを得ることですな。」空?またもや難しい単語がでてくる・・。

「空をわかりやすく説明するのは難しいのですが、まあ、水中の月の如し・・とでもいいますかな・・。」

「空(そら)の月ではなくて?」トシが川面に映る月を想像しながらキョトンとする。

「いかにも。空の月を知らない者にとっては、水中の月が月でございましょう。」と説明した。ウーム。難しい話のようだ。

僧は、荘子の有名な一文を引用した。荘子が蝶になった夢を見た。覚めた後、自分が蝶になったのか、それとも蝶が自分になったのか判らなくなった・・という例え話である。実体があると思っていても、見方を変えればその実体の存在の確実性があやしくなる・・ということか?

「現世で実体あると思われるものも、全て仮の姿。皆、空でござるよ。ハハハ」僧が破顔一笑した。

なおもキョトンとしていると「仏の教えは一日にして会得できるものではござらぬ。入門されるのであれば喜んでうけいれますぞ。倭人の方も、今度来られる時は数年の修行をお覚悟して参られるのが良かろう。」と言い残して立ち去って行った。

ちなみに、倭人が修行の為にこの地を訪れる事になるのは、六百年近く後、804年に空海が唐に渡った時であった。


「やっぱりわからん。空とか無常とかを理解して豊作祈願になるというのか?」

倭国の宗教といえるのはヒミコ様を頂点とする神道である。倭人のトシには人として神の御意思に沿った生き方をするのが神の教えであり、神を信じる者は神に守られる・・それが宗教であると素朴に理解してきた。

このお寺の教えは、そうしたものと異なるものであるようだ。

「仏教は一種の哲学とも言えるからな・・。」孫が解説を始めた。

ローマに先立つ文化にギリシャ有り。そのギリシャ哲学の中にも空の概念があるという。世界はそれ以上細かく出来ぬ単位、見る事もできぬ原子(素粒子から成り立っていて、今存在する実体も原子のカタマリ)いずれ原子に戻ることになる。仏教は宗教の観点から、ギリシャ哲学・原子論は科学の観点から「空」を哲学しているのだという。

しかし、トシには「空」を理解するイミがピンと来なかった。たとえそれが真実だとしても、それを知ってどうなるのだ?・・ただ倭人がこれまで考えもしなかった考え方が他の大国、天竺やギリシャ・ローマにはあると知ったのは驚きだった。

世界は倭国と韓半島、中国しかないと思っていたが、世界はもっと、もっとはるかに大きいのだ。

関心をもっても実利はなさそうな事に、この男、孫が関心を抱いている事も不思議だ。こやつ、意外とたいした奴なのかもしれない・・。それと共にチクシの話も思い出された。気のエネルギーとか言ってたやつ。先ほどの空の話と関連するのかも・・。


「所詮、現世は空なのだからと、欲を貪る事の無意味さを知り、克服する事の喜びを教えた。・・それが仏教だな。」孫が説明を続けた。

「もっとも、シャカは修行により、欲を封じる事を成し遂げただけさ。生活に追われて修行出来ない人々にとっては救いにならない教えであるのが欠点だな。弟子たちの中にはシャカの教えにあやかるだけで救われる・・と民衆向けに広めて始めてはいるが、基本的には哲学を楽しめる特権階層の為の教えでしかない。自分だけ、自滅の連鎖の流から抜け出せたとして、人類全体の動きを止める事は出来ないだろう。」

ウーン。これ以上説明を聞いても、頭に入りそうにない。話題を変えるか。

「孫は博識だなあ。見直したよ。なんでそんなに宗教や哲学に興味をもつんだ?」ほめるでもなく感想を述べると孫が答えた。

「人間は自滅に向かってひたはしる動物ではないのか。そして、それを回避する手段を手にできるかどうか?・・それが俺の研究テーマだからな。」

「えっ。自滅?」

「ま、それは数千年先のことだろうがな。」

数千年?この男、自分が生きても居ないハズの未来を考えているのか。一体、何の為に考える?


孫は、人間とは己が自滅に向かって進んでいる事を、昔から予感しつづけている動物だという。それは人間が知恵を持っているからだ。

人間が知恵を持ち、それを進化させていく過程で、己の知恵の悪しき部分(悪知恵)が悪魔的である事に気が付く。他の動物と違い自分の欲の為に無制限に他を利用する。其の習性は同類の人間にも及び、利用するばかりか、陥(おとしい)れ、抹殺することも厭わぬ行動に連なる。そして、自らを豊かにする善き知恵を上回るスピードで、いつのまにか悪知恵は増殖する。また、善き知恵はいつの間にか、いとも簡単に悪知恵に転化するものだ。

その結果、人類は自らを育んでくれたハズの大自然を破壊、人間同士の戦いは集団が大きくなるにつれ大量虐殺モードになり、それがだんだんエスカレートしていく事になる。

他の動物が自然環境の変化により滅亡するに対し、人類はそれ以前に己の悪知恵に滅んで行く。そうした「醜い将来」が現実になる事を予想したのだ。だからこそ、自分達を戒め、予想される滅亡を回避する為に、宗教、神の概念を作り、思想家、哲学者も人間のあるべき姿に言及してきた。

ところがその目論見は上手く行っているとは言い難い。

孔子ら儒者の説く人倫は有名無実化。権力に組み込まれた支配の道具に成り下がっている。

ローマの民主主義。実質的に市民による選挙で選ばれる皇帝制度は、従来の王による支配と異なり、ナンバーワンの指導者の叡智に未来を託すという新しい統治システム。その者が良い世界に導く力があれば良し、不安な世界を作り出すならば、皇帝を殺すか、新たな皇帝を選出して交替させる・・との発想から来たものだ。

ところが現実の皇帝は、叡智の政治とは程遠いもの。選挙民への人気取りで政権を維持するだけ。前にも話したが帝国の基盤にも翳りが見え、人心は荒廃してきている。政治や将来に希望が持てず、最近流行の宗教に、人生の救いを求める者が急増しているそうだ。

「それは仏教なのですか?」


「いや、キリスト教という奴だ。」

世界には、まだ新しい宗教があるのか。ややウンザリしながら、トシは再び孫の講義を受ける羽目に陥った。

キリスト教はユダヤ教をベースに二百年前に始まった新興宗教。神の前の平等を謳って、虐げられている民衆を中心に信徒を増やしてきた。

「隣人愛」を唱え、慈悲の心を大切にするから自滅回避の宗教としては有力なんだが、問題は一神教である事・・と孫は指摘した。

他の宗教や神にたいして攻撃的で、排除しようとするところ。信仰の自由を原則とするローマ帝国にとって、様々な神をいだく帝国諸国の和を乱しかねない。下層階級の反乱を招きかねない点も、招かれざる新興宗教としてマークされ、弾圧の対象になっている。

「もっとも、キリスト教のいわんとする内容は人倫にとって良い事なので上流階級のなかでも心情的なシンパはいるみたいだ。中にはキリスト教を取り込めばローマ帝国の武器になると考える策謀家もいる。異教徒から守るといえば帝国の防衛で人心をまとめる事が出来るし、他国の異教徒を邪宗から救う・・との名目で他国に進攻すれば新たな植民地を手に出来るしね。一神教は道具として、使い方次第という訳だ。」

またキリスト教の、人間を他の動物より上位に置く発想は、人間は何をしてもいい、自然を破壊してもそれに合理的理由付けをすれば許される・・というギリシャ・ローマの考え方に合う。仏教や自然との共生を根幹にしているアニミズムはローマには根付かない。キリスト教は受け入れ可能な宗教だとも語った。


孫はなおも独り言のように話を続けた。

「実は人類は既に一度、自滅している。いやそのような昔話が残っている。ギリシャの伝説に傲慢な人間の振舞に怒った神がアトランティス大陸を海に沈めた。ユダヤ教には神が大洪水で人間を戒めた・・とある。既にイエローカードをもらっているのに、レッドカード欲しさに同じ過ちを繰り返すのだろうか?欲や思い上がりにつけるクスリはないのかな?」

「自滅回避システムだった思想や宗教さえ利己的な目的達成の道具に変質させる狡猾さ・・ん?お前、聞いてないな。」

トシが浮かぬ顔で黙っているのを見て喋るのをやめた孫。やめてくれて有りがたかった。もう頭は飽和状態なのだから。

トシにとってこれらの話は初めて聞く話で、消化するのが困難だった。理解できたのは、とにかく世界は広い。様々な国、宗教、思想、文化、考え方があると言う事だけだ。自分の知らない事が世界に満ち満ちている。

孫は自滅という奇妙な言葉を使って、それらの否定的側面を提示しているが、問題は倭国にとって何を取り入れ国の根幹に据えるかだ。民主主義というのも面白そうだし、仏教も深く知れば何か役にたつかもしれない。今、学んでいる儒教だって、倭国の国づくりには有益な筈だ。

「シャカの書いた書物はないのだろうか。」あれば帰国してゆっくり理解を深める事ができるかもしれない。

「経典は寺で何年も修行しないと理解は難しいだろうな。それに第一、シャカのしるした経典自体もない。いまある経典は全部、弟子が書いたものだからな。」

「エッ」

「何も驚く事はない。キリスト教の書物もキリストは残してないし、儒教の孔子だって自身が書いたのは殆どない。自身で一杯、書き残す奴は、後世に残る偉人にはなれないってことだ。お前も教祖になりたかったら書き残すんじゃないぞ。神格化してくれる弟子を競わせて、あれこれ書かせりゃいいんだ。」

そう言えば孔子の本は、子曰く(先生が言われた)で始まる。しかし、孫の話はいつもナナメに見た言い方だ・・。


「ところで、女王国の宗教は何なのだ?神はいるのか?自滅回避の秘策はあるのか?」孫が聞いて来た。

また、人類自滅の論議の戻るのかと鬱陶しくなった。

「そんな自滅回避システムなんて・・考えてもラチ明かないんじゃないのかな?」

トシは思う。確かに人間は他を否定的に扱う事もある。自分だって一大率に入るまでは、イジメられたりで疎外感を味わい、人間不信に陥っていた過去もあるのだ。いや、チクシに会うまでと言った方がいいかも知れない。

チクシは自分の中に悪がある事を認めた上で、それと戦う事を主張していた。先輩も「あいつは自分を目的とせず手段として考えている。」と評価していた。自分もチクシに会って、こんな面白い人間がいるのだ・・そして、そう思う事で自分が変わって行ったという事実。他人から得たもので、人が生きる価値を見出すのなら、自分本位だけではない生き方が出来るハズ。

「人間は一人で生きられない社会的動物なんだから、基本はヒトとの出会いじゃないかな。いい出会いがあれば、それが拠り所(よりどころ)になって、最終的に自らの悪なるものに打ち克つ事が出来るのではないか。であれば、自滅を回避出来るのではないか?」とチクシの話を交えて反論した。

「そんな個人的な話は反論にならん。いかに人類が種として自滅を・・」孫がバカにした目でトシを一瞥したが「俺は文化人類学者として、女王国の宗教を聞いているのだから答えてくれ。」とうながした。

「神道だから神は八百万(やおよろず)の神がおられる。山、海、川、各村落の守り神、食料の神などなど。中で頂点におられるのがヒミコ様の太陽神だ。皆がそれぞれの神を敬い、悪い行いをしないよう自分達を戒めている。」

「ああ、アニミズムの国か。だが、クレオパトラと同じ太陽神が頂点というのは面白い。」孫の眼がキラリと光る。

またクレオパトラか。美人談議になってはかなわない。


「倭国はたいしたものだな。女王を擁立(ようりつ)したり、お前もチクシとかいう小娘に影響をうけている。男尊女卑の世界にあって女性上位とは。中国でもローマでも仏教もキリスト教も女性を下位に見下しているのに、倭国で女性が政権を担うとは驚きだ。」

「それは買い被りだ。ヒミコ様は巫女として国の祭礼をつかさどっておられる。政治は別に男の高官達が取り仕切っている。判断が付かない時など、ヒミコ様にお伺いをたてたり、国同士で調整がつかない時には調停役になられるだけだ。」

「なんだ、そうか。ウーン残念。しかし、国のシンボルというのは大したものじゃないか。」いろんな文化に接している孫から言われると、悪い気はしなかった。

「女性には男性とは違ったパワーがあるからな。それを尊重しているってことかな」

答えながら、ついチクシの顔が浮かんだ。いや、さっきから浮かんでいた。俺なんか、チクシのパワーでこの洛陽にこれたようなもんだ・・と思った。そのチクシとももうすぐ会える。倭国、一大率が懐かしく思い起こされた。

「やっぱり倭国に行かなきゃナア。クレオパトラを見なきゃ」

なんだ、孫は。結局そこにいくのか、難しい話を延々した割に・・・。


次の日、阮籍先生に会って、夕方にはアポをとった何晏宅に行くスケジュールを組んだ。

阮籍の屋敷に向かって歩いていると、門から狂ったような形相の男二人が、ころぶように出てきた。目が定まっていないので、危うくトシにぶつかりそうになる。

「おう、これは失礼。あんた、あの家に行くのか?やめた方がいい。奴は鬼だ、妖怪だ。」

もう一人の男が「何晏殿への紹介状を頼んだだけなのに。」「お礼の金塊が少なかったのかな?奮発したつもりなのに・・。」ブツブツ言いながら逃げるように立ち去った。


玄関に入って声を掛けると「お前ら!許さん!。まだいるのか!」と怒鳴りながらドタドタと現れる妖怪。

大きな目がすべて白、白、白眼の妖怪・・ならぬ阮籍先生だ。見た!これが「白眼視(はくがんし)」の語源となった先生の姿だ。

トシを認めて「やあ、君か。スマン、スマン。上がってくれ。」と言った時には、先とは別人の、端整な顔立ちに変わっていた。

帰国の挨拶をすると「堅い挨拶は抜きだ。」と座る間もなく酒を勧められた。酔いが進むと阮籍の琴が始まる。その眼は「青眼(せいがん)」そのものだ。

話題がトシの洛陽での出来事に移り、白馬寺、仏教の難しい教義・・そして何晏との出会いになると、途端に先程の件を思い返したのか、目が厳しく、いや悲しみが浮かんだ。

「人間、浅ましいものよ。司馬懿が勢力を拡大すると聞けば、司馬一族にすり寄り、何晏殿が人事を握れば、金を積んで紹介を依頼する。自分の利益になる事ばかり、クンクン嗅ぎまわっておるとは・・・。志なく、金と権力の亡者に成り下がっては、生きる意味が無かろう。」

阮籍は司馬一族の司馬昭と友人関係にある。何晏とも知己であるため、その亡者達が政権の風向きが変わるたびに訪れることになるみたいだった。

帰りしな、阮籍は奥から酒瓶を持って来た。

「とっておきの老酒(らおちゅう)だ。荷物になって申し訳ないが、徐に渡してくれ。これを俺と思って清談してくれないかと伝えて欲しい。」


洛陽市街に戻って何晏宅に立ち寄った。久々に通された何晏の書斎には、うずたかく荷物類が積み上げられ、手狭になった感がある。何晏が入ってきて「ああ、お前とも別れの時が来たのか。」と抱擁を求めてきた。

「お世話になりました。何晏先生は私の洛陽における父です。いい思い出を有難うございました。」トシの外交辞令も少しは上達したようだ。

だがそれだけではない。何晏のおかげで良い経験と勉強をさせて貰ったのは紛れもない事実であった。

「お前と会ってから、ワシの運気が急上昇。お礼を言わねばならんのはこっちの方だ。役職もさることながら、ワシの著作が人気でな。ベストセラーになっとる。ようやくワシの考え方が世間に認められてきたのだ。フォッフォッホ・・」

それは違うと思った。人事の責任者だから、猟官を考える求職者が何晏の著作集を読み漁り、オベンチャラを言おうとしているだけなのだろうが、まあ、今はイヤミな事を言う場ではない。

「お前はワシに幸運をもたらした者に間違いない。餞別を渡さなければならないな。」上機嫌の何晏は傍にある包みを取り上げた。中には金塊が入っている。

「これは・・。」おそらくこれは何晏宅を訪れる猟官者の貢物に違いない。

「これはお前に渡すにふさわしくないな。失礼、失礼。」

トシが逡巡しているのを見て、何晏は奥に引っ込んだかと思う間もなく、古い布切れでくるんだ包みを差し出した。

「これは俺が無役の時に蓄えたものだ。これなら貰ってくれるよな。倭国に帰る土産でも買ってくれ。金に区別の色は付いていないが、気持ちの問題だな。」先の包みにあるものと同じまばゆい品が入っていた。

「金に困ってはいないんだが、付き合い上受け取らねばならぬものもあるんでな。」

夕食を御馳走になり、別れの時「俺も年だからな。また、会えるかどうか。また、倭国の使いとして洛陽に来てくれ。」名残惜しい時空が流れた。


倭国に持ち帰る土産類も手当済みとなり、皇帝曹芳のお披露目パレードの日になった。即位式の式典に倭国代表代理として出席したトシは、パレードを待つ街頭の来賓用桟敷席(さじきせき)に居た。

中国のパレードは派手の一言に尽きる。賑やかな楽隊行進に始まり、駱駝(らくだ)や像など異国の動物が続き、軽業師の踊りやパフォーマンス、火を吐き出す大男、数々の大道芸人が見物人の眼を惹きつける。ついで正装の高官達。最後に、ものものしい武官の列に囲まれて皇帝の馬車が近付いてくる。みせる儀式。一般市民、国内の支配階層だけでなく、外国の外交団、全員に皇帝の権威を見せ付けている。


即位パレードが終るといよいよ帰国。鴻臚卿の見送りを受けて、明帝の下賜品と共に洛陽を出発した。めざすはチクシの待つ倭国。凍てつく寒さの洛陽だったが、心はなぜか暖かく、チクシが自分のことを何と言ってくれるのかと、浮いた気分が心地よかった。


第五章 帰国


 帯方郡に着いた。文官、武官が迎える中、トシが挨拶をすると、筋骨隆々の武人が、トシの前に進み出た。

「私はあなたとヤマタイ国に同行するよう申し付かった梯儁(ていしゅん)です。」と名乗った。どうやらヤマタイ国に一緒に向かう魏の正使が、この人らしい。

てっきり帯方郡の外交担当文官の誰かが、同行すると思っていただけに、このキンコツ氏には驚きとともに威圧を感じてしまう。

帯方郡太守は劉夏から弓遵(きゅうじゅん)に変わっていた。弓遵との会見の席で魏の鴻臚の役人から帯方郡への引継ぎ行われる。

これで魏の担当官は洛陽に戻り、ヤマタイ国には洛陽にてトシが倭語を教えた帯方郡所属の通訳と梯儁が、共に旅する事になった。

 歓迎の宴で梯儁は隣の席に座った。「貴殿のお荷物に武具が多数ありましたが、あなたは武官なのですか?」

「いえ、あれはヤマタイ国の友人、武人なのですが・・その者への土産として持ち帰るものです。」

「そうですか、貴殿の体つきには似合わないと思いました。ハハハ。」

「ハイ」と苦笑する。

「魏の武具と貴国の武具では何か違いがありますか?」

「それは勿論。魏の武具には感心させられます。倭国では防護の素材は皮革製が多く、金属製は普及しておりません。短甲状の札甲に加え、魚鱗甲の甲冑は動き易くて優れものですね。」

武具を勝手に持ち帰るのに対してクレームをつけられのでは?と危惧し「友人や倭国の軍人に帰国の武具を紹介し、その素晴らしさを宣伝する為、持ち帰るのです。」とも付け加えた。

「それは良かった。是非倭国の軍隊にも取り入れて下さい。」

梯儁はむしろ、褒められて喜んでいる様子なのでホッとする。

 梯儁は酒を注ぎながら「馬はどうです。軍馬ですよ。貴国の馬はこちらの馬と違っていますかな?」と質問してきた。

「ヤマタイ国に馬はいません。こちらで物資運搬や伝令を早く伝える為に使役されているのを見て、便利な動物がいるものだと思っていたところです。」

「そうでしたか。なら、いっそ馬も持ち帰られてはいかがです?」クレームどころか、けしかけられたので、一層、安心感が拡がった。

試しに「馬というと一頭幾ら位するものなのですか?」と聞くと「平均で一頭に二千文、良馬なら五千から二十万文するのまでピンキリで大きな差があります。」「そんなに高い馬も・・。平均的な馬なら買えそうですけど・・」と口が滑ってしまった。

「ハハハ、買う気になりましたかな。丁度、明日、市場でセリ市があるんですよ。行ってみましょう。」買う気はなかったのに・・今更、断るわけにもいかず「じゃあ見るだけでも」と承諾してしまった。


 馬市はごったがえしていて、梯儁が下見に行くと言って人ごみに消えた時、馬三頭を連れた馬商人がトシの前に歩み出た。

クセのある顔の男。「私をヤマタイ国に連れていって下さいよ。」ニヤリと声を掛けてきた。

「お前、一体どうしてここに居るのだ?」

「お約束してたでしょう。卑弥呼様がクレオパトラかどうか確かめたいって。周到に準備して、ここで待っていましたよ。」と平然と答える。

洛陽を出立する際には顔を見せてなかったので、もう気にもしていなかったが、その男、孫が現れたのだ。


 二人が話しているのを見つけて梯儁が近付いて来た。

孫が梯儁に「お客様に、この三頭をお買い上げ戴きました。」

「幾らだ?」

「馬具付、三頭で合計一万銭。お安くしております。へへへ」

梯儁は馬を撫でながら「ほう。これは良い馬だ。安いじゃないか。これが手にはいれば、セリ市には参加しなくてもよさそうだな。」

「ただ、この方が馬の飼い方がわからないというので、私が馬丁として雇われることになりました。何でも倭国から来られたとの事で、私も倭国とやらに行ってみたくなりましてね・・」

「あっ、そうか。馬の世話をする者が必要だな。・・うーん。本来ならこの地の人間をむやみに他国に行かせる訳にはいかんが、トシ殿の頼みとあればよしとするか。」梯儁は、、寛容にその件を承諾した。


「そんな事よりこの馬に早速、乗ってみよう。トシ殿。乗馬練習しますぞ。」

 梯儁は近くの空き地で馬の乗り方を教えてくれた。お尻は痛いが、何とかユックリなら乗りこなす事が出来そうだ。小走りに走ると乗馬の面白さがより理解できる。

「これは使えそうだ。ケンは目を輝かせるだろう・・」

梯儁は「騎馬で戦うには両刃の剣より片刃の剣が軽くて使いやすい、こうして佩刀(はいとう)するのだ」と上級編を教えようとするが、馬から振り落されないよう、しがみ付くのが精一杯、刀を操る事など考えられなかった。

それでもこれはビジネスになるとは思った。

馬を増やせば、倭国でも高く売れそうだ。塩ジィに相談してみるか・・。馬はオス一頭、子を孕んだメスが二頭である。

 

 さて、いよいよ倭国に帰還の時、帯方郡を出立する時がきた。海宴の港から三隻の軍船に乗り、狗邪韓国を目指してイザ、出航。

 狗邪韓国で一大率の船を先導役に加え、元来た海路を対馬(つしま)国、一(い)支(き)国、末盧(まつろ)国と立ち寄りながら航海する。

狗邪韓国で先輩に会えるかと楽しみにしていたが、先輩は既に本国に戻されていて久しいとの話だった。


 梯儁はそれぞれの国の長官から接待を受けたが食事や宴については、あまり関心がないらしく、適当なところで切り上げるのを常としていた。

一方、どこの国でも閲兵させてくれるように要望を出し、兵の持つ弓や剣、防具、兵の動きや隊列の組み方を熱心に見て廻った。

この人は倭国の軍事力、軍備の内容を知ろうとしている。その事は武人ゆえの関心の持ち方だろうが、いかにも熱心過ぎる。何か目的でもあるのだろうか?・・トシは少し不安を感じてもいた。


 思い切って訊ねる事にした。「梯儁殿は、我が国の軍備に関心がおありのようですが・・」「ああ、私が使者に選ばれたのは貴国の軍事力を視察する目的があるからだ。」こともなげに告げる梯儁。

目的が軍事力の偵察とは穏やかではない。

まさか魏がすぐに倭国を支配下に置こうと考えているとは思えなかったが、先輩が以前語った事があるように、魏の韓半島経営に於いて、支配力を高めるとすれば、まず馬韓、辰韓、弁韓、韓半島南部を固めれば次のターゲットは倭国になる。・・そういうシナリオがあるのだろうか?・・しかし、そんな下心があるなら正面切って軍事力視察を目的などとは言わないはずだ。

 梯儁は続けた。「しかし、これまで見たところでは軍隊と呼べるものを持った国はなかった。人口が少ないせいかな?」

「報告では邪馬台国七万戸、奴国二万戸とある。このクラスに行かないと軍隊らしきものはないのかな?」と独り言のように呟いた。

 「これまで倭国は、韓半島勢力から侵攻を受けた事はないのかな?」軍兵が少ない理由を考えているようだ。

「その事は聞いたことが有りません。もともとヤマタイ国の倭人は弁韓からこの地に渡ってきた者が、それまで住んでいた原倭人と融和して定住したものとも言われています。韓半島南部の部族とは顔も言葉も似ていますし、貿易も盛んです。お互い、海を渡って戦争を仕掛ける事はこれからも考え難いと言われています」

「ただ、国内で争いはあるだろうに?」

「卑弥呼様が女王になる前は頻繁に戦乱があったと聞いています。しかし、卑弥呼様が共立されて後は、狗(く)奴(ぬ)国との諍いは別として、グループ内の国家間で目立った揉め事はなくなりました。かれこれ四十年近くになりますかね・・」

「ほう。そんなに戦乱が無いとは、平和な国なのだな。それで治安維持の兵力しか必要ない訳だな。各国の長官達の国防意識が弱いのもうなずけるというものだ。」と納得した表情を見せた。


 翌日、天候も晴れ。

末盧国王も加わって一行は伊都国に向かった。チクシとハイキングした思い出の伽耶山が大きく近づき、火山(ひやま)から狼煙が上った。我々が接近している事を一大率に知らせているのだろう。いよいよ帰還となるのだ。

それはチクシ、ケン達と再会出来ると言う事。帰還後にどんな人生が待ち受けているか判らないが、ともかく話したい。チクシと同じ空気が吸えるのだと思うと胸が高鳴り、この懐かしい大地、自然の風景に感謝したくなる。

そして、難升米が約束してくれたように、それなりのポストにつく事が出来れば、一人前の男と認めてもらえるのではないか。あの、難しそうな巫女頭、チクシのおばあ様にも・・キット。


  船団は大型船が入れる水深の、引津湾の沖合に停泊した。そこで一大率が用意した小舟に乗り換え、加布里湾から一大率へ。黒山の人だかりの港に上陸した。

「遠路はるばる、ご苦労でござった。歓迎申し上げる。」

一大率長官がにこやかに第一声をあげた。その、傍には伊都国王、奴国王などそうそうたるメンバーが並んでいる。

警備兵の中にケンの顔が見えた。一段と逞しくなっている。周囲には魏使を一目見んと一般の民衆が大勢、取り巻いていた。

なつかしい塩ジィ、そして玉造の大将の姿も確認出来る。

一行は一大率の迎賓館に向かった。道には警備兵の後ろに学園の学生達が整列して歓迎していたが、その中にチクシの顔が見えないのが残念だ。というより、何かイヤな予感がする。後でケンに話を聞かなければ・・と思う。


梯儁が挨拶を行い、長官はヤマタイ連合国の国王、高官達を紹介する。が、肝心の伊支馬殿が居ない。

話を聞くと、ヤマタイ本国から長官伊支(いし)馬(ま)、将軍難(な)升(し)米(め)がこちらに向かっているが、到着まで三―四日掛かると思うので、その間は迎賓館に於いて、魏使一行の旅の疲れを癒されるようにと伝令が来たとの事。早速、その旨を梯儁に伝達した。魏皇帝の下賜品の引き渡しの儀式は、その二人が到着してからになるからだ。

しかし、梯儁は例によって一大率兵士の閲兵を望み、奴国王にも閲兵の為の奴国訪問を申し入れていた。

一大率では兵士のうち百名程が隊列を組み、梯儁や高官達の前で、閲兵に臨んだ。これまでの閲兵では憮然とした表情を崩さなかった梯儁の頬が緩んだ。「ほう。あの者の小隊の動きはイイぞ。キビキビした分列行進だ。」

あの者とはケンの事を指して出た言葉だった。その後、ケンは武術の型を披露するが、その所作もカンペキと梯儁は褒めた。

「あの小隊長は私の親友でケンといいます。武具の土産を渡すつもりと言った奴です。」

「貴殿と知り合いなのか。それは良い。一度会って話したい。明日、奴国から戻ったら、その機会を作ってくれ。」との惚れ込みようだ。

一大率長官は歓迎の宴の準備が整っておりますのでと、梯儁が伊都国にとどまるよう引き留めにかかったが、梯儁は構わず奴国王と共に奴国に向かった。奴国には外交部のソシアオ氏が同行する事になり、トシには久し振りに自由時間を与えられる。


トシは持ち帰った書籍や土産の品々を整理、チェックをした後、長官室に向かった。洛陽の市場で買った青銅の酒器セットをもって、改めて帰国の挨拶を行い、その席で梯儁のケンと面会したいとの要望を伝え、その許可を取った。

続いて所属の書記官室外交部に顔を出し、手土産品を配った。ただ、悲しい知らせも知る事になった。

自分の席の前に連絡の竹簡が置いてあったが、それは故郷の祖母が亡くなったとの悲報だった。トシの帰国を楽しみにしていたが、叶わず、数か月前に病死したという。思わず涙がこぼれ落ちた。


翌朝。休暇を与えられたトシはケンの部屋を訪れた。ケンも長官から休暇を取るよう指示を受けて待機していた。目が合うなり抱き合ってお互いの健勝ぶりを喜び合う。

「でかしたな。一発当てて帰ってきたじゃないか。」

「お前も何時の間に小隊長に昇進して凄いじゃないか。梯儁殿が褒めておった。今日、会いたいと言われているのは知ってるな?」

「おう。光栄な事だ。お蔭で休暇を取らしてもらった。」

トシは一刻も早く聞きたいと思っている事を訊ねた。

「ところで皆はどうしている?」皆という言葉を使ったが、実はチクシの事。ケンもそれを承知していた。

「チクシはあれから音信不通なのだ。」チクシは思った事は必ず実行する。ここで研究すると言ってたのだから、一大率に戻っているのが当然なのに・・と再び不吉な思いにかられた。

「音信不通?学園には戻っていないのか?」

「そうだ。お前とキジと連れ立って邪馬台国に帰省したっきり。噂もない。ヤマタイ出身の新入生の巫女に、探りを入れてもチクシという名前さえ知らない者ばかりで、まるで手掛かりがない。」と顔を曇らせる。

チクシの身に何が起こり、どうしているのかと身を案じるが、情報がまるで無いのでは考えも進まない。


先輩に関しても、狗邪韓国から帰国しヤママタイ本部に戻ったそうだが、その後の情報が何も入って来ないという。

他の昔話が一段落し、トシは持ってきた土産の鉄製の甲冑を差し出した。

「おう、これは。」

革の鎧しか見た事の無いケンは驚いた。早速身に着け「思ったより重くないな。札状の鉄片を綴って出来ている。腕や腰部はもっと小さい鉄片で動き易い、これはスゴイ。」と感動していた。

「もっと凄いものがあるぞ。馬だ。」昨日、面会に来た塩ジィとムナカタことムナジィに訳を話して、馬と孫を預かってもらっている。

「ああ。船に乗っていた、おとなしそうな動物、あれが馬か。あんなものが戦場を駆け回るのか?」

「そうだ。徐先生が趙雲の活躍を話した場面があっただろ。単騎またがり敵陣に切り込んで劉備の息子を救い出した、あの馬だよ。」

「乗りたいなあ。」

「乗ってみないか。塩ジィに預かってもらっている。俺が指導してやるから。」

「それは是非頼みたい。」俺がケンに偉そうに指導出来るとは、貴重な体験になりそうだ。


二人は塩ジィ達の元を訪れた。

一大率にほど近い集落の広場に馬は繋がれていた。馬の世話をしている孫と一緒に、馬に鞍を乗せ、トシが自慢げに馬に跨って広場を一周する。と、ケンの目が輝きだした。

「乗りたい。」

孫がケンに手本を見せながら馬の扱い方を手ほどきすると、即、馬に跨った。

ケンはまたたく間に上達し、トシの技量をアッと言う間に追い抜いた。そればかりか、教えてもいないのに馬上で剣を振り回し始めた。既に気分は趙雲といったところだ。

自慢が出来なくなったトシは仕方なく塩ジィに話しかける。

「馬って、面白いですよ。戦場を駆け回るだけじゃなく、大きな荷物も運べるし、走らせれば一大率から伊都国王の屋敷まで、ものの十分足らずで行く事が出来ますからね。」

「おお、そうか。そうだな。」

ケンの動きに、満足気に頷いていた塩ジィの耳元で囁いた。

「儲かりますよ・・」途端に塩ジィの顔が真剣になる。

「メスの方は子供が宿っています。頭数を増やして高く売れば、きつい仕事の塩の加工賃よりはるかに儲かる事、請け合いです。」

馬の飼育は草やワラを食べさせるだけ。乗馬のしつけが出来れば、高値で売る事が出来ますよと説明する。

その間にも集落の人々が一人、二人と見物に集まり、今では人だかりができている。・・それを眺めていた塩ジィは「売れるな、コイツは。」と大声を出した。

「この年で塩の仕事はキツイ。そろそろ人に譲るとするか。これからは広い野原で馬ジィ・・になるか。」と転職を決めたようだ。


馬が疲れてきた様なので、水を飲ませて一息入れていると、一大率兵士と魏の兵士の集団がやって来た。

何か咎められるのかと心配していると、集団の中から梯儁が現れた。奴国から戻り、我々がこの広場に居る事を聞きつけたらしい。

「乗馬をしてるそうじゃないか。」

「ハイ。ケンに教えているところです。」

「「ほう。見てみたいのう。」

ケンが再び馬に乗り、先程の手綱さばきで馬を走らせた。いや、先程より確実に上手くなっている。

「うん。ビューティフル。」拍手喝采した梯儁は馬から降りたケンの手を取りニコニコ顔で褒めたたえた。

「今から飲んで語り合おう。何処かいい店を知らんか?」

塩ジィが行きつけの店を借り切る事が出来るというので、皆で市場の方に向かう事にした。


塩ジィの行きつけの店は汚いが、魚が美味い居酒屋である。市場のはずれにあるが、そこに多くの兵士にガードされながら一団がやって来たので、周りがちょっとした騒ぎになった。

兵士達が警護する中、梯儁、トシ、ケン、塩ジィが店に入った。

酔うほどに、これまで各地で受けた接待の時には見せなかった、梯儁の豪快な笑いが店内に響く。

「出来ればケン殿を魏に持ち帰りたい。良いミヤゲになるのだが・・」同じ武人としてウマが合うのか、ケンも満更でもなさそうに付き合っている。

「ところでお前、どんな武人になりたいのだ?」

ケンは調味料の魚醤(ぎょしょう)を墨にして卓に「趙(ちょう)雲(うん)」と書いた。が、直ぐにシマッタという顔をした。中国の武将名が書かれた事に梯儁は目を丸くする。

「いやあ、失敗、失敗。趙雲は魏の敵将でしたね。ハハハ」頭を掻きながらケンが詫びると「なんの、なんの。我が国の武将の名前が出てきたので驚いただけだ。趙雲を知っているとはな・・これはまいった。」と応じた。

「自分に欲を持たない真っ直ぐなところが好きで・・」

「趙雲は良いよ。というより我が国の太祖、曹操(そうそう)様も自分の支配下に持ちたいと願った武将の一人だ。関羽と並んでな。実を言えばワシも憧れている。ハハハ」梯儁はますます上機嫌になり杯を進め、ケンにも酒を勧めた。

「今日の奴国での閲兵は如何でしたか?」ケンが話題を転じると、途端に梯儁の顔が曇り「話にならん。」と吐き捨てるように言った。

「「戸数二万戸の大国と聞いていたので閲兵する兵士の数は千人、悪くとも五百人と思っていたが、せいぜい二百人足らず。隊列も不揃いで、あれでは烏合の衆、訓練されとらんな。」

「魏ではどのくらいの兵士がいるのですか?」

「魏では戸数百万戸、老人・子供を除くと一戸当たり四人と勘定して約四百万人の人口になる。そのうち一割四十万人が兵士、ちなみに官吏は十万人くらいかな。」

「それでは奴国の規模では兵士八千人、官吏二千人という計算になりますね。」

「そんなに兵士が多くては俸給や食糧の手当が大変ではありませんか?」

勿論、全員が兵役だけに専従している訳ではない。屯田兵(とんでんへい)として俸給の足らない分、食料を自給している者も多数いる。先ほどの兵士の数は有事の場合に動員出来る数だ。」

「そういう仕組みになっているんだ。」


倭国は平和で、民も従順だから治安を維持するだけの兵力で良いというのは判るが、イザ何かあった時の対応を考えると脆い危うさを感じる・・と梯儁は感想を述べた。中国で無防備という事は滅びる事を意味するそうだ。

「世界(すたん)標準(だーど)は人口の一割が兵士と言う事か。」トシはその事が良いのか悪いのか判断に迷いながら、倭国と他国との違いに思いを寄せた。

ところが、梯儁はもっと兵士の割合が多い国があると言う。高句麗は戸数三万戸の小国ながら最大動員出来る兵士の数は二万人を大幅に上回ると推定していた

土地が荒れているせいで、逆に他国の領土に侵入して略奪するのを常としている。周辺国を属国扱いして、物資を吸い上げる事で成り立っている国だからと言うのだ。当然、それを可能にするには兵力拡充と訓練強化を欠かす事はない・・厄介な国だと説明した。

「高句麗は公孫討伐時に魏の味方として援軍を派遣したと聞いてましたが?」

「初めから奴等の魂胆は判っていたが、公孫滅亡後、少しずつその本性を表しはじめている。楽浪郡の領内に出没して荒らしまわったり、属国化している沃沮(よくそ)に加え、その南にある濊(わい)にもチョッカイを出し始めている。」と云う。

「濊と言えばその南は辰韓になりますね。」

「ああ。奴等の一番の狙いは遼東地域だろうが、次に狙うのは濊から南下した韓半島南部の弁辰方面になるだろう。高句麗以外にも馬韓の中に高句麗系の部族が勢力を伸ばしたり、公孫の生き残りが息づいているとの話がある。帯方郡としてもそうした動きに注意を払わねばならないので、韓半島経営も楽ではないのだ。洛陽の連中はわかっとらんがな・・」

弁辰地域にまで高句麗の手が伸びるとなると倭国にも脅威になる。鉄の供給原は弁辰にあるからだ。

「辰韓の連中も黙って見ている訳にはいかない。対策を講じてくるだろうから高句麗の思い通りには行かないと思う。しかし、国というものはそこまで考えて危機管理をしなければならない。そう、それを倭国には言いたいのだ。これまで会ったこの国のリーダー達には危機意識が欠けている。」

梯儁の言う事にも一理ある。倭国は他民族と海を隔てている事で、対外リスクに関する感度が低いのは事実なのだ。


梯儁は目をつむって考えていたが、いきなり目を見開いて喋りだした。

「このヤマタイ国には変革が必要だ。どうだ、君達、若い力でこの国を変えてみないか?」

「どういう事です?」

「ヤマタイ連合国を突出した軍事力を持つ国に変貌させる事だ。」梯儁が話始めたのはこういう事だった。

倭国にはヤマタイ連合国以外にも多数の国がある。それらの国の軍事力はヤマタイ連合国のレベルより更に低い筈。ヤマタイの主要国である奴国でさえ烏合の衆なのだから、突出した軍事力さえ持てば、それらをまとめて大きな統一倭国にするのは容易に実現出来る。魏の後ろ盾を利用すれば更に簡単に可能に出来る筈だ。成し遂げて対外リスクに備える国とせよ。

現状、平和な国である事は良いが、その平和を長く安定して守れる国にする事が肝要ではないか・・

この話・・どこかで聞いたことがある。そうだ、キクチヒコ先輩と一緒だ。トシはそう思った。

「ま、この話は魏の国益を考えて言った事だがな。」

倭国が韓半島の背後にあって、不穏な動きの国に目を光らせてくれれば魏の韓半島経営にもプラスになる。それが目的なのだ。今回の使いでは倭国の軍事力を調べ、将来の軍事協力の可能性を探る為に自分が選任されたのだと打ち明けた。

いずれ魏は高句麗討伐を行わざるを得なくなるだろう。その時までには倭国がバックアップ出来る力を備えて欲しいという訳だった。・・文官ではなく武官の梯儁が魏の使者に選ばれた理由がハッキリした。

「ところで船の修理・点検をしたいのだが、ここにはそうした職人がいるかな?」本題が終って、実務的な話題になった。

「船の事でしたら、この塩ジィが詳しいです。」

「早速、手配しましょう。魏の軍船の構造にも興味ありますんで・・」


翌日。ついにヤマタイ本部の長官伊支馬と難升米の一行が一大率前の港に到着した。当然、トシも一行を迎える。

難升米の顔を見て、洛陽での会話を思い出していた。

ヤマタイ国に帰国して、次の仕事は難升米様の配下で、それなりのポストで働く事になるだろう。であればチクシの事は心配だが(再び会いまみえる事が出来れば)トシの願望成就にプラスとなるだろう・・お世話になります・・との思いで「お久し振りです」と挨拶すると難升米も「俺に任せておけ」と言わんばかりに胸を叩いてニヤリと笑みを返した。


伊支馬と難升米、一大率長官が部屋に一同に会した。その席にトシも呼ばれる。無事に魏使を連れて帰国したねぎらいの言葉を掛けられたのだ。

トシは良いタイミングと思い「お耳に入れておいた方が良い情報が有ります。」と切り出した。

「なんだ。話してみろ。」一大率長官が怪訝そうに答えた。

トシは梯儁が武官でありながら魏使に選ばれ、道中、閲兵を欠かさず行った事、目的は倭国の軍事力を調べ、軍事協力の可能性を探る為である事、その背景には帯方郡が苦慮している韓半島情勢がある事を事務的に報告した。

「まさか」長官は歴代の公孫の使者が物見遊山で滞在しただけなのに、魏という大国がそんな事を考えているのは信じられない様子だった。

「そのような話が実際に持ち出されるか判りませんが、念の為、お伝えしたまでです。」と言い添えると「そうか。わかった。下がって良い。」伊支馬と難升米はとうに判っている事のようにアッサリ答えるのみ。

或いは難升米が昨年、帰国する際に、帯方郡で打診があった事なのかも知れない。


一大率の大広間に包装が解かれたばかりの、魏使持参の明帝の下賜品が並べられた。

倭国の人々が見た事もないような美しい光沢の絹布。金ムクの塊が放つまばゆい輝き。威厳のある刀剣。青光りする真珠に鮮やかな赤の鉛丹。それらが息をのむ色彩美を誇っているのに加え、キラキラと光を反射させる銅鏡百枚の存在感に圧倒されぬ者はいない。

贅沢品を有り余るほど所有している伊都国王でさえ口を半開きに眺めるばかり。参列した他の国王、長官連中も、その目は吸い寄せられるように、それらの品々に向けられていた。

梯儁が正装に着替え、いつもとは調子が違う甲高い声で詔書を読み上げる。とりわけ「親魏倭王」という言葉は大広間に響いた。

卑弥呼を代理して、これらを受領する使者は伊支馬である。中国式の正装をした伊支馬は、進み出てうやうやしく金印、紫綬を押し戴いた。

目録に従い下賜品の確認を終えた後、答礼の上表文を読み上げ、感謝の気持ちを表して、梯儁に手渡した。この堂々とした立ち振る舞い。伊支馬にしか出来ない芸当のように思えた。


セレモニーが終り、懇親の宴が始まるまでの間、伊支馬、難升米、梯儁の首脳会談が行われる事になった。通訳としてトシも同席する。

梯儁は帯方郡太守からの提案を伝え始めた。果たして内容は、韓半島情勢を説明の後、郡とヤマタイ国間で軍事協力関係を構築できないかというものだった。

双方に有事が生じた場合、相互に間接的に相手をバックアップする。例えば高句麗と帯方郡が対峙する事になった場合、ヤマタイ国は狗邪韓国に部隊を出し韓半島南部の親高句麗勢力を牽制する。

逆にヤマタイ国が周辺民族や他の倭国勢力に脅威を受けた場合、魏が公式に認める倭国王はヤマタイ国王のみ、との立場から後ろ盾の役割を果たすとした。

伊支馬は「戦場への部隊派遣など直接的な軍事行動までは必要無いのですな?」と釘をさした。

「将来はともかく、現状では間接的な協力に限定して関係を築き始めるのが妥当でしょう。・・それに・・」口ごもった梯儁に伊支馬が身構えた。

「こういう指摘には不快感を持たれるでしょうが、貴国の軍事力は我々が想定していたレベルと比べてはるかに劣る水準にあります。ハッキリ言って共に戦場で戦うなど思いもよりません。」ヤマタイの軍事を担当する難升米の顔が歪んだ。

難升米にしても今回の朝貢の旅を通じて魏の軍事体制と倭国のそれとでは大きな差異がある事は判っている筈だが、面と向かって指摘されるのは愉快な事ではない。


「帯方郡としてはヤマタイ国に軍事力強化を要望したいと考えます。少なくとも韓半島の国々や諸部族に、倭国の存在が抑止力として映るまでにはなってもらいたい。」

梯儁は言葉を続けた。「それは貴国が国を守り、弁辰の鉄の権益を守り、或いは、今後ヤマタイ国が名実共に倭国全体の覇者になる上でも大事な事と存じますが・・」

覇者という言葉に伊支馬と難升米の目がキラリと反応した。帯方郡とヤマタイ国の合意は成立したようにトシには感じられた。


「もう一点、申し上げたき事項がござる。」

「ほう、お聞きしましょう。」伊支馬が答えた。

「魏はヤマタイ国の内政に干渉するものではないが、ここにおられる都市(とし)牛(ご)利(り)殿の処遇の件でお聞きする必要があります。」トシが言い難そうにしているのを伊支馬が咎め、梯儁の言葉通りに訳すよう命令を下した。

「先帝は難升米殿を卒善中郎将、都市牛利殿には率善校尉の官位を与えられた。都市牛利殿には倭国にてもそれなりの処遇をしていただける筈でしょうな。私はその事を本国に報告しなければなりません。」

「トシについては私の配下として・・」難升米が慌てて口を挟もうとしたが梯儁は無視して伊支馬に向かって喋り始めた。

「提案でござる。都市牛利殿を、小さな国でも良いので長官に任命していただけないですかな。欲を言えばその補佐役として軍を束ねる地位に一大率の伍長、ケン殿を推薦いたす。・・本人を目の前にしてなんですが、お二人共に経験少ない若輩者ではあります。しかし、能力ある者を抜擢して力を試す事はヤマタイ国の将来を大きくする事につながりますぞ。魏に於いても太祖曹操殿は実力ある者を抜擢して中華の雄になられた。ヤマタイ国が現状維持のみを考えず、倭国全体を統一する気概があるなら、今の体制を変革する必要があります。」伊支馬は腕組みしながら何やら思案している。

「正直に言いましょう。貴国のリーダー達は国防の意識も低く現状に甘んじておられる。ヤマタイ国は潜在力のある国と思うからこそ申し上げるのです。若者を使って変革の先鞭とされれば、その成果は全体に及び、繁栄の道を歩まれる事につながりますぞ。現状を変え強い国を作る為、試験的に軍事特区を設けられる事をお勧め致します。いかがかな・・」


トシは伊支馬が難色を示すと思っていた。「面白いご意見、提案を頂戴しました。」伊支馬が口を開いた。

やんわり受け止めて、さてどう切り返すのか?と思いきや「只今のご提案、しかと承りました。ただ、私の一存では即答できかねます。幸い、ここにはヤマタイ国の主要メンバーが揃っております。合議に掛けた上、ご返答させて頂く事でよろしいかな。合議で決まったとあれば、卑弥呼様からも事後承認いただけますからな。」と前向きな発言をした。

梯儁は「おお、検討いただけますか。こちらの提案を、お受けいただけるなら帯方郡としてもご支援を惜しみません。」

帰りの船は三隻も不要として一隻を寄贈する事や弁辰の鉄の配分比率につきヤマタイ国に有利になるよう力を貸すと申し出た。

増加分の鉄をもって武器を作り、魏の軍船に習った船を倭国に作らせ、倭国海軍を強化する事で、万が一の時の駐留軍派遣に備えよとの含みがあるのだろう。


首脳会談は終わったが、伊支馬はトシに残るよう命じた。「二人で話したい事があるのだ。」と人事面談が始まる。

「お前はいつぞやキクチヒコの従者として来た二人のうちの一人だな。」

「覚えていただき光栄に存じます。もう一人の従者が先に話題に上ったケンという者です。」

「そうか、不思議な縁があるものだな。ところで朝貢団派遣の際、突然、卑弥呼様がお前を名指しで通訳にするよう指示されたのを知っているか?」

「エッ。卑弥呼様が?私を?」トシはきつねにつままれたようにキョトンとした。「人選に口出しされるなど、かつてなかった事。驚いた。何処でお前の名前を知られたか不思議だが・・」

「私にも皆目見当がつきません。」

「まあ、良い。無事に勤めあげて魏との友好を築いて来たのだからな。卑弥呼様の直観が、またアタリと出たのだ。ハハハ」


「キクチヒコ先輩が本部に戻られたとの事ですが、どうされているのですか?」

「あいつは今、狗奴国に居る。」これもビックリする話だ。

「兄たちが相次いで亡くなりキクチヒコが後継王子候補になったのだ。狗奴国からの急な要請で戻す事が決まった。狗奴国の船が狗邪韓国に迎えに行ってそのまま帰国したので顔は見てないが連絡の書簡が時々届く。」

「元気にされているんでしょうか?」

「ああ。いよいよ狗奴国の柱に育ちつつあるらしい。」

「それは良かったです。」


「キクチヒコの事は改めて話すとして、まずお前の事だ。覚悟はよいか?」本題に入った。

「梯儁殿の話の事ですか?長官など畏れ多い事です。私には能力も自信も御座いません。」途端に伊支馬が恐い形相になる。

「「尻込みしてどうする。何としても任務を果たすとの気概がなければ、この先やって行く事は出来ないぞ。」

「はい。」

辞退する事は許されない雰囲気だった。

「お前に行ってもらうのはオカの国だ。」オカの国とは聞いた事がない。学園仲間にもその国の出身者はいなかった。

「小さい国だ。オンガ川の河口に半農半漁の集落がある。川が氾濫する事が多く、穀物がやられる難しい土地柄だ。今年の氾濫は特に凄く、とうとう救済を求める代わりに属国になると申し出てきた。」

「私に治水事業をせよと?」

「現地が求めているのは治水と農業再生、それもやらねばならぬ。洛陽で学んだのを生かす事だ。が、お前を長官にする目的の第一は、その国を軍事特区にする事。梯儁殿が提案したものを実現させるのだ。」

「オカの国から海を渡れば北や東に多数の倭種の国がある。将来、ヤマタイが東方に勢力を拡大するには、かっこうの出発点となろう。あの難しい国が豊かになったと評判をとれば海の先の倭種の国でヤマタイ連合の傘下に入りたいと希望する国も出てこよう。オカの国を豊かに、強くするのがお前の役目だ。」

難しい国を豊かに?そんな事が出来るだろうか?

「サポートはヤマタイ本国がする。属国は献上品を収める義務があるが、それは不要。そのことで確保できるであろう財源と、鉄供給の特別枠で軍を編成し、軍備を進める事だ。一大率にも便宜を図るよう指示しておく。」

トシがなお困惑した表情をしている事で再び伊支馬のカミナリが落ちた。

「必ず成し遂げるのだ。失敗は許されん。でなければキクチヒコとの計画が・・」力が入ったのか、ゴホゴホと咳き込む。

「大丈夫ですか?」

「いや。大したことはない。それより・・」と伊支馬の話が続いた。


伊支馬は倭国統一のチャンス到来とみていた。先年、キクチヒコの話に反対してはいたものの、元々は倭国統一の夢を抱いていた伊支馬。

魏がこちらを利用しようと提案してきた事を、逆に利用して倭国統一への機運を高める事を考えていた。魏の要請を受ける形で軍事力を強化し、東方に勢力拡大する為の橋頭(きょうとう)保(ほ)を作る。それが達成出来たところでヤマタイと狗奴国を合体させ、同時に連合国体制を中央集権に再編するというのだ。

「邪馬台国内部には狗奴国に対する拒否反応が強いように思えますが?・・」難升米が狗奴国憎し・・の言動を繰り返していたのを思い浮かべた。

「そうだな。一筋縄にはいかんが、それを可能にする打ち手が必要だ。」

まずはキクチヒコとヤマタイの有力者の娘との結婚を整えるつもりだという。既に半年前に卑弥呼の孫娘との縁談を進めようとしたが、性急に事を運ようとして破談になった。

「あの娘には悪い事をしたな。」と顔をしかめた。今回はキクチヒコが実権を握るタイミングで、ゆっくり確実に実現させるつもり・・と打ち明けた。

「加えて、お前が今回の任務に成功するのも前提条件になる。ヤマタイ内でお前の発言力が高まる事が重要だ。」伊支馬がトシを睨みつけた。

キクチヒコに近いトシの存在感が大きくなれば、狗奴国との合体がスムーズに行くとの計算だ。

合体後の人事でキクチヒコを東征大将軍に据えるつもりなのだとの構想も口にした。トシが東方進出の足掛かりを作って置かねば、これらの計画全てが水泡に帰すことにもなりかねない。自分の役割は重大なのだ。

トシは自分が伊支馬の考える布石の一つなのだと理解した。そのシナリオで自分は主役としての長官ではない。先輩の露払いで長官に就任するだけなのだ。あくまで自分は脇役なのだと考えると不思議にプレッシャーが消え、楽な気分になった。

伊支馬はトシが不安に思う行政実務を補佐する為、ベテランで腹心の部下も付けてくれると約束してくれた。こうなれば、やるしかないだろう。

「もし、私が長官に指名されれば、ハラをくくって拝命致します。期待に添うべく頑張ります。」と宣言した。伊支馬、笑みを浮かべて頷く。


ヤマタイ国有力者会議が開催された。伊支馬が帯方郡からの軍事協力協定の提案について、韓半島の政治・軍事情勢を交えて説明する。

弁辰の鉄の供給が不安定化する事は鉄の交易を通じて潤い、繁栄を得ているヤマタイ連合として見過ごす事は出来ない。従って、この提案を受け入れ、有事の際には狗邪韓国へ出兵・駐留する事も視野に、今後、軍備増強に努める必要がある事を訴えた。

となれば各国に負担が掛かる事になる・・と一同の顔に陰りが走ったが、伊支馬はその中核になるのは、最も鉄の恩恵を受けている一大率及び邪馬台国である事を告げ、各国の負担増は限定的になるとの見通しを伝えた。となれば、特に異議が出る事も無い。

次の議題は魏が正使難升米、副使トシの処遇について問うてきた事である。難升米は以前からヤマタイ本国の将軍職にあり特に問題はないが、トシについては経験面、出自の面から、高い位を授ける事には異論が出そうだった。

かといって、魏帝から率善校尉の官位を与えられた者に、それなりの処遇をしなければ魏のメンツを潰す事につながる。


伊支馬は単刀直入に「私はオカの国の長官に推挙したいと思うが、皆の意見を聞きたい。」と述べた。

「オカの国?」「長官?」それぞれの言葉にざわめきが起こる。

「若輩の者が異例の長官に就任するのはいかがなものか?ましてやその者は、此処に居る有力者の子弟でも無い。こうした前例は、後に問題を起こしかねない。もっと差しさわりのない役職があるのではないかと思うが・・」伊都国王が口火を切った

「ごもっともな意見です。私とて前例のない人事は気に染まない。」

伊支馬は「しかし」と付け加えた。「オカの国がどんな国かご存知ですかな?」

今年の長雨で耕作地が全滅、万策尽きた状態。救済を求めてヤマタイ国への傘下入りを申し出てきた国である事に触れた。「申し出を仲介した隣国、不弥国の多模(たも)殿にお話しを聞こうか。」

多模が説明する。「オンガ川の中流域にあるのが我が不弥国、オカの国は河口にある小さな国です。オンガはとんでもない暴れ川で、毎年氾濫を繰り返しています。オカには平野はあるが、水が渦巻くので水巻ともいわれる地域で、農耕には適しません。災害時には難民が、我が国含め周辺国に入り込むので困っておったのですが、今回はいよいよ堪らず首長が手を上げてきた。不弥国の傘下に入りたいと言って来たのだが、うちのような小国には救済する力はないので本国に相談したような次第です。ヤマタイ本国がこの話を受けてくれれば流入する難民対策に苦労せずに済むのですが・・」

何だ、そんな国かと皆の関心が薄れたところで伊支馬が口を開いた。「確かに難しい土地のようだ。だからこそ、敢えてトシを長官に据えるのです。出来ればここを軍事特区にして魏の求める軍事力強化の拠点にもさせたい。小国といえど長官の地位であれば梯儁殿も堂々と報告出来よう。」

但し、と付け加えた。「再建が不調に終われば、当然、責任を取って左遷せざるを得ない事になります。国を豊かに出来ず、軍事力強化も上手く行かないとあれば、後に左遷を魏に知られたとしても、問題は生じませんからなあ。まあ、上手くやれば評価せざるを得ませんがね。ハハハ・・」

「そういう事ならやらせてみるのも構わぬと言えるかな。」伊都国王が納得した表情になり会議終了と思われた時、奴国の兕馬觚(じばこ)が手を挙げた。

「やはり、悪しき前例は禍根を残すと思うが・・」すかさず伊支馬が返答した。

「そう言われるなら兕馬觚殿の息子殿を長官に抜擢してオカの国の再建をお願いできますかな?受けてくれる人材探しに困っておったところです。上手くやられれば息子殿はヤマタイ連合国で破格の出世が約束されますぞ。」

「それは・・」と口ごもったが腹に据えかねる所があったらしく「元々は、難升米殿が勝手に副使にしたのがおかしいのではないか?」と話を変えてきた。難升米と兕馬觚、昔からソリが合わないのだ。急に自分にクレームを付けられて、難升米は憤然となる。


「そう言われるのなら何の病気だったか知らないが、ムリしてでも息子殿を朝貢団に参加させれば良かったのだ。こちらは、成り行き上やむを得ず、外交上の特例で副使に任命せざるを得なかったのだ。オタクには迷惑を掛けたと詫びてもらう事はあっても文句を言われる筋合いは無い。」息子の話を持ち出されて、兕馬觚も沈黙するしかなかった。

「まあ、まあ」伊支馬がとりなした。

「そろそろ会議をまとめましょう。それでは皆の方、魏の提案をヤマタイ連合国として了承する事で良いですな。今一つ。人事面では難升米殿を大将軍、トシをオカの国の長官にすると梯儁殿に報告する事に異議ありませんな。」皆が拍手して了承の意を表した。

「魏の意向に沿った対応をしておれば次回、243年予定の朝貢時にも、それなりの処遇が期待出来るでしょう。誰が選ばれますかな・・ハハハ」

首長の中には次回の朝貢団の人選を巡り、伊支馬にこっそり志願を打診する者が多くいたのだった。難升米が「洛陽でイイ思いをした」と吹聴してまわったせいなのかもしれない。

「それではお待ちかね。魏使を囲んでの宴を始めましょう。」と伊支馬が締めくくった。 


― 第六章 長官 ―


梯儁は二隻の船で帯方郡に向けて出発。トシも朝貢から帰国する迄の報告書を一大率長官宛てに提出した後は、オカの国に赴任する準備に取り掛かった。

相談相手は伊支馬がヤマタイ本国から派遣してきたベテランの行政官、ナカ。

ナカはトシが行政に関する知識に乏しいにも拘わらず見下す事もせず、丁寧に説明してくれる信頼のおける実務派官僚であった。

伊支馬から与えられたミッションは軍事特区の成功であり、倭国統一の足掛かりとなる東方進出の拠点作りだった。それに対し、現地の民が求めるものは治水等、農業の再建と異なっている。

農業再建でも成果を挙げねば自立した国としての評価は得られないし、何より現地の民の協力を得て兵士を育て、軍事特区として成功する事もままならない。どういう手順と方法で岡の国を変える事が出来るのか?

ナカは、まず自分が先に現地に赴き実情と問題点を調べる事にしたいと申し出た。その後にトシが長官として訪れた際、方針説明会を開催し、現地の協力を求めるようにしては如何ですと段取りを示してくれた。

ナカが当面の必需品と共に現地に赴く。現地の集落を束ねる首長達に個別に会ってヤマタイ国への忠誠を誓わせ、各集落の人口や被害状況、要望事項の優先順位を聞いた上で、必要な支援品を下賜、または下賜のスケジュールを組み立てる。

「その間、長官は御両親に挨拶しながらオカの国の将来構想を練っていて下さい」私が現地で得た情報とすり合わせて説明会で伝える基本方針を決定致しましょう・・という訳だった。


トシは両親に挨拶をする為、ケンと共に、梯儁から譲り受けた軍船を仕立てて、父が赴任している日向に向かった。船には海路、操船、天候判断にたけた、あのムナジィが乗船してくれた。これで無事に航海出来るだろう。

勿論、母は立派になった息子を見て感激してくれた。本来なら長官となる身では両親を引き取るべきなのだろうが、オカの国の再建に目途が付くまでは叶わない。失敗すれば左遷となり、しかも自分に与えられた使命は東方にしかない。先々は亡き祖母のいた故郷でゆっくりしてもらいたいと考えていた。


日向を出て豊の国に向かった。宇佐の港に寄った時、ケンがウサツヒコに会って行こうと言い出した。

ウサツヒコ、あの奉納相撲で学生チャンピョンを競った男だ。トシはウサツヒコが宇佐国の王子であるとの身分差から親しくしていなかった。が、ケンは同じ武人コースで同期のライバル。最初は反目しあった仲だが、卒業の頃には互いに認め合う相手として親しい間柄になっていた。

ウサツヒコは王府で歓迎会を催してくれた。オカの国に赴任するというと「小さい国だし、難しい仕事になるかも」と心配してくれ「まあ、上手く行かなければ、二人とも、うちの国で雇ってやるから存分に勝負したら良い。」と激励してくれる。

トシは帯方郡とヤマタイ連合国が軍事協力協定を結んだ事、それに関連し、オカの国を水害から再建するだけでなく、軍事特区としてヤマタイの軍事強化の要にする使命を口にしてアドバイスを求めた。

「ふーん、オカの国が軍事特区?」彼も王子として宇佐の軍隊を束ねる立場になっている。

「それなら、単に兵士を増やすだけじゃなく、海軍力を強化すべきだな。」と指摘した。

「オカの国はオンガの暴れ川のせいでつまらぬ国になっているが、そのオンガ川を逆手に取ったらどうだ?」と言い出す。

「それは、どういうイミだ?」ケンが訊ねた。

「邪馬台国が強大になったのはチクシ川をうまく利用したお蔭だ。治水をして農耕地を増やし、人口を増やした。それだけではない、チクシ川上流の森林から木材を筏にして運び、河口付近で加工して造船を盛んにした。伊都国や奴国が飢饉に苦しんでいるのに乗じて、それらに手を差し伸べると同時に韓半島の交易権を手にして、ヤマタイ連合の盟主になったのは二人共知っていよう。」

「そうだな。」

「オカの国とオンガ川、邪馬台国とチクシ川を対比してみたら良い。オカの国は邪馬台国と違って川の流域に広い平野を持たない。だから治水のメリットは乏しい。しかし、上流域には森林資源の豊富な周辺国がある。上流の国から材木を買って、オカの国で製材し、船を作って海運業をしたり、木材を必要とする鍛冶場を立ち上げて金属加工に乗り出してもいいんじゃないかな。この宇佐だって水産・海運でもっているようなものだからな。」

ケンも乗り気になった。「オンガ川はチクシ川に次ぐ大きな川だからな。面白いかもしれん。オカで軍船を作れば軍事特区構想にもプラスになる。海運業で久米一族やムナカタのツテと使えるのは強みだ。ウサツヒコ先生の宇佐と海運で提携する事も可能だよな。」

「まあ、うちにメリットがあればね。」

「大きい川だから氾濫する。それは欠点ではあるが、その欠点を利用するというアイデア。良いじゃないか。ウサツヒコ先生、変わったなあ。頭、良くなったんじゃないか?」

「さっきから先生だの、頭良いだのとかついでいるが、俺は元々、頭良いのだ。今頃判ったか。」ウサツヒコも満更ではなさそうに酒を飲み干した。

「欠点を利用して勝つ事をケンの相撲を通じて教わった。ケンも大きいが俺の方がさらに上背がある。しかし、お前は突進する俺の力を利用して、素早い動きで技を掛けた。俺のパワーを逆手にとって自分の欠点を生かしたのだ。」

「お前が頭良くなったのは俺のお蔭だな。」

「ハハハ、ま、そういう事にしてやるか。」


酒が進み、ウサツヒコが話を変えた。「「ところでケン。お前の彼女、チクシはどうなった?」ケンがトシを気にしながら慌てて否定する。

「いやあ。チクシは俺の彼女なんかじゃない。」

「嘘つけ。お前が俺に勝ってチャンピョンになった時、その目はあらぬ方向を探していた。そして、その先にはチクシがいたんだ。どうだ、ズバリだろ?」

「いやー参った。」やはりケンもチクシの事が好きだったのだ。

懐かしい名前が出た。それにしても所在不明、音信不通のチクシは何処に居るのだ。出てきて欲しい。長官として成果を出せば、チクシに求婚する事も可能だろうに。会いたい気持ちを押し殺すのにトシは苦労していた。


と、宴席にチクシが。いや、違う。大柄の女性だが、チクシに、どこか似た丸顔の可愛い顔立ちがひょっこりのぞく。

「おうウサツヒメ。」

「俺の妹でな。一大率学園で巫女学を学んだんだが、武道が好きで途中退学した困った奴だ。丁度良い、客人に舞でも披露せんか。」

ヒメは女だてらに剣舞を舞った。剣さばきは見事なもので重い剣をくるくる廻すパフォーマンス。と思ったらその剣をケンめがけて振り下ろす。ケンも流石のもので間一髪に飛び退いて難を逃れた。

「何をする!」とウサツヒコ。

「この人、兄者に相撲で恥かかせた敵でしょう。」

「バカをいうな。あの時は憎いライバルだったが、今では大事な友人だ。」

「そう、どうでもいいけど・・この人、身のこなしはまあまあね。」

「とんでもない事をする。トシ、ケガないか。」

「いや、大丈夫。もともと殺気はなかったし、退かなくても寸止めしてた筈だから・・。しかし、たいした腕だ。」興味深々の風情で娘を見た。

「おまえ、お酌でもせい。」

ウサツヒメは、うって変わった笑顔でトシとケンの間に入った。しかも若い女性特有の甘い匂いを漂わせていた。

「お前も、巫女らしくするか、嫁にでも行けばいいのに。・・・そうだ、ケン、こいつはどうだ。お前と兄弟になるなんて最高だ。」ケンがまんざらでもなさそうに頷く。

「こちらの殿御ならオッケーよ。あたし好みだし。」間髪入れず、ヒメはトシに腕を絡ませた。「この方、あたしが学園の新入生の時、朝貢団にいた人でしょう。カッコ良いし、長官になられてるってのも素適。この年で長官夫人なんて夢みたい。」

「トシには既に彼女がいるみたいなもので・・」ケンがうろたえたように釈明した。

「ザンネン!ならあたし、お兄様のもとで将軍になるわ。道場で剣の稽古してこよ」ヒメが去るのをケンが未練有り気に見送った。


ヒメは居なくなったが男三人、宴はなお盛り上がり、ウサツヒコは将来、オカの国で建造した軍船を沢山買ってくれる事になった。・・そうだ、ヤマタイ国から船大工をスカウトする必要がある・・ナカに相談してみよう。そして腕の良い鍛冶職人も。塩ジィか玉造の大将に相談しなければ・・

トシはウサツヒコの助言に感謝し、オカの国の再建のデッサンが少し形になってきたと感じていた。しかし、その前に農業の再建で民の心をつかむ必要がある。それにはどうすれば良いのか・・まどろみながら考えや想いがあちらこちらに浮遊する。チクシの顔が浮かんでは消えた・・。

なお、時代が下って大和朝廷の頃、宇佐国は重要な国の一つに数えられる事になる。大陸と本州に面した軍港として、宇佐、岡の湊、宗像の三つが、その拠点となるのである。


トシとケンを乗せた軍船がオカの湊に近づく。海辺にヒガンバナのような花弁の真っ白い花が咲いている。ヒガンバナの季節でもないのに・・と目を凝らすと、あたりから甘い香りが漂ってくる。それは浜木綿(はまゆう)の見事な群生だった。

オカの政庁に着くと副官のナカが出迎え、現状報告がもたらされた。今回の水害は流域の穀物耕作地をほぼ壊滅へと追い込んでいた。川には大量の流木が折り重なって積み上がり、それが川を堰き止めて自然堤防を崩壊させた事によると推定された。居住地の集落はもともと高台にあり、人的被害や昨年収穫の貯蔵品の被害はそれほどでもなかった。

しかし、これから大豆や大根などの野菜を植え付けても来年秋までの食料確保はかなりの不足となる。ほぼ全量をヤマタイ国の支援に頼らざるを得なかった。

国の規模については戸数六百。うち漁業五十戸、被害を免れた農家五十戸だから、国の八割が被害を受けているという。六百戸というと二千五百くらいの人口になる。これで軍事特区が出来るのか?

「流木はどうした?」トシが聞いた。「片付けは完了しております。使える物は一か所にまとめております。」「よし。それを使って仮設の市と、兵舎を作ろう。」と指示を出した。「市なら毎月二回の市が開かれていますが?」「「常設の市を作るのだ。一大率にある市のミニ版だがな。」

ナカは予想外の話に面食らった様子だったが「長官殿の構想をお聞かせ下さい。」と素直に従った。その後、二人はオカの国を視察した。海に面した北東の小山に登ると国全体が一望できる。


オカの国の各首長達を集めての施政方針説明会の前、トシは一大率に寄った。一大率の長官に会い、常設市場の開設許可を得るのと、伊支馬が許可している特別枠の鉄鋌をもらいうける為である。市場については、一大率の市場権益を犯す事にもなるので一定の上納金を払う条件で許可が下りた。

その足で塩ジィに会い、連れ立って、工房の建ち並ぶ西市場にやって来た。技術者のスカウトの為だ。

まず、玉造の大将に挨拶する。「お前、長官になったそうじゃないか。驚いた。」ニコニコ顔で迎えてくれる。「お蔭様で。お約束の出世払いが出来そうな身分に近づきました。」「あれは冗談だ。あの勾玉は塩ジィにやったも同然。受けられないな。」とつむじを曲げる。押し問答しても金は受け取りそうにもない。「では、私が新たに注文します。あれと同じ勾玉を作ってくれますか?」

大将の座った横に例のヒスイの片割れが未だ転がっているのをチラリと見た。これだ。これは自分をチクシとつなげてくれる、そんな宝物になる予感がする。

「長官にふさわしい物を身に着けなければならないので・・」と言うと「ほう。それなら話は違うな。今回はバッチリ儲けさせてもらうぞ。」

「客が来たなら接待せないかんな。おーい酒だ、酒だ。酒持ってこーい」またしても大将の仕事場が宴会場になる。大将が酒を注ぎながらこっそり囁く。「すみにおけんなあ。今度は誰を口説こうというんだ?」ニタリと笑って目配せした。

本題に入り、オカの国で常設市場を作り、そこで商う鉄製品の鍛冶職人を探していると持ち掛ける。大将が立ち上がり、隣から鍛冶工房の親方を連れてきた。

原料の鉄鋌が確保されている事、燃料の木材が調達出来る事を伝えると親方も乗り気になった。一大率では安価な木材の入手が難しくなって来ているのが、その気にさせたようだ。まずは農具、工具、軍刀を大量発注すると、早速ベテラン職人に親方の二男を派遣して炉を作り、支店を開設するのが決まった。

一方、船関係では塩ジィとムナジィが瀬戸内の航路を熟知する船長を紹介してくれ、海運業の手掛かりも出来た。船大工も塩ジィが紹介してくれた。オカの国が中国軍船を保有しているなら、その建造技術を盗みたいと、こちらもオカ支店の開設を即決した。ヤマタイの船大工と競わせれば、造船業もすぐにモノになりそうだ。大工は弓や盾を専門にする武器職人も紹介してくれると言ってくれた。

技術者のスカウトに目途が付いたところで一息ついていると、塩ジィが東部の市場を巡ってみようと言い出した。最近クスリ屋が出来て評判が良いと、ニヤリとする。


そこは同じ軒先で塩とクスリの両方を商う店だった。「藻塩はどうかね。普通の塩と違って味がまろやか。美味しいよ。」藻塩は塩ジィが考案した高級塩。手間はかかるが藻の成分が混じって普通の塩とは格段に違う味になるとヒット商品になった。ただ、気になるのは客寄せの声。その声に聞き覚えがある。

なんと、そこに居たのははキジと孫。(倭国名が付いた。まんま、サルタヒコという。)キジは武人コースを卒業してヤマタイ国の武官になったはずなのに・・・

「へへ。兵士で名を上げようと思っていたんですがね。クスリが儲かるんで行商を始めたんです。店も作っちゃって。ハハ」

「何故クスリを?商売人に?」

「ほら、チクシさんと背振越えしたじゃないですか。あの時商売が向いているとトシさんにも言われましたが、チクシさんにも言われたんです。私が調合したクスリを売らないかって誘われたんです。その儲けで施薬院を作りたいからって。弁論大会で宣言した計画の一員になりなさいと。あれ以来、商売の事が気になっててついに方針転換したんです。」クスリを売って施薬院の夢を実現したら良い・・とはトシ自身が吹き込んだ事だった。

「チクシと会っているのか?」思わず大声になる。

「いえ。結局一大率には戻って来られませんでした。ただ、チクシさんがやろうとしていた事を、あのミクモ姫がやり始めたんです。」

「ミクモ姫が?」

「薬園で研究されてるところで会って、チクシさんの構想を話したら、それはいいわね。って。」それで学園が休みの時、塩ジィの口利きで、塩屋の軒先を借りてクスリを売り始めたという。勿論、それはミクモ姫お手製のクスリなんだと。

最初はボチボチだったがだんだん評判が出てきて、これは行けると感じた事で退学を決意、本格的に行商を始めたという。退学は本来勝手に出来ないハズだが、ミクモ姫が伊都国王に言って、一大率に認めさせたという経緯だった。

「孫、いやサルタヒコはどうして居るんだ?」

「先日塩ジィのところで会いました。この人メチャ面白いんですよ。ほら、この蛤を見て下さい。中に軟膏が入ってるんです。傷に効くんですよ。容器に蛤を使うアイデアもサルタヒコさんのものです。だから、一緒に商売を広げて行こうと・・」

「馬の世話は?」塩ジィが横から口を挟んだ。「馬の世話のやり方は、大体教えてもらった。俺もこの店には出資してるんでな。キジのところで働いてもらう事にした。」と言う。塩ジィはいつまでたっても実業家なのだ。


トシはキジにもう一つ気になる事を質問してみた。学園の徐先生に挨拶に行った時、七か月前から消息不明になっていると聞いていた。徐先生はどうしておられるのか?

「ええ。私も心配してるんです。」声を落してキジが話始めた。

「難升米様が昨年帰られて、一年後にトシさんが魏使と帰るといわれました。ですから魏使と顔を合わすとまずい事があるのでその前に失踪したのでは・・と言う噂が流れているんです。」

「そんな事が?」

「実は私が退学の報告に先生にお会いした時、かねて言われていた徐福の足跡を見たいと言われたんです。そこで私も実家に報告しないといけなかったので徐先生が休みを取ったのに合わせて同行する事になったのです。」

徐福が上陸したという有明の海辺を見て、先生が驚愕されたのが印象的だったと言う。干潟の泥の海岸にはそこらじゅうに跳ね廻るムツゴロウ。紅葉鮮やかシチメンソウの群生。これらは徐福の故郷に近い連雲港にもあるものだったからだ。おまけに、その港から倭国に向けて出航したとの伝説もあった。

一緒に徐福ゆかりの地を廻った後、ある日突然「一大率に帰る」と置手紙があって消息不明になってしまった・・と言う事だった。

チクシが約二年前から消息不明、先生は約半年前に失踪か・・身近な人間が相次いで連絡が取れなくなるのは何とも違和感を覚える。

「徐福の不老不死のクスリの事にえらく関心を持たれていましたが・・」その時、サルタヒコの声がした。「徐福?不老不死?」先程まで店先で客引きしていたのが何時の間に近くに来ていた。こいつも徐福に関心があるのだろうか? 


皆でメシでも食おうとなって塩ジィの行きつけの、例の店に入った。そこでトシはオカの国で軍事特区構想を実現しなければならない事を話題にした。問題は現地の民が農業振興を求めているのに軍事力強化の為、兵士を募集出来るか?との不安にある。

「そりゃ、徴兵制を言い渡すしかあるまい。」と塩ジィは言ったが、それへの反発はどうする?

サルタヒコが「ギリシャのイソップ物語に北風と太陽がある。」と話し始めた。サルタヒコがわけのわからん単語を使うのに皆慣れてきている。それによると、旅人の上着を脱がせる勝負を北風と太陽がした。北風は力まかせに吹き飛ばそうとしたが旅人はしっかり押さえて耐えに耐えた。太陽が燦々と光を照らすと暑さに耐えきれない旅人は自ら進んで衣服を脱いだ。・・という寓話だった。皆は怪訝な顔で聞いていたがトシには感じる所があった。サルタヒコは何が太陽なのか、自ら兵士を希望するには何が必要なのか?と考えろといっているのだ。


 施政方針説明会の日がやってきた。

自分のような若輩者が地元の長老達に今後の方針を述べ、指示を出すのだ。重圧がない訳はない。副官のナカは釘を刺した。「最初が肝心ですぞ。首長達が何を言っても、まともに受けて動揺してはなりません。たとえ相手の言う事に理があったとしても、まず自分の指示を受け入れさせる事です。本当に採用すべき事であれば後に検討し、修正を加えれば宜しいのです。」

 まずナカが徴兵制について述べた。水害被害の集落の成人男子は全員来年の農繁期迄の兵役義務、女性や老人についても国の指示する復興作業に従事する事。被害を受けなかった集落や漁民集落についても交代制による兵役義務を課した。

 これには各首長達もビックリ。一人が思い切った様子で異議を唱えた。「我々がヤマタイ国にお願いしたのは農業の復興。治水事業に駆り出されるのはわかるが、兵隊になれとはどういう事です?我々は食べていける生活を望んでいます。話が違いませんか?」皆がざわめきだす。

「兵隊になれというのはヤマタイ国の盾になれと言う事ですか?我々は戦争で死ねと!」「被害が無い我等にも兵役を強制するのか?」首長達の目に怒りが滲み出る。

さあ、ここからが国の構造を変える為の大博打。バクチを打ったからには動揺は許されない。トシは刀子に触れ、伝家の宝刀、チクシを召喚した。こんな状況に負けてはならぬ。自分に根拠の無いパワーを充填させる。

「首長達。私の話を聞いて欲しい。」目をつむっていたトシは思い切り目を見開いて一喝した。同時にケンとその配下の兵士が立ち上がり首長達を威嚇した。ざわめいていた人々が静まる。「そなた達の不安を持つ気持ちは判った。」

 一呼吸入れて「これから話す事はオカの国を豊かにし、皆が安心して食える体制を作る事にある。しっかり理解し、それぞれの集落に持ち帰って説明いただきたい。」と述べた。「第一に徴兵すると言っても兵士は戦う事だけでは無い事。国を守るのが仕事である。勿論、軍事訓練には参加してもらうが、治水工事も立派な国を守る仕事になる。これにも従事していただく。」治水工事に携わると聞いて首長達も聞く耳を持ち始めた。

 「第二に兵士には働きに応じて俸給が支給される。オカの国の復興には膨大な財源を必要とする。その財源はヤマタイ国が捻出するのだ。兵士を雇うという名目が無ければ支払う事も出来ないのだ。」

「第三に我等はオンガ川を最大限利用する事にする。それが、オカの民を豊かにする道なのだ。」オンガに悩まされて来た首長達にはピンと来てないようだった。

「私はここの地形を見て、オンガ川が手ごわいと感じた。洪水の起きやすい形をしている。まともに戦って勝てる相手ではない事は、これまで苦労されてきたそなた達の方が判っている事だと思う。しかし、それはこの地で農業だけを営む場合だ。川を利用して生活を成り立たせる方法は幾らでもある。そうした事業にも取り組んでもらいたい。」

 「川は治水にて利用出来るようになるのじゃありませんか?」

「治水については分水路と遊休池を作る事で洪水被害を少なくするよう検討したい。しかし、この川を悪者扱いするのではなくモノを運搬する手段で利用したいのだ。モノが集まれば市が立ち、交易が生まれる。」

上流から木材を調達して筏に流す。オカの河口で木材を加工して船を作る。端材は燃料として鍛冶場で利用すればいい。作った船で木材自体を他国に運んで転売しても良い。売れる物は幾らでもある。漁師集落が採った魚介の塩干物。等々・・

 「そんなに簡単にいきますかいな。ここには大工も少ないし、鍛冶屋に至っては一軒もありませんぜ。」

「技術者は他国からスカウトしてくる予定だ。勿論、右から左にうまくはいかんだろうが、勝負は二年だ。二年で皆が以前より窮乏しているようなら責任をとって私は辞める。しかし皆が私の指示に従ってくれれば、この国は必ず豊かになる筈だ。協力頂きたい。」

 話は終わり、各首長達に鉄製の鍬と、漁民には鉄のハリが与えられた。この土産を持って集落に今回の施策を下ろしてもらう必要がある。集落の民達は今迄使っていた木製や骨製の道具との違いをリアルに実感する事になる。


 常設市を作った事と俸給として塩、米、貨幣を支給した事は民の意識を変える事になった。確実に俸給が貰える兵士を志願する者が増え始めて来たのである。

俸給で必要な物を買えるという体験が農業という上着を脱ぎ捨てる事につながった。その事は近隣の国にも伝わり、宗像の海人族にも海軍に加えて欲しいと志願する者が現れるようになった。ムナジイがトシの国を良いように宣伝してくれていた事もある。軍事特区のデザインが描けるようになった気がする。


 一年後、国の形が出来上がりつつあった。農業ではヤマタイ本国から持ち込んだ収穫量の多い穀物の種を使い、水害の予想される地区には昨年の洪水に耐えて実った数少ない種を蒔いた。この集落には納税率を緩める事にした。定期的に農業指導員が巡回しアドバイスを与える。兵士や職人に正規採用され、働き手が少なくなった家には鉄製の農具が貸し出された

 兵士も正規兵二百名、農家を兼ねる屯田兵百五十名を抱えた。政庁の傍に練兵場を作り、ケンの指導で訓練を重ねる。千名を超える成人男子から絞る事が出来たので、皆、精鋭の部隊である。海軍が主体で、軍船の操船技術習得を兼ねて海運にも携わらせた。ムナジィに操船の指導官になってもらい遠隔地では瀬戸内の海をナガト、スオウ、アキの国まで出かけて行った。

 交易面もオンガ川を下って来た木材を中心に取扱量が増えた。一大率市場の鍛冶場向けの薪不足が深刻になった結果、稼げる商材になっていった。市に参加する業者も増えた。キジもオカを拠点に、東方の瀬戸内地域にまで行商の巾を拡げていた。今日はそのキジが面会を求めて来ている。


 キジの情報はあまりに早い東方進出への足掛かりとなった。なんと、アキの国がヤマタイの傘下に入りたいと申し出ているというのだ。

アキは東にキビ、北に出雲という大国に挟まれ、軍事的脅威を受けているという。特に、今回、キビとの国境で諍いや小競り合いが頻発し、一触即発の雰囲気になっている。軍事力で劣るアキが、支援を受ける相手としてヤマタイ国に目をつけて、行商中のキジに仲介を依頼してきたのだ。

これまでの倭国には無い、中国式の大型軍船で瀬戸内海を航海したのが、軍事力評価の決定打になったらしい。実際は、オカの国の軍事体制は整い始めたばかりだが、アキの国が頼れる存在と評価している。この話はまさに千載一遇のチャンス。

アキの使者と会って、両国間の連携、傘下入りの話を内定したが、最終的には、ヤマタイ本国の了承、伊支馬様に伺いを立ててみなければならない。

 キジはアキの使者が退席した後、ニヤニヤして別の話を始めた。「へへへ。ところで長官。うちの事業に出資願えませんか?」

唐突に何を言い出すのか?

キジは瀬戸内地区で行商を始めているが、その規模を一気に拡大したいのだと言う。「最初は人を雇って教育したり、宣伝活動で、赤字になりますんでね。軌道に乗せるには先行投資が必要なんですよ。」

「そりゃそうだろうが、俺のポケットマネーなど、たかが知れてるぞ。」

「個人の出資じゃありませんよ。孫のナントカです。長官として、うちをバックアップして戴けないかと・・・」謎かけしてくる。

「孫?サルタヒコはお前の所で働いているのだろう?」と言いかけてキジの言いたい事がピンときた。その孫とは違いますよと、目が伝えている。

「孫子の兵法、用間編だな?」

「そうですよ。金を惜しみて敵の情報を知らざる者は不仁の至り・・です。」

成程。行商すれば、その地での様々の情報が手に入る。まして今回、不案内な東方の国を相手にするのだ。アキにしろキビにしろ、現地のナマの情報は少しでも入れておきたい。

「まあ。最初から質の高い情報は入手出来ないでしょうが、いずれは役に立つモノを差し上げますよ。」

「判った。こちらの方から先に頼むべき事だったな。」


 トシは急いでヤマタイ本部に出張し、伊支馬も直ぐに面会に応じた。

「オカの国は順調にいっているそうじゃないか。ナカから報告が来てる。」「お蔭様で。皆が期待に応えるべく頑張っております。これも物資と人材の両面で、伊支馬様のご支援あればこそ、で御座います。」

「ところで、今日は何用か?オカの国の状況報告の為に来たわけではあるまい。」

「ハッ。実は・・」アキの国が傘下に入る事を求め、ヤマタイの軍事力を頼みにしている現状を伝えた。

 「それは願ってもないニュースだな。向うからチャンスが転がり込んで来るとは。」冷静沈着な伊支馬も思わず身を乗り出した。

「しかし、ナガト、スオウを飛ばしてアキの国か・・かなり遠距離の飛び地になるわけだ。」キビとの戦争になった場合、ヤマタイ本国からは、アキに駐留するであろうトシの支援に向かわせるのが困難である事を問題とした。

 「そこでお願いに上がりました。」トシはヤマタイ国から鉄製の武器、武具を拝借したいと申し出た。兵士の数ではアキの兵とトシの兵を足してもキビに劣る。ただ、キビの装備は旧式の青銅器ままと思われる。

だから、アキの現地兵を訓練し鉄の装備をさせれば・・。その装備品を、ヤマタイ本国に支援してもらえば、キビに対抗できると考えたのだ。

加えて、一大率と宇佐の軍船を瀬戸内の海に派遣してもらうように依頼した。海上から、キビを威圧し、ナガト、スオウを牽制する狙いがある。

 「わかった。お前の言うよう手配しよう。ただ、戦争を甘く見るではない。キビとの本格的な戦争は出来るだけ避け、時間を稼ぐ事。もう一つ、その間にナガト、スオウの一部でも調略して、勢力を拡大させる事に気を配れ。」

「無論そのつもりです。戦う事なくヤマタイの版図を広げていきたいと思っています。」

「ナガト、スオウまでヤマタイ傘下になれば、いよいよXデー。キクチヒコとの計画実行だ。わかるな。」


ヤマタイ本部を退出して、気がかりになっていた祖母の墓参りをする事にした。お墓にこれまでの事を報告した後、久し振りの誰も居ない実家を訪れる。

オカの国が軌道に乗ったからには、両親にここに戻るよう打診してみる必要がある・・と考えながら戸を開けると、家財道具は昔のままにキチンと整理されていた。

木製の引き出しを開けると祖母の衣服類。懐かしさに取り出してみると、下に鏡が置いてあった。これはチクシの・・。突然、年配の女性の声。

 「誰かんた。誰ぞ居るきゃんた?」戸を開けると、隣戸のオバさんの顔が現れた。

「あんたトシじゃないか。泥棒かと思ったよ。誰もいないはずの家に人の気配がするき、えすかごとあった。ほんなごつトシやね。立派になって・・」トシが長官の身分を表す身なりで居る事に気付いたようだった。

祖母が亡くなる時、さぞかしこのオバさんに世話になったのだろう。トシはお礼を述べた。

「うんにゃ。あたいはなんもしとらんよ。お婆ちゃんの世話係として、遠い親戚の娘がきてござった。日向のご両親が手配しなさったとやろうけど・・」そんな事だったのか。

「生前はオバさんによくして戴きました。有難う御座います。」「オババはあんたの事、いつも気にかけてござったよ。会えなかったのが、唯一、心残りやったろねえ。」そう言われてトシの目が潤んだ。

「あれー。長官様には涙は似合わんとよ。」「お恥ずかしい。」と答えるのが精一杯で涙がとまらない。

 

 祖母の形見でもあり、チクシの思い出の品でもある鏡を手にして家を出た。それからは・・頭の中から離れないモヤモヤしたもの。それに突き動かされて歩む道。

 フッと気が付くと坂道を登り、ヒミコの館の方角に向かう。行ってどうなるものでもないのに心が納まらない気持ちだった。

 チクシと連れ立って訪れた館の裏門。そこには、あの日と同じ夥しい兵士が居て、その者達に取り囲まれる。進み出てくる責任者。

 「何用でしょうか?」長官の身なりをしていたからこそ、言葉は丁寧だが、目は厳しくこちらの動きを観察している。

 「いや、用と言うほどのものではないが・・ここに居る巫女が私の友人で、元気でいるのか訊ねてみたかったのだ。」

 「長官殿。ここが男子禁制であるのは御承知されている筈と思いますが・・」

 しかし、そう言いながらも特別に、取次だけはしてもらえる事になった。ところが門の向うから来た回答は「チクシという名の巫女は居ません。過去、在籍した事も有りません」だった。

 「そんな。馬鹿な・・」呻くように呟くのが精一杯。ここに居ても、詮方なし。不審の眼差しに送られてその場を立ち去るしか無いのだった。後味の悪い想いと共に帰路に着く。


トシは伊支馬から借り受けたヤマタイの武具一式と共にオカに帰り、アキの国に行く準備に着手した。先発隊としてナカとケンに行ってもらう事にする。

オカの国の場合と同様、ナカには先方の首長達にヤマタイへの忠誠を誓わせ、現地の行政の実態や経済状況を把握してもらわねばならない。ケンには兵士のレベルや軍備の実態を調べ、実戦的な軍事訓練も始めてもらう事にした。その後トシが本隊を引き連れフクヤマの港から国府のある府中に向かう事になる。

 ナカとケンが戻って今後の方針の協議をしたが、問題は国入りのやり方だった。アキがこちらに期待しているのは軍事力。キビの国もこちらの軍事力に注目している事だろう。両国に威圧感を与える国入りにしてこそ、アキの忠誠度を高まらせ、キビに慎重姿勢を取らせる事で、結果的にアキの防衛力を増強する時を稼ぐ事が出来る。効果的にアピールする国入りとは・・

 一大率と宇佐の軍船を護衛艦にして、大船団で航行すればキビのみならずナガト、スオウにも脅威を与えながら上陸する事が出来よう。

ヤマタイ国から譲り受けた武器を、見せ付けるように行進するのは当然だが、それだけではインパクトが足りない。軍事力だけでなくで先端的なイメージを植え付けさせるにはもっと目立つ国入りが欲しかった。

 「牡馬を塩ジィのところから持ってくるのはどうだろう。」とケンが提案した。この地域では見た事もない動物に、ケンが鉄の甲冑に身を固めて乗馬、先導役を務めれば、迫力が増すだろう。「それは良い。」

先頭の兵士に色取り鮮やかな幟を持たせて行進すればハデな演出になる。「ならば、私も孔明の恰好にするか。」洛陽で手に入れた羽扇に綸子、中国式の服装にすれば人目を引く。ついでに玉造の大将に作ってもらった勾玉をお披露目するかと考えた。

「どうせなら、もっと派手に行きませんか?」キジが口を開いた。「クスリを売るには人々が評判を広めてくれるのが一番。店の前で手品や曲芸をするんです。・・これはサルタヒコのアイデアですけどね・・」

「おいおい。これは軍事力を誇示するPRなんだぞ。クスリと一緒にされちゃあ・・」

トシが傍らにあった羽扇をくゆらすと、何かピンと来るものがあった。「うん。それは良いかも・・。それでいこう。」

トシは明帝の死後、新皇帝曹芳が即位式を行い、洛陽をパレードした事を思い出していた。あの時にも曲芸師が先頭で前触れを兼ねて衆目を集めた。その後楽隊が演奏し皇帝の行列が続くのだった。あのアミューズメント性は新支配者に期待感と親近感を抱かせる効果があった。楽隊の代わりにケンの馬に鈴を鳴らさせながら行進すれば面白かろう・・


アキへの国入りの当日。ウサ国の海軍がやってきた。先頭にいたのはウサツヒメ、兄の名代として凛々しい将軍姿があった。ケンがいつになくニヤけた顔で手を振ったが、それには答えず、トシにウインクする。 

 兎も角、ウサとオカの大船団は睨みをきかせて瀬戸の海を行進した。出来るだけハデにしようと、色鮮やかな幟や旗がひるがえるようにさせた。アキの港に集結し、いよいよ陸行のイベントが始まる。

  

 アキの国の民達は口をあんぐり開けたまま、トシ達の国入りの行進を眺めているだけだった。周辺国にもこの噂は伝わり、得体のしれぬヤマタイへの関心と警戒と強める事になった。


国府に入ったトシ達はオカにおいてと同様、今後の施政方針をまとめ、現地の首長達に下さなければならない。まずはキビ国との国境警備が優先される。オカの国から連れてきた正規兵百五十名のうち百名、現地のアキの国の兵士二百名と合わせ三百名体制で国境をガードする事にした。総大将はケンである。

 ケンに国境警備を任せた後、キビの国で行商に当たっていたサルタヒコにキビの動向について訊ねた。今のところ活発な兵の動きや軍需物資の移動集積などの兆候はみられないという。アキの国がヤマタイの傘下に入った事で、とりあえず静観し、新体制を見定めてから動こうとの考えのようだ。

 情報ではキビの兵力は正規兵だけで二千人を上回る。アキの国の倍以上だ。早急に一般の民に対する徴兵を行い、軍事訓練を施してこれに備える必要があるが、国境はキビだけではない。その他の国に対する備えも残す必要もある。少ない人数で周辺国から防衛する体制を築くやり方が問題だった。


 サルタヒコが「ローマを見習ったらどうです?」という。トシはまたイミ不明のローマが出てきたと思ったが、一応その話に耳を傾けた。

 ローマは周辺諸国に比較して圧倒的な兵力を有している。しかし、領土は広大でその国境すべてに十分な兵力を配置する事は財政上ムリな事だった。

そこでローマが考えた効率的に国を守る体制を敷く方法は、道を整備する事だった。国境の拠点は少人数にしておいても、イザという時に大軍が迅速に移動出来る平坦な道を作っておけば、機動部隊が直ちに救援に向かい、敵の侵入を防ぐ事が出来る。

道を整備しておれば、敵の襲来の情報も素早くもたらされる。情報連絡網と道の整備で国を守るやり方が「すべての道はローマに通ず」との格言で示されているという。それに道の整備は物資の運搬を容易にし、交易が盛んになるというメリットもあった。

  

 アキの首長達を集めて、国防を議題にした施政方針会議が開かれた。皆は徴兵体制の強化を言い渡されるものと覚悟していたが、トシはそれを、予想を大きく下回る規模にとどめ、メインの施策を道の整備として首長達の協力を依頼した。

 まず、キビとの国境から国府を結ぶルートを手掛け、スオウに向けた横断道路をつくるという。既存の道の道幅を広げ高低差のあるところは切土と盛土で平坦にする。

 首長達は耳を疑った。当時の倭国の常識では道を拡げ、平坦にならす事は、防衛上の禁じ手。敵の侵入に有利ではあっても防衛の役には立たない。何故、そのような事を指示するのか?と首をひねる。

勿論そのリスクはある。キビが倍以上の兵力をもって国境を突破すれば、一気に国府に進軍され、国は即、滅亡の危機に直面する。それを承知でトシは命令を下したのだ。

 工事は突貫工事で進められた。老若男女を問わず交代で動員をかけて半年もせずに完成させた。高地は切土で両側に排水路を設ける。低地は盛土だが、崩壊を防ぐ為、草や小枝を敷きその上に何層にも渡って土を突き固める版築(はんちく)工法、中国で視察した土木工事の手法を導入した。盛土の周りは窪地になって水が溜まるが、これを調整池にして不毛の湿地帯を農地に変える事も出来た。

 工事が完成し、徴兵した兵士の訓練が終ると、一応の防衛体制が整ったと言える。

キビとの戦乱はいずれ避けられそうにない事態だが、それならいっそ、周到な準備でこちらから仕掛けてみようか・・


 国境警備の兵士を思い切って大幅に減らし、国府に移した。国境の防衛体制が手薄になり、キビの国に侵略してくれと言わんばかりになる。しばらくしてキジの情報網から連絡。キビの動きが活発になっているとの情報がもたらされた。

 或る日、百人足らずが立て籠もる国境の砦に千人のキビ兵が押し寄せた。ついに国境を越えて侵攻が始まったのだ。・・勝負は一時間もせずアキの国の圧倒的勝利で決着した。

周りを取り囲まれ矢の攻撃を雨あられの如く受けたキビ兵。隊列を乱したところに鉄刀を持った俊敏なアキの兵が襲いかかる。キビ兵は矢傷を受け、重い青銅器の武器で応戦するが逃げるのに精一杯。とどめは上から横から油を振り掛けられ、松明を持ったケンが降伏を求めたところ。キビの将軍達は、あっけなく投降を申し出た。

キビ兵の武器・武具が山と積まれ、これを没収される。丸腰のキビ兵は手足を捕縛されあっけなく捕虜となった。その数八百。本国に逃げ帰ったのは百人ソコソコだった。

 キビの軍団も偵察を使って守備が手薄なのを確認して侵攻を開始したはず。それが一夜にしてアキの兵が砦付近に集結、潜伏していた。この想定外の為に大敗を喫したのだ。それは情報力の差に他ならない。

 前日、キビが進軍の準備が完了した事を、サルタヒコが最前線の砦に知らせて来た。その情報は狼煙で、見通しが効かない所は馬を駆って国府に届いた。国府に待機していた中央軍がすぐに進発、夜半には国境付近に到着して、キビ軍を待ち受けていたのだ。


 将軍ケンはキビ兵の死体百と重症の傷兵五十人を即日キビ領内に引き渡した。看護する余裕はなく、残る七百余りを国府に送還し獄舎に収監した。捕虜の中に、初陣の若きキビ国の王子、キビツヒコが居たのは驚きだったが、我等には幸い。今後、交渉を有利に進める切り札になる。キビとしては必勝を確信して王子に戦功を与えるチャンスと、今回の戦いに参加させたのだろう。投降が早かったのも、王子の帯同があったからかもしれない。

三日後、キビの宰相が金品を携えて国府に到着した。捕虜の返還を申し入れにやって来たのだ。勿論、王子を取り戻す事が最優先課題なのだろう。交渉はこちらペースになるのは明らかだった。トシは余裕の表情で羽扇をくゆらしながら宰相と対面する。トシの若さと孔明もどきの姿に驚いた様子だった。

 「金品は傷兵を引き渡した見返りとして貰い受けよう。」宰相は恐る恐る「捕虜の返還をお願いしたく存じます。つきましては条件をお伺いしたいのですが・・」

「我が国は貴国に、唯の一歩も踏み入れた事がないのに、貴国は侵略を企てられた。この責任は高くつきますぞ。」

 トシは三つの条件を提示した。一つは領土問題。アキ国が主張する線引きに同意し、今後、侵略する事がなきよう書面で約束する事。二つは一方的侵略に対する賠償金、三つは両国間で交易を盛んにするする事・・「経済的結びつきが強まれば両国の平和にも資するというもの・・如何かな?」

 宰相は「私共の領地を割譲せずとも宜しいのですか?」と拍子抜けの様子だった。賠償金の額は想定以上だったらしいが、こうした交渉で領土割譲が無いのは、当時の倭国での戦争では異例の事だった。  

「我が国は貴国を侵略する意志は御座らぬ。貴国とは平和を望む者ものと、王に申し伝え下さい。」宰相は「只今の条件、責任を持って王の承諾を取り付けます故、一週間のご猶予を下され。」「期限が過ぎれば貴国の捕虜は当方で自由に処分いたしますのでご覚悟戴きたい。」と交渉は終了した。

 トシは何より休戦の協定を得たいと思っていた。武器を接取し、多額の賠償金を得れば、キビが元の軍事力を取り戻すには時間がかかる。その間、賠償金を原資にアキ国の周辺にあるスオウやナガトの部族を調略するのが得策に思えた。キビが以前の脅威を取り戻す迄に、こちらがそれを上回る国力、軍事力をつければ良いのだ。


 トシは243年、伊支馬の元を訪ねた。アキの国が一応の安定を見せ、今後は周辺への勢力拡大を目指す段取りになっている事を報告するためである。もう一つ、蚕を使った絹糸の生産開始も願い出た。

塩ジィが以前「東方には絹を欲しがる者が多い」と言っていた事を思い出したからだ。アキにも絹を吐き出す蚕の好物、桑の木があった。絹は倭国で邪馬台国に限定された特産品だが、東方諸国にも憧れの商品をして人気が出ていた。軍事力と並んで、これを東方進出に利用できるのではとの思いがあった。今から手掛けてもモノになるには五年は掛かるだろう。

 伊支馬は絹糸の生産開始については技術流出しないよう官営での生産管理を条件に承認してくれた。その生み出す財源でもって、アキからさらに東方へに向かう原動力にすべしとの見解を示してくれた。

「そうか。上手く行きそうか。いいぞ。早速キクチヒコに、お前の活躍を知らせねばならんな。」

なんと、近いうちに伊都国ミクモ姫との婚儀を無理やりにでもまとめるつもりだと、笑顔で話始めた。倭国統一の為にはキクチヒコも今度は承諾するだろう。伊都国と狗奴国が姻戚関係になれば、狗奴国・ヤマタイの合体に反対する勢力も封じ込める事が出来るからだ。Xデーは近い。

伊支馬は更に「中央集権体制に向けての布石も打ち始めているのだ。」と明かした。

今年は、前回よりはるかに豪華な品と共に朝貢団を洛陽に派遣していた

使者として大夫の伊声耆(いせいき)、掖(や)邪(や)狗(こ)など高官八人も送り出している。希望者が多く絞りきれなかったのと、長官達の視野を広げ、中国の中央集権体制への理解を深めさせる狙いという。

自分の権益だけしか考えない狭い為政者から少しは変わってもらいたい・・との思いがあった。

加えて今年から各国の高官レベルでの人事交流を図り、ゆくゆくは各国の王達の屋敷を邪馬台国にも作らせ、親族を住まわせるようにしたいと考えているという。 

「五年後、十年後とおもっていたが、早まるかもしれんな。いや、早めねばならぬ。」・・そう言った時、伊支馬がゴホゴホと妙な咳き込み方をした。

「伊支馬様。御加減が・・」

「ハハハ。心配するな。この計画は俺の目の黒い内に実現させねばならぬ。キクチヒコに天下統一の美酒を味あわせてやらねば・・」伊支馬には子供がいない。まるでキクチヒコを息子のように思っているような言い方だった。

 

 それから一年が過ぎた頃。そろそろ伊支馬様の仲立ちでキクチヒコとミクモ姫の縁談がまとまるのでは・・と思っていたが一向にそんな噂は立たなかった。

それどころか、ナカがアキの現状報告の書簡を送っても返事がない。ナカを使いに出して様子を探ってもらう事にした。

 ナカが戻って、ショックな情報を持ち帰った。血を吐いて病気療養用中だった伊支馬が倒れて亡くなったと言う。ナカがヤマタイ本部に着いたときにはもう手が施せない程の危篤状態だった。


 伊支馬は遺言を三通、用意していた。一つは後継者と目される、次官、弥(み)馬(ま)升(しょう)宛てのもの。トシの東方への進出の支援体制を維持する事、狗(く)奴(ぬ)国のキクチヒコとの縁談を通じて同盟から合体への道を進める事、中央集権への道を段階的に探る事が記されていた。

 一つはキクチヒコ宛て。倭国統一への足掛かりが出来ている事から、早まった言動を慎んで機を待ち、弥馬升の提案に前向きに対応する事。そうすればキクチヒコの夢が叶うだろうと諭した。

 一つはトシ宛て。自分の死に関係なく、支援体制は継続させるので、与えられた任務を遂行せよ。との指示であった。

この遺言により身分保障はされたものの、後ろ盾を失った喪失感が重くのしかかる。司令塔がいなくなった今、倭国統一の計画はどうなるのだろう。ナカも弥馬升がイマイチ優柔不断で日和見なところがあるのを気にしていた。

 それにしても伊支馬とキクチヒコの関係は普通ではないように感じる。

その事を口にすると、ナカが「実は、伊支馬様とキクチヒコの母は恋仲の関係にあったようです。」と漏らした。将来を約束し合った二人。だが緊張状態にあった邪馬台国・狗奴国の関係改善の為に、狗奴国に嫁入りせざるを得なくなった。

政略結婚に引き裂かれた二人。子供のいない伊支馬がキクチヒコに対する思い入れを強くしているのは、その話で合点がいく。伊支馬様の想いが通じて今後、キクチヒコを東征大将軍とする倭国統一のシナリオが進めば良いのだが・・。

 

 245年。帯方郡から緊急の連絡がもたらされた。高句麗が辰韓の北にある濊(わい)の国を支配下に入れたというのだ。

濊はもともと高句麗と同族。漢代末にも高句麗の支配下に下った経緯があると梯儁が言っていた。その梯儁がチョッカイを出していると危惧していた、高句麗進攻の事態が現実となったのである。 

濊は、弁辰の鉄の配分の権利も得ていた。そこが倭国の利害にも及ぶ問題点である。濊が高句麗についたと言う事は、高句麗が弁辰の鉄に大きく関与してくる可能性も否定できなくなる。 

これは魏としても看過出来ない事であり、既に高句麗征伐を計画、実行に移さんとしていた。計画では、帯方郡も楽浪郡と連合して子分になった濊を打つ事になり、協定に基づいて、ヤマタイ国に韓半島への駐留軍派遣を要請してきたのだ。

 難升米を総大将とする千名の派遣団が組成され、トシのアキ・オカの国が半数の五百名を出す事になった。ケンが難升米を補佐する副官となり狗邪韓国に渡海する。帯方郡から魏の友軍の証となる黄幢(おうどう)が授けられ、狗邪韓国の陣中に高々と掲げられた。

 韓半島に於ける親高句麗と見られる勢力を牽制する役目だったが、それも一年もせずお役御免となった。

玄菟(げんと)郡から母丘倹(かんきゅう)率いる魏軍一万が出発、対する高句麗王・位宮(いきゅう)の二万を打ち破って首都、丸都(がんと)山を破壊したのだ。司馬懿(しばい)のもとで戦い方を学んだ母丘倹は、今度は上手くやったと言えるだろう。 

 また別動隊として楽浪郡太守・劉茂と帯方郡太守・弓遵は濊に進軍した。こちらの方も簡単に問題解決する事になった。位宮敗走の知らせを聞いた濊の不耐(ふたい)侯(こう)はあっけなく降伏したのだ。これで高句麗も暫くはおとなしくならざるを得ないだろう。


 ケンが凱旋してきた。「ご苦労だった。」と声を掛けると「なんの。海を渡って難升米殿の酒宴に付き合わされただけだった。」と事もなげに返した。

 同じ経験をしたトシが「ハハハ、呑みすけの難升米様に気に入られたな。」と言うと「難升米様の話は面白くて楽しかったが気になるハナシがあったんだ。」と顔を曇らせた。

 狗奴国と邪馬台国の間で領土問題が再燃しそうだというのだ。国境をめぐる争いだけでなく漁業権をめぐっても諍いが起こっているらしいのだった。

難升米殿は「狗邪韓国駐留が終ったら、いずれ狗奴国征伐となるだろう。おぬし達の参加を待つまでもないとは思うが、万が一の時には期待しておる。」と言われたという。

「先輩と戦うなんて御免だぜ。」

ケンの言葉には同感だ。それにしても伊支馬様が進めておられたハズの、狗奴国との和解や縁談の話はどうなっているのだろう?

 

 アキの国を平定しナガト、スオウの過半を傘下に入れるという伊支馬から与えられたミッションは、一応の成果を見せていた。鉄製農具を貸し与え、農業生産力を向上させる見返りに、徴兵して軍事力も高める事が出来ていた。だからこそ、先の出兵も可能になったというもの。兵士に渡す俸給は市場を活性化させ、交易も盛んとなっていた。

一大率学園にならいヤマタイ学園を開設。武人コース、書記官コース、農業等技術指導官コースに分けて、首長達の子弟、及び推薦により有能な若者を準公務員として採用した。

 こうした施策は国を富ませ、軍事力で安全な暮らしを保証されると周辺国にも評判になりヤマタイ傘下に入りたいと申し出るナガト・スオウの村落も少なからずあった。

だが、この動きを加速させる方法はないものか。早く達成できれば、自分にもヤマタイ連合国内での発言力が与えられ、自ら狗奴国との連合を弥馬升殿に具申出来るかもしれない。・・とも思う。


 珍しくサルタヒコの訪問を受けた時、何かいい考えがないか尋ねてみた。と、このアイデアマン「孔明のマジックを使ってみたらどうか?」と言いだす。

 倭国には古くから占いや予言を言い当てる事で、民に影響力を与え、首長になっている者が多かった。

ならばヤマタイが神がかりな予言を行い、それが事実になれば周辺国の首長達の中にヤマタイになびく者も現われよう・・というものだが、かなり胡散臭(うさんくさ)いやり方だ。

それでも戦う事なく傘下に入る首長達が増えればそれに越した事はない。ダメもとでやってみるかと話に乗った。


 スオウ、ナガト地方に奇妙な噂が流れた。247年三月二十四日夕刻の太陽が細る。ヤマタイ式の、太陽に見立てた鏡を祀れば難を逃れる事が出来るが、そうでない集落には何が起こるかわからない・・というものだった。勿論、まき散らされたウワサの出どころはキジのクスリ行商部隊である。

 果たしてその日、夕刻。日が沈む前の丸い太陽が、いつの間にから三日月のように欠けていく、部分日食が起こった。サルタヒコがローマで学んだ天文学で計算したところ、北部九州と瀬戸内エリアでは、その日と248年九月五日の早朝に日食が起こると出た。計算通りの結果になったのである。

諸葛孔明も過去の天候データや星の運行をみながら作戦を立てていた。赤壁の戦いで風向きを予想し、圧倒的優位の魏の曹操をコテンパンにした話は有名だ。それと同様、科学を利用した今回の占いが上手くいけば、もう一度神がかりが出来るのだ。

 効果はテキメン。ヤマタイ傘下に入りたいと申し出てくる集落が相次ぐ事態となった。一大率市場の青銅器・鏡工房に注文を出すが間に合わない。原材料となる青銅はキビとの戦いで没収した武具を鋳潰して提供するのだが、鏡に加工するのに時間がかかるのだった。

 この神がかりはヤマタイ式祭礼への関心を膨らませる事になった。これはチャンス。トシは、ヤマタイ学園に巫女学コースを創設する時期とも考えていた。

国なり集落には、それぞれの多様な神が祀られていた。これらを否定する事なく、まとめるやり方。統一した様式で祀るようにすればヤマタイへの忠誠度も高まり、なにより国としての一体感が得られる。勿論、その頂点には日の巫女である卑弥呼様が君臨される事になるのだ。 


第七章 乱


 スオウ・ナガトまでも過半を傘下に置いた今、これでヤマタイ本部に行き、弥馬升様に倭国統一を目的とした狗奴国との連携の動議を提案。それが出来るかもしれない・・との甘い見通しは完全に打ち砕かれた。懸念されていた狗奴国と邪馬台国の間に戦乱が勃発してしまったのだ。

 きっかけは、やはり二国間の領土境界問題、そして有明海の漁場をめぐるトラブルだった。本部の長官は伊支馬から弥馬升に、次官も掖邪狗に変わっていた。この二人の外交手腕では話し合いでまとめる事が出来なかった。かねてより狗奴国討伐を唱えていた難升米将軍が強硬姿勢を打ち出して、緊張状態が増すばかりとなる。

 その折、国境付近の住民同士の小競り合いで邪馬台国の海人族の一人が死亡した事から事態は急展開する。

これに怒った海人族代表の難升米が兵を率いて狗奴国に進攻したのだ。これまでの両国間の争いでは、どちらかが侵攻し、しばらく両軍が睨み合った時点で和平交渉が持たれるのが通例だった。お互いに相手の王宮を脅かすような全面戦争のなる事は避けられていた。

それが今回、狗奴国の痛烈な反撃で押し返されたばかりか狗奴国が邪馬台国の領土に大きく侵入する事を許してしまった。難升米の誤算は狗奴国の軍事力を以前と同じとタカをくくっていた事。総大将キクチヒコの指導のもと、格段の強化が成し遂げられていたのだ。

 ヤマタイ本部は邪馬台国本国だけでは対応不可と判断、連合国への支援要請と共に協定に基づいて帯方郡にも使者ソシアオを送り状況を報告した。翌年春、帯方郡は塞曹掾史(さいそうえんし)の張(ちょう)政(せい)らを派遣する事を決めた。張政は黄幢を携え一大率に到着した。


 「待ちかねたぞ。」トシとケンが総大将難升米に挨拶する為、本営の陣地を訪れた。陣地内は静まり返っていて戦争が今にも始まるとの緊迫感はなかった。矢部川を挟んで狗奴軍団とヤマタイ連合軍の睨み合いが続いて、膠着しているかのようだった。

 「遅くなって申し訳ありません。周辺国に警戒すべき状況があり、発進準備が手間取りました。本当はキクチヒコとの対決がイヤでグズグズしていただけだが、そうは言えない。「しかし、こちらに参りました以上は最前線にて活躍する所存で御座います。」

「おう。久し振りだな。トシ達には東方に専念してもらうつもりでいたが、俺の見通しが甘かった。悪いが頑張ってくれ。」

難升米はヤマタイ連合軍及び狗奴国軍の布陣を地図にして示した。トシ達には矢部川ほとりの丘に陣地を構え狗奴国軍を牽制してもらいたいと言う。

トシの軍団は二千人。アキの国の守りを最少にして主力の殆どを連れて来ていた。この軍団の兵士数は難升米率いる邪馬台国軍に次ぐ規模だが、装備等を勘案すれば連合軍随一の内容かもしれない。難升米が頼みとするのも肯ける。

ただ、ここにきて和平交渉も始まったとも難升米は明かした。緊迫感が欠けるのはその為という。

「あれの効果だな。」難升米が指差した先には黄色い旗指物がはためいている。

「あの時の!」ケンが声を発した。狗邪韓国に駐留した時に帯方郡から授与された魏の友軍との証の黄幢だった。

帯方郡の使いが、この旗と共に両軍に対して和平勧告の檄文を送りつけたのだ。既に檄文に基づいて和平交渉は始まっていた。しかし、交渉を有利に展開させる為にもトシとケンが陣地に大きな砦を築き、軍事演習をして示威活動を行って欲しいというのが難升米の依頼なのだ。それに、万が一、交渉決裂の際の戦闘開始の場合にも味方の士気向上が図れるという訳だ。

「早速取り掛かりましょう。」と難升米に別れを告げた。 


 本営を出て割り当てられた陣地の戻る道筋。連合国各国の部隊が来るべき戦争に向けた準備を進めている。中で伊都国・一大率軍の隣に、女性だけの異質な陣営があった。炊き出しや救援活動を行う女子の部隊である。そこには後方支援として負傷兵の介護や治療にあたる巫女の一団がいた。

通り過ぎようとしてケンが「アッ」と声を出した。介護に使用する薬や布切れを担いでる男、サルタヒコが居たのだ。 

「おっ。こんなところで出会うとは。どうした?」

「ヒヒ、私はミクモ姫の薬を扱う出入り商人ですからね。手伝っているんです。」

「そうだったか。」

「ここの隊長がミクモ姫なんです。いやー。あの方はいつまでも美しい。クレオパトラ以上ですね。ヒヒ。」白い歯を剥き出しにする。

サルタヒコ、祖国に帰らず、居付いてしまっているのは、ミクモ姫の存在があるからかも知れない。

それにしてもミクモ姫の心中も複雑だろう。あのキクチヒコとの戦争に参加するのだから。 

 

 ケンはテキパキとした指示で狗奴国のそれに負けない大きな砦を築いた。その前で敵軍に見せ付ける様に訓練を重ねる。一糸乱れぬ隊列の動きが、出来れば抑止力の方につながるのを祈る。和平が成立して欲しいとケンもトシも思っていた。


 その時、ヤマタイ本部から伝令が来てトシに出頭命令が届いた。何事かと本部に急ぎ、長官室に入る。弥馬升と掖邪狗が待ち受けていた。 

 「そなたにヤマタイ連合国を代表する使者として、キクチヒコとの最終交渉に当たってもらう事になった。」開口一番、指示が下った。そして厳重に封泥された書簡の入った木箱を渡された。卑弥呼様から狗奴国王に宛てた書簡という。

 「これは?」

「先に狗奴国将軍キクチヒコから和解提案が出された。これは、それに対する卑弥呼様も承認された回答書である。これに記載された条件を呑めば良し。呑まねば狗奴国と全面戦争への宣戦布告となる。」

という事は交渉の余地はなく、単に連絡係でしかない。とはいうものの国を代表する立場でキクチヒコとの交渉に臨むとは?・・ 

 「私如き者で宜しいのでしょうか。連合軍の総大将は難升米殿ですし、ヤマタイ本部にも対外交渉に任じられた高官殿がおられるでしょうに?」掖邪狗を見やりながら言うとその掖邪狗が吐き捨てるように返した。

「お前を寄こすように言って来たのは他ならぬキクチヒコだ。」キクチヒコが自分を指名してきたと言うのか?

 「ならばお聞き致しますが、提案内容はどのようなもので、回答書にはどのような内容が記されているのでしょうか?」

掖邪狗がキクチヒコの和解提案書の書簡を乱暴にトシの前に投げ捨てた。


 それには次のような事が記されていた。  

一、魏の檄文を受けて狗奴国から提案を致す。

一、領土問題は争乱前の状態に戻し、今後は相互に不可侵とする。即ち菊池川を挟み北部を邪馬台国、南部を狗奴国領土とする。従って狗奴国が占領する菊池川から矢部川間の土地は和解成立後、速やかに邪馬台国に引き渡す事とする。但し、矢部川以南の有明海沿岸の漁業権は狗奴国に属すものとする。

一、魏の意向に沿い、ヤマタイ連合国は倭国統一を推進する事。東征将軍の任をトシに与え、東征により傘下となった国の支配権をトシに委ねる事。倭国統一のメドがたった時点で都を東方の倭国中心地に遷都させる事。その時は狗奴国も統一国家の一員としてヤマタイ連合に合流する事を約束する。

一、本提案に対する貴国からの使者はトシ及びその配下のケンとされたし。


「それで我が方の回答書には?」

「その条件を大筋で受け入れる事にした。」

「それでは戦争は回避される事になるのですね。」

「そういう事になるな。」掖邪狗がニコリともせずに言い放った。

 「当方としては言いたい事はあるが魏使の顔を立てて早期に事態収拾を図るのだ。早々に合意の証となる狗(く)奴(ぬ)国王卑弥弓呼(ひみここ)の印璽(いんじ)のある書面を持ってまいれ。」

弥馬升の命に「承知つかまつりました。」と退席した

 上手く行きすぎている感はあるが、これで全面戦争の事態は回避出来そうだ。さすが魏の檄文効果はたいしたモノ・・と言わざるを得ない。

 途中、難升米の本営に立ち寄り、先の概要を報告した。難升米は邪馬台国の海人族の代表でもあるだけに漁業権のくだりでは不満の表情を見せたが、最終的に卑弥呼様が承認した回答書に異議は差し挟まなかった。

ただ「今回の和解案が我等を油断させる為のはかりごと、と言う事も考えられる。万が一、お前達が敵陣営から戻って来ない場合も想定した作戦会議を事前に行わねばならん。」と釘を刺した。

よもやキクチヒコに限って自分達を陥れる事はあるまいが、ここは戦場なのだ。難升米の言う事ももっともな考えだった。

 本営を出て女子隊にさしかかった時、サルタヒコに呼び止められた。ミクモ姫が話をしたいとの事だった。

 ミクモ姫は、予め伊都国王からウワサとして聞いていたのだろう。トシが話した和平交渉の事にそれ程、驚きを見せなかった。むしろ掖邪狗が何を言っていたかを訊ねて来た。「あの人は野心家で要注意人物なのよ。」

 ミクモ姫によると最近、祖父の国王を通じてミクモ姫との縁談を申し入れしてきたという。次期長官を狙って姻戚による人脈拡大を狙っているそうだ。

また、伊支馬様の死後、弥馬升からキクチヒコとの縁談があった時にも時間かせぎを画策し、結局、握り潰された形になったのにも掖邪狗の影があるというのだった。

そうか、やっぱり縁談話が持ち上がっていたのか。まとまっておればこうした戦乱も未然に防げていたかもしれないのに・・。

「あの人は許せない!」珍しくミクモ姫が感情をあらわにした。


 総大将難升米が主宰する作戦会議も終わった。狗奴国が占領地を返還するまでは全軍、戦争準備を続ける事、トシ達が敵陣から戻らなかった場合、軍は難升米の指揮下に入る事が決まった。ケンも代理の指揮官を指名して細かな指示を与えていた。・・いよいよ準備完了。キクチヒコのもとに向かう時が来た。 


 ケンが弓を引き絞り、矢部川対岸の敵陣にむけて矢を放った。矢には布地が巻き付けてあり「ヤマタイ連合国を代表してトシ、ケンがそちらに参る。準備出来次第、開門されたし。」と記されていた。 

 拾い上げた敵の見張り役が門の中に消えて、しばし。砦の門がギィと開いた。川を渡る軍船に二人が乗り込み、十人ほどの漕ぎ手の兵士と共に対岸に着いた。兵士達が万が一に備え、盾で二人を守りながら門の前にたどり着く。

「お前達は残れ。」

警護の兵士をその場に残して門の中に入ろうとした時、二人の兵士が駆け寄り、同時に門内に入った。

「何者!」ケンが怒鳴り振り向きざまに見た顔は、なんと兵士の恰好をしたサルタヒコと男装のミクモ姫。漕ぎ手の兵士に紛れて付き従って来たのだ。既に、門は閉ざされていた。


 「ここから戻れない可能性もあるのですぞ。今すぐ戻りなさい。」

困り顔でトシがミクモ姫を諌めた。

「私も同行させて下さい。」キッとした真剣な表情は、こちらの言う事を聞く気は皆無のようだ。狗奴国の兵士達の視線が集まっている。

ここで揉め続ける訳にもいかず「仕方ない。交渉中は一言も口を開かないで下さい。そう約束するなら我々の警護役として付いて来なさい。」とキクチヒコの居る本陣に向かうしかなかった。

 本陣の前は親衛隊の兵士達が厳重にガードしていたが不思議と殺気は感じられない。

「どうやら上手く行きそうだ」はかりごとではないと信じてはいたがミクモ姫が同行しているだけに、少し安心出来た。親衛隊の一人がキクチヒコの居る部屋の扉を開ける。


 「おう。久し振りだな。」

キクチヒコの笑顔が飛び込んできた。四人を招き入れ「この者達は、気心知れてる者達ゆえ、皆下がってよし」と親衛隊を部屋から遠ざけた。

 「こういう形ではありますが、お会い出来てなつかしく存じます。」トシが言うとケンも「狗奴国のスキのない陣形を拝見して感心致しました。さすが、先輩にはかないません。」と添えた。

「敵同士で褒め合うのもヘンだが、トシの軍団もなかなかのものだ。軍事演習の動きは敏捷だし、砦の作りもしっかりしている。」

「あれはケンの指揮によるものです。」

「そうか、ケンも立派な将軍になったな。」

「恐縮です。」

「温泉桃の誓いを覚えているか?あの時は面白かったぞ。ナァ。」

「ハイ。」

「しかし曹操と孔明、趙雲ではそれぞれ背負うものが違うとみえる。共に歩む事はできそうにもないな。」

「そんな事はありません。和解が成れば、そのうち共に倭国統一に向けて進む機会は訪れましょう。我々に曹操殿が加われば、必ず実現出来るというものです。」

「ハハハ、そうなれば言う事ないがな。」


 挨拶はここまで。トシは先に本題に入る事にした。

「これが卑弥呼様から狗奴国王に宛てた書簡です。貴国からの和解提案に対する回答書となります。お受け取り下さい。」トシが木箱を恭しく差し出し、キクチヒコが封泥を解いた。 

 「亡くなられた伊支馬殿から二人の活躍を聞いている。東方への勢力拡大が順調とのことではないか。」トシとケンに話しかけてきた。

「手応えは感じております。先ほど言いましたように今回の和解の後、時がくれば狗奴国とヤマタイ連合の信頼関係も生じてくるハズです。その際が先輩を東征大将軍に仰いで、統一国家を成し遂げるチャンスとなります。それまでを私等が先導役として頑張りますので楽しみにお待ち下さい。」

 「フフ。それは甘いな。伊支馬殿が生きておられれば、そうした絵も描けた。しかし、今の政権中枢には倭国統一や狗奴国との連合を本気で考えている奴はいないぞ。」

「しかし、その和解書には・・」なおトシが語ろうとするのをキクチヒコが遮った。

 「お前はこの書簡を全て見たのか?」

「いえ。掖邪狗様から内容を聞かされただけです。先輩の提案を大筋受け入れると・・」「そうだろうな。これがその書簡だ。」

 トシは卑弥呼の書簡を見せて貰った。魏から贈られた金印の印璽が、鮮明に目に飛び込んで来る。内容は狗奴国からの提案全てを受け入れるものだった。最後の行以外は・・

そこには倭国に混乱を招いた責任を取り狗奴国王はキクチヒコに自害を命じる事。そのクビをもって和解が成立し、両国は双方への損害賠償を放棄する・・とある。 


 「これは!」その時、キクチヒコの前に飛び出た者がいた。手に剣をかざしたミクモ姫がいたのだ。

しかし、その剣はトシとケンに向けられている。サルタヒコはミクモ姫を守ろうと腰の剣を抜いたものの、想定外の状況に動きを止めた。

 「これは掖邪狗の陰謀よ。交渉は決裂したわ!二人共帰りなさい。戦争の準備を始めるのよ。」

トシが混乱する頭の中で事態を把握しようとした時、ドスッと鈍い音がした。

 倒れ掛かるミクモ姫を受け止めて、床にそっと寝かせたキクチヒコ。ミクモ姫の剣を払いのけながら体を回転させ、姫の鳩尾(みぞおち)を一撃、気絶させたのだった。

 「手荒いマネをして済まないが、話が進まなくなるのでな。」と呟いた。

サルタヒコを一瞥して「そこの不思議な刀をもった男。この女性を隣の寝室に連れていって寝かせてくれ。」と指図した。


「俺はこの和解条件を受け入れる。」

「エッ。」

「「何か別の落としどころが有るように思えます。ここは一旦、交渉不成立として別の対案を用意しましょう。」

「いや。この和解条件は想定内の事だ。」

「それでは、あまりにも・・」ケンも言葉を詰まらせた。

 「お前達が来るまでは狗奴国が勝つと踏んでいた。兵力差はあれど、相手は烏合の衆だからな。しかし、ケンが敷いた陣形や兵士の動きを見たら、互角か、ヤマタイ側がやや有利と判断を変えざるを得なくなった。いずれにしろ戦えば双方に深刻な損害が出るのは目に見えている。それでは倭国統一の夢は遠のくばかりだ。」キクチヒコは言葉を続けた。 

 「こちらが提案した条件は全て受け入れられたのだ。その代償が俺一人の命ならこの戦争は避けた方が良い。」

「しかし。」

「もう良い。何も言うな。これは俺の天命なのだ。最終的には国王と相談の上、決める事になるが、俺のクビがそちらの陣地に届けば全て解決になる。そうしよう。」

 トシとケンは下を向いて涙を堪えるしかなかった。

「二人にお願いがある。隣室のミクモ姫を無事に伊都国迄連れ帰ってくれ。」

「はっ。」

「あの者は俺の妻になる予定だった者だ。伊支馬様が生きておれば、そうなっていた。」

「伊支馬様からそのような段取りを進める予定と聞いておりました。」

「ミクモ姫。・・なかなか魅力的な女性だな。第一印象とはえらく違う。あんな美人に庇ってもらえるとは男冥利につきる。そう伝えてくれ。」


 キクチヒコはケンに隣室に行くよう促し、トシに残るよう指示した。

「俺はお前に倭国統一の夢を託す。」遺言を伝えようとしているのだ。

「仮にお前が東征将軍に担がれたとしても、既存の権力者達が協力する事はない。むしろスキあらばと、東征で得た権益を横取りする事を画策する連中だ。或いは協力するフリをしてお前に取り入り、利用しようとする者ばかりだという事を心得よ。人間を信じてはいかん。信じれるのは力だけという事を忘れるな。お前に欠けているのは覇王としての厳しさ。恨みを買う事を承知で冷酷に行動しなければ倭国統一は実現できぬぞ・・」と優しさを捨て、自分を捨てる事を覚悟するよう迫られた。


 次いで倭国統一に役立つ連中をトシに贈るとの申し出があった。一つはキクチヒコが育てた親衛隊五十名。いずれも家を継ぐ必要のない二男以下の者達から、倭国統一の目的の為には死を恐れぬ働きを希望する若者を選抜しているという。キクチヒコのいない狗奴国には居場所のない者達だ。

もう一つは鉄の職人。韓駐在から帰国する時、連れ帰った公孫配下の職人たちという。


 最後に形見の品としてキクチヒコ愛用の、母方のニギ族に伝わる宝剣を渡された。母が嫁入時に持参してきた由緒のモノだという。

その刀でキクチヒコは狗奴国での自分の地位を守る為、或いは強力な軍事国家を築くために多くの血を吸わせた。「迷った時にこの剣を持て。俺ががこの剣に憑依して、お前を覇王にする。」と言うのだった。

そんな大事な剣など頂くわけにはいかないと逡巡したが、キクチヒコは「行け!」と一喝した。

 部屋を出るとき、キクチヒコの最後の言葉が投げられた。「心残りはチクシとミクモ姫に悪い事をしたとの思い。何かあれば俺に代わって助けてやるように・・」

 

 翌日。狗奴国王の書簡とキクチヒコの塩漬けされた首を納めた木箱が届けられた。親衛隊と鉄職人の集団も一緒にトシの陣地に現れたのである。

トシとケンはそのまま難升米の本営に向かった。伊都国王、一大率長官、キクチヒコの上司だった元狗邪韓国長官が首実検を行い、本人との確認がなされた。これにより両国の間で和解が成立した。

同時に、倭国強靭化計画は伊支馬からキクチヒコへ、キクチヒコからトシに託されたのである。

     

 キクチヒコのプレゼントはなかなかの者達だった。

親衛隊は隼人(はやと)舞(まい)という踊りを披露した。渦巻き文様の盾を巧みに操りながら円を描いて忠誠を誓う踊りである。閲兵にも応じ、鮮やかな動きの隊列行進を見せ付けた。

「こいつら、使えますね。さすが先輩仕込みだけの事がある。」とケンが舌を巻く程。

 職人集団は呉や山東半島出身の鉄鍛冶職人だった。鋳物師もいて、青銅器の鏡も作れるという。支配下地域に渡す鏡作成に弾みがつくと思えた。

 集団のリーダーは韓半島で鉄の精錬に携わっていた経歴の持ち主。キクチヒコの命で倭国内で鉄が作れないか研究しているという。

弁辰の鉄は露天掘りが出来る露出した鉄鉱石だが普通は山中に隠れている。倭国に来て狗奴国の山をめぐって探して来たが、生憎、発見には至ってない。 

「しかし、倭国にでも鉄を作る方法があると思います。」とリーダーの陳が語り始めた。

鉄は何処にでもあるありふれた物質。川や海のそこら中に散らばっていると言う。 

 倭国の海岸を歩くと黒い砂浜と白い砂浜がある。白いのは貝殻が砕けたものだが黒いのには鉄が混じっている。しかも倭国には黒い砂浜が多いのだ。

狗奴国の玉名海岸を歩いた時、この砂から鉄を取り出せないかとの考えが浮かんだという。

 川にも鉄が流れ込んでいる。河口にはえる植物には鉄分を吸い付けるものがあるらしくその根元に鉄の堆積物が塊状になっているものがあるのだ。問題はそれらをどう使える鉄として精錬できるかにある。

 「トシ様の領内に黒い砂浜、或いは山の土が黒か赤いものがあれば教えてください。」と申し出てきた。鉄が倭国で生産出来れば、それに越した事はない。面白い事を言う職人だった。


 狗奴国の占領地引き渡しが完了し、ヤマタイ連合国軍もそれぞれの国に帰国することになった。トシの軍団も伊都国の兵と共に引き揚げとなる。

 ミクモ姫はあれからウツ症状が出て、姫の希望によりサルタヒコが伊都国迄送っていく事になった。サルタヒコが甲斐甲斐しく世話をし、姫も彼の作る食事だけはかろうじて受け付けていたのであった。

 途中、トシの軍団はケンの引率でオカの国に向かったが、トシはサルタヒコ、ミクモ姫と共に伊都国を目指した。一大率に逗留する魏使・張政に会い、黄幢を返却するよう難升米に頼まれていたのだ。


 ミクモ姫が伊都国王の屋敷に入るのを見届けて、トシは一大率の門をくぐった。久し振りにソシアオと会い互いの健勝ぶりを確かめ合った。ソシアオは外交部の責任者として張政の面倒を見ていた。

 「張政殿もヒマを持て余しているからな。洛陽を知るお前とは話が合うだろう。」狗奴国との戦乱が収束し、帰国の準備で忙しいのではと思っていたが、帰国は来年、249年以降になると言う。ヤマタイと狗奴国の協定が本当に守られていくか、しばらく見届けてから帰国する予定らしい。

 張政は梯儁のガッチリ、偉丈夫の体型と違い、どちらかというと文官のような男だった。トシが洛陽に居た事を知ると洛陽の思い出話に盛り上がる。「いやあ。この倭国の地でこんな話が出来るとは思わなかった。」と上機嫌になった。


 トシは韓半島の情勢を聞く事にした。ソシアオから帯方郡太守王頎(おうき)が、玄菟(げんと)郡太守だった頃、高句麗征伐に赴き、張政もまたその戦に従軍していた事を聞いていた。

 「おう。その話か。トシ殿が洛陽から帰国されてから高句麗の動きが怪しくなったのは知っていよう。公孫討伐時には味方のフリをしていたが信じられぬ相手である事は先刻承知している。ずっと高句麗の動きを監視していたが、略奪行為が目に余るので母丘倹殿が高句麗王位宮(いきゅう)征伐に動いたと言う訳だ。」

「見事勝利を収められたとか・・」

「勿論だ。さんざん敵を蹴散らして本拠・丸都城をブチ壊してやった。ところが、我らが魏に凱旋した途端、位宮の奴が高句麗再興に動いた。そこで翌年、改めて位宮を捕える為に進軍したのだ。」「それで?」「王頎殿と我らが最前線で位宮探しにあたった。東にある沃祖という国に逃げ込んだので、これを追いかけ、さらに北の挹婁という国の境まで追い詰めたのだ。あと一歩のところで、残念ながら位宮捕縛はならなかったが、高句麗の力を大きく削ぎ、扶余(ふよ)や濊(わい)を帰順させた功績は大きいと自負しておる。」

 「それは母丘倹、王頎殿のお手柄ですね。もう高句麗が息を吹き返す事はないでしょうね。」

「そう願っておるがな。あ奴等はシブトイのだ、ここだけの話。逃げるのが得意で困る。」公孫のように城に籠ってくれれば息の根を止める事も出来るが、山岳地帯に逃げ込まれると始末に困る。

 高句麗は平原少なく痩せた山ばかりの土地。魏が大軍を駐屯させ、直轄地として領地経営をする魅力に欠ける。

そこで軍を引き揚げざるを得ないが、そのスキを狙ってゾンビの如く甦り、再討伐のイタチゴッコになりかねない・・とこぼした。

 張政は韓南部の反乱にも言及した。高句麗征伐が一段落した247年、韓の一部勢力が帯方郡の軍事施設を襲い、その鎮圧に向かった太守弓遵は奇襲を受けて亡くなったという。反乱は制圧されたが、太守を失った事で、玄菟郡の王頎が帯方郡に転勤してきたと言うのだった。 

「エッ。弓遵殿が戦死?梯儁(ていしゅん)殿は?」

「ああ。前回の魏使で倭国を訪問された方だな。あの方も一緒に亡くなられた。」ショック!梯儁の顔が思い起こされる。

 その反乱は、魏が韓半島の体制変更をした事で、権益を奪われると誤解した勢力が起こしたらしい。だが煽動したしたものが公孫の残党か高句麗の息のかかった者の可能性もある。馬韓にも百済(くだら)族という高句麗の同族が住み着いて勢力を拡大しているとの話だった。

「韓半島経営も大変なんですね。」韓半島の安定はまだまだなのだ。

「その通り。だから倭国には安定していてもらわなきゃ困る。内輪モメはこれきりにしてもらいたいもんだ。」

 

 張政が市場を案内してくれというので連れ出す事にした。市場でキジと塩ジィに会い、例の飲み屋で宴会となる。

 張政は倭国の文物や風俗に関心があるらしくいろいろ尋ねてくる。武器や軍事力にしか興味を示さなかった梯儁とは大違い。先般の位宮討戦の話になっても武勇伝は語らず夫余高句麗の風習の話ばかりだった。

なんでも夫余や沃祖や挹婁に赴きそこの国情をレポートして本国に送るのが役目だったという。やはり、従軍はしているが、中味は文官の人なのだ。  

高句麗を含む夫余一族は、元は殷(いん)代に中国から逃亡してきた民族で、飲酒時の礼や殷暦を使用するなどの習俗を踏襲していると言う。だから彼等は故地、中国に自分達の領地を築こうとスキあらば侵略を考えているのだとコメントした。

 また沃祖で聞いた話だが・・と前置きして「東方の大海の島に女ばかりの国があるとの事だが、倭国にそんな国はあるかな?」とマジメ顔で聞いて来た。あるわけがないと一同が笑った。

塩ジィが「漁が盛んになると男が海にでて、島には海女しかいない集落が出来る事もある。それを勘違いしたのでは?」と解釈を加えた。

この張政殿、黙ってたら倭国について、あることないことをレポートして帰りそうだ。正確に伝えなければトンデモナイ異国に仕立て上げられる事になる・・。


 翌249年、場面は中国に変わる。

 年が変わってすぐ、魏では司馬懿(しばい)によるクーデターが起こっていた。皇帝、曹(そう)芳(ほう)はそのままだが、実権を握っていた曹爽(そうそう)一派が一網打尽に捕えられたのである。

 司馬懿は太傅(たいふ)の地位に祭り上げられ力を失っていたはず。曹爽一派はそれを良い事に利権につながる全ての役職を仲間内で固めた。

しかし、専横が過ぎた事が今回のクーデターにつながった。利権を失った者の潜在的反発は大きく、専横を嫌う者は皇帝周辺にも広がっていった。彼らにとって曹爽一派に対抗できる求心力を持つ人物は、唯一、司馬懿しかいなかった。

 当然、曹爽らも司馬懿に対する警戒を行っていたが、一瞬のスキを突いて司馬懿がクーデターに成功したのだ。

 策士、司馬懿の面目躍如である。自らの病気が深刻になっていると噂を流して自宅に引き籠る。曹爽派の高官、季勝が様子窺いに面会を申し出た。そこで司馬懿はモウロクジジイの演技で対応。

季勝がすっかり騙されて「生きた屍になっている」と報告した為、司馬一族への警戒を解いたのがウンのツキだった。司馬懿(しばい)だけに芝居の上手い天下取りの始まりである。

 曹爽が安心して狩りに興じ、都を留守にした時、皇帝曹芳の母を味方に引き入れた司馬懿が軍を掌握し、曹爽に降伏を迫る事になる。

 曹爽とてナンバーワンの実権者。態勢を整えて全面対決に臨めば、勝敗の行方はわからなかったが、司馬懿側は寛大な処置をチラつかせていた。迷った曹爽。肚をくくる事が出来ず、腰砕けに降伏してしまった。ジ・エンド。一派全員、寛大な処置どころか死罪と断罪され、アッと言う間に一掃される事になる。

 結果、司馬一族が実権を握り、かつての曹操と同じ立場になった。曹操は漢の皇帝をいただいたまま、実権を握り、最終的には禅譲を受けて魏を樹立した。

今、まさに歴史は繰り返されようとしている。司馬一族の手で禅譲劇が再現されるハズと噂が魏全土に拡がった。 


 倭国、ヤマタイでも大事件が起こっていた。長き間、ヤマタイ連合のシンボルとして共立されてきた卑弥呼様が崩御されたのだ。

そして、卑弥呼亡き後の王位継承が問題になっていた。

ポスト卑弥呼の候補は三人。卑弥呼の男弟、その息子、そして卑弥呼の宗女として壱与の存在が明らかにされた。男弟は老齢と言う事で外れた。壱与は、卑弥呼の直系が評価されたが、年端もいかない少女。巫女のトップとしてはともかく女王の重責は荷が重いと言わざるを得ない。結局、消去法で男弟の息子が王位の継承者に決まった。トシは新王の即位式に出席の為、アキを出立する。

 トシは先に一大率に立ち寄った。

ソシアオがやってきてグチをこぼす。張政の扱いが難しくなってきているというのだ。酒浸りの毎日で、女性を要望する事も頻繁になってきた。

最近、帰国の土産に真珠五千個欲しいとダダをこねる。市場で見た真珠があまりに美しく皇帝の土産にしてくれないかと言い出したのだ。魏の真珠は淡水で採れるがここは海の産物。モノが違う、素晴らしいと褒められるのは有難いが、五千個を集めるのは容易ではない。何時揃うかわかりませんぞと難色を見せても、時間はいくらかかっても構わんとの弁。

「今年は必ず帰国するぞ」とホームシック気味だった張政が、それを言わなくなり、一大率に居座る様になった。その心変わりの原因を探ってくれと頼まれた。  


 トシが張政に会うと、機嫌は良いが酔っている様子で酒臭い。やはり、話題は洛陽の政変劇になった。帯方郡からもたらされた話としてクーデターの次第を語った。 

 「何晏(かあん)殿は如何だったんでしょうか?」トシは洛陽滞在時に世話になった経緯を話した。「たいした人物と知り合いなのだな。」と驚いた後、「その何晏殿も殺されたそうだ。」と答えが返ってきた。なんとした事。

「そうですか。何晏殿は司馬懿の息子の司馬師殿の才を買っておられたんですが・・」

「司馬懿殿も冷酷な仕打ちをなされる。」

 司馬懿は何晏に命じて、曹爽(そうそう)や丁謐(ていひつ)、鄧(とう)陽(よう)ら政権中枢にいた者の裁判をやらせた。何晏は仲間を厳しく断罪するよう仕向けられ、それに従った。その事で自分が助かるとの一縷の望みをつないだのだが、司馬懿から「罪人はもう一人いるぞ」と脅され己の運命を悟ったという。

 「何晏殿は既に高齢であられるのに天寿をまっとう出来なかったのですね。」

トシは何晏に可愛がられた洛陽での日々を思い出し、感無量となった。政権に関わらず、研究者として一生を過ごされれば良かったのに・・

 「我々もどうなるか心配だ。」張政がうつむき加減で呟く。「

張政殿は曹爽一派とは無縁でしょうに?」

「もとより関係はないのだが、トバッチリが恐いのだ。」上司の帯方郡太守王頎が母丘倹の子飼いの部下である事が気になるという。

 「母丘倹殿は司馬懿殿とは公孫討伐を共にした方ではありませんか?」

「知っておるのか。だが母丘倹と司馬懿はしっくり行っていないのだ。」

明帝の口利きで副将となり、司馬懿と共に恩賞にあずかったが戦場での功績は無く、司馬懿からはバカにされていただけ。二人の間に溝があったのだった。

「ここだけの話だが母丘倹殿がどう動くかが心配だ。」

洛陽では司馬懿派と反司馬派の巻き返しの内部抗争があるとの事。母丘倹が巻き込まれて早まった動きをすれば、王頎も共に動く事になるやも知れぬ・・

 「帯方郡の仲間から帰国を遅らせた方が賢明かもしれんぞ・・と冗談を言われる始末だ。ハハハ」

自嘲的に笑う張政の本心は本国の政治体制が落ち着くのを、倭国滞在を長引かせる事で時間稼ぎしよう・・との思いなのだ。

もっとも、現実には司馬懿の有力者取り込みが功を奏して直ぐに争乱が起こる事はなかった。母丘倹が司馬一族に反旗を翻したのは六年後の255年になってであった。 


トシは邪馬台国の新しき王の即位式に参列していた。

儀式が終って、上機嫌の難升米に呼ばれる。

「実はな。狗奴国の脅威が去った今、ヤマタイ連合を一つのヤマタイ国にまとめる計画が動き始めたのだ。直ぐにとはいかんが、新王のもとで着々と進ませる段取りを考えておるところだ。」

中央集権体制が出来れば、難升米が東征大将軍となって東遷事業に本格参戦する事になると言うのだった。それまで、一つでも東国への拠点を増やし、勢力拡大を図って置くように・・とハッパを掛けられた。 


難升米は新王に挨拶するよう促した。新男王は四十代になったばかりの働き盛り。高い鼻と大きな目に意欲がみなぎっていた。これまでも卑弥呼の儀式と政務を、父と共に実務で支えてきた自信が滲み出ていた。

「そなたの働きは難升米から聞いておる。期待しておるぞ。」と声を掛けられ、堅い握手を交わす事が出来た。傍で難升米が囁く。「新王とワシの考えは完全に一致しておるのだ・・」

ただ、参列者の動きを見て各国の王や長官達の祝賀ムードが低調に感じられるのが気懸かりだった。

伊都国王、奴国王とも新男王に近づくものの、型どおりの挨拶で笑顔が少ないのが気になる。ヤマタイ本部の弥馬升ですらそうなのだ。影の実力者と言われる掖邪狗にいたっては挨拶にも来なかった。

難升米は「ヤマタイの事はワシがキチンと仕切るので安心しておれ。お前はこちらの事に関わらず、新天地をひたすら開拓するのだ。」と再びハッパを掛けて来るが、果たして難升米の思惑通り事が進むのだろうか?

 

翌年。トシの懸念が現実のものとなった。男王と難升米が、考えを異にする弥馬升・掖邪狗を排除せんと画策したのが争乱の始まり。王側がヤマタイ本部の政権交代を目指したのだ。

難升米達は、東方へのヤマタイ勢力拡大が進めば、各地の王の領土を増やす形で再配分し、その事で王達の理解を得ながら中央集権を図ろうと考えていた。

しかしこの動きを察知した現政権の掖邪狗は伊都国王、奴国王を焚きつけた。

「今の権益を吸い上げられ、見知らぬ土地に転封させられますぞ」と男王に対立し、自分達に味方するよう説得した。

これらの国が、難升米達の動きに抗い、現政権の支援に回って邪馬台国に進軍した事が、国を二分する戦乱に発展する。

これが伊支馬であれば、各地の王や長官の反発を招かぬよう用意周到に準備してヤマタイ連合の一本化を果たせたのだろうが、難升米のそれは根回し不足が明らかだった。

死者が千名を超える事態となって男王も決断した。王位を壱与に譲り、難升米が引退するとの条件で混乱を収束させようとしたのだ。

トシ達は遠隔地にある事から、結果的に、その争乱には巻き込まれず済んだのだが、これからの倭国を考えた時、何か後退したのではないかと不安を禁じ得なかった。


251年。トシは壱与様の女王即位式に出席の為、ヤマタイ本国に向かった。ヤマタイ本部の迎賓館には各地の王、長官達が続々集結していた。

トシは伊都国王、一大率長官ら顔見知りのメンバーに挨拶をした。伊都国王の隣にはミクモ姫が座っていた。一大率学園の巫女代表として、式典に参列するのだ。

トシはアキの学園に巫女学を開設するつもりだった。招聘しなければならない先生役の巫女を紹介してもらう良い機会だ。「式典の後でお話しする事ができますか?」お願いに対し、ミクモ姫は快諾してくれた。

トシは挨拶をしなければならないもう一人を探した。部屋の隅に難升米がポツンと居心地悪そうに座っていた。難升米は今日を限りに引退が決まっている。今回の戦乱に敗れた当事者で誰も寄り付こうとする者はいなかったのだ。

気落ちした風の難升米だがトシが目の前に来て、笑顔を作って隣に座るよう目配せした。「今日が最後のお勤めとの事。残念でたまりません。」

「何の。クビが下とつながっている事だけでも有難いと思わんとな。俺の為に命を落とした連中には顔向け出来んのだが・・」

「胸中、お察し申し上げます。」

改めて二人の洛陽行の旅が思い出された。

「あの時、同じ運命に乗り合わせた者同士、一生の思い出を共に出来て楽しかった。だからでもないがお前に最後に言って置きたい事がある。聞いてくれるか?」

今回の政変で倭国統一の夢は遠のいた。

「しかし、それを可能にする者がいるとすれば、トシ、お前だ。肝に銘じて成し遂げよ」と言う。現政権にはトシを支援する者はいない。但し、難升米はトシの成す事を邪魔せぬよう釘を刺してくれていた。

難升米は引退に当たり、現政権にトシの身分保証を確約させていた。伊支馬が指名した東征将軍とする方向の確認を求めた。この事は伊支馬の遺言にもあり、魏が求めていた事でもあるので異議を差し挟む者はいなかった。

「困難が続くだろうが倭国統一を一人で走れ。」

伊支馬、難升米の想いは最終ランナーにバトンタッチされたのだ。

現在のヤマタイを上回る基盤を成した時に、壱与様を招聘し統一国家を実現させよ。・・「これはあの宿敵キクチヒコも望んでいたというじゃないか。」

伊支馬殿が狗奴国との連携を謎かけしてきた事があった。あの時には何の冗談かと流したが倭国統一を第一に考えればそれが最善の道だったかも知れない・・難升米は独り言のように呟いた。

「ワシの出身地、諸富の隣にヤマトと言う国があったのだ。狗奴国に攻められてヤマタイ傘下に下ったのだが、その王族ニギの王子の一人が東方に赴きナラと言う国でいい身分になっていると聞いた。そいつを味方に引き入れれば東方を制するのは早くなると思う・・」

ニギ族?キクチヒコの母の出身もニギ。キクチヒコが存命しておれば、それもやり易いのだろうが・・。 


トシはたまらず難升米に懇願した。「出来る事ならアキの国に来ていただけませんか?難升米様がいていただければ心強いのです。一人で背負うには荷が重すぎて・・」

トシはあくまで下働きで動いてきただけなのだ。それが言い出しっぺのキクチヒコが消え、伊支馬が亡くなり、難升米も表舞台を去ろうとしている。

「馬鹿者!気弱な事は金輪際(こんりんざい)、漏らすでない。老兵は去るのみ・・なのだから。」

難升米は額の刺青(いれずみ)を見せ「これからは一人の海人族として海を眺めて暮らす事に決めたのだ。ワシの為に命を落とした者達の冥福を祈りながら・・」と涙を見せられては返す言葉もない。


ドーン、ドーンと大太鼓が鳴り響く。即位式の始まりの合図だ。奥の間で即位の儀式が執り行われ、間もなくこの場に壱与様が登場、新女王のお披露目となる。

式典が始まった。壇上には色鮮やかな布がはためき、神事に欠かせぬ鏡が雲のデザインが彫り込まれた台に載せられ、ところ狭しと並べられている。

まずは大勢の巫女達が鈴を鳴らしながら壇上で整列した。トシは目をこらして巫女の一人一人の顔を見つめた。チクシが舞い戻り、これに参列しているのでは・・

だが、やはりチクシの姿は見当たらない。

和琴が奏でられ、新女王がお出ましになり着席された。皆が跪き、壱与様への忠誠を誓い新女王を賛美した。しかし、その顔は薄い絹のヴェールの覆われ尊顔を拝する事は叶わなかった。

トシはむしろ、壱与様に付き従う高位の巫女に視線を注いでいた。左に付き添っている巫女頭は見覚えがある。

勿論、チクシから引き合わされた白髪のおばあ様ではない。あの時、トシを卑弥呼の館に招き入れた巫女が巫女頭に昇格していた。卑弥呼の死後、女王を取り巻く巫女の若返りが図られているのだ。

トシは残念だった。せめて、あのおばあ様が居たのならチクシの事が何か判るかもしれないとの期待があったからだ。しかし、あの巫女頭に接触出来ればそれも可能かもしれないと考え直した。

誰かのツテを通じて・・そう、ミクモ姫に依頼するしかないのだ。

お披露目が終ると掖邪狗が登壇し、ヤマタイ本部の新政権の紹介がなされた。トシは改めて東征将軍として任命を受けた。

更に掖邪狗は自分を団長として、張政の帰還に付き添う朝貢団メンバーを発表した。なんとその数二十名。掖邪狗達に味方した者達のなかから、論功行賞として選抜、自分の地位を盤石にするため、人脈作りに利用しているのだ。野心家らしい発想。そして、まるで何処かの国の政治家が研修を名目に海外旅行に出かけるの図である。


儀式が終り、祝宴が始まる合間にトシはミクモ姫をつかまえた。

「何の話です?」

「お願いしようと思っていた話とは別に緊急の依頼が出てきました。壱与様の左にいた巫女頭に接触してもらいたいのです。」

余りに勢い込んだのでミクモ姫に近づき過ぎ、後ずさりさせてしまう程だった。

「チクシがどうしているのか?チクシのおばあ様に会う事が可能なのか?」

トシは以前に卑弥呼の館を訪れ、あの巫女に案内されてチクシのおばあ様、ナンバー2の巫女頭に挨拶した事を話した。二度目に訪れた折、在籍した事もないと門前払いされたのも・・。


祝宴も終わったところでトシは、出身地諸富に帰る難升米を見送った。深々と頭を下げ、難升米の姿が見えなくなった時、ミクモ姫が近付いて来た。

「チクシさんの件は一部の人しか知らないトップシークレットなのです。だから、在籍した事にはなってなかったのです。」それで門前払いになったのか。

「それで・・チクシさんは、やはりこの地におられません。失踪した後は何の連絡も手掛かりも無いそうです。」そうか、何の情報も得られなかったか。

「それより、チクシさんは壱与様のお母さんなのですよ!」

ミクモ姫があまりに突飛な事を言い出すので、言葉を失い、マジマジと姫の目を見る事しか出来なかった。

「この事はあなたと私だけの秘密よ。あの巫女頭は私が伊都国の巫女頭だからと問う区別に話してくれたの。」

それから・・と続けた。「あなたが会ったチクシさんのおばあ様は、巫女頭なんかじゃないわ。あの方こそ卑弥呼様だったの。」

「そんな・・」トシはあの威厳に満ちた老女の顔を思い出していた。

「間違いないわ。卑弥呼様の側近には白髪の女性など、いなかったとの話よ。となるとチクシさん、私の遠縁にもなるわけよね。」

「ああ、そうなりますね・・」トシも虚ろに返答した。

あのおばあ様が卑弥呼とすると、チクシの娘が壱与様と言われてもおかしくは無い。ただ、そもそも、どうしてチクシに子供がいたのか?

「あなた!正直に答えなさい。チクシさんとは男女の仲になったの?」

「えっ。そんな事あるはずが・・なぜそんな事を聞くのです?」

巫女頭の話ではチクシが同級生の男子を連れて卑弥呼の館に戻った直後に体調を崩したという。それで一大率に戻るのを延期していたが、間もなく懐妊している事が判明、結局女の子を出産した。

チクシは父親の事は口をつぐんでいた。だから側近の巫女達はあの男子学生が、トシが父親と思っていたと言うのだ。

「それは有りません。そんな相手としてはみてもらえなかったもので・・」

あの一夜の事を思い起こしてみたが、夢精では何とも言いようがない・・

「その後、伊支馬様から卑弥呼様の縁者はいないか・・との話が来て、あの時、チクシさんは卑弥呼の孫ではなく、親戚筋に当たる娘という事になっていたので、伊支馬様がある縁談を進めたと言う事よ。私は、その相手がキクチヒコ様じゃないかと思うのだけれど・・」ミクモ姫はその名前を言い難そうに発音した。

「先輩と。」そう言えば伊支馬がそれらしき事を言ってたような気がする。

「その時よ。チクシさんが失踪したのは。・・」

「そうでしたか。」

今、耳にした情報をどう消化したものかと戸惑うばかりだった。無言の時間が過ぎ、うずくまるように考え込んでいたようだ。


ミクモ姫が、現実に引き戻すように声を掛けた。「ところで私に頼みたかった、もう一つは何?」

ああ、そうだった。トシは東方に拡大した各国にヤマタイ式の神事を取り入れたいとの考えを披露した。各集落の地元の神を尊重しながらも、統一した祭礼を執り行う事で、国の一体感を出す必要性を説明する。

青銅器を鋳る工人に支配下地域で不要となった銅を鋳直し鏡を作って配布していたが、それだけでは足りない。ヤマタイ式の神事の魂が必要だった。

その為に一大率のように巫女学コースを設けるつもりだが、ついては教授してくれるベテランの巫女の存在が不可欠。誰か、適当な人を派遣願えないかと相談した。

「そういう事なら協力しますわ。」

トシは二つの依頼をキチンと受け止めて情報と協力をもたらしてくれた姫に何度も感謝した。


複雑な思いを抱えて、トシはヤマタイ本部の迎賓館を離れ、実家に向かった。一晩を実家で泊まり、明日、迎賓館に戻ってアキに出発しよう。


トシは久し振りに父母と対面した。一昨年、父が仕官していた日向での書記官の仕事を引退し、ヤマタイの生家に戻っていた。トシがアキに引き取る事も考えたが、母が馴染みのある実家の方を選んだ。

トシは両親と共に祖母の墓参りをした。

祖母が見守ってくれるお蔭で、長官の仕事もなんとかやれてるのかも知れない。・・と手を合わせていた時「ホントにあの時は、急に亡くなられてビックリしましたわねえ。」と母が話しかけてきた。が、その言葉に引っ掛かるものを感じる。

「急にって。おばあちゃんの看護の為に親戚の誰かに面倒見るのを頼んだんじゃないの?」

「看護?知らないわよ。私達はヤマタイ本部からの突然の連絡で、亡くなった事を知ったんだよ。」

謎がトシの頭に充満する。誰が祖母の看護をしていたのか? 


歓迎の夕食の折、親戚の者一同がトシの出世を褒めたたえるので、気恥ずかしい思いをしていた。誰かが「そん勾玉も立派な物のごつあるねえ。」と言う。

突然、トシは何かしなければならない思いに駆られスックと立った。

「何処に行くんだ?」との父の声を背に、家を飛び出した。

隣戸の戸を叩くと「あれー。トシじゃなかね。帰ってこらしたと?」

「ああ。壱与様の即位式に出席したんだ。それより、おばさん。聞きたい事があって」勢い込むトシに圧倒されておばさんの目が丸くなった。

「以前、祖母が病気になった時、看病に来てた娘がいたって言ってたよね。」

「「ナイ(はいの意)。でもそれはあんたの母さんが・・」

「その娘、こんな勾玉を付けてなかった?」

「ナイ。こいと同じものだったよ。ほんなごつ、こがんと。・・そいぎ・・どうし・・」

「有難う。これはほんのお礼です。」

差し出した五銖銭の束を見ておばさんが「こがいなもの、もらう道理なか・・」と叫ぶ声はもう聞こえなかった。

チクシはここに居たのだ。卑弥呼の館を失踪して祖母と暮らしていたのだ。手掛かりとしてはそれだけの事なのだろうが、チクシは何処かで生きているとの希望が湧いてきた。ニコニコ顔で宴席に戻った。気持ちが晴れたとはこの事。光明とはこの事だ。


翌日、迎賓館に戻って帰り支度を済ませ、ミクモ姫や伊都国王と共に門を出る、その時だった。

近づいてくる二人の男。キジとサルタヒコが走り寄る。

二人は、それぞれ重大情報を持って来たと誇らし気に言う。まずサルタヒコのケンからの伝言。

「キビの国が同盟の申し入れをして来ました。」

キビの国とは休戦協定を結んではいるが、裏ではこちらに対抗すべく国力を回復させているはず。唐突すぎる同盟の申し出である。

「出雲の国から脅威を受けている事。それに瀬戸内の海賊に手を焼いている事情があって今回の話になったようです。」詳細は不明だが、事実であれば東征を進展させるのに朗報となる。


「キジの方は?」

「ウワサがあったんですよ。ウワサが!」

「だから何の噂だ?」

「チクシさんのウワサです。」

「なに!ホントか?」

「若い女性がアキの国を通ってさらに東方に向かったという事です。」「

どうしてチクシとわかるのだ?」

「へへへ。長官に勾玉を着けてもらって、アキの国を巡回視察してもらったじゃないですか。」

そう言えば以前、キジが勾玉を褒めた時、チクシが同じモノを身に着けていると話した時があった。品があるので国内を巡回する折には必ず身につけて下さいよ・・と勧められていた。 

「あれからクスリと一緒にアクセサリーも売る事にしたんです。長官も身を飾っている勾玉はいかが。福を呼び大出世まちがいなしのアクセサリーだよってね。」

「これがソコソコ売れるんですよ。・・いや、長官がアキの民に慕われているって事ですよ。ま、売っているのは玉造の大将の息子さんが作るガラス製のニセモノですがね。利益率が高いんですよ。これは。ハハ」

「お前が儲かるかどうかはどうでも良い」

「そうでした。言いたかったのは、市場でそれを並べていた時、客の一人が長官と同じ勾玉を持った女性が旅をしていた・・と言いだしたんです。もう十年も前の話ですがね。これはチクシさんに間違いないと思いました。」

「十年か。可能性はあるな。それにしても俺を商売の道具に使うとは・・」

「へへ、そうなりますかね。でもこれはチクシさんの情報収集の為ですよ。だから、長官に勾玉をぶら下げて各地を巡回するよう提言したんです。ハイ。」

「まあいい。東方に旅してたわけだな?」

「ただ、気になる情報もあるんです。その女性は、倭人らしくない言葉遣いをする父親らしき男性と一緒だったと。」

トシは閃いた。チクシは卑弥呼の館から失踪して祖母のもとで暫く暮らした。丁度その頃、金(きん)立(りゅう)で徐福の足跡を調査していたのが徐先生だ。

「共にいた男は徐先生ではないか?」

キジもピンと来たみたいだった。二人、同じ時期に同じ地域に居たのだ。

「チクシさんと先生が一緒に?フフ残念ね。」ミクモ姫がトシを見ながら呟いた。まさか二人がデキていたとは思えないが・・ええい。そんな事はどうでもいい。チクシが生きていてくれる方が大事だ。

 

二人は徐福を追って東方に旅したのは間違いないだろう。トシは目を瞑った。まぶたの裏に住むチクシの顔が大きく拡がっていく。

早く東方の赴き、倭国の中心に辿り着きたい。

そうすればチクシの情報が手に入るかも知れないのだ。チクシと会って、同じ空気を吸い込みたい・・仮に会えないとしてもチクシの子供である壱与様を倭国の中心に戴く事は出来る。少しだけ伊支馬がキクチヒコにいだく想いと重ね合わせた。

東征のモチベーションは高まった。

東方への展開スピードを最大限に上げよう。アキに戻り、キビとの交渉に臨もう。キビの先にはナラがあり、徐福に縁のあるというクマノがあるのだ。

トシは自問自答した。「お前は何処にいくのだ?」「迷いは無い!倭国を統一するのだ。チクシのもとに!」・・トシの顔はいつのまにか少し覇王に近づいていた。 


 P・S


トシ達は伊都国王の行列の後を歩いていた。

「ホホホホホ」珍しい。ミクモ姫の笑い声が大きいので先を行く国王爾支(じき)も振り返る。姫の傍らにはサルタヒコがいて、先程から何やら囁いていた。

「どうかしましたか?」

「この方、面白い。私の事アルテミスの美しさを備えていると言うのよ。」アルテミスとはヴィーナスと並びギリシャ神話の二大女神と知られる処女神である。

「何を言われているのかは判りませんけど、とりあえずホメ言葉っぽいのが嬉しいわ。」

なおもサルタヒコは姫を口説いているようだった。

「私めが下僕としてあなたを守り、キクチヒコ殿の代わりを勤めまする。」

「天地がひっくり返っても、あの方の代わりにはなりませんわ。第一、強そうじゃありませんもの。おさるさん。」

姫のナイーブな心を傷つきかねないキクチヒコの名を口にしたり、サルタヒコの風貌を揶揄(やゆ)したりなのに、お互いそれほど気に留めてない風である。

「私自身は強くありませんよ。でも、腰に差したこの剣。莫(ばく)邪(や)の剣は、あなたを守り抜く力を宿しているのです。」洛陽の市場で手に入れたあの剣の事だ。 

「古びた剣です事。これは鉄剣じゃないわね。青銅とも違うみたいだけど?」

「ええ。これはなにを隠そう、プラトンが言うアトランティス大陸に眠る超金属。オリハルコンで作られた剣・・に違いないのです。中国に伝わり、名工・干将が鍛え上げた宝剣なのです。と思います。これはどんなものより硬く、そして自らの意志で守るべきものを守り、倒すべき敵を倒すのです・・と思います。」

「まあ。怖いホホホホホ。思いますばかりなのが怪しげに思われますけど。ホホホホホ」

今日のミクモ姫は機嫌が良い。

「でも、サルタヒコ様が守って下さるなら、私も皆様と御一緒して東方に行ってみたい気持ちになりますわね。」

「勿論、私がお供します。お供させてくださいよ」


キジがすかさず口を挟んだ。

「そうですよ。巫女学の講師にはミクモ姫が一番適任です。一緒にアキの国、いやキビの国に行きましょうよ。人の命を救う知識を持つ巫女を増やしたいと言われていたのは姫じゃないですか。東方には姫を待っている民衆が沢山いるんですよ。」

「痛いとこつくのね。」

「新薬の開発を急いで、売りまくって儲けましょうよ。一緒に。」

キジとミクモ姫は共同で新薬開発に取り組んでいた。張政が倭国の植物に関心を持っていると言うので、ミクモ姫の薬園に案内したところ、倭国では無用の物と見向きもされなかった生姜や山椒、橘の実や皮が食用になったり、薬効がある事を指摘したのだ。その助言に従って、新薬を作ろうとしていた。張政氏も酒だけを飲んでいる訳ではなかったとみえる。 


「そうねえ。キジさんは儲け過ぎているみたいだから、メーカーとしては取り分を増やしてもらわなきゃね。いくら儲かっているのか監視するのに、私、行っちゃおうかな。」

「是非そうして下さい・・と言いたいところですけど、伊都国王が許してくれないでしょう。」

トシが面白くもない事を言い出したので皆を興ざめさせた。 

「いいえ。おじい様と私の人生は関係ないわ。伊都国王の孫娘のミクモ姫は、あの時、キクチヒコ様への想いと共に過去のものとして永久保存されたわ。新しいミクモ姫は自分の成すべき事に向かって生きるの。面白い人生に。」

「面白い?」

「何が面白いかって、人によりそれぞれでしょうけど、私は幼い命を救ったり、痛みを軽くする事。どこまでやれるか試してみるのが面白いのよ。それにはおじい様の指図は関係ありません。」


「そうですよ。姫、耳寄りな事、お教えしましょうか。」

「何?」

「東方には不老不死の妙薬があるかもしれないんです。少なくとも長寿は約束されるという・・。あの徐福が追い求めて東方に向かったクスリです。」

「へえ。そうなの。」

サルタヒコも「姫の為に事前調査をしてまいりました。」と付け加えた。

「未確認情報ですがね。クマノのさらに東に不死山という霊山があるそうです。伊都の伽耶山が米粒のように感じられる壮大な山だそうですよ。それに伊都国にある二見が浦が東方にもあるのです。伊都国の方は夏至の日、二つの岩の間から夕陽が沈むのですが、向うは朝日が昇り出すんです。」

「まあ。面白い。ますます行ってみたくなりましたわ。トシさんがキクチヒコ様の遺言を守って、倭国統一を成し遂げるのか、お目付け役にもならなきゃいけませんものね。ホホホ」


姫にもプレッシャーを掛けられた。キクチヒコ、伊支馬、そして難升米の顔が浮かんだ

が、その向こうにはさらに大きな人影が見える。


この勾玉に触れると希望が湧き上がるように思える。チクシの顔がトシの心に投影されて、それはとても心地良い瞬間だった。

見果てぬ夢を見続けるだけ・・。

見果てぬ夢を追いかける喜びと共に・・・。


                                 第一部 完


尚、第二部は「東遷ファンタジー」とのタイトルで公開しています。ジャンルも時代小説ではなくファンタジーに属します。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る